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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
シャルロット編

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87/91

87.『帰る場所』

 

 夜は静かだった。

 静かすぎて、家の呼吸が聞こえる気がする。

 暖房の低い音。カーテンのゆるい揺れ。ベッドに沈む体温。

 どれもが「ここにいていい」と言っている。


 静けさは、屋敷にもある。

 でも屋敷の静けさは“拾う”。

 息の乱れも、声の揺れも、指先の迷いも拾って、正しさに整えて、逃げ道を奪う。


 ここは違う。

 ここは“拾わない”。

 拾わないから、ほどけていい。ほどけても、責められない。


 シャルロットは、エルの背中にそっと腕を回した。

 言葉より先に、距離を詰める。

 考えるより先に、触れる。


「エール」


 少しだけ、甘く伸ばす。

 名前を呼ぶだけで、胸の奥が温かくなるのを知っている呼び方。


「ん?」


 エルは振り返らない。

 振り返らないまま、声だけを落とす。

 それが“受け止める”合図だと、もう分かっている。


 シャルロットはその背に抱きついた。

 ぎゅっと。逃げ道を残さない抱き方。

 でも、潰さない。


 背中に額を押しつける。

 布越しの熱。肩の線。息の揺れ。

 それだけで、今日の全部が少しずつほどけていく。


「……ねえ」


「ん」


「今日さ、ほんとに、ほんとに……お疲れさま」


 言いながら、唇を寄せる。

 軽いキス。触れたか触れないかの距離で、何度も。


「うん、ありがと」


 エルの返事は穏やかだ。

 穏やかな声は、帰還の証。


 シャルロットは、少しだけ腕に力を入れる。

 抱きしめるというより、“確保”に近い。

 今日一日、奪われそうだったものを、ここで取り返すみたいに。


「……ちゃんと帰ってきたね」


 言うと、エルの背中が微かに揺れた。

 揺れは否定じゃない。身体の反応だ。

 彼は、こういう言葉にまだ慣れていない。


「うん。帰ってきた」


「よし」


 短く。

 でも、嬉しくて仕方ない声。


「……その“よし”さ」


 エルが笑う。


「なに」


「なんか、飼い主みたい」


 シャルロットは、エルの胸元に顔をうずめた。

 すぐに抱き直さないのは、彼が逃げないと知っているからだ。

 逃げない、と“信じる”のは少し怖い。

 でも、今日だけは、その怖さも一緒に抱えられる。


「ねえ、エル」


「ん?」


「さっきさ……お父さまの話、思い出してた」


 エルの身体が、ほんの少しだけ強張る。

 それを、責めない。


「……どんな?」


「『死んでも守れ』って」


 その言葉を、軽く言う。

 軽く言えるようになったのは、怖さを一緒に抱えられる相手がいるからだ。


「重いよね」


「……うん」


「でもさ」


 シャルロットは、顔を上げてエルを見る。

 真正面。逃げ道を塞がない距離。


「私は、守られるつもりで一緒になるわけじゃないから」


 エルが瞬く。


「知ってる?」


「……知ってる」


「じゃあいい」


 満足そうに、また抱きつく。

 “分かってる”を引き出せたことが嬉しい。

 言葉は引き出すものじゃない、と分かってるのに。

 それでも今日は、欲張っていい夜だ。


「一緒に立つの。隣にいるの。

 私が倒れそうなときは、引っ張って。

 エルが倒れそうなときは、私が引っ張る」


 一拍。


「どっちかだけが強いの、嫌だから」


 エルは、静かに息を吐いた。


「……それ、すごくシャルらしい」


「でしょ」


 誇らしげに笑う。


「だからね、安心して」


「何を?」


「私、簡単に折れない」


 言い切る。

 強がりじゃない。


