87.『帰る場所』
夜は静かだった。
静かすぎて、家の呼吸が聞こえる気がする。
暖房の低い音。カーテンのゆるい揺れ。ベッドに沈む体温。
どれもが「ここにいていい」と言っている。
静けさは、屋敷にもある。
でも屋敷の静けさは“拾う”。
息の乱れも、声の揺れも、指先の迷いも拾って、正しさに整えて、逃げ道を奪う。
ここは違う。
ここは“拾わない”。
拾わないから、ほどけていい。ほどけても、責められない。
シャルロットは、エルの背中にそっと腕を回した。
言葉より先に、距離を詰める。
考えるより先に、触れる。
「エール」
少しだけ、甘く伸ばす。
名前を呼ぶだけで、胸の奥が温かくなるのを知っている呼び方。
「ん?」
エルは振り返らない。
振り返らないまま、声だけを落とす。
それが“受け止める”合図だと、もう分かっている。
シャルロットはその背に抱きついた。
ぎゅっと。逃げ道を残さない抱き方。
でも、潰さない。
背中に額を押しつける。
布越しの熱。肩の線。息の揺れ。
それだけで、今日の全部が少しずつほどけていく。
「……ねえ」
「ん」
「今日さ、ほんとに、ほんとに……お疲れさま」
言いながら、唇を寄せる。
軽いキス。触れたか触れないかの距離で、何度も。
「うん、ありがと」
エルの返事は穏やかだ。
穏やかな声は、帰還の証。
シャルロットは、少しだけ腕に力を入れる。
抱きしめるというより、“確保”に近い。
今日一日、奪われそうだったものを、ここで取り返すみたいに。
「……ちゃんと帰ってきたね」
言うと、エルの背中が微かに揺れた。
揺れは否定じゃない。身体の反応だ。
彼は、こういう言葉にまだ慣れていない。
「うん。帰ってきた」
「よし」
短く。
でも、嬉しくて仕方ない声。
「……その“よし”さ」
エルが笑う。
「なに」
「なんか、飼い主みたい」
シャルロットは、エルの胸元に顔をうずめた。
すぐに抱き直さないのは、彼が逃げないと知っているからだ。
逃げない、と“信じる”のは少し怖い。
でも、今日だけは、その怖さも一緒に抱えられる。
「ねえ、エル」
「ん?」
「さっきさ……お父さまの話、思い出してた」
エルの身体が、ほんの少しだけ強張る。
それを、責めない。
「……どんな?」
「『死んでも守れ』って」
その言葉を、軽く言う。
軽く言えるようになったのは、怖さを一緒に抱えられる相手がいるからだ。
「重いよね」
「……うん」
「でもさ」
シャルロットは、顔を上げてエルを見る。
真正面。逃げ道を塞がない距離。
「私は、守られるつもりで一緒になるわけじゃないから」
エルが瞬く。
「知ってる?」
「……知ってる」
「じゃあいい」
満足そうに、また抱きつく。
“分かってる”を引き出せたことが嬉しい。
言葉は引き出すものじゃない、と分かってるのに。
それでも今日は、欲張っていい夜だ。
「一緒に立つの。隣にいるの。
私が倒れそうなときは、引っ張って。
エルが倒れそうなときは、私が引っ張る」
一拍。
「どっちかだけが強いの、嫌だから」
エルは、静かに息を吐いた。
「……それ、すごくシャルらしい」
「でしょ」
誇らしげに笑う。
「だからね、安心して」
「何を?」
「私、簡単に折れない」
言い切る。
強がりじゃない。
「折れたら……ちゃんと折れたって言うから」
その一言で、エルの腕が少しだけ強くなる。
「……それは」
「なに」
「それは、ずるい」
「知ってる」
即答。
「でも、言わないと伝わらないでしょ」
胸元に、エルの心臓の音。
規則正しい。ちゃんと、生きている。
「エルが生きてる音、好き」
「……それも重い」
「嬉しいでしょ?」
「……うん」
また、同じ確認。
同じ言葉。
同じ“帰属”。
帰属という言葉は怖いはずなのに、ここではあたたかい。
シャルロットは、顔を上げて囁く。
「エルは、私のだし」
言った瞬間、空気が甘くなる。
甘いのに、逃げられない。
「……重い」
「好きでしょ?」
「……うん。好き」
その言葉が落ちるだけで、胸の奥が満ちる。
満ちて、溢れて、また抱きつきたくなる。
シャルロットは頬を寄せて、もう一度キスを落とす。
