83.帰る場所-3
「汚れる、という言葉は――誰の口から出るかで、免罪符になる」
免罪符になるのは、汚れる側ではない。
汚させる側だ。
汚れ役を作る人間は、いつも綺麗な手で言う。
「あなたのため」
「皆のため」
「最善のため」
最善は便利だ。
便利なものは、人を殺すのに向いている。
メイリスは、その便利さを知っていた。
知っているのに――まだ、身体が追いつかない。
腹が重い。
重いまま、息をする。
息をするだけで、世界は「守っている」顔をする。
守っている顔の世界は、守られている人間を“物”にする。
物にされた人間は、意志を持ってはいけない。
意志を持った瞬間、物は「扱いにくい」と判断される。
扱いにくいものほど、人間で。
扱いやすいものほど、形だ。
窓の外は相変わらず静かだった。
村はある。道は整っている。家は少ない。
少ない家の窓は、いつも同じ方向を向いている。
こちらを見ない。
見ないように教え込まれている。
見ない、という暴力は、殴られるより遅く効く。
遅く効いて、気づいたときには「孤立」が完成している。
完成した孤立は、噂の餌になる。
♢
机の上に、昨日裏返した紙片がある。
裏返したままなのに、そこから言葉が滲む。
可哀想。
責任。
不誠実。
紙片はただの切れ端だ。
切れ端にここまで力があるのは、紙が強いからじゃない。
切れ端の裏に“整える手”がいるからだ。
そしてその手は、もう動いている。
昼前、アルヴェイン家の者が来た。
昨日の男ではない。制服の色が違う。
違うのに、声の温度は同じだ。
同じ温度の言葉は、組織の温度だ。
ノックは一度。短い。
返事を待つノックではない。
「ここにいること」を確認する音。
メイリスは返事をして、扉を開けた。
立っていたのは女だった。
年は上。髪はきっちり結われ、視線は柔らかい形に整えられている。
柔らかい視線の人間ほど、刃を隠すのが上手い。
「お加減はいかがでございますか、メイリス様」
丁寧な言葉は、礼儀に見える。
礼儀は、距離に見える。
距離に見えるものほど、拒否権を薄くする。
「……変わりありません」
声を丁寧にする。
丁寧にしないと、拾われる。
拾われた未熟は、処理される。
女は微笑んだ。崩れない微笑み。
崩れない微笑みは訓練だ。
訓練された感情は責任を持たない。
「本日は、お話をお持ちいたしました。お体に障りのないよう、短く」
短く。
短く、という配慮は、逃げ道の顔をしている。
逃げ道の顔をした言葉ほど、逃げ道を塞ぐ。
「貴女様のお立場について――今後、外の者が勝手なことを申しているようでございます」
勝手なこと。
勝手なことではない。
勝手なことに“させている”。
「ご心労がおありでしょう。お気の毒にございます」
お気の毒。
その単語が、ここでも出る。
同じ単語が出るということは、すでに“形”が共有されている。
形は早い。
人の心より早い。
女は続ける。
息継ぎも丁寧だ。
丁寧な息継ぎは、こちらの反論を奪う。
「世間は、貴女様を案じております。案じておりますゆえ――責任の所在を、はっきりさせたいと」
責任。
女の体に結びつけられる責任。
女の沈黙に結びつけられる責任。
「責任を、整える」
整える。
その単語を、口にする。
もう何度目だろう。
メイリスの腹が、ほんの僅かに張った。
張ったのは痛みじゃない。
恐怖の反射だ。
恐怖は、身体から先に来る。
身体は嘘をつけない。
メイリスは腹に手を当てる。
当てる手つきは、庇う手つきに馴染んでいる。
馴染んでいくことが、いちばん怖い。
馴染んだ瞬間、役になる。
女は柔らかく言った。
「貴女様が、被害者として落ち着かれれば、皆が安心いたします」
被害者。
とうとう言った。
言った瞬間、ここが箱だったことが確定する。
ここは逃がすための家ではない。
保管するための家だ。
被害者を。
“便利な形”を。
メイリスは思う。
――私はもう、何もしなくても道具になる。
何も言わなくても、「泣いていない」ことが語られる。
何も言わなくても、「堪えている」ことにされる。
何も言わなくても、「許している」ことにされる。
何も言わなくても、勝手に整えられる。
それがいちばん地獄だ。
♢
女は、選択肢を出した。
選択肢の形をしているが、どちらも刃だ。
「このまま静かにお休みになり、しかるべき時を待たれるのがよろしいかと存じます」
