86.帰る場所-6
ヴァルシュタイン家の門は、今日も同じ高さでそこに立っていた。
高いから偉いのではない。古いから強いのでもない。
――「ここが帰属だ」と、最初から決めてある高さ。
昨日は、その門をシャルロットと並んでくぐった。
今日は、ひとりだ。
ひとりで歩くと、音が増える。
靴底が砂利を踏む音。外套が擦れる音。呼吸の音。
昨日はそれらが、彼女の歩幅に吸われていった。
吸われていたのだと、今になって分かる。
気づくと腹の奥が重くなる。重いのに、足は止まらない。
止まった瞬間、屋敷は勝つ。
「迷い」を拾い、「ためらい」を整え、「正しさ」に変える。
正しさは、いつも、逃げ道を奪う顔をしている。
門をくぐっても、迎えは最小限だった。
余計な笑顔も、余計な視線もない。
歓迎しない。排除もしない。
ただ――“処理”の場として温度を一定に保つ。
エルは、それに覚えがあった。
同じ匂いの屋敷で育った。
同じ手順で、人の心が擦り減るのを見てきた。
だからこそ、今日ここに来た。
逃げないために。
逃げないと決めた人間の言葉を、相手の温度で奪われないために。
案内の使用人が扉の前で立ち止まる。
重い扉。装飾の少ない取手。
「ここから先は血の領域だ」と言うような静けさ。
「こちらでございます」
使用人はそう言って、ノックを二度。
返事は短い。
「入れ」
扉が開く。
空気は薄い香の匂い。甘さではなく、距離の匂い。
感情を演出しない空間ほど、言葉の刃がよく通る。
主寝室――昨日と同じ場所だった。
意図は明確だ。
これは当主と部下の話ではない。家と血の話だ。
そして、娘の話だ。
アルベルト・ヴァルシュタインは椅子に座ったまま、顔を上げた。
立ち上がらない。迎えない。
侮辱ではない。迎える必要のない場所だと告げる型。
その横で、エレオノーラは紅茶の準備をしていた。
所作はいつも通り穏やかで、穏やかなまま背筋がぶれない。
落ち着いているのではない。腹を括っている者の静けさだ。
エルは一礼する。
深すぎない。浅すぎない。
臣下として折れた礼ではなく、人としての礼に留める。
「お招きいただき、ありがとうございます。アルベルト様、エレオノーラ様」
アルベルトが一拍だけ目を細める。
礼儀の形は受け取るが、立場の優位に回収しない目だ。
「座れ」
短い。
だが、昨日よりも刃が少し鈍い。
――昨日は娘がいた。今日は娘がいない。
代わりに、父は父のまま呼吸をしなければならない。
用意された椅子は、向かい合わせではなかった。
真正面に置けば対決になる。
斜めに置けば“会談”になる。
配置だけで、この家が今日は「決める」つもりでいることが分かる。
決めるとき、人は喧嘩を避ける。
喧嘩は熱を生む。熱は当事者を生む。
当事者が生まれると、管理が難しくなる。
エレオノーラが紅茶を注ぐ音がする。
湯の音は柔らかいのに、張り詰めた空気の中では、やけに鮮明だった。
♢
アルベルトが口を開く。
「……昨日は、よく来た」
褒めではない。
評価でもない。
“逃げなかった”という事実を置く声だった。
エルは即答しない。
即答は、この屋敷では“従順”に回収される。
「……昨日は、シャルロットが隣にいました」
アルベルトの眉がほんの僅かに動く。
娘の名を呼ばれたときの、反射だ。
「だから来られた、と言いたいのか」
「いいえ」
エルは首を振る。
その否定が、余計な熱を含まないように注意する。
「隣にいたから、ではありません。
隣にいるのに、盾にしないために来ました」
エレオノーラが、紅茶を置く所作の途中でほんの少しだけ指を止めた。
止めたのは驚きではない。
「その言葉を言える男なんだ」と、確認した動きだった。
アルベルトは一拍置く。
「……娘は、あれで厄介だ」
「はい」
同意は、媚びではなく事実として。
「厄介で、強い」
言い切った瞬間、エレオノーラの口元がほんの僅かに緩む。
嬉しそうに、というより、安心の輪郭が滲む。
アルベルトが視線を少しだけ逸らした。
エレオノーラのその表情を、見ないふりをする癖がある。
