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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
シャルロット編

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80/88

80.指輪より重い約束

未編集

 

 朝はいつも、静かに来る。

 屋敷の朝のように、規律のために音を消してやってくるのではなく。

 この部屋の朝は、まだ眠っていてもいい人間を許したまま、薄い光だけを差し込ませる。


 ――眠っていてもいい。

 この一文だけで、どれだけの人間が救われるのだろう、とシャルロットは思う。

 救われてはいけない人間なんて、本当はどこにもいないのに。屋敷はそれを許さない。許さないことで秩序を守る。秩序を守ることで顔を守る。顔を守ることで、誰かの心臓の音は消される。


 シャルロットは、目を開けて最初に息をした。

 息が喉に引っかからない。胸が苦しくない。

 ――昨夜の空気が、まだここに残っている。


 肌の上に、昨夜の熱が薄く膜になっている。

 身体を重ねたことの名残ではなく、心がここにいたことの名残。逃げるための温度じゃない。“帰ってきた”と確かめる温度。


 隣にいるエルは、眠っていた。

 横顔が、幼い。昨夜あれほど泣いて、震えて、壊れかけて、それでも言葉を置いて、最後は「うん」と言って――それから、今。

 眠っている。


 眠りは、脆い。

 特に、彼の眠りは。


 何かの気配で、すぐほどける。

 気配の正体が「安心」だとしても、彼は「安心」に慣れていないから。

 安心は、彼の中でいつも「次に裏切られるもの」として記憶されてしまう。


 裏切られる前提で息をして、裏切られる前提で笑って、裏切られる前提で眠る。

 その生き方は、賢い。残酷なほど賢い。

 だからこそ、胸が痛い。賢さでしか生き延びられないほど、彼は長い間、追い詰められてきたのだと分かるから。


 だからシャルロットは、起き上がる動作を最小限にした。

 シーツを引かない。空気を大きく動かさない。

 ただ、ゆっくりと身体を起こし、足を床につける。


 裸足の足裏に、木の床の冷たさが伝わる。

 その冷たささえ、この部屋では暴力にならない。

 昨夜までの熱が、まだ少しだけ残っているからだ。


 窓に近づく。

 カーテンの隙間から入り込む光は、淡くて、薄い。

 シャルロットは、窓を開けた。


 空気が入ってくる。

 外の匂い。朝の匂い。遠くで鳥の声。街のざわめきはまだ小さい。

 世界はいつも通り動いている。

 昨夜あんなに世界が崩れたのに、朝は平然と来る。


 それが、少しだけ腹立たしい。

 ――けれど、同時に救いでもある。


 世界が止まらないからこそ、彼は止まれる。

 止まっても、世界は彼を追い越していく。

 追い越されても、彼は置き去りにされない。ここにいる限り。


 シャルロットは、窓辺で小さく息を吐いた。

 声は出さない。出したら、彼の眠りに触れてしまう。

 眠りに触れるのは、刃にもなる。目覚めた瞬間に彼の中の“正しさ”が立ち上がるからだ。正しい顔、正しい声、正しい返答――生き延びるための仮面。


 昨日、彼は言った。

「大丈夫じゃない時に使われる言葉だ」

「守る、守る、守る――その守るが何を守ってくれたんだ」

 そして最後に、泣きながら。

「愛してる」

「結婚」

「未来」

「子ども」


 言葉の一つひとつが、剣の刃みたいに真っ直ぐだった。

 真っ直ぐで、傷つけるためじゃなく、逃げないための刃。

 ――自分の喉を裂いてでも、本当の音で言うための刃。


 シャルロットは、胸の奥に手を当てる。

 昨夜、そこに彼の指を置いた。

 心臓の上に。


 あのとき、自分の心臓の音が、彼に聞こえたと思う。

 聞こえたならいい。

 彼の中の“正しさ”に飲まれて消えそうな自分の言葉より、ずっと確かな証明になる。


 ――誓いなんて、言葉だけじゃ足りない。

 彼は「言葉」に切られてきた。

 言葉で縛られ、言葉で整えられ、言葉で片付けられた。