「折れたら……ちゃんと折れたって言うから」


 その一言で、エルの腕が少しだけ強くなる。


「……それは」


「なに」


「それは、ずるい」


「知ってる」


 即答。


「でも、言わないと伝わらないでしょ」


 胸元に、エルの心臓の音。

 規則正しい。ちゃんと、生きている。


「エルが生きてる音、好き」


「……それも重い」


「嬉しいでしょ?」


「……うん」


 また、同じ確認。

 同じ言葉。

 同じ“帰属”。

 帰属という言葉は怖いはずなのに、ここではあたたかい。


 シャルロットは、顔を上げて囁く。


「エルは、私のだし」


 言った瞬間、空気が甘くなる。

 甘いのに、逃げられない。


「……重い」


「好きでしょ?」


「……うん。好き」


 その言葉が落ちるだけで、胸の奥が満ちる。

 満ちて、溢れて、また抱きつきたくなる。


 シャルロットは頬を寄せて、もう一度キスを落とす。

 首筋のあたり。耳の下。

 触れるたびに、エルの呼吸が少しだけ変わるのが分かる。


「……ねぇ、エル」


「ん?」


「今日さ。認めてもらえたね」


 声が、少しだけ震えた。

 嬉しさの震え。怖さの震え。

 どっちも混ざってる。


「そうだね」


 短い肯定が、胸に落ちる。

 落ちて、ゆっくりと広がる。


「んふふ」


「何?」


 エルが少しだけ笑う。

 笑いながらも、身体はそのまま。逃げない。


「んー……エルが、私の家族になるんだなぁって」


 言葉にした瞬間、嬉しさがこぼれる。

 こぼれるのを止めない。

 今日は、止めなくていい夜だ。


「僕を捕まえたのは他でもない君だけどね」


 軽い言い方。

 でも、そこに覚悟が混じっているのが分かる。


 シャルロットは、背中に回していた腕をほどいて、エルの肩を掴んだ。

 力は強くない。

 だけど、確実に逃がさない位置。


「じゃあ、言っとく」


 少しフランクに、でも真剣に。


「絶対に逃がさないから」


「怖い、怖いよシャル」


 わざとらしい言い方。

 でも、嫌じゃないのが声で分かる。


「嬉しいでしょ?」


「まぁ……うん。嬉しいよ」


 認めるまでが、今日の一歩。


 シャルロットは満足そうに頷いて、またエルに抱きつく。

 今度は正面から。

 顔を上げて、目を合わせて。


 目が合うと、言葉が要らなくなる。

 でも、今日は言葉が欲しい。

 言葉で、固定したい。固定は怖いのに。

 怖いまま固定するのが、彼女のやり方だ。


「エル」


「ん?」


「愛してる」


 言い切る。

 軽く、でも迷いなく。


 言ったあと、少しだけ顔を寄せて、キスを落とす。

 ひとつ、ふたつ、みっつ。

 額、頬、口角、唇。

 数えるのが馬鹿らしくなるくらい。


「どうしたの。今日は甘えただね」


「悪い?」


 少しだけ睨むふり。

 でも、その目は笑ってる。


「私だって嬉しいときくらい甘えたいの」


「……おいで、シャル」


 腕が回る。

 引き寄せられる。

 拒まれない距離。


「んへへ。エル、エル」


 名前を呼ぶたび、体温が上がる。

 抱きついて、またキスを重ねる。


 シャルロットは、エルの胸に頬を押しつけた。

 心臓の音が、やけに大きい。

 その音が、今日の“決まった”を静かに肯定してくる。


「……ねえ」


「ん?」


「今日さ、怖くなかった?」


 言い方は軽い。

 でも、軽さの奥に本気がある。


 エルは少しだけ間を置いて、頷いた。


「怖かった」


「だよね」


 シャルロットは、すぐに言う。

「大丈夫」とは言わない。

 怖いままを、怖いまま肯定する。


「……でも、来てくれた」


「うん」


「えらい」


「それ、褒めてる?」


「褒めてる」


 即答。

 照れない。逃げない。


 エルが小さく笑う。

 その笑いを見て、シャルロットは胸がきゅっとなる。