「娘の話をするために呼んだ」
核心に入る。
逃げ道を用意しない言い方だ。
「お前は、今後どうするつもりだ」
結婚とは言わない。
婚約とも言わない。
だが、問いが全部を含む。
エルは呼吸を整える。
整えるのは、心を固めるためではない。
相手の温度で言葉を奪われないためだ。
「……決めきれることと、決めきれないことがあります」
「ほう」
アルベルトがわずかに顎を引く。
“続けろ”の合図。
「僕は、彼女の隣にいることを選びました」
そこは断言する。
曖昧にすると、屋敷が形を作る。
「ただ」
一拍置く。
この一拍が、今日の空気を少しだけ柔らかくする。
「僕は、彼女を“守る”と言いません」
エレオノーラが、静かに紅茶を飲む。
口元は隠れるのに、目が笑っている。
張り詰めているのに、どこかほっこりするのは――彼女が「父の地雷」を知っているからだ。
アルベルトの目が細くなる。
「なぜだ」
問いが鋭い。
だが、怒りではない。
“娘のための問い”だ。
エルは、慎重に言葉を選ぶ。
この家で言葉を間違えると、娘が縛られる。
「守る、と言った瞬間に、シャルロットは黙ります」
名前を呼ぶ。
“あなた”ではなく、彼女の名で置く。
この場で名前を呼ぶのは、責任を引き受ける宣言になる。
「黙って、耐えて、壊れる。
彼女はそういう壊れ方をする」
アルベルトの指が、肘掛けを軽く叩いた。
小さな音。小さな音で場を動かせる者の余裕。
だが、その余裕の下に、父の痛みが透ける。
「……知ったような口を利く」
「知っているとは言いません」
エルはすぐに引かない。
だが、押しつけもしない。
「ただ、彼女がそうならないようにしたい。
それだけです」
エレオノーラが、ふ、と息を吐いた。
吐息が“良い”と言っている。
言葉にしないのが、彼女のやり方だ。
♢
アルベルトはしばらく黙っていた。
黙っている間、空気が張り詰める。
張り詰めているのに、どこか温かい。
それは、エレオノーラが微笑んでいるからではない。
彼女が“母としての安心”を、黙って場に置いているからだ。
置かれた安心は、刃にならない。
刃にならないから、ほっこりする余地が生まれる。
アルベルトが言う。
「娘はな」
その一言で、父の顔が少しだけ変わる。
当主の顔が薄くなる。
父の顔が前に出る。
「昔から、変な子だった」
言い方は厳しい。
けれど、声の底が柔らかい。
「泣き言を言わない。
言わないくせに、必要なときは誰より先に手を伸ばす」
エレオノーラが、嬉しそうに頷く。
頷きが、まるで「そうでしょう」と言っている。
「幼い頃に転んだときも、泣かなかった」
アルベルトの目が、遠くを見る。
そこにあるのは懐かしさだ。
「膝が血だらけだった。
それでも、泣かずに立って……」
「俺に言った。『汚れたから帰る』とな」
エレオノーラがくす、と笑いそうになって口元を隠す。
笑うのは茶化しじゃない。
娘の強さが愛おしい笑いだ。
「帰る、という言葉をだな。
あいつは、子どもの頃から“選んで”使っていた」
アルベルトが、そこで一度エルを見る。
「昨日、お前たちは門をくぐった。
娘は門を見なかった」
エルは息を吸う。
昨日、確かにそうだった。
「門を見ないということは、恐れていないということだ。
そしてもう一つ」
「“ここは自分の場所だ”と言い切っているということだ」
アルベルトの声が、ほんの少し熱を帯びる。
熱を帯びても、怒りの熱じゃない。
誇りの熱だ。
「娘は、俺の娘だ。
……厄介で、強い」
エレオノーラが、横でにこにこしている。
張り詰めた空気の中に、しっかり“家族の匂い”が混ざる。
それが少し可笑しい。
可笑しいのに、泣きそうになる種類の可笑しさだ。
アルベルトは続ける。
「だから、娘は簡単に壊れない。
だが、壊れるときは――誰にも気づかれない形で壊れる」
声が低くなる。
低くなるのは、父が怖い話をするときだ。
「見せない。隠す。
そして最後に、全部を自分で背負って終わろうとする」
エルの喉が鳴った。
その言葉は、彼自身にも刺さる。