1。
守られる。
守られる代わりに、固定される。
被害者として。
哀れとして。
守られるべき存在として。
守られる存在は、動けない。
動けない存在は、話せない。
話せない存在は、いつか“無かったこと”にされる。
女は、もう一つ言った。
「あるいは――当家として、正式に『お話』の場を設けることもできます。責任を明確にし、皆の誤解を解き、貴女様の名誉を守るために」
2。
汚れる。
“話の場”は、話す場ではない。
形を確定する場だ。
しかもここでの「名誉を守る」は、名誉を盾に縛る意味だ。
名誉を守られる人間は、名誉のために死ぬ。
名誉は息を止める。
どっちも地獄。
1は静かな地獄。
2は騒がしい地獄。
でもメイリスの恐怖は、汚れることじゃない。
固定されることだ。
固定されると、エルディオ様の人生が固定される。
彼はまた「正しい顔」に戻される。
戻された彼は、戻されたまま死ぬ。
――それだけは、嫌だ。
メイリスは丁寧に息を吸って、吐いた。
吐いた息が震える。
震えは弱さではない。
言葉を刃にしないための震えだ。
女が促す。
「賢明なご判断を」
賢明。
賢明は従順の別名だ。
従順な女は、最も使いやすい。
メイリスは、その「使いやすさ」を拒むために、丁寧に頭を下げた。
拒むために、従うふりをする。
「……承知いたしました」
女の目が、ほんの僅かに緩む。
緩む、という反応が、刃になる。
「ただし――一つだけ、お願い申し上げます」
お願い。
お願いという形にすると、命令より強くなる時がある。
命令は反抗を生む。
お願いは罪悪感を生む。
罪悪感は、人を縛る。
メイリスは罪悪感を利用する側に回る。
それが汚れ役だ。
「私の名誉のために、外へ余計な言葉が漏れませんように。
……この体のことも。噂の餌にされるのは、耐え難うございます」
「耐え難い」という言葉は、可哀想の形に回収されやすい。
回収されやすい言葉を、あえて差し出す。
差し出して、噂の接続先を折る。
女は優しく頷いた。
「もちろんでございます。配慮いたします」
配慮。
その配慮こそが、情報の統制だ。
統制は、逆手に取れる。
メイリスはさらに、丁寧に言った。
「……そして、責任のお話の場を設けられるのであれば、
“証”を揃えていただけますでしょうか」
女の眉が、僅かに動く。
動く、という反応が、刃になる。
「証……でございますか」
「はい。責任を語るのであれば、証が必要でございます。
噂で責任を整えるのは、あまりに……不確かです」
責任を「証拠」へ。
噂の土俵を折る。
言葉の勝負を、書類の勝負へ。
書類は冷たいが、書類は嘘をつきにくい。
何より、整える側は証拠を嫌う。
証拠は手順を遅らせる。
遅れた手順は、暴力を露出させる。
女は微笑みを保ったまま言った。
「承りました。整えます」
整える、という言葉が、ここでも出る。
でも今度は、整える先が“形”ではない。
証拠だ。
証拠を整えるには、時間がいる。
時間がいるという事実が、まず一つの勝ちだ。
女は帰っていった。
扉が閉まり、“外”が置かれた。
置かれた外は重い。
重いのに、今は暴力じゃない。
暴力じゃない重さは、選択を残す。
選択が残ることが、どれほど残酷で、どれほど救いか。
メイリスは椅子に座り、腹を撫でた。
撫でる手が震える。
震えが止まらない。
止めようとすると、止まらない。
止めようとするのは癖だ。
侍女は震えを見せない。
震えは未熟の証明になる。
でもここには、誰もいない。
拾う目がない。
拾われない震えだけが、本当になる。
♢
医者のヘルマンが来たのは、その日の夕方だった。
彼はいつも通り、泥を靴に付けている。
その泥は仕事の泥だ。
仕事の泥は、まだ人間の泥だ。
「具合は?」
彼の言葉は短い。
短い言葉は、整えない。
整えない言葉だけが、呼吸を許す。
「……大丈夫です」
言ってしまった瞬間、舌が冷たくなる。
大丈夫は禁止。
ここでは禁じられていない。
でもメイリスは、自分の中でその言葉を嫌う。
大丈夫は、周囲を安心させるための言葉だ。
安心は、形を完成させる。
ヘルマンは眉を寄せた。
彼は医者で、政治家ではない。
でも嘘は診る。
「大丈夫って顔じゃない」
メイリスは笑わなかった。
笑えば、軽くなる。
軽くなると、道具になる。
