85.帰る場所-5
扉が閉まった瞬間、空気の硬さがほどけた。
ほどけたのは安心じゃない。外の圧が、いったん届かなくなるだけだ。
家の中は静かだった。けれどそれは、屋敷の静けさとは違う。
屋敷の静けさは“拾う”静けさで、ここは“拾わない”静けさだ。
シャルロットは靴を脱いで、外套を外した。手早いのに、乱れない。
乱れないのは癖じゃない。エルが見ているからだ。
見られているときに整えるのは、この家では「守り」になる。
守りは、ここでは許される。
後ろで、靴が揃う音がした。
揃いすぎる音。
同じ距離で、同じ角度で、同じ向きで。
そうしないと怒られる場所で生きてきた人間の指先が作る、余計な正しさ。
シャルロットは振り返らない。
振り返って「いいよ」と言えば、その瞬間に“許可”になる。
許可はやさしい顔で、相手を子どもに戻す。
だから、言葉じゃなくて歩幅で受け取る。
廊下を少しだけゆっくり歩く。
エルが追いつくのを待つ速度。
待っているのに、待たせていない速度。
リビングの扉を開けると、暖房の匂いがした。
あたたかい匂いは、ときどき痛い。
痛いのに、体が先にほどけてしまう。ほどけた分だけ、人は泣きたくなる。
シャルロットは背を向けたまま、短く言った。
「……おかえり」
家に帰った人に言う言葉を、そのまま言った。
“無事だったね”でも、“大丈夫?”でもない。
ただ、帰ってきた事実だけを置く。
背後で一拍、呼吸が止まった気配がする。
止まった呼吸は、言葉を探している呼吸だ。
屋敷なら“正しい答え”を探す呼吸。
ここなら“壊れない言い方”を探す呼吸。
エルの声が小さく返ってくる。
「……ただいま」
その一言が、妙に幼く聞こえた。
幼さは恥ではない。
幼さは、呼吸が戻ってきた証拠だ。
シャルロットはようやく振り返って、エルの顔を見る。
目は冷えていない。
でも、疲れている。
疲れているのに、崩れていない。
崩れていないことが、今日の戦いの証拠だ。
シャルロットは言った。
「逃げなかったね」
褒め言葉にしない言い方。
慰めにしない温度。
エルは、視線を落としそうになって、落とさなかった。
落とさないのは強さじゃない。
落とした瞬間に、また“正しい顔”が始まると知っているからだ。
「……逃げたかった」
正直。
正直を言えるほど、ここは安全だ。
安全が、怖い場所で育った人ほど、正直は喉に引っかかる。
シャルロットは頷く。
「うん。分かる」
分かる、は便利な言葉だ。
便利だからこそ、屋敷では刃になる。
でもここでは、便利なまま置いていい。
置いた分だけ、エルの息が楽になる。
エルは、靴下のまま立っている。
座らない。
座った瞬間に、肩が落ちるのが怖いのだろう。
肩が落ちたら、何かがこぼれる。
こぼれるのを、彼はずっと悪いことだと思ってきた。
シャルロットは、テーブルの方へ歩いた。
歩きながら、軽く言う。
「紅茶いれる? それとも、あったかいの、飲みたい?」
やさしい問い。
でも「大丈夫?」じゃない。
正しさを押しつけない問い。
エルは答えるまでに少し時間がかかった。
答えの内容じゃない。
“選ぶ”という行為に、時間がいる。
「……紅茶、がいい」
「了解」
その「了解」も、命令じゃない。
手順の開始だ。
ここでは手順が、刃じゃなくて柵になる。
♢
湯を沸かす音が、部屋を満たした。
沸く音は、屋敷なら「誰かが来る合図」だった。
ここでは、ただ湯が沸くだけだ。
シャルロットはカップを並べる。
二つ。
当たり前に二つ。
当たり前に二つあるだけで、彼の存在は“ひとり”ではなくなる。
背後で、エルが息を吐く。
長い息。
その長さが、今日まで許されなかった長さだと、シャルロットは知っている。
「……シャル」
呼ばれる。
名前で呼ばれることは、ここでは刃じゃない。
でも屋敷で名前は、いつも責任とセットだった。
責任を渡される前に、名前を呼ばれるだけで身構える癖が残っている。
「ん?」
軽く返す。
軽くするのは、茶化すためじゃない。
重くしないためだ。
重くした瞬間、また“正しい空気”が戻ってくる。
「……僕、さ」
言いかけて止まる。