自分も同じ壊れ方を知っているからだ。
アルベルトが、そこで一拍置いて言う。
「お前は、娘のそれを止められるか」
試験ではない。
尋問でもない。
父が“娘の未来”に投げる、たった一つの現実的な問いだ。
♢
エルは、すぐに「はい」と言えなかった。
言えないのは誠実さだ。
誠実さは、時に残酷になる。
だからエルは、別の答えを選ぶ。
自分ができることだけを言う。
「止められるか、は分かりません」
アルベルトの眉が動く。
だが怒りではない。
“その続きがあるか”を見る動き。
「ただ」
一拍。
「気づける人間でいたいです」
アルベルトが目を細める。
「気づけても、止められないなら同じだ」
「同じじゃありません」
エルは、声を強くしすぎない。
強くすると喧嘩になる。
喧嘩になると、娘が巻き込まれる。
「気づけないと、彼女は一人になります。
気づけるなら、少なくとも一人にはしない」
エレオノーラの笑みが、少しだけ深くなる。
嬉しい、というより、確かめたという顔だ。
アルベルトが沈黙する。
沈黙の間、紅茶の香がほんの少しだけ強く感じられた。
張り詰めている。
なのに、ほっこりする。
父が娘を語る熱と、母の静かな笑みが、ここを「戦争」ではなく「話し合い」に変えている。
アルベルトがようやく言う。
「……お前は、娘を“守る”と言わない」
「はい」
「だが、娘を一人にしないと言う」
「はい」
アルベルトは、ふっと息を吐く。
その吐息は、当主の吐息ではない。
父の吐息だ。
「厄介な男だな」
エルは答えない。
答えると、軽くなる。
ここで軽くするのは違う。
エレオノーラが、穏やかに言う。
「あなた、安心してる顔よ」
「していない」
即答。
素直じゃない。
エレオノーラは笑う。
笑いながら、追い詰めない。
「はいはい。してない、のね」
張り詰めているのに、少し笑ってしまう空気。
その空気が、逆に怖い。
――家族というものは、こういうふうに人を緩ませる。
緩んだ瞬間、守れないものが増える。
アルベルトも、その怖さを知っている。
だからこそ、次の言葉が重くなる。
♢
「結婚の話だ」
アルベルトが、まっすぐに言った。
逃げない言葉。
当主の言葉。
エルは姿勢を正す。
正すのは従順だからじゃない。
受け取る準備だ。
アルベルトは続ける。
「娘は、朝に宣言したそうだな」
「『お前は私の夫になる』と」
エルの喉が、一度鳴った。
その言葉を思い出すだけで胸が熱くなる。
熱くなるが、ここでその熱を見せてはいけない。
「……はい」
短く。
アルベルトが小さく鼻で笑う。
「……あいつらしい」
その一言に、父の愛が滲む。
誇らしくて、怖くて、どうしようもない愛。
エレオノーラが、にこにこしたまま頷く。
まるで「でしょう?」と言っている。
アルベルトは、当主の顔に戻る。
「結婚を決めるのは娘だ」
「だが、家としての責任を負うのは俺だ」
言い切る。
この言い切りが、家の手順を“暴力”ではなく“引き受け”に変える。
「ヴァルシュタイン家として、認める」
一拍。
「婚約の形は整える。
公にする手順も用意する」
エルは息を吸って、吐いた。
礼を言うべきか。
だが礼を言うと、“許された”形になる。
だから、エルは別の言葉を選ぶ。
「……彼女が、縛られない形でお願いします」
アルベルトの目が鋭くなる。
鋭いが、怒りではない。
“娘を理解している”と認める目だ。
「分かっている」
短い返事。
短いほど、重い。
エレオノーラが静かに言う。
「あなた、ちゃんと娘のこと見てるのね」
問いではない。
確認でもない。
褒めでもない。
――母の言葉だ。
母が、娘のために相手を選ぶ時の言葉。
エルは、頭を下げた。
「見ています。……見続けます」
アルベルトが、そこで少しだけ表情を崩す。
崩すのは弱さではなく、決断のあとに訪れる微かな緩みだ。
♢
そして、アルベルトは椅子の肘掛けに手を置き直し、声を低くした。
ここからが、父の言葉。
当主の言葉ではない。
父が、娘の相手にだけ言う言葉。
「お前に、最後に一つだけ言っておく」
エルは視線を上げる。
