82.帰る場所-2
「動く、って言葉は――誰が言うかで、刃になる」
その一行は、口に出した瞬間から、もう自分のものではなくなる。
言葉は空気に出ると、誰かの正しさに回収される。回収された正しさは、形になる。形になったものは、人を押し込む。
だからメイリスは、声に出さずに、胸の奥でだけ言う。
胸の奥で言えば、まだ刃は自分の手の中にある。
手の中の刃なら、振り回さずに済む。
窓の外には村がある。
村と呼ぶには家が少なく、家が少ないわりに道は妙に整っている。整っている道は、誰かが“通るため”に作られる。
ここは通る場所だ。住む場所ではない。
住む場所ではないところに住まわされる、という形。
小さな家だった。
アインが用意した――と、告げられた。
告げられた、というだけで、すでに手順の匂いがする。
でもこの家には手順がない。ないように見える。
ないように見えることがいちばん怖い。手順がないのに、監視だけがあるからだ。
出入りするのは、アルヴェイン家の者と、医者のヘルマンだけ。
それ以外の人間は、窓の外の道を遠回りする。
遠回りするのは礼儀でも配慮でもない。距離の取り方を教え込まれているからだ。
教え込まれた距離は、優しい顔をして刺してくる。
メイリスは、椅子に深く腰を下ろせない。
腹が大きい。
息の入り方が変わる。起き上がるとき、まず腹を抱える癖がつく。
抱える手つきが、庇う手つきになっていく。
庇う手つきは、弱さではない。現実だ。現実は、いつも身体から先に来る。
この現実は誰のものだ。
そう問う癖を、メイリスは自分の中から引き剥がしておく。
問えば、答えが返ってくる。
答えが返ってくると、そこから手順が生まれる。
手順はいつだって、「あなたのため」に作られる。
暖炉の火が、ぱち、と鳴った。
小さな音。
小さな音は、ここではよく響く。家が小さいからじゃない。静かにされているから響く。
静かにされている――その言い方が、正しい。
♢
机の上に、紙がある。
便箋ではない。封筒でもない。
紙片だ。
切り取られた紙は、もともと別の場所にあった情報の一部だ。
“ここへ持ち込まれた”情報。
メイリスは、最初からそれを読まない。
読まないのは、知らないためじゃない。
読まなくても分かるからだ。
紙片は丁寧に折られている。丁寧すぎる。
丁寧さは、善意の仮面だ。
善意の仮面は拒否権を薄くする。
折り目の角から、印字が覗く。
覗くだけで足りる。覗くだけで刺さるように作られている。
【――元――】
【――責任――】
【――お気の毒――】
お気の毒。
その単語は便利だ。
便利だから、使われる。
お気の毒と言われた側は、お気の毒な顔をすることを期待される。
期待に応えた瞬間、周囲は安心する。
安心は形の完成だ。
メイリスは、紙を裏返して置く。
破らない。
破れば勝った気になる。勝った気になると、次の刃が来る。
屋敷の刃は、勝者にだけ向けられる。
息を吐く。
吐いた息が、腹の重みで途中から短くなる。短い息は苦しい。
苦しいのに、生きている。
泣きはしない。
泣けないのではない。泣くと“形”になるから泣かない。
泣く女は扱いやすい。
泣く女は「被害者」という役に押し込みやすい。
被害者の役は守られる。守られる役は管理される。
管理された被害者は、真実を言えなくなる。
メイリスは被害者にならない。
誰かの都合のいい悲しみにならない。
――本当は、悲しみはある。
悲しみは、恋の痛みではなく、恋が“手順にされる”痛みだ。
愛は、勝手に形にされると、本人の手から離れて刃になる。
その代わりに、自己定義をやり直す。
自分の心を慰めるためではない。
整えられる前に、先に自分で事実を置くためだ。
捨てられた。
――違う。
選ばれなかった。
――それも違う。違うというより、足りない。
メイリスは胸の奥でだけ言う。
私は、“選ばれない位置”に自分から立った。
卑屈ではない。英雄でもない。