「……今日、“お話”が来ました」
ヘルマンの目が僅かに暗くなる。
暗くなる目は、怒りではない。
諦めだ。
諦めは、命を減らす。
「誰から」
「当家の方です」
当家。
名を言わない。
名を言うと、形が確定するから。
ヘルマンは溜息を吐いた。
吐いた息が、部屋の小ささで跳ね返る。
「……君は、どうする」
どうする。
どうする、と聞かれるだけで救われることがある。
命令ではない。
手順ではない。
選択の言葉だから。
メイリスは丁寧に答える。
侍女の口調で。
丁寧に、しかし逃げない温度で。
「従うふりをいたします」
ヘルマンが眉を上げる。
医者は、ふりを嫌う。
ふりは症状を隠すからだ。
メイリスは続ける。
「……ただ、形を完成させません。
責任を、噂で整えさせません。
“証”を要求いたしました」
ヘルマンが短く笑う。
笑いは楽しさではない。
驚きだ。
「……喧嘩を売ったな」
「喧嘩ではございません」
メイリスは首を振った。
否定はしない。
言い換える。
「時間を買いました」
時間。
時間は唯一、暴力を遅らせられる。
遅れた暴力は、形の皮を剥がす。
剥がれた暴力は、見える。
見える暴力は、正しさを保てない。
ヘルマンはしばらく黙り、そして言った。
「君は……何のために」
何のため。
その問いは刃になる。
答えが正しくなると、メイリスは美化される。
美化された瞬間、汚れ役の意味が消える。
だからメイリスは、正しい答えを言わない。
綺麗な答えを言わない。
侍女の口調のまま、事実だけを置く。
「……エルディオ様を、形に戻させないためでございます」
その一言で、ヘルマンの目が少しだけ揺れる。
医者の目は、人間を見る。
政治の目は、形を見る。
「君は彼を……」
ヘルマンが言いかけて、止めた。
止めた言葉は、多分「愛している」だ。
メイリスは頷かない。
否定もしない。
愛は、口に出すと役になる。
役になった愛は、利用される。
代わりに、丁寧に言った。
「……私は、彼を壊すことはいたしません」
ヘルマンが息を止める。
止めた息は、理解だ。
メイリスは続ける。
ここだけは、刃の温度で言う。
「壊すのは、あの家です」
言い切った瞬間、腹がまた張る。
痛みが走る。
痛みは現実だ。
現実は、嘘をつけない。
ヘルマンが素早く椅子を引き、診察の手順に入る。
医者の手順は、人を生かす手順だ。
屋敷の手順は、人を均す手順だ。
均す手順と、生かす手順。
同じ“手順”という単語なのに、まるで違う。
その違いを、この物語はずっと書いている。
♢
夜。
火が小さく鳴る。
家が小さいから、火の音が大きい。
大きい音の中で、メイリスは一人、紙を整える。
紙。
文字。
名前。
日付。
誰が何を言い、誰が何を運び、誰が何を見たか。
侍女として学んだことが、今は刃になる。
礼儀。手順。記録。報告。
全部、屋敷の武器だったはずのもの。
でも武器は、持つ人間で変わる。
誰が持つかで、守りにもなる。
メイリスは“助けて”を言わない。
言えば回収される。
回収された助けは、形になる。
形になった助けは、管理される。
管理される助けは、救いではない。
鎖だ。
だからメイリスは、助けを“言葉”ではなく“構造”で作る。
噂の発信源を折る。
証拠の要求で手順を遅らせる。
「可哀想」を「不確か」に変える。
「誠実」を「手順の暴力」に変える。
「被害者」を「作られた形」に変える。
それは汚い。
汚いことをする人間は、嫌われる。
嫌われる人間は、悪役になる。
でも悪役は、便利だ。
便利だから、利用される。
利用されるなら、こちらから利用する。
メイリスは、汚れ役になる。
“奪う女”ではなく、
“盾になる女”として。
盾は、褒められない。
盾は、感謝されない。
盾が欲しい人間ほど、盾に「当然」を押しつける。
それでも盾になるのは、正義じゃない。
正義は、この屋敷では安い。
ただ、事実として。
彼が“戻される”未来が見えるから。
見える未来を、見なかったことにしないから。
メイリスは紙の端を揃え、火の近くに置く。
燃やすためではない。
燃やされないために、火の近くに置く。
火は怖い。
でも怖いものの近くに置くと、守られることがある。
守りはいつも、矛盾だ。
♢
翌朝。
またノックが鳴る。
短い。
確認の音。
メイリスは丁寧に扉を開ける。
昨日の女が立っていた。