逃げない。
「娘は、強い」
一拍。
「だが、強いからこそ、弱い瞬間を見せない」
「見せないまま、どこかで折れる」
アルベルトは、そこでほんの僅かに唇を噛む。
父の悔しさが見える。
気づけなかった過去があるのだと、分かってしまう。
「だから」
声が、決める声になる。
「死んでも――お前が守れ」
その言葉は乱暴だ。
だが乱暴な言葉ほど、本音の輪郭は嘘をつかない。
守ると言わないと宣言した男に、あえて“守れ”と言う。
矛盾なのに、筋が通っている。
これは「庇護」ではない。
「所有」でもない。
――父が、娘を“世界に差し出す”ための最後の杭だ。
エレオノーラは、横で嬉しそうに笑っていた。
にこにこしているのに、目が少し濡れている。
母は、父のこの言葉を待っていたのだと分かる。
張り詰めた空気が、その一言で少しだけほどける。
ほどけるのに、重い。
重いのに、あたたかい。
エルは、息を吸った。
「守る」と言わないと決めた。
だが、今この言葉を否定したら――父の覚悟を踏みにじる。
だから、エルはこう返した。
「……分かりました」
そして、続ける。
自分の言葉で、逃げない形で。
「守る、とは言いません。
でも、彼女を一人にしません」
「彼女が折れそうなら、隣にいます」
「折れても、隣にいます」
アルベルトが目を閉じる。
ほんの一瞬だけ。
それは「良し」と言う代わりの動作だった。
「……帰れ」
短い。
だが、追い出しではない。
帰る場所へ帰れ、の意味だ。
エルは立ち上がり、深く一礼した。
♢
屋敷を出るまで、足は止まらなかった。
止めない。
止めた瞬間、言葉が形にされる。
外気が頬に触れたとき、ようやく胸が少しだけほどけた。
ほどけたのは勝利ではない。
ただ、ひとつ決まった。
――シャルロットは、彼の未来になった。
未来は怖い。
でも怖いまま選ぶのが、あの子のやり方だ。
あの子のやり方に、彼も追いつかなければならない。
♢
同じ屋根の下に戻ると、暖房の匂いがした。
昨日の匂い。
屋敷の匂いではない。
扉を閉める音が小さく響く。
小さい音なのに、ここでは拾われない。
拾われないから、息ができる。
リビングの奥から、シャルロットの声。
「……おかえり」
それだけ。
余計な言葉がない。
余計な言葉がないのに、胸に来る。
エルは、少しだけ笑って返す。
「……ただいま」
シャルロットは振り返り、目だけで問う。
どうだった?
でも言葉にしない。
言葉にすると、彼が“説明する側”になってしまうから。
エルは、玄関で外套を外しながら、短く言う。
「……決まった」
シャルロットの眉がほんの僅かに動く。
驚きと、理解と、怖さが混ざった動き。
「そっか」
それだけ。
それだけで、十分だった。
あとは、生活に戻す。
「紅茶、いる?」
昨日と同じ問い。
同じ問いが、今日の勝利になる。
エルは頷く。
「……うん。欲しい」
「了解」
その「了解」が、世界を少しだけ救う。
♢
夜、寝室の灯りを落とす前。
シャルロットは、布団の端に座って、少しだけ視線を逸らした。
「……ねえ」
呼び方は軽い。
でも、声の奥は重い。
「……なんて言われた?」
エルは一拍置く。
全部を言う必要はない。
でも、隠すと屋敷の匂いになる。
だから、一番大事なところだけ言う。
「……死んでも、お前が守れって」
シャルロットが、ふ、と笑った。
笑ったのに、目が少し潤む。
「うちの父っぽい」
口調はフランク。
でも、そのフランクさが、泣きそうなのを隠している。
エルは小さく言う。
「……守るって言わないって、僕、言ったのに」
「うん。知ってる」
シャルロットは、すぐ返す。
否定しない。
でも逃がさない。
「だから、あの言い方なんでしょ」
一拍。
「守れって言われたから守る、じゃなくて。
守れって言われても、逃げんなって意味」
エルは息を吐く。
彼女はやっぱり、言葉の骨格を見抜く。
「……うん」
シャルロットは、そこで少しだけ顔を上げて、エルを見る。
「帰ってきたね」
昨日の言葉。
今日も同じ言葉。
エルは頷く。