 ――この笑いを守りたい。

 守りたいのに、“守る”という言葉は簡単に刃になる。

 だから彼女は別の言葉を選ぶ。


「これからも、帰ってきてね」


「うん」


「約束」


「……約束」


 短い言葉。

 短いから、嘘が混ざらない。

 短いのに、重い。


 シャルロットは、しばらく黙っていた。

 黙って、エルの呼吸のリズムを覚えるみたいに、耳を寄せる。


「ねえ、エル」


「ん?」


「私さ……怖いの」


 珍しく、弱音をそのまま出す。


「怖い?」


「うん」


 一拍。


「エルがいなくなるのが」


 言った瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。

 でも、引っ込めない。


「戦場で、任務で、何かあって……

 帰ってこないかもしれないって考えるの」


 エルの指が、シャルロットの背に回る。


「……それは」


「分かってる。分かってるよ」


 遮らない。

 でも、先に言う。


「それが仕事だってことも。

 私がそれを止められないことも」


 だから、と続ける。


「だから私、決めたの」


 顔を上げる。

 目が合う。


「エルがいなくなったら、私が探す」


 一拍。


「死んでても、生きてても。

 捕まえて、連れて帰る」


 冗談みたいな言い方。

 でも、冗談じゃない。


「……シャル」


「逃げたら、怒るよ」


「逃げない」


「うん。知ってる」


 即答。


「でもさ」


 少しだけ、声を落とす。


「逃げないって言葉より、

 “逃げても無駄”って分かってる顔してる方が好き」


 エルが苦笑する。


「……君、本当に容赦ないね」


「愛だから」


 さらっと言う。


「愛してるから、離さない」


 エルはしばらく黙っていた。

 その沈黙は、拒否じゃない。


「……シャル」


「なに」


「僕、君に選ばれたこと、誇りに思ってる」


 その言葉が、静かに胸に落ちる。


 誇りという言葉は、ここでは刃にならない。

 彼が自分の言葉で言う誇りは、屋敷の評価ではなく、選択だからだ。


「だから……帰るよ」


「うん」


「必ず」


「うん」


 同じ言葉。

 同じ確認。


「帰ってこなかったら?」


 エルが聞く。

 怖いから聞くんじゃない。

 怖さを言葉にして、ここへ置くために聞く。


 シャルロットは、にっこり笑う。


「迎えに行く」


 迷いのない声。


「世界のどこでも。

 地の底でも。

 エルがいる場所まで」


 少し間を置いて、付け足す。


「それで嫌われても、行く」


 エルが息を吐いて笑う。


「……重い」


「嬉しいでしょ?」


「……うん。嬉しい」


 また、同じ答え。

 また、同じ確定。


 短い言葉。

 短いから、嘘が混ざらない。


 ♢


 シャルロットは、ゆっくりエルの頬に触れた。

 触れていい夜だと、身体が知っている。


 触れた指先に、日中の硬さがまだ残っている。

 残っているのに、ここではそれがほどけていく。

 ほどけることを、誰にも拾われない。


「ねぇ……お腹の奥……熱いの」


「うん……」


 エルの手が、そっと腹に触れる。

 さするだけ。確かめるだけ。


「エルに触られてるだけで……どんどん溢れてくるの……」


「いつもでしょ?」


「ううん。今日は……特別」


 深く、キスを交わす。

 言葉が途切れる。

 呼吸だけが近くなる。


 シャルロットは、息の合間に囁いた。


「ね、エル……今日だけは、もっと甘くして」


「……うん」


「いっぱい、愛して」


 囁き。

 お願いじゃない。共有。

 溶けたい夜に、溶けてもいい相手がいるというだけの事実。


 そのあとは、波に任せる。

 名前が混じる。

 熱だけが残る。

 ――意識は、そこで途切れた。


 ♢


 次に目を開けたとき、視界いっぱいにエルの顔があった。