止まったところに、屋敷がいる。
屋敷は“言葉の途中”を嫌う。途中は未熟として拾われる。
拾われた未熟は、処理される。
シャルロットは、止まったところを責めない。
「うん」
促さない。
でも、待つ。
エルが続ける。
「……君を、巻き込んだ」
来た。
罪悪感の言葉。
屋敷で生きた人間は、すぐに“自分を悪者にして終わらせる”癖がある。
悪者になれば、周りが「いいよ」と言ってくれる。
「いいよ」と言われれば、痛みは整理されたことになる。
整理された痛みは、あとで本人を刺す。
シャルロットは即座に返す。
「その言い方、やめて」
きつくしない。
でも、切る。
切らないと、彼はその癖で死ぬ。
エルが驚いた顔をする。
驚くのは責められたからじゃない。
責められない形で拒否されたことが、彼の経験に少ないからだ。
「……ごめん」
すぐ謝る。
謝れば許されると思ってしまう癖。
許されて生き延びてきた人の反射。
シャルロットは、紅茶を注ぐ手を止めない。
止めたら、“会話が事件”になる。
事件にすると、彼はまた固くなる。
「謝らなくていい」
すぐに続ける。
誤解の余地を残さないために。
「巻き込んだ、じゃないよ。……私が、選んだ」
言い切る。
言い切ることで、屋敷の“整える”をここへ持ち込ませない。
エルの喉が鳴る。
「でも……あんな場所に」
そこまで言って、言葉が途切れる。
“あんな場所”で説明が済むのは、同じものを見た人間同士だけだ。
シャルロットはカップを差し出しながら言う。
「あんな場所だから、行った」
短い。
短い言葉ほど、嘘が混ざらない。
エルは受け取る手が少し震えた。
震えは恐怖だ。
恐怖は正しい。
正しい恐怖を、ここでは否定しない。
シャルロットは自分のカップを持ち、ソファに座る。
“向かい合わない”。
横に座るでもない。
少し斜め。
視線が重なっても逃げられる角度。息ができる角度。
「ねえ、エル」
名前で呼ぶ。
“あなた”は距離になる。
距離になる言葉は、今いらない。
エルは小さく頷く。
「今日、あなたね」
少しくだける。
フランクすぎない。
でも、硬さを壊すくらいには柔らかい。
「あそこで、私を盾にしなかった」
盾。
その単語が出た瞬間、エルの目がわずかに揺れる。
彼は盾にされたことがある。
盾にしてしまったこともある。
盾という言葉は、それだけで刺さる。
「……したくなかった」
弱い声。
弱い声は、ここでは恥じゃない。
シャルロットは、頷く。
「うん。分かる」
そして、少しだけ笑う。
笑いは軽くない。
笑いは覚悟の笑いだ。
「私もね、盾にされるの嫌い」
それは宣言。
でも強がりじゃない。
「だから、あなたが盾にしなかったの見て……決まった」
エルが息を止める。
止めたのは、言葉の続きを怖がったからだ。
屋敷の人間は、“決まった”という言葉で人生を固定されてきた。
固定は死だ。
シャルロットは続ける。
固定するためじゃない。
逆に、固定から守るために。
「朝さ、私、言ったでしょ」
声の温度を少しだけ落とす。
落とすのは冷たくするためじゃない。
言葉を軽くしないためだ。
「エルは、私の夫になるって」
エルの指先がカップの縁を強く掴む。
強く掴むのは、落とさないためだ。
落としたくないのはカップじゃない。
その言葉を落としたくない。
「……うん」
返事が小さい。
小さい返事は、怖いの裏返しだ。
シャルロットは、ここで一度だけ柔らかくする。
「安心して。いま『決めろ』って言ってるわけじゃない」
エルが目を上げる。
その目に、ほんの少しだけ救われた色が混ざる。
救われた色が混ざると、彼は逆に怖くなる。救いは裏切りの形で返ると知っているから。
シャルロットは、逃げ道を残す言い方をする。
「決めるの、今じゃなくていい。……でも、続けるのは今から」
続ける。
固定じゃない。
選び続ける。
エルの喉が鳴る。
「……僕、怖いよ」
出た。
屋敷で言えなかった言葉。
シャルロットは「大丈夫」と言わない。
その代わり、少しだけ身体を寄せる。
寄せすぎない。
触れれば救済になる。救済は危険だ。
「うん、分かる。怖いよね」
そして、さらっと言う。