首筋のあたり。耳の下。
触れるたびに、エルの呼吸が少しだけ変わるのが分かる。
「……ねぇ、エル」
「ん?」
「今日さ。認めてもらえたね」
声が、少しだけ震えた。
嬉しさの震え。怖さの震え。
どっちも混ざってる。
「そうだね」
短い肯定が、胸に落ちる。
落ちて、ゆっくりと広がる。
「んふふ」
「何?」
エルが少しだけ笑う。
笑いながらも、身体はそのまま。逃げない。
「んー……エルが、私の家族になるんだなぁって」
言葉にした瞬間、嬉しさがこぼれる。
こぼれるのを止めない。
今日は、止めなくていい夜だ。
「僕を捕まえたのは他でもない君だけどね」
軽い言い方。
でも、そこに覚悟が混じっているのが分かる。
シャルロットは、背中に回していた腕をほどいて、エルの肩を掴んだ。
力は強くない。
だけど、確実に逃がさない位置。
「じゃあ、言っとく」
少しフランクに、でも真剣に。
「絶対に逃がさないから」
「怖い、怖いよシャル」
わざとらしい言い方。
でも、嫌じゃないのが声で分かる。
「嬉しいでしょ?」
「まぁ……うん。嬉しいよ」
認めるまでが、今日の一歩。
シャルロットは満足そうに頷いて、またエルに抱きつく。
今度は正面から。
顔を上げて、目を合わせて。
目が合うと、言葉が要らなくなる。
でも、今日は言葉が欲しい。
言葉で、固定したい。固定は怖いのに。
怖いまま固定するのが、彼女のやり方だ。
「エル」
「ん?」
「愛してる」
言い切る。
軽く、でも迷いなく。
言ったあと、少しだけ顔を寄せて、キスを落とす。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
額、頬、口角、唇。
数えるのが馬鹿らしくなるくらい。
「どうしたの。今日は甘えただね」
「悪い?」
少しだけ睨むふり。
でも、その目は笑ってる。
「私だって嬉しいときくらい甘えたいの」
「……おいで、シャル」
腕が回る。
引き寄せられる。
拒まれない距離。
「んへへ。エル、エル」
名前を呼ぶたび、体温が上がる。
抱きついて、またキスを重ねる。
シャルロットは、エルの胸に頬を押しつけた。
心臓の音が、やけに大きい。
その音が、今日の“決まった”を静かに肯定してくる。
「……ねえ」
「ん?」
「今日さ、怖くなかった?」
言い方は軽い。
でも、軽さの奥に本気がある。
エルは少しだけ間を置いて、頷いた。
「怖かった」
「だよね」
シャルロットは、すぐに言う。
「大丈夫」とは言わない。
怖いままを、怖いまま肯定する。
「……でも、来てくれた」
「うん」
「えらい」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる」
即答。
照れない。逃げない。
エルが小さく笑う。
その笑いを見て、シャルロットは胸がきゅっとなる。
――この笑いを守りたい。
守りたいのに、“守る”という言葉は簡単に刃になる。
だから彼女は別の言葉を選ぶ。
「これからも、帰ってきてね」
「うん」
「約束」
「……約束」
短い言葉。
短いから、嘘が混ざらない。
短いのに、重い。
シャルロットは、しばらく黙っていた。
黙って、エルの呼吸のリズムを覚えるみたいに、耳を寄せる。
「ねえ、エル」
「ん?」
「私さ……怖いの」
珍しく、弱音をそのまま出す。
「怖い?」
「うん」
一拍。
「エルがいなくなるのが」
言った瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
でも、引っ込めない。
「戦場で、任務で、何かあって……
帰ってこないかもしれないって考えるの」
エルの指が、シャルロットの背に回る。
「……それは」
「分かってる。分かってるよ」
遮らない。
でも、先に言う。
「それが仕事だってことも。
私がそれを止められないことも」
だから、と続ける。
「だから私、決めたの」
顔を上げる。
目が合う。
「エルがいなくなったら、私が探す」
一拍。
「死んでても、生きてても。
捕まえて、連れて帰る」
冗談みたいな言い方。
でも、冗談じゃない。
「……シャル」