 近い。近すぎて、逃げ道がない。

 逃げ道がないのに、安心する。


「起きた?」


「うん……起きた」


「よく寝てたね、シャル」


 その言い方が、少し誇らしげで腹立たしい。


「エルが……いじめるから……」


「嫌だった?」


「ううん……すごく良かった」


 素直に言う。

 今日は隠さない。


 エルの目が少しだけ柔らかくなる。

 その目が、心臓をぎゅっと掴む。


「……じゃあ、よかった」


「うん……よかった」


 同じ言葉を重ねる。

 重ねることで、“ここにある”を確かめる。


 シャルロットは、エルの頬を指先でなぞった。

 無意識に、輪郭を覚えようとするみたいに。


 覚えても、足りない。

 覚えても、また欲しくなる。

 欲しくなるのは怖い。

 でも、欲しいと認められる夜は、強い。


「……ねえ」


「ん?」


「今日、ほんとに決まったんだね」


「うん」


 エルは短く頷く。

 その頷きが、揺れてない。


「……怖い?」


 シャルロットが聞く。

 自分のためじゃない。

 彼の中の怖さを、ひとりにしないための問い。


「怖い」


「うん。分かる」


 それだけ。

 それだけで、部屋の空気が優しくなる。


「でも、嬉しい」


 エルが続ける。


 シャルロットは、ほんの少しだけ笑って、意地悪に言う。


「でしょ?」


「……うん」


「私、勝った」


「何に」


「全部に」


 言い切って、またキスをひとつ。

 短く。軽く。

 でも、確実。


 勝ったのは、家に。

 勝ったのは、手順に。

 勝ったのは、奪われる未来に。

 何より、勝ったのは“帰る”という言葉に。


「全部決まったら……指輪、ちゃんと用意するから」


「ん……一緒に選ぼうね」


「そうだね」


 短い会話。

 でも、未来が詰まっている。


「ね、エル」


「ん?」


「指輪、……重いやつがいい」


「重いやつ?」


「うん。重いのがいい」


 フランクな言い方。

 でも内容は、だいぶ重い。


「軽いとさ……なくしそうじゃん」


 嘘じゃない。

 でも、本音はもっと深い。


「目に見えるくらい、重いのがいい。

 エルが私のだって、ちゃんと分かるやつ」


 “私の”は危険な言葉だ。

 でも彼女は、危険だと分かった上で使う。

 使って、逃げ道を用意する。

 そして、逃がさない。


 エルが小さく息を吐く。

 笑うのに、目が真剣。


「……逃げる気、ないよ」


「知ってる」


 即答。


「でも、逃げないって言葉より、

 逃げられないって形が好き」


 シャルロットは、そこで少しだけ目を細める。


「だって私、欲張りだもん」


 エルが苦笑する。


「……重いね」


「嬉しいでしょ?」


「うん。嬉しい」


 その返事で、全部報われる。


 ♢


 シャルロットは、少しだけ黙った。

 黙って、エルの目を見た。

 逃げない目で。


「エル……ううん、あなた」


 呼び方を変えるだけで、空気が変わる。


 エルの呼吸が微かに止まる。

 止まるのは拒否じゃない。受け止める準備。


「……」


「愛してる。これからも、ずっと一緒」


 一拍。


「これから一生、あなたは私と生きるの」


 言葉が重いのを、分かってる。

 分かってるのに、止めない。


「何があっても逃がさない。

 あなたが怖いって言っても、泣いても、震えても――」


 少し笑う。

 笑うことで、刃にしない。


「そのまま連れてく」


 エルの目が揺れる。

 嬉しさと、怖さの揺れ。


「……ねえ、シャル」


「なに」


「君、それ……僕が嫌がったら?」


 怖い問い。

 屋敷の人間が、まず確認してしまう問い。


 シャルロットは即答する。


「止まる」


 一拍。


「でも、止まるだけ。離れない」


 言い方がずるい。

 逃げ道を作るのに、逃がさない。