さらっと言うことで、怖さを“日常”に戻す。
「怖いまま、やろ」
“やろ”はフランクだ。
でも乱暴じゃない。
“ふたりの言葉”になる。
エルが笑いかけて、笑い切れない。
笑い切れないのは、涙が近いからだ。
「……シャル」
「なに」
「僕、さ……」
言葉が詰まる。
詰まるのは、謝ろうとしている。
あるいは、頼ろうとしている。
頼ることは、彼にとって恥だ。恥にされてきたから。
シャルロットは先に言う。
「謝るなら、却下」
エルが目を瞬く。
「……え」
「却下。今日は特に」
少しだけ口の端を上げる。
優しいのに、逃がさない。
「謝って終わるの、好きじゃない」
エルが息を吐く。
吐いた息が少し震える。
「……じゃあ、何を言えばいい」
問う声が、子どもみたいだ。
子どもみたいな声が出るのは、ここでは安全だ。
シャルロットは、一拍置いてから言う。
「……帰ってきた、って言って」
エルが固まる。
帰ってきた、という言葉は、彼の中でまだ“罪”と隣り合わせだからだ。
帰ってくると決めた瞬間、誰かを捨てることになる気がする。
その感覚が、彼をずっと縛ってきた。
シャルロットは、強く言わない。
強く言うと命令になる。
「言える?」
問いは柔らかい。
柔らかい問いほど、逃げ道が少ない。
でも逃げ道がない問いは、今は必要だ。
この言葉は、彼を壊すためじゃなく、彼をここに繋ぐための言葉だから。
エルは、目を伏せないで言った。
「……帰ってきた」
その瞬間、シャルロットの胸の奥が少しだけ熱くなる。
熱くなるのに、泣かない。
泣くと慰めになる。
慰めになると、彼は“守られた側”になってしまう。
守られた側は、屋敷で殺される。
シャルロットは、代わりに笑った。
ほんの少しだけ。
「よし」
それだけ。
それだけでいい。
♢
それから、少しだけ時間が流れた。
紅茶が半分になって、湯気が見えなくなっても、部屋の温度は下がらない。
下がらないのは暖房のせいじゃない。
ふたりが、ここにいるせいだ。
エルはまだ、完全にはほどけない。
ほどけたら崩れる。崩れたら、きっと自分で自分を処理しようとする。
その癖を、シャルは知っている。
だからシャルは、言葉を選ぶ。
選ぶけど、遠慮はしない。
「ね、エル」
「うん」
「さっきさ……あの部屋で」
“父の前で”と言わない。
屋敷をここに連れてこないために。
「『決めない』って言ったでしょ」
エルが頷く。
「うん」
「よかった」
即答。迷わない。
迷うと、エルが罪悪感に逃げる。
エルは困ったみたいに笑った。
「……怒られると思った」
「私が?」
「うん。だって、朝……」
朝。宣言。未来。
矛盾に見えるもの。
シャルは首を振る。
「怒んないよ」
軽い口調。軽いのに嘘じゃない。
「だって違うじゃん。私が言ったの、今すぐ式あげろじゃないし」
エルが息を吐く。ほんの少しだけ楽になったみたいに。
「……うん」
シャルは、そこで少し甘くする。
「“決めない”って言えたの、私、好き」
エルが固まる。
「……え」
「屋敷の『正しさ』で自分殺さないってことでしょ」
強い言葉。
でも、それを言えるのは、ここが“片付ける場所”じゃないからだ。
エルが小さく笑う。
「……僕、勝とうとしてたら変なこと言ってたと思う」
「うん。絶対言ってた」
即答。責めない即答。
事実にして、過去にするための即答。
「勝つの得意そうだもん、あなた」
「……得意じゃない」
「うそ」
エルは少し黙ってから、降参するみたいに言う。
「……得意だった」
過去形。
それが今日の勝ちだ。
♢
夜が来るのは早い。
屋敷の夜は、勝手に戻ってくる。
眠る前は、とくに。
シャルロットは寝室の灯りを落として、布団を整えた。
整えるけど、整えすぎない。
ここは屋敷じゃない。
「ほら、寝よ」
命令じゃない。生活の声。
エルは布団に入っても、目を閉じない。
目を閉じたら、屋敷が入り込む。
夢は拒否できない。拒否できない世界で彼は削られてきた。
シャルは隣に入って、背中を向けない。
ここにいる、と分かる形を残す。
「……シャル」
「んー?」
眠り手前の声で返す。
軽い。でも、逃げない。