「逃げたら、怒るよ」
「逃げない」
「うん。知ってる」
即答。
「でもさ」
少しだけ、声を落とす。
「逃げないって言葉より、
“逃げても無駄”って分かってる顔してる方が好き」
エルが苦笑する。
「……君、本当に容赦ないね」
「愛だから」
さらっと言う。
「愛してるから、離さない」
エルはしばらく黙っていた。
その沈黙は、拒否じゃない。
「……シャル」
「なに」
「僕、君に選ばれたこと、誇りに思ってる」
その言葉が、静かに胸に落ちる。
誇りという言葉は、ここでは刃にならない。
彼が自分の言葉で言う誇りは、屋敷の評価ではなく、選択だからだ。
「だから……帰るよ」
「うん」
「必ず」
「うん」
同じ言葉。
同じ確認。
「帰ってこなかったら?」
エルが聞く。
怖いから聞くんじゃない。
怖さを言葉にして、ここへ置くために聞く。
シャルロットは、にっこり笑う。
「迎えに行く」
迷いのない声。
「世界のどこでも。
地の底でも。
エルがいる場所まで」
少し間を置いて、付け足す。
「それで嫌われても、行く」
エルが息を吐いて笑う。
「……重い」
「嬉しいでしょ?」
「……うん。嬉しい」
また、同じ答え。
また、同じ確定。
短い言葉。
短いから、嘘が混ざらない。
♢
シャルロットは、ゆっくりエルの頬に触れた。
触れていい夜だと、身体が知っている。
触れた指先に、日中の硬さがまだ残っている。
残っているのに、ここではそれがほどけていく。
ほどけることを、誰にも拾われない。
「ねぇ……お腹の奥……熱いの」
「うん……」
エルの手が、そっと腹に触れる。
さするだけ。確かめるだけ。
「エルに触られてるだけで……どんどん溢れてくるの……」
「いつもでしょ?」
「ううん。今日は……特別」
深く、キスを交わす。
言葉が途切れる。
呼吸だけが近くなる。
シャルロットは、息の合間に囁いた。
「ね、エル……今日だけは、もっと甘くして」
「……うん」
「いっぱい、愛して」
囁き。
お願いじゃない。共有。
溶けたい夜に、溶けてもいい相手がいるというだけの事実。
そのあとは、波に任せる。
名前が混じる。
熱だけが残る。
――意識は、そこで途切れた。
♢
次に目を開けたとき、視界いっぱいにエルの顔があった。
近い。近すぎて、逃げ道がない。
逃げ道がないのに、安心する。
「起きた?」
「うん……起きた」
「よく寝てたね、シャル」
その言い方が、少し誇らしげで腹立たしい。
「エルが……いじめるから……」
「嫌だった?」
「ううん……すごく良かった」
素直に言う。
今日は隠さない。
エルの目が少しだけ柔らかくなる。
その目が、心臓をぎゅっと掴む。
「……じゃあ、よかった」
「うん……よかった」
同じ言葉を重ねる。
重ねることで、“ここにある”を確かめる。
シャルロットは、エルの頬を指先でなぞった。
無意識に、輪郭を覚えようとするみたいに。
覚えても、足りない。
覚えても、また欲しくなる。
欲しくなるのは怖い。
でも、欲しいと認められる夜は、強い。
「……ねえ」
「ん?」
「今日、ほんとに決まったんだね」
「うん」
エルは短く頷く。
その頷きが、揺れてない。
「……怖い?」
シャルロットが聞く。
自分のためじゃない。
彼の中の怖さを、ひとりにしないための問い。
「怖い」
「うん。分かる」
それだけ。
それだけで、部屋の空気が優しくなる。
「でも、嬉しい」
エルが続ける。
シャルロットは、ほんの少しだけ笑って、意地悪に言う。
「でしょ?」
「……うん」
「私、勝った」
「何に」
「全部に」
言い切って、またキスをひとつ。
短く。軽く。
でも、確実。
勝ったのは、家に。
勝ったのは、手順に。
勝ったのは、奪われる未来に。
何より、勝ったのは“帰る”という言葉に。
「全部決まったら……指輪、ちゃんと用意するから」
「ん……一緒に選ぼうね」
「そうだね」
短い会話。
でも、未来が詰まっている。
「ね、エル」
「ん?」
「指輪、……重いやつがいい」
「重いやつ?」
「うん。重いのがいい」
フランクな言い方。
でも内容は、だいぶ重い。
「軽いとさ……なくしそうじゃん」