「嫌って言ったらやめる。

 でも、“いなくなる”は選択肢に入れてない」


 エルが、息を吐く。

 その吐息が、少し震える。


「……やっぱり重い」


「嬉しいでしょ?」


「……うん。嬉しい」


 また、同じ答え。

 また、同じ確認。

 同じ言葉を重ねるほど、ここが“帰る場所”になる。


 ♢


 少しして、エルが言った。


「今日で……お休みも終わりだね」


「そうだね。明日からはまた任務だ」


 現実が戻る。

 でも、戻り方が違う。


 シャルロットは、エルの胸の上に頬を乗せた。

 そこが一番、安心する場所だと知ってしまったから。


「……やだな」


「何が」


「明日が」


 フランクな言い方。

 でも、それは弱音じゃない。

 未来を持った人間の言葉だ。


「明日ってさ、勝手に来るじゃん」


「来るね」


「勝手に来るくせに、

 エルのこと連れていく」


 その言い方が、幼い。

 幼いのに、重い。


 エルが、シャルロットの髪を撫でる。


「……連れていかれても、帰るよ」


 シャルロットは顔を上げた。


「ほんとに?」


「ほんとに」


「じゃあ、もう一回言って」


「……帰る」


「主語」


 シャルロットが意地悪く言う。

 でもそれは、彼を縛るためじゃない。

 彼の言葉を、彼自身に戻すためだ。


 エルは少しだけ笑って、ちゃんと言った。


「僕は、帰る」


 シャルロットは満足げに頷く。


「よし」


 それだけでいい。


 ♢


 しばらく、二人は何も言わなかった。

 言わなくても壊れない沈黙。

 沈黙が、温度を持っている。


 沈黙の中で、指先だけが動く。

 絡めた指を、ほどかない。

 ほどかないことが、会話になる。


 その沈黙の中で、シャルロットが小さく言う。


「忘れないで、あなた」


「ん?」


「あなたの帰る場所は、ここだから」


 一点の迷いもなく。


 エルは、少しだけ目を細めた。

 その目が優しくて、怖い。

 優しさが怖い人は、優しさを信じるのに時間がかかる。


「うん。忘れない」


「なら、よし」


 シャルロットは、エルの胸にもう一度抱きついた。

 抱きついて、囁く。


「……明日、行ってもいいよ」


「ん?」


「行って、戦って、帰ってきて」


 一拍。


「でも、帰ってこなかったら――」


 エルの呼吸が止まる。


 シャルロットは、笑って続ける。

 笑うことで、刃にしない。

 でも、重さは落とさない。


「私が迎えに行くから」


 エルが小さく笑った。

 その笑いが、降参の笑いだ。


「……怖いな」


「嬉しいでしょ?」


「……うん。嬉しい」


 その返事で、また全部が定まる。


 ♢


 灯りを落としたあとも、二人はすぐに眠らなかった。

 眠るには、まだ胸が熱すぎる。


 シャルロットは、エルの腕の中で丸くなる。

 子どもみたいに。

 でも、無防備じゃない。


 無防備になれない人間は、無防備に似せた形を作る。

 形を作って、相手が壊さないか確かめる。

 確かめて、ようやく少しだけ目を閉じられる。


 エルの腕は壊さない。

 壊さないから、彼女は少しだけ甘くなれる。


「……ねえ」


「ん?」


「明日、行くでしょ」


「行く」


「帰るでしょ」


「帰る」


「その繰り返しになるんだよね」


「……うん」


「でもさ」


 少しだけ、間を置く。


「それでいい」


 エルの胸に、額を押しつける。


「行って、帰って。

 それを繰り返すたびに、

 私のところに戻ってくるなら」


 一拍。


「何回でも、行っていい」


 エルの腕が、少しだけ強くなる。


「……シャル」


「なに」


「君、怖くない?」


「怖いよ」


 即答。


「でもね」


 小さく笑う。


「エルが帰ってくるの、信じてるから」


 信頼は、刃にもなる。

 でも今は、布みたいに優しい。