 だからシャルロットは、昨夜「決定」と言った。

 お願いではなく。

「結婚して」ではなく。

「夫になる」

「家族になる」


 重いと分かっていて、重く置いた。

 軽く言えば、彼は逃げ道を探してしまう。

 逃げ道を探させたくない。

 逃げ道が必要なのは分かっている。

 でも、逃げ道は“外”に向けるものじゃない。

 “私の中”に作ればいい。


 外へ逃げる必要がないほど、ここを強くする。

 ここが崩れないように、私が崩れない。

 彼のために強がるんじゃない。

 彼が帰ってくる場所として、折れないだけ。


 シャルロットは窓から離れ、振り返る。

 ベッドの上の彼は、まだ眠っている。

 睫毛が揺れない。呼吸が浅くない。

 肩の力が抜けている。


 ――眠れている。

 久しぶりに。

 誰にも均されない場所で。

「こうであれ」と言われない場所で。

「守る」という刃が飛んでこない場所で。


 その事実が、胸を刺す。

 刺して、熱くする。

 そして同時に、怒りを生む。


 あの屋敷。

 あの言葉。

 あの“守る”。


 守るという言葉は、本来あたたかいはずなのに。

 守るという言葉は、本来抱きしめるはずなのに。

 あそこでは、守るは“縛る”の別名だ。

 守るは“都合よく整える”の別名だ。

 守るは“悲鳴を聞かない”ための免罪符だ。


 シャルロットは、窓を開けたまま、静かに誓った。

 声は小さい。

 けれど、耳ではなく身体に届く声。


「……逃がさない、じゃない」


 昨夜の自分の言葉を、あえて否定する。

 否定して、上書きする。

 逃がさない、は、彼を縛る側の言葉にもなり得るから。


 私は、彼を縛りたくない。

 縛って自分の安心にしたいわけじゃない。

 ただ――帰ってきてほしい。

 帰ってくると決められる場所にしたい。


「……帰ってこさせる」


 彼がどこへ行っても。

 彼が壊れても。

 彼が怖くなっても。

 彼の足が勝手に屋敷へ向かおうとしても。


 ――帰ってこさせる。ここへ。私へ。


 それは命令じゃない。

 祈りでもない。

 “約束”でもない。

 宣言だ。

 自分の生き方を、自分の責任で決める言葉。


 ♢


 シャルロットは、自分がどうしてこんなふうに重い女になったのか、考えたことがある。

 考えないふりをして、うまく生きてきたつもりだった。

 貴族の娘として。

 ヴァルシュタイン家の者として。


 けれど昨夜、エルの涙が落ちた瞬間。

 エルが「帰る場所にしたい」と言った瞬間。

 シャルロットの中の何かも、ほどけた。


 重いのは、性格じゃない。

 生き方だ。

 選び方だ。

 捨てないと決めたものの量だ。


 シャルロットは、幼い頃から“捨てられる側”ではなかった。

 周囲はいつも丁寧だった。

 笑顔も多かった。

 褒め言葉もあった。

 だからこそ、分かってしまう。


 丁寧さの中にも、線がある。

 笑顔の中にも、境界がある。

 褒め言葉は、束縛になる。


「お姫様は、泣いてはいけない」

「お姫様は、怒ってはいけない」

「お姫様は、正しくあらねばならない」


 それを“愛”の形で教えられた。

 だから、シャルロットは早くから学んだのだ。

 人は、愛の言葉で人を縛れる。

 正しさで、心を削れる。


 泣いてはいけない、と言われ続けた子は、泣き方を忘れる。

 怒ってはいけない、と言われ続けた子は、怒りを自分に向ける。

 正しくあれ、と言われ続けた子は、自分の小さな望みを「悪」として処刑する。


 その繰り返しの果てに、残るのは“重さ”だ。

 軽い言葉を信じない。軽い好意を信じない。軽い約束を信じない。

 信じない代わりに、決めたものだけは捨てない。

 それがシャルロットの形だった。


 シャルロットが重くなったのは、誰かを縛りたいからじゃない。

 縛られることの恐ろしさを知っているからだ。


 縛られないために、自分で鎖を握る。

 鎖を握るなら、自分が責任を負う。

 責任を負うなら、中途半端な優しさは言わない。


 ――嘘で優しくしない。