嘘じゃない。
でも、本音はもっと深い。
「目に見えるくらい、重いのがいい。
エルが私のだって、ちゃんと分かるやつ」
“私の”は危険な言葉だ。
でも彼女は、危険だと分かった上で使う。
使って、逃げ道を用意する。
そして、逃がさない。
エルが小さく息を吐く。
笑うのに、目が真剣。
「……逃げる気、ないよ」
「知ってる」
即答。
「でも、逃げないって言葉より、
逃げられないって形が好き」
シャルロットは、そこで少しだけ目を細める。
「だって私、欲張りだもん」
エルが苦笑する。
「……重いね」
「嬉しいでしょ?」
「うん。嬉しい」
その返事で、全部報われる。
♢
シャルロットは、少しだけ黙った。
黙って、エルの目を見た。
逃げない目で。
「エル……ううん、あなた」
呼び方を変えるだけで、空気が変わる。
エルの呼吸が微かに止まる。
止まるのは拒否じゃない。受け止める準備。
「……」
「愛してる。これからも、ずっと一緒」
一拍。
「これから一生、あなたは私と生きるの」
言葉が重いのを、分かってる。
分かってるのに、止めない。
「何があっても逃がさない。
あなたが怖いって言っても、泣いても、震えても――」
少し笑う。
笑うことで、刃にしない。
「そのまま連れてく」
エルの目が揺れる。
嬉しさと、怖さの揺れ。
「……ねえ、シャル」
「なに」
「君、それ……僕が嫌がったら?」
怖い問い。
屋敷の人間が、まず確認してしまう問い。
シャルロットは即答する。
「止まる」
一拍。
「でも、止まるだけ。離れない」
言い方がずるい。
逃げ道を作るのに、逃がさない。
「嫌って言ったらやめる。
でも、“いなくなる”は選択肢に入れてない」
エルが、息を吐く。
その吐息が、少し震える。
「……やっぱり重い」
「嬉しいでしょ?」
「……うん。嬉しい」
また、同じ答え。
また、同じ確認。
同じ言葉を重ねるほど、ここが“帰る場所”になる。
♢
少しして、エルが言った。
「今日で……お休みも終わりだね」
「そうだね。明日からはまた任務だ」
現実が戻る。
でも、戻り方が違う。
シャルロットは、エルの胸の上に頬を乗せた。
そこが一番、安心する場所だと知ってしまったから。
「……やだな」
「何が」
「明日が」
フランクな言い方。
でも、それは弱音じゃない。
未来を持った人間の言葉だ。
「明日ってさ、勝手に来るじゃん」
「来るね」
「勝手に来るくせに、
エルのこと連れていく」
その言い方が、幼い。
幼いのに、重い。
エルが、シャルロットの髪を撫でる。
「……連れていかれても、帰るよ」
シャルロットは顔を上げた。
「ほんとに?」
「ほんとに」
「じゃあ、もう一回言って」
「……帰る」
「主語」
シャルロットが意地悪く言う。
でもそれは、彼を縛るためじゃない。
彼の言葉を、彼自身に戻すためだ。
エルは少しだけ笑って、ちゃんと言った。
「僕は、帰る」
シャルロットは満足げに頷く。
「よし」
それだけでいい。
♢
しばらく、二人は何も言わなかった。
言わなくても壊れない沈黙。
沈黙が、温度を持っている。
沈黙の中で、指先だけが動く。
絡めた指を、ほどかない。
ほどかないことが、会話になる。
その沈黙の中で、シャルロットが小さく言う。
「忘れないで、あなた」
「ん?」
「あなたの帰る場所は、ここだから」
一点の迷いもなく。
エルは、少しだけ目を細めた。
その目が優しくて、怖い。
優しさが怖い人は、優しさを信じるのに時間がかかる。
「うん。忘れない」
「なら、よし」
シャルロットは、エルの胸にもう一度抱きついた。
抱きついて、囁く。
「……明日、行ってもいいよ」
「ん?」
「行って、戦って、帰ってきて」
一拍。
「でも、帰ってこなかったら――」
エルの呼吸が止まる。
シャルロットは、笑って続ける。
笑うことで、刃にしない。
でも、重さは落とさない。
「私が迎えに行くから」
エルが小さく笑った。
その笑いが、降参の笑いだ。
「……怖いな」
「嬉しいでしょ?」
「……うん。嬉しい」
その返事で、また全部が定まる。
♢
灯りを落としたあとも、二人はすぐに眠らなかった。