ただの事実。
あの時、エルが壊れていくのを見ていた。
見ていた、という言葉は優しすぎる。
“見える距離にいた”。
距離にいることは、責任を生む。
責任は、選択を迫る。
でも選択肢がなかった。
あったのに、知らなかった。
知らなかったふりをしていたかもしれない。
そこまで含めて、事実。
――そして、愛していた。
心から。疑いようもなく。
だからこそ、近すぎた。
近すぎる愛は、相手の壊れ方を“見ない”ふりに変えることがある。
見れば、自分が壊れるから。
壊れてしまえば、相手のそばにいられないから。
メイリスは、自分の愛が綺麗なものだとは思わない。
綺麗にしてしまった瞬間、言い訳になる。
言い訳になった瞬間、また形にされる。
♢
回想は短い。短い方が刺さる。
美しく語ると、献身になってしまう。献身は綺麗すぎる。
綺麗すぎるものは、物語を安くする。
戦場へ行く背中。
背中は、帰ってくる背中ではなかった。
死にに行く背中だった。
死にに行く背中は、呼び止めると“正しい顔”で振り返る。
正しい顔をされた瞬間、こちらの声が罪になる。
戻ってきたときの目。
焦点が合っていない。
合っていないのに、笑おうとする。
笑う癖は、屋敷に育てられる。
笑いは刃の鞘だ。鞘を被せると、血が見えなくなる。
呼吸。
浅い。
浅い呼吸のまま「大丈夫」と言う。
大丈夫、という言葉が癖になっていく。
癖になった言葉は、本人を守らない。周囲を守るだけだ。
触れたときの反応。
遅い。
拒絶ではない。嫌悪でもない。
ただ“感情がそこにいない”。
感情がいない人間に、愛を要求するのは残酷だ。
要求された愛は、責任になる。
責任になった瞬間、エルはまた戦場へ行く。
戦場は責任で動く人間を歓迎する。
歓迎される場所ほど、人は帰れなくなる。
だから――止めたかった。
「止めたかった。だから、身体を差し出した」
声に出すと吐き気がする。
吐き気がするのに、嘘ではない。
嘘ではないから吐き気がする。
「正しいとは思っておりません。けれど……他に方法が、分かりませんでした」
言い方だけが丁寧になる。
丁寧な言葉は、屋敷で生きるための癖だ。
癖のせいで、痛みが薄まることはない。
むしろ丁寧な言葉は、痛みをきれいに整えてしまう。
整えたくない。
整えれば、あの頃の自分が「仕方なかった」と言ってしまう。
仕方なかったと言った瞬間、また同じことをする。
この苦さは、恋ではない。
恋という言葉で包むと、楽になる。
楽になる言葉は危険だ。楽になる言葉は、次に“整える”を呼ぶ。
メイリスは楽にならない。
楽になった瞬間、自分が都合よく消費されるのが分かっているから。
♢
外は静かだ。
静かすぎて、逆に“音の種類”が分かる。
車輪の音。
遠い。
遠いのに、村の道を通っている。
この道を通るのは、村の人間ではない。
メイリスは窓に近づかない。
近づけば見てしまう。見れば、見たことにされる。
見たことにされた情報は、次の手順になる。
足音。
家の外の砂利を踏む音が一定だ。一定の足音は訓練されている。
訓練された足音は、礼儀の顔をしている。礼儀は刃の鞘だ。
ノックが一度。
短い。
返事を待つノックではない。
“ここにいるか”を確かめるノックだ。
メイリスは立ち上がるのに時間がかかる。
腹が重い。重いことが、いまは現実の鎧にもなる。
現実は、誰にも奪えない。
奪えないものがあると、少しだけ呼吸ができる。
扉を開ける前に、息を整える。
整えるのは従うためではない。
整えないと、向こうに「未熟」として拾われる。
拾われた未熟は、処理される。
扉を開ける。
立っているのは男。アルヴェイン家の者。
服が良い。泥がない。
泥がない人間は歩いてきていない。歩いてきていない人間は、ここへ“来させられた”のではなく、“来た”のだ。
その背後に、もう一人。
医者のヘルマン。
ヘルマンは泥がある。泥があるのに、目が疲れていない。