「……帰ってきた」
シャルロットが、ほんの少しだけ笑う。
「よし」
それだけでいい。
それだけが、いちばん強い。
♢
――同じ頃。
ヴァルシュタイン家、主寝室。
アルベルトは窓際に立ち、外を見ていた。
夜の庭は静かで、静かなものほど手の内を隠す。
背後で、エレオノーラが紅茶を置く音がする。
いつも通りの音。
いつも通りの音が、今日だけはやけに優しい。
「あなた、熱く語ってたわね」
エレオノーラが、にこにこしたまま言う。
「語っていない」
「語ってた」
即断。
母は容赦がない。
容赦がないのに、優しい。
アルベルトは鼻で息を吐く。
「……娘のことは、語らざるを得ないだろう」
「ええ。語らざるを得ないくらい、好きなのよね」
言い切って、エレオノーラはまた微笑む。
嬉しそうに。
勝ち誇るのではなく、家族の温度として。
アルベルトはその笑みを見ないふりをして、言った。
「……怖いだけだ」
「何が?」
「娘が、選んだことが」
当主の言葉ではない。
父の言葉だ。
「選んだものを、守り切れるとは限らん」
エレオノーラは、静かに言う。
「だから、守れって言ったの?」
アルベルトは黙る。
黙るのが答えだ。
エレオノーラは、穏やかに続ける。
「いい子だったわね。あの子」
アルベルトの目がわずかに動く。
“いい子”という言葉に弱い。
「……厄介だ」
「ええ。とても」
エレオノーラは、にこにこしたまま頷く。
「でも、厄介な子ほど、幸せにしてあげたいじゃない」
アルベルトは、返せない。
返せないから、窓の外を見る。
そして、低く呟く。
「……気がかりが一つだけある」
エレオノーラの笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
薄くなるのは怖いからではない。
現実を受け取る顔だ。
「アイン?」
アルベルトは頷く。
「アイン・アルヴェイン」
名前が室内に落ちる。
落ちた瞬間、空気が冷える。
冷えるのに、張り詰める。
「あの男が、黙っているとは思えん」
アルベルトは拳を軽く握る。
握るのは怒りではない。
“予兆”を掴もうとする手だ。
「何やら動いている」
一拍。
「……まだ形にはなっていない。
だが、匂う」
エレオノーラは、静かに紅茶を飲む。
一口の温度で、自分を整える。
整えるのは従うためではない。
母として、戦うためだ。
「なら、先にこちらが整えるだけよ」
穏やかな声。
穏やかな声ほど、強い。
アルベルトは窓の外を見たまま、低く言う。
「娘を巻き込ませるな」
「当然」
エレオノーラは微笑んで、最後に言った。
「あなたが一番、娘に甘いんだから」
アルベルトは返事をしない。
返事をしないのが、答えだ。
外が動く。
家も動く。
そして――あのアインも、動く。
アルベルトの胸の奥に、嫌な予感が沈む。
沈む予感は、波紋にならない。
波紋にならないまま、確実に広がる。
「……来るぞ」
小さな呟き。
誰に向けた言葉でもない。
ただ、自分に言い聞かせる声。
エレオノーラは答えない。
答えないまま、微笑みだけを置く。
その微笑みが、戦の始まりを“家族の温度”で押さえ込む。
そして、夜は静かに深くなる。
この話は、「決める」話ではありません。
選び続ける、という話です。
帰ってきた、という言葉を言える場所。
謝って終わらせず、怖いまま呼吸できる場所。
それがシャルの家であり、エルの「帰る場所」になった、ただそれだけの回でした。
大きな事件は起きていません。
けれど、紅茶を選ぶこと、言葉を選ぶこと、
そして「一人で行って、帰ってくる」と言えるようになったことは、
この物語の中では確かな前進です。
次は、ヴァルシュタイン家。
張り詰めた空気の中で、結婚という現実が動き出します。
守るべきものが、はっきりとした場所で。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
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