眠るには、まだ胸が熱すぎる。
シャルロットは、エルの腕の中で丸くなる。
子どもみたいに。
でも、無防備じゃない。
無防備になれない人間は、無防備に似せた形を作る。
形を作って、相手が壊さないか確かめる。
確かめて、ようやく少しだけ目を閉じられる。
エルの腕は壊さない。
壊さないから、彼女は少しだけ甘くなれる。
「……ねえ」
「ん?」
「明日、行くでしょ」
「行く」
「帰るでしょ」
「帰る」
「その繰り返しになるんだよね」
「……うん」
「でもさ」
少しだけ、間を置く。
「それでいい」
エルの胸に、額を押しつける。
「行って、帰って。
それを繰り返すたびに、
私のところに戻ってくるなら」
一拍。
「何回でも、行っていい」
エルの腕が、少しだけ強くなる。
「……シャル」
「なに」
「君、怖くない?」
「怖いよ」
即答。
「でもね」
小さく笑う。
「エルが帰ってくるの、信じてるから」
信頼は、刃にもなる。
でも今は、布みたいに優しい。
優しい布で、彼の背中を包んで、戻ってこられるようにする。
「だから大丈夫」
エルは何も言わず、シャルロットの髪を撫でた。
その動きが、すべての返事だった。
撫でられるたび、シャルロットの呼吸が少しずつ整っていく。
整っていくのに、心臓はまだ忙しい。
忙しいのは、安心したからだ。
安心は、ときどき人を泣かせる。
シャルロットは泣かない。
泣くと慰めになる。
慰めになると、彼は“守る側”に押しやられる。
押しやられた彼は、また屋敷の手順で削れてしまう。
だから彼女は、泣く代わりに笑う。
小さく、息だけで。
「……ねえ」
「ん?」
エルは目を閉じたまま返す。
眠い声。
眠い声は、今日を生き延びた証拠だ。
「その返事、ずるい」
「なにが」
「眠い声」
「抱きしめたくなる」
言ってから、もう抱きしめている。
言葉が後追いになっても許される夜だ。
エルの腕が、当たり前のようにシャルロットの背を抱く。
強くしない。
でも、外れない。
シャルロットはその胸に耳を寄せて、また確かめる。
音。
熱。
生きている。
「……ねえ、エル」
「んー」
「さっきさ、指輪の話したでしょ」
「うん」
「重いのがいいって言ったの、ほんと」
言いながら、指先を絡める。
絡めた指を、ほどかない。
「軽いのだと……ね」
「外せる気がするじゃん」
それは言い訳みたいな言い方。
でも、言い訳の顔をしている本音は、いつだって重い。
「外せないのがいい」
「外したら、私が怒る」
エルが、短く笑う。
「怒るんだ」
「うん。怒る」
「泣かない。怒る」
それが彼女のやり方。
彼を“罪悪感”に沈めないためのやり方。
「怒ったら、どうなるの」
エルが眠い声で聞く。
子どもみたいに。
その声が、胸をぎゅっと掴む。
シャルロットは、口元だけで笑った。
「逃げられなくなる」
「……いまも逃げられないよ」
「知ってる」
即答。
「でも、もっと逃げられなくしたい」
「逃げ道がないのが好き」
言い切ってから、少しだけ間を置く。
間を置くのは、重さの行き先を確かめるためだ。
押しつけたくはない。
でも、逃がしたくもない。
エルは、息を吸って、吐いて、言う。
「……逃げ道、なくていいよ」
その一言で、胸の奥がほどける。
ほどけたのに、熱が増える。
増えた熱が、また言葉を呼ぶ。
「……あなた」
呼び方を変える。
その瞬間、空気が少しだけ固くなる。
固さは怖さじゃない。
“決める”ときの固さだ。
エルが、目を少しだけ開けた。
「……なに」
「聞いて」
命令じゃない。
お願いでもない。
“ここに置く”言い方。
「私さ」
「あなたに、居場所を作ってるつもりないの」
エルが瞬く。
「……え」
「居場所は、作るものじゃないでしょ」
「“戻る”って決めたら、そこが居場所になる」
言いながら、エルの胸に額を押しつける。
言葉が逃げないように。
自分も逃げないように。
「だから、私は言う」
「ここが、帰る場所」
「帰るって、あなたが決めていい」
「でも、決めたなら……私は離さない」
矛盾しているみたいで、矛盾していない。
自由を渡して、同時に縛る。
縛るのは恐怖じゃない。