「僕、怖い」
二回目の“怖い”は、昼よりずっと重い。
重い方が本物だ。
シャルは「大丈夫」と言わない。
その代わり、手を伸ばして、指先だけ触れる。
逃げられる触れ方で、外れない距離で。
「うん。分かる」
息を吐くみたいに、言う。
「怖いまま来て。怖いまま、帰って」
来て、帰って。
片方じゃなく、往復。
往復できる人間は、もう戻らない。
エルが震える息で笑う。
「……僕、ちゃんと帰る」
「うん。帰る」
同じ言葉を重ねる。
縛りじゃなく、確認にするために。
エルの呼吸が少しずつ落ちていく。
落ちていく途中で、シャルが言った。
「ねえ」
「なに」
「……今日さ。泣いてもいいから、泣くならここでね」
言い方はフランクなのに、逃げ道はない。
エルが小さく笑う。
「……それ、ずるい」
「知ってる。ずるいの」
シャルも笑う。
でもその笑いは軽くない。
「ずるくしないと、エル、抱えたまま寝るでしょ」
エルは返事ができなくて、喉が鳴った。
それで十分だった。
シャルは、指先を絡めるでもなく、ただ置く。
“ここにいる”を、過剰にしない。
「おやすみ、エル」
「……おやすみ」
屋敷では言えなかった言葉が、ここでは言えた。
それだけで、夜の形が少し変わる。
♢
翌日、昼前。
玄関のノックは一度だけだった。
短い。
返事を待つノックじゃない。ここに“届く”と知っているノック。
使用人が受け取って、封を持って戻ってくる。
封蝋。紙の厚み。文字の整い方。
整っているものほど危険だ。礼儀の顔をして、拒否権を削る。
シャルロットは表を見て、すぐ分かる。
差出人――ヴァルシュタイン家当主。アルベルト。
シャルロットは破らない。
破れば勝った気になる。
勝った気になった瞬間、家の手順が加速する。
代わりに、エルへ渡す。
エルの指が、ほんの少し止まる。
止まるのは恐怖だ。
恐怖は正しい。
シャルロットは言う。
軽く、でも逃げない。
「ほら。来た」
エルが封を受け取る。
「……開ける?」
「うん。ここで」
“ここで”が大事だ。
屋敷の温度で読ませない。
エルは封を切る。
紙の音が小さく鳴る。
鳴っても、ここでは拾われない。拾わない。
文面は短い。
短い文ほど、手順が濃い。
エルの目が、一行で止まる。
――次は、アルヴェイン隊長一人で来られたし。
同行不可とは書かれていない。
でも、“一人”を指定している。
礼儀の形で、条件だけを確定する。逃げ道があるように見せて、逃げ道を薄くする。
エルの喉が鳴る。
視線が紙からシャルへ移る。
シャルは笑わない。泣かない。
でも声だけは、少し甘くする。
「……ね」
一拍。
「一人で行こ」
“あなた”じゃない。
“エル”に言う。
甘いのに、重い。重いのに、縛りじゃない。
エルが息を吸って、吐いて、言う。
「……うん」
その「うん」は、昨夜より少し冷たい。
でも冷たさは絶望じゃない。刃に触れた手の温度だ。
シャルはエルの指先に触れる。
逃げられる触れ方で、外れない距離で。
「帰ってきてね」
命令じゃない。約束でもない。
宣言だ。
エルは小さく頷く。
「……帰ってくる」
その言葉で、シャルロットの胸の奥が定まる。
定まったものは、もう簡単には動かない。
外が動く。家が動く。
そして――次は、エルが動く。
シャルロットは、最後に一言だけ置いた。
生活の言葉で、戦争を押さえつけるみたいに。
「行ってらっしゃい。……ちゃんと、帰ってきて」
帰る場所は、ここだ。
“帰ってきた”って言葉を、ここではちゃんと意味のあるものにしたかった。
屋敷の正しさに回収される前に、エルが自分の足で「戻った」って言える場所を、シャルが作る回です。
選ぶ、は一回で終わらない。
決める、でもない。
怖いまま往復して、それでも帰ってくる。――その繰り返しが、ふたりの形になっていく。
そして最後に届く、整いすぎた招待状。
礼儀の顔をした条件提示で、次はエルを“ひとり”にする。
だからこそ、シャルは一緒に行かない。置いていかないために、行かせる。
次話は、エルが単独で屋敷へ向かう回。
“帰ってくる”を、言葉じゃなくて現実で証明する番です。