微笑みは変わらない。
変わらない微笑みは訓練だ。
「お早うございます、メイリス様。
“証”の件でございますが――当家として確認いたしましたところ、いくつか……お時間を頂戴いたします」
来た。
時間が動いた。
手順が遅れた。
遅れた手順は、焦る。
焦りは、整える側の弱点だ。
メイリスは丁寧に頷く。
従うふりは、相手に安心を与える。
安心した相手は、油断する。
「承知いたしました。
名誉に関わることでございますゆえ、慎重にお願い申し上げます」
女は微笑みながら言う。
「もちろんでございます。
……ただ、世間が騒がしくなっております。
貴女様のためにも、早く落ち着かせたいのです」
落ち着かせる。
その言葉は、暴力の別名だ。
メイリスは答える。
丁寧に。
しかし折れない温度で。
「落ち着く、という形が必要であるなら、なおのこと証が必要でございます」
女の微笑みが、ほんの僅かに薄くなる。
薄くなる瞬間が、人間だ。
訓練の微笑みが薄くなるときだけ、相手は焦っている。
焦っているなら、勝てる。
女は一礼して去る。
去り際に、さらりと置いていった。
「近く、正式な招待状が参ります。
貴女様のお心が決まりましたら……どうか、賢明に」
招待状。
来る。
次の手順が来る。
ミレイユの追伸が、胸の奥で立ち上がる。
当主は、近く何かを動かすでしょう。
動く。
動くものは止まらない。
でも止められるものが一つだけある。
自分が“奪う女”になること。
そしてもう一つ。
自分が“被害者”として固定されること。
メイリスは腹に手を当て、ゆっくり息を吐く。
吐いた息が震える。
震えのまま、胸の奥でだけ言う。
――エル。
名前を呼ぶ。
独白の中でだけ。
独白の中なら、まだ回収されない。
回収されない名前だけが、本当になる。
そして、丁寧な声で、何もない部屋に言う。
誰にも聞かせない言葉を、しかし自分の耳には届くように。
「私は、奪いに参りません」
奪いに行かない。
取り戻しに行かない。
あの人を「責任」で縛らせるために、近づかない。
近づけば構図が生まれる。
構図が生まれれば、女同士の戦いになる。
女同士の戦いは、屋敷が一番好きな形だ。
屋敷はその形で、何度も人を殺してきた。
だから近づかない。
代わりに、背後を守る。
噂の接続先を折る。
手順の暴力を遅らせる。
証拠を要求する。
時間を買う。
暴力の皮を剥がす。
守るために、汚れる。
その汚れを、誰にも理解させない。
理解されると、また形になるから。
メイリスは、机の上の紙を一枚取り、折る。
折り目は丁寧。
侍女の折り目。
その丁寧さで、今度は世界を刺す。
封はしない。
封をすると、“手紙”になる。
手紙は回収されやすい。
回収された手紙は、整えられる。
だからこれは、ただの記録。
ただの備え。
ただの刃。
窓の外の村は静かだ。
静かすぎて、遠い車輪の音が聞こえる。
聞こえる音が、増えた。
増えた音は、手順が増えた証拠だ。
メイリスは目を閉じる。
閉じた瞼の裏に、綺麗な屋敷の廊下が浮かぶ。
音を許さない壁。拾われるため息。整えられる人生。
そこへ戻らせない。
戻らないために、自分が汚れる。
胸の奥で、もう一度だけ言う。
――私が彼を壊すことはしない。
――壊すのは、あの家だ。
そして、最後に。
世界の動きを、耳で確かめる。
車輪。
足音。
短いノック。
整えられた声。
招待状という予告。
メイリスは、目を開けて、腹に手を当てたまま立ち上がる。
遅い。
遅い動作は、現実だ。
現実は、奪えない。
その現実を抱えたまま、彼女は胸の奥でだけ、短く言った。
「――動いた」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
この章では、「守る」という言葉がどれほど容易に人を物に変えてしまうか、そして“正しさ”や“配慮”が持つ暴力性を、メイリスという立場から描きました。
彼女は強いから立ち向かっているわけではなく、
逃げ道がないことを理解した上で、それでも選んでしまっただけです。
それが正義かどうかは、この物語では答えません。
動き出したのは、感情ではなく、手順と構造です。
ここから先、静かだった世界が、少しずつ音を立て始めます。
次章へ進む前の、一つの区切りとして受け取っていただければ幸いです。