疲れていない人間の泥は、仕事の泥だ。
仕事の泥は、まだ人間の泥だ。
「お加減はいかがでございますか、メイリス様」
ヘルマンが先に言う。
彼は“診る”人間だ。整える人間ではない。
診る人間の言葉だけが、ここではわずかに呼吸を許す。
「……変わりは、ございません」
変わらない、という言葉は嘘ではない。
でも真実でもない。
真実を言うと“処理”が始まるから、真実は言わない。
男が、丁寧に頭を下げる。
丁寧すぎる礼は、拒否権を薄くする。
「突然で申し訳ございません。本日は、お伝えすべきことがございまして――」
伝える。
その言い方が嫌だ。
伝える、は情報の移動に見える。
本当は違う。形の押し付けだ。
男は続ける。
「今後のことを“整える”ために」
整える。
その単語を、平然と口にする。
平然と口にできる人間ほど、責任を持たない。
責任を持たない正しさが、一番よく人を殺す。
メイリスの指先が、無意識に腹に触れる。
触れるのは確認だ。ここにある、と確認する。
確認しないと、言葉だけで削られる。
「メイリス様のお立場を、これ以上損なわぬよう」
損なう。
すでに損なわれている前提で話す。
前提に乗った瞬間、こちらは負ける。
「皆が安心できる形に」
安心。
安心はいつも“誰のため”かを曖昧にする。
曖昧な安心は、弱いものから奪う。
「……何を、お望みでございますか」
メイリスは問いを短くする。
問いが長いと、相手に言葉を与える。
言葉を与えると、手順が増える。
男は微笑む。崩れない微笑み。
崩れない微笑みは訓練だ。訓練された感情は責任を持たない。
「責任の形を整えましょう」
責任。
その単語は、いつだって女に向けて使われる。
女の責任は“体”に結びつけられる。
体に結びついた責任は、本人の意思を剥ぐ。
ヘルマンが、ほんの少し視線を逸らす。
逸らす視線は“同意できない”の合図だ。
でも医者は政治に口を出さない。
口を出すと、患者を診られなくなる。
診られなくなると、命が減る。
減る命の重さを知っている人間は、黙る。
黙ることが罪になる世界で、黙ることが正しさになることもある。
「あなたなら、彼を壊さずに済む」
彼。
名前を言わない。
名前を言うと、本当にこの家に引きずって来られるから。
メイリスは、ここで初めて、はっきりと言う。
「……エルディオ様の名を、お出しになって」
男の眉が僅かに動く。
動く、という反応が、刃になる。
「失礼いたしました。……エルディオ様を」
エルディオ、という名が空気に出た瞬間、部屋の温度が一段下がる。
名は刃だ。
名を持ち込めば、距離が消える。距離が消えた瞬間、手順が始まる。
男は言う。
「エルディオ様は、いずれ然るべき場に戻らねばなりません」
戻る。
戻る、という言葉が、最悪だ。
戻る先が“帰る場所”ではなく、“形”であることを知っている。
「そのために、過去を整える必要があるのです」
過去。
過去を整える、という暴力。
過去は事実だ。事実は整えられない。
整えられるのは“解釈”だ。
解釈を整えるのは、支配だ。
「あなたが被害者でいてくだされば、皆が安心します」
被害者。
その言葉が来た。
来た瞬間、ここまでの全てが繋がる。
この場所も。紙片も。人の少ない村も。
全部、“被害者”を保管するための箱だった。
メイリスは笑わない。
泣かない。
返事をしない。
返事をした瞬間、役が決まる。
役が決まった瞬間、腹の中の命も役にされる。
メイリスは、腹に手を当てたまま、ゆっくり息を吐く。
吐く息が震える。
震えるのは弱さではない。怒りを形にしないための震えだ。
男が促すように言う。
「賢明なご判断を」
賢明。
賢明とは、従順の別名だ。
従順な女は守られる。守られる女は管理される。
管理された女は、静かに死ぬ。
メイリスは静かに死なない。
でも“戦う”とも言わない。
正義の台詞は、この構造では安い。