 それが、シャルロットの生き方になった。


 だから昨夜も、エルの過去を「かわいそう」とは言わなかった。

 かわいそう、は片付けだ。

 かわいそうと言った瞬間、痛みが薄まったような顔をしてしまう。

 薄まった顔をした瞬間、彼はまた「分かったふり」に殺される。


 シャルロットは、薄まらない。

 薄めない。

 彼の痛みを、軽くしない。

 軽くしない代わりに、離れない。


 ――それが、私の“選ぶ”だ。


 昨夜、正直、怖かった。

 彼の話を聞くことが怖かったんじゃない。

 彼が“自分の全部”を差し出して、そして私がそれを受け取ったとき、もう後戻りできないことが怖かった。


 後戻りできないのは、最高だ。

 それが欲しかった。

 けれど同時に、後戻りできないと知った瞬間、自分の醜さも見える。


 嫉妬。

 独占欲。

 誰にも渡したくない。

 過去ですら、私のものにしたい。


 そんな自分を、シャルロットは否定しない。

 否定したら、綺麗な女になる。

 綺麗な女は、彼を壊す。

 綺麗な女は、最後に「大丈夫」を言ってしまう。


 シャルロットは綺麗にならない。

 汚いところも抱えて、彼を抱える。


 昨夜、彼が「君になら殺されたっていい」と言ったとき。

 胸が裂けるほど怖かった。

 でも同時に、腹の底が熱くなった。


 ――それが、彼の“愛の言い方”だったからだ。

 彼は自分を傷つける言葉でしか、愛を言えない。

「死んでもいい」は、本当は「生きるのが怖い」の裏返しだ。

「壊れてもいい」は、本当は「壊れた自分を捨てないで」の裏返しだ。


 それが分かった瞬間、シャルロットは決めた。


 彼が自分を傷つける言葉で愛を言うたびに、私はその言葉の刃を素手で掴む。

 掴んで、刃の意味を変える。

「死んでもいい」じゃない。

「生きて一緒にいる」へ。


 その変換を、私は毎日やる。

 死ぬほど面倒で、死ぬほど苦しい。

 でもそれが、私の選んだ“夫”だ。

 私の選んだ“家族”だ。


 ――だから私は、軽く笑わない。

 軽く許さない。

 軽く抱かない。

 全部、本気でやる。

 全部、命の重さでやる。


 ♢


 ベッドの上で、エルが小さく身じろぎした。

 呼吸が一瞬だけ乱れる。

 夢の中で、屋敷が触ったのかもしれない。


 シャルロットは反射で駆け寄りそうになって、止まる。

 駆け寄ると、彼は目を覚ます。

 目を覚ましたら、彼は“正しい顔”を作る。

 正しい顔を作らせたくない。


 シャルロットは、ゆっくり近づき、ベッドの縁に腰を下ろした。

 指先だけで、彼の髪に触れる。

 髪に触れるのは、頬に触れるよりも安全だ。

 涙を落とさせない触れ方だから。

 ――涙を落とすなら、彼が自分で落とすと決めたときでいい。強要したくない。


 エルの眉間が少しだけ緩む。

 夢の中の屋敷が、遠のく。

 ――戻ってくる。


 シャルロットは小さく笑ってしまう。

 可笑しいからじゃない。

 嬉しいからだ。

「戻ってくる」という現象が、奇跡みたいに嬉しい。

 “帰ってくる”という行為が、当たり前じゃない世界で生きてきた人間の表情だと知ってしまったから。


 やがて、エルの瞼がゆっくり持ち上がった。


「……シャル」


 声が、掠れている。

 掠れた声が、昨夜の続きだと分かる。

 夢じゃない。


「起きた?」


 シャルロットは、いつもの調子で言った。

 甘やかさない。

 でも、冷たくもしない。

 温度だけを置く。


 エルは、数秒だけ黙っていた。

 黙って、天井を見て、それからシャルロットを見る。

 その視線に、怯えが混ざる。

 昨夜の記憶が、自分の中でまだ固まっていない目だ。

 “言ってしまったこと”を、朝の自分が責めに来る目。


「……昨日」


 エルの喉が鳴る。


「……夢じゃない?」


 シャルロットの胸が、きゅっと締まる。

 締まるのは、愛おしさだ。

 彼はまだ、幸福を疑う。

 幸福を疑う癖が、彼を生かしてきたのだろう。

 疑って、疑って、それでもここにいる――その頑固さが、彼の命だ。


 シャルロットは、答えを間違えないように息をした。