縛るのは、彼が戻ってこられるようにするための“結び目”だ。
エルは、しばらく黙っていた。
その沈黙は、怖がっている沈黙。
でも、逃げる沈黙じゃない。
「……シャル」
「ん」
「君の“離さない”って、怖い」
「うん」
肯定する。
「怖いままでいい」
「怖いまま、私のところにいて」
さらっと言う。
さらっと言うことで、重さを日常にする。
エルが、少しだけ笑った。
「……ほんとに容赦ない」
「愛だから」
また同じ言葉。
でも、同じ言葉は強い。
何度言っても同じ骨格を持つ。
「愛してるから、あなたを逃がす選択肢がないの」
エルの指が、シャルロットの髪をもう一度撫でる。
撫でる動きが、返事になる。
「……僕はさ」
言いかけて止まる。
止まったところに、屋敷がいる。
言葉を途中で切る癖。
正しい答えに整える癖。
シャルロットは、その癖をほどくために、急がない。
「うん」
それだけ。
促さない。
でも、置き去りにしない。
エルが続ける。
「……僕、君に捕まってるの、嫌じゃない」
言い切った瞬間、胸が熱くなる。
熱くなるのに、笑う。
「知ってる」
「……なんで分かるの」
「分かるよ」
「だって、あなた……逃げない顔してる」
エルが、観念したみたいに息を吐く。
「……逃げない」
「うん」
「君のところからは」
「うん」
短い往復。
短い往復ほど、嘘が混ざらない。
シャルロットは、そこで少しだけ意地悪をする。
「主語」
エルが、眠そうに眉を寄せる。
「……またそれ」
「大事」
シャルロットは譲らない。
譲らないのは、縛るためじゃない。
彼の言葉を、彼に返すためだ。
エルは、少しだけ目を閉じ直して、それでも言った。
「僕は、逃げない」
シャルロットは満足げに頷く。
「よし」
そして、付け足す。
「それでいい」
「それだけで……明日、行っていい」
エルが小さく笑う。
「許可みたい」
「許可じゃない」
「確認」
一拍。
「あなたが戻ってくるって、私が信じてるっていう確認」
信じるは、危険だ。
裏切られたとき、いちばん刺さる。
だからこそ、彼の目を見て言う。
「信じてる」
「だから、帰ってきて」
エルは、シャルロットの額に、軽く口づけを落とした。
触れたか触れないかの距離。
でも、その温度が全部を決める。
「……帰る」
「主語」
「僕は、帰る」
シャルロットは笑って、腕に力を入れた。
「うん。帰って」
「帰ってきたら、また捕まえる」
「……ずっと捕まえてるじゃん」
「足りない」
即答。
笑いながら。
「足りないくらいがいい」
「足りないって思うたび、あなたが欲しいって分かるから」
エルが息を吐く。
吐いた息が少し震えるのは、笑いのせいだけじゃない。
「……ほんとに重い」
「嬉しいでしょ?」
「……うん。嬉しい」
その返事で、世界が少しだけ静かになる。
静かになるのに、胸の奥は確定していく。
シャルロットは最後に、囁く。
「明日、行って」
「戦って」
「帰ってきて」
一拍。
「帰ってきたら、私が言うから」
「何を」
眠い声。
シャルロットは、笑いながら言った。
「おかえり」
「――よし、って」
エルが、短く笑った。
「……飼い主」
「うん」
恥じない。
逃げない。
「あなたの帰る場所の、飼い主」
言い切って、シャルロットは目を閉じた。
閉じた目の奥で、まだ熱が残っている。
でも、その熱は怖くない。
ここにいる。
ここに戻る。
戻ると決めた。
だから、眠れる。
夜は深い。
でも、闇はもう怖くない。
選んだ。
選ばれた。
そして――選び続ける。
帰る場所は、ここだ。
この話は、「帰ってくる」という約束を、言葉じゃなく“体温”と“確認”で固める回でした。
甘さの中にある重さは、束縛ではなく、エルが迷わず戻れるように結ばれた結び目。
明日また戦場へ行くとしても、帰る場所だけは揺らがない――その確信を二人で作りました。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
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