 優しい布で、彼の背中を包んで、戻ってこられるようにする。


「だから大丈夫」


 エルは何も言わず、シャルロットの髪を撫でた。

 その動きが、すべての返事だった。


 撫でられるたび、シャルロットの呼吸が少しずつ整っていく。

 整っていくのに、心臓はまだ忙しい。

 忙しいのは、安心したからだ。

 安心は、ときどき人を泣かせる。


 シャルロットは泣かない。

 泣くと慰めになる。

 慰めになると、彼は“守る側”に押しやられる。

 押しやられた彼は、また屋敷の手順で削れてしまう。


 だから彼女は、泣く代わりに笑う。

 小さく、息だけで。


「……ねえ」


「ん?」


 エルは目を閉じたまま返す。

 眠い声。

 眠い声は、今日を生き延びた証拠だ。


「その返事、ずるい」


「なにが」


「眠い声」

「抱きしめたくなる」


 言ってから、もう抱きしめている。

 言葉が後追いになっても許される夜だ。


 エルの腕が、当たり前のようにシャルロットの背を抱く。

 強くしない。

 でも、外れない。


 シャルロットはその胸に耳を寄せて、また確かめる。

 音。

 熱。

 生きている。


「……ねえ、エル」


「んー」


「さっきさ、指輪の話したでしょ」


「うん」


「重いのがいいって言ったの、ほんと」


 言いながら、指先を絡める。

 絡めた指を、ほどかない。


「軽いのだと……ね」

「外せる気がするじゃん」


 それは言い訳みたいな言い方。

 でも、言い訳の顔をしている本音は、いつだって重い。


「外せないのがいい」

「外したら、私が怒る」


 エルが、短く笑う。


「怒るんだ」


「うん。怒る」

「泣かない。怒る」


 それが彼女のやり方。

 彼を“罪悪感”に沈めないためのやり方。


「怒ったら、どうなるの」


 エルが眠い声で聞く。

 子どもみたいに。

 その声が、胸をぎゅっと掴む。


 シャルロットは、口元だけで笑った。


「逃げられなくなる」


「……いまも逃げられないよ」


「知ってる」


 即答。


「でも、もっと逃げられなくしたい」

「逃げ道がないのが好き」


 言い切ってから、少しだけ間を置く。

 間を置くのは、重さの行き先を確かめるためだ。

 押しつけたくはない。

 でも、逃がしたくもない。


 エルは、息を吸って、吐いて、言う。


「……逃げ道、なくていいよ」


 その一言で、胸の奥がほどける。

 ほどけたのに、熱が増える。

 増えた熱が、また言葉を呼ぶ。


「……あなた」


 呼び方を変える。

 その瞬間、空気が少しだけ固くなる。

 固さは怖さじゃない。

 “決める”ときの固さだ。


 エルが、目を少しだけ開けた。


「……なに」


「聞いて」


 命令じゃない。

 お願いでもない。

 “ここに置く”言い方。


「私さ」

「あなたに、居場所を作ってるつもりないの」


 エルが瞬く。


「……え」


「居場所は、作るものじゃないでしょ」

「“戻る”って決めたら、そこが居場所になる」


 言いながら、エルの胸に額を押しつける。

 言葉が逃げないように。

 自分も逃げないように。


「だから、私は言う」

「ここが、帰る場所」

「帰るって、あなたが決めていい」

「でも、決めたなら……私は離さない」


 矛盾しているみたいで、矛盾していない。

 自由を渡して、同時に縛る。

 縛るのは恐怖じゃない。

 縛るのは、彼が戻ってこられるようにするための“結び目”だ。


 エルは、しばらく黙っていた。

 その沈黙は、怖がっている沈黙。

 でも、逃げる沈黙じゃない。


「……シャル」


「ん」


「君の“離さない”って、怖い」


「うん」


 肯定する。


「怖いままでいい」

「怖いまま、私のところにいて」


 さらっと言う。

 さらっと言うことで、重さを日常にする。


 エルが、少しだけ笑った。