「夢じゃない」


 短く言う。

 それだけで終わらせない。

 短い言葉は、不安を残すこともあるから。


「……あなたは戻ってきた。ここに」


 エルの睫毛が震える。


「……私に言ったことも、私が言ったことも、全部」


 シャルロットは、彼の指を取って、自分の胸に当てた。

 昨夜と同じ場所。心臓の上。


「ほら。動いてる」


 エルが息を止める。

 指先が、微かに震える。

 震えは怖さでもあるし、救いでもある。


「……うん」


 その「うん」が、昨夜の「うん」より深い。

 確認の「うん」だ。

 彼が現実に触れた音だ。


 シャルロットは、ここで“指輪”の話をしない。

 飾りは要らない。

 形は後でいい。

 彼は形に切られてきた。

 形で守られる代わりに、形で窒息してきた。


 だから、先に“現実”を置く。

 現実は、逃げない。

 現実は、裏切らない。

 現実は、触れられる。


「エル。条件がある」


 エルが少しだけ身構える。

 身構えるのは、屋敷の癖だ。

 条件=管理。条件=手順。条件=正しさ。

 ――条件=あなたのため、という名の刃。


 シャルロットは、その身構えを見て、わざと柔らかく笑った。

 軽くするためじゃない。

 刃を抜くための笑いだ。


「管理じゃない」


 先に言う。

 彼の地雷を踏まないために。


「……私が、あなたと生きるための決め事」


 エルの肩が少しだけ落ちる。

 息が戻る。


「一つ目」


 シャルロットは、指を一本立てた。

 彼の目を見たまま言う。


「あなたが壊れそうな日は、私に言う」


 エルが口を開きかけて、閉じる。

 反射で「大丈夫」と言いそうになったのだろう。

 そして自分で、それが禁止だと気づいて飲み込む。

 飲み込んだ喉が動く。痛そうに。


 シャルロットは続ける。


「言えないなら、言葉じゃなくてもいい。合図でもいい。触れてもいい。抱きついてもいい」


 言いながら、シャルロットは彼の指を少し強く握った。

 “許可”じゃない。

 “権利”だ。

 ここに帰ってくる権利。甘えていい権利。壊れていい権利。


 エルの目が揺れる。

 揺れるのは、許可されてしまったからだ。

 許可は、彼にとって毒にもなる。

 でも必要だ。

 毒になるなら、毒の量も私が抱える。


「二つ目」


 指をもう一本立てる。


「“大丈夫”は禁止」


 エルが小さく笑った。

 笑いが苦い。癖を取り上げられる笑いだ。

 その癖は、彼の命綱でもあったのだろう。


「……言いそうになる」


「言いそうになったら、言って」


 シャルロットは即答する。


「“言いそうになった”って言って。そしたら私が止める」


 止める、という言葉は強い。

 でもこれは縛りじゃない。

 彼が自分を縛る癖を、私が一緒に解くための強さ。


 エルの喉が鳴る。


「……三つ目」


 指を三本目へ。


「嘘で優しくしない」


 エルの顔が、少しだけ固くなる。

 痛いところを刺した顔だ。

 そして、その痛みを“正しい顔”で隠そうとする顔だ。


 シャルロットは、刺したままにしない。

 丁寧に、意味を置く。


「あなたが私を守ろうとして嘘をつくの、分かる」


 エルの視線が落ちる。


「でもね。嘘の優しさは、あとで私を殺す」


 言い切る。

 脅しじゃない。

 事実として言う。


「私は、あなたの嘘を“思いやり”って言って受け取らない」


 受け取らない、は拒絶じゃない。

 “嘘で私を置いていかないで”という、重い愛の言葉だ。


 エルの唇が震える。


「……怖い」


 エルが、小さく言った。

 怖いのは、嘘が通じないから。

 怖いのは、逃げ道が外に作れないから。

 ――怖いのは、ここが本物になってしまうから。


 シャルロットは頷く。


「うん。怖いよね」


 ここで「大丈夫」と言わない。

 言わない代わりに、別の現実を置く。


「怖いなら、怖いって言って。私に」


 エルの目が、また熱くなる。


「最後」


 シャルロットは、指を折りたたみ、彼の指と絡めた。