安い言葉は相手の土俵になる。相手は言葉で勝つ。
だからメイリスは、何も言わない。
何も言わない、という拒否。
拒否は叫ぶものではない。
拒否は、形に入らないことだ。
男は礼をして帰る。
帰り際、ヘルマンだけが一瞬メイリスを見る。
その目は“ごめん”ではない。
“生きろ”の目だ。
医者の目は、政治より命を見ている。
扉が閉まる。
閉まった音が、部屋に“外”を置いていく。
♢
メイリスは椅子に戻る。
座る動作が遅い。遅さは現実だ。
現実は、今ここにある。
今ここにあることだけが、まだ奪われていない。
机の紙片が、裏返したままそこにある。
裏返したままなのに、刺さり続ける。
刺さり続けるのは、紙の言葉ではない。
紙を置いた人間の手順だ。
手順が動き始めている。
動く。
動くものは止まらない。
止まらないものの中で、止められるのは一つだけだ。
――自分が“奪う女”になること。
メイリスは、腹に触れた手をゆっくり握る。
握るのは守るため。
守るために握るのに、守るという言葉を口にしない。
守ると言うと、すぐ縛りになるから。
胸の奥で、小さい言葉だけを言う。
小さい言葉は拾われにくい。拾われにくい言葉だけが本当になる。
(エル。――私は、あなたを愛していた)
名を心の中で呼ぶと、胸の奥が痛む。
痛みは、まだそこにある証明だ。
消えていないことが、救いであり、刑でもある。
「私は“奪う女”にはならない」
それは恋の宣言ではない。
善人の宣言でもない。
ただ、“役に入らない”という宣言だ。
役に入らない人間は、嫌われる。
嫌われる人間は、汚れる。
汚れることを引き受けた人間だけが、守れるものがある。
メイリスはまだ、それを口にしない。
口にしたら綺麗になるから。
綺麗になった瞬間、物語は安くなる。
だから前編はここで終える。
折れたまま、立つ。
戦わない。
ただ、形に入らない。
窓の外の村は静かだ。
静かすぎて、次の足音が聞こえてしまいそうなくらいに。
メイリスは、息をする。
大きな腹の重さを、現実として受け止めながら。
受け止めることでしか、まだ自分を保てないから。
そして胸の奥で、もう一度だけ同じ言葉を反芻する。
「私は“奪う女”にはならない」
拒否で終わる。
拒否で終わるから、次が爆発する。
「動く」という言葉は、便利です。
便利だから、簡単に使われる。
そして便利な言葉ほど、誰かの人生を“形”にしてしまう。
この回で描きたかったのは、失恋ではありません。
メイリスの痛みは「捨てられた」ではなく、もっと冷たいところにあります。
誰かの都合で「捨てられた女」に加工されること。
悲しみが本人のものではなくなっていくこと。
そして――それでも泣けば、泣いた瞬間に役が完成してしまうこと。
だから彼女は泣かない。
強いからではなく、泣くことが“敗北”だからでもなく。
泣くという行為が、この世界ではすぐに利用されると知っているからです。
メイリスは、エルディオを愛していました。
その愛は献身ではなく、救済でもなく、正しさでもない。
ただ、確かにそこにあった。
確かだったからこそ、彼女は自分を美化しない。
美化した瞬間、愛は“物語の小道具”になるからです。
この話は、前編です。
前編の終わりが「戦う」ではなく「拒否」なのは、意図的です。
叫ばない拒否。
形に入らない拒否。
それは、静かにしかできない反抗であり、静かだからこそ、次の一手を重くします。
次は、爆発します。
ただし爆発するのは感情ではなく、構造です。
誰かが悪役になるための爆発ではなく、
“悪役を作る仕組み”を壊すための爆発。
メイリスは、奪いに行かない。
奪う女にならない。
その選択が、どれほど汚れる選択になるか――
その汚れを引き受ける覚悟を、次で描きます。
読んでくださって、ありがとうございました。
続きで、彼女が何を「拒否」し、何を「引き受ける」のか。
どうか、見届けてください。