「……ほんとに容赦ない」


「愛だから」


 また同じ言葉。

 でも、同じ言葉は強い。

 何度言っても同じ骨格を持つ。


「愛してるから、あなたを逃がす選択肢がないの」


 エルの指が、シャルロットの髪をもう一度撫でる。

 撫でる動きが、返事になる。


「……僕はさ」


 言いかけて止まる。

 止まったところに、屋敷がいる。

 言葉を途中で切る癖。

 正しい答えに整える癖。


 シャルロットは、その癖をほどくために、急がない。


「うん」


 それだけ。

 促さない。

 でも、置き去りにしない。


 エルが続ける。


「……僕、君に捕まってるの、嫌じゃない」


 言い切った瞬間、胸が熱くなる。

 熱くなるのに、笑う。


「知ってる」


「……なんで分かるの」


「分かるよ」

「だって、あなた……逃げない顔してる」


 エルが、観念したみたいに息を吐く。


「……逃げない」


「うん」


「君のところからは」


「うん」


 短い往復。

 短い往復ほど、嘘が混ざらない。


 シャルロットは、そこで少しだけ意地悪をする。


「主語」


 エルが、眠そうに眉を寄せる。


「……またそれ」


「大事」


 シャルロットは譲らない。

 譲らないのは、縛るためじゃない。

 彼の言葉を、彼に返すためだ。


 エルは、少しだけ目を閉じ直して、それでも言った。


「僕は、逃げない」


 シャルロットは満足げに頷く。


「よし」


 そして、付け足す。


「それでいい」

「それだけで……明日、行っていい」


 エルが小さく笑う。


「許可みたい」


「許可じゃない」

「確認」


 一拍。


「あなたが戻ってくるって、私が信じてるっていう確認」


 信じるは、危険だ。

 裏切られたとき、いちばん刺さる。

 だからこそ、彼の目を見て言う。


「信じてる」

「だから、帰ってきて」


 エルは、シャルロットの額に、軽く口づけを落とした。

 触れたか触れないかの距離。

 でも、その温度が全部を決める。


「……帰る」


「主語」


「僕は、帰る」


 シャルロットは笑って、腕に力を入れた。


「うん。帰って」

「帰ってきたら、また捕まえる」


「……ずっと捕まえてるじゃん」


「足りない」


 即答。

 笑いながら。


「足りないくらいがいい」

「足りないって思うたび、あなたが欲しいって分かるから」


 エルが息を吐く。

 吐いた息が少し震えるのは、笑いのせいだけじゃない。


「……ほんとに重い」


「嬉しいでしょ?」


「……うん。嬉しい」


 その返事で、世界が少しだけ静かになる。

 静かになるのに、胸の奥は確定していく。


 シャルロットは最後に、囁く。


「明日、行って」

「戦って」

「帰ってきて」


 一拍。


「帰ってきたら、私が言うから」


「何を」


 眠い声。


 シャルロットは、笑いながら言った。


「おかえり」

「――よし、って」


 エルが、短く笑った。


「……飼い主」


「うん」


 恥じない。

 逃げない。


「あなたの帰る場所の、飼い主」


 言い切って、シャルロットは目を閉じた。

 閉じた目の奥で、まだ熱が残っている。

 でも、その熱は怖くない。


 ここにいる。

 ここに戻る。

 戻ると決めた。


 だから、眠れる。


 夜は深い。

 でも、闇はもう怖くない。


 選んだ。

 選ばれた。

 そして――選び続ける。


 帰る場所は、ここだ。

この話は、「帰ってくる」という約束を、言葉じゃなく“体温”と“確認”で固める回でした。

甘さの中にある重さは、束縛ではなく、エルが迷わず戻れるように結ばれた結び目。

明日また戦場へ行くとしても、帰る場所だけは揺らがない――その確信を二人で作りました。


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