「帰ってくる」


 短い言葉。

 だけど、昨夜の物語の全てを抱えている言葉。

 彼の前世の死も、この世界の屋敷も、リィナも、メイリスも、母の“守る”も――全部を越えて、それでも戻るという言葉。


「逃げてもいい。壊れてもいい。叫んでもいい。求めてもいい。泣いてもいい」


 彼の呼吸が震える。

 震える呼吸が、いま生きている証だ。


「でも、最後は帰ってくる。私のところに」


 言い方は優しい。

 内容は激重だ。

 逃げ道を外に作らない宣言。

 ――外に逃げてもいい。でも、帰る先は私だと決める宣言。


 そして、ここでシャルロットは少しだけ笑う。

 甘く、でも逃げられない笑み。

 甘さで包んで、重さで縫い留める笑み。


「……結婚って、そういうことでしょ」


 エルが、目を見開く。

 笑って、泣きそうな顔になる。


「……重いな」


 昨夜と同じ台詞。

 けれど今の「重い」は、怖さじゃなく、救いに近い。

 重いものがあるから、彼は浮かずにここに立てる。


 シャルロットは、彼の頬に指先を当てる。

 頬に触れてしまう。

 今なら、涙が落ちても均されないから。

 今なら、彼が泣いても「正しい顔」を作らなくていいから。


「嬉しい?」


 わざと、意地悪に聞く。

 意地悪は、彼を試すためじゃない。

 “本当の答えを言っていい”と許すための意地悪だ。


 エルは、震えた息で笑った。


「……うん」


 シャルロットは、その「うん」を聞いて、胸の奥が決まる。

 昨夜の「決定」より、さらに深く決まる。

 “決めた”は一回じゃ足りない。毎日決める。毎朝決める。彼の呼吸が続く限り。


「なら、いい」


 そして、囁く。

 昨夜の続きみたいに。

 でも、今日の現実として。


「エル。あなたは、私の夫になる」


 “なる”と言う。

 “なってほしい”ではない。

 彼の世界に必要なのは、お願いじゃなく、帰る場所の確定だから。


「私の家族になる」


 エルが目を閉じる。

 涙が一粒落ちる。


 シャルロットは、その涙を指で拭わない。

 拭うと片付けになる。

 代わりに、彼の額に自分の額を当てる。

 息が触れ合う距離。

 “ここにいる”が嘘にならない距離。


「……泣いていい」


 短く言う。

 そして、さらに重く甘い言葉を落とす。


「泣いた分、私があなたを抱く」


 抱く、は行為じゃない。

 抱く、は選択だ。

 彼の壊れ方ごと、抱えるという意味。


 エルの喉が鳴る。

 息が崩れる。


「……シャル」


「なに」


「……ありがとう」


 その「ありがとう」に、シャルロットは笑いながら泣きそうになる。

 ありがとうなんて、要らないのに。

 でも彼は、ありがとうと言わないと怖いのだろう。

 借りにしたくないのだろう。

 ――また捨てられる前に、自分から手を離してしまう癖が残っているのだろう。


 シャルロットは、はっきり言った。


「借りじゃない」


 そして、甘く刺す。

 刺して、逃げられなくする。

 優しく逃げ道を作るんじゃない。

 ここが逃げ道だと決める。


「返さなくていい。逃げられなくなるよ?」


 エルが、涙のまま笑う。


「……逃げない」


 その言葉が、胸に落ちた。

 昨夜の「うん」と同じ重さで。


 ♢


 そのときだった。


 コン、コン、と。

 外からノックの音がした。


 この部屋の空気を壊さないように、遠慮した音。

 けれど確実に“外”の音だ。

 現実の侵入。


 ノックの音は、屋敷のノックと違う。

 屋敷のノックは、入ってくるために鳴る。拒否権がない。

 この屋敷の外のノックは、返事を待つ。形式のためじゃなく、相手を人として扱うために待つ。


 それでも――“外”は外だ。

 昨夜のぬくもりの中に、冷たい世界が一滴落ちる。


 シャルロットは、一瞬だけ目を閉じる。

 世界が、また動き出す。


 エルが身じろぎした。

 反射で身体が固くなる。

 屋敷の癖が顔を出す。

 音ひとつで、背筋が“正しい姿勢”に戻ろうとする。


 シャルロットは、すぐ彼の指を握った。

 握って、落ち着かせるのではなく、繋ぎ止める。

 落ち着け、と命令したくない。

 ただ、戻れ、と言いたい。ここへ、と。


「大丈夫」


 と言いそうになって、口を止める。

 禁止だ。

 自分で決めた。

 彼の過去が切られた言葉を、ここで使わない。


 代わりに、低く、確かに言う。


「……帰ってきて」


 今ここに。

 今この部屋に。

 今この指先に。

 ――昨日のあなたの言葉の続きに。


 ノックがもう一度。

 今度は少しだけ急く音。遠慮を捨てきれないままの焦り。

 そして、扉の向こうから声。


「シャルロット様。急使にございます。――早馬です」


 早馬。

 その単語だけで、胸の奥の空気が変わる。

 急ぎの知らせ。

 “間に合わない”かもしれない知らせ。

 そして、誰かの覚悟が紙になって届く知らせ。


 シャルロットは、息を吸う。

 吸って、吐いて、決める。


 扉へ向かう前に、もう一度だけ、ベッドの上の彼を見る。

 彼はまだ裸のまま。

 布団を引き寄せ、胸元だけを隠している。

 ――守りの動作。

 屋敷の癖。

 恥や罪ではない。生き延び方の反射。


 シャルロットは、その反射を責めない。

 代わりに、反射の上に新しい現実を置く。


 ゆっくりベッドへ戻り、彼の頬に口づけた。

 短い。

 でも、誓いみたいな口づけ。

 飾りより重い。指輪より確か。

 皮膚に残る温度が、言葉より嘘をつかない。


「現実が来ても、あなたを置いていかない」


 エルの目が揺れる。

 揺れは、怖さと、信じたい気持ちの混ざった揺れ。


「……一緒にいる?」


 エルが聞く。

 怖さが混ざった声で。

 置いていかれる未来を、先に想像してしまう声で。


 シャルロットは笑った。

 甘くて、重い笑い。

 彼を安心させるための笑いじゃない。

 安心の代わりに、“決定”をもう一度置く笑い。


「私があなたを夫にするって決めたのに?」


 言い切って、指を握り直す。

 握る力は強くない。

 でも外れない。

 外れない程度の力で、ずっと繋ぐ。


「――置いていくわけないでしょ」


 それは慰めじゃない。

 宣言だ。

 指輪より重い、言葉の現実。


 シャルロットは立ち上がり、扉へ向かう。

 現実を迎えに行く。

 でも、背中は一人じゃない。


 指先に残った彼の温度が、鎖みたいに確かだった。

 鎖は縛るためじゃない。

 “帰る場所”を忘れないための印だ。


 扉の向こうにあるのが、たとえどんな内容の手紙だとしても。

 どんな言葉が紙に刺さっていたとしても。


 ――私は、戻ってくる。

 彼のところへ。

 彼の“夫”を、私の手で現実にするために。



ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


この話は、

救いの物語ではありません。


誰かを正しくする話でも、

間違いを裁く話でも、

優しい世界を約束する話でもありません。


それでも、

それでも人は、誰かと生きてしまう。

その事実だけを書きたくて、ここまで来ました。


シャルロットは、軽い言葉を選びません。

エルも、簡単に信じることをしません。

二人とも、優しくなる方法を知っていて、

あえてそれを使わない人間です。


だからこの関係は、重い。

安心より先に、覚悟が来る。

慰めより先に、現実が来る。


でも――

だからこそ、逃げなかった。


「守る」という言葉が刃になる世界で、

「大丈夫」という言葉が人を壊してきた世界で、

それでも生きることを選んだ人間の話です。


この先、楽にはなりません。

世界は相変わらず動きます。

外からのノックも、止まりません。


それでも彼らは、

戻ってくる場所を選びました。


もしこの話を読んで、

救われたとは言えないけれど、

置いていかれなかったと感じてもらえたなら。


その感覚こそが、

この物語が差し出せる、唯一の答えです。


最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

この先も、重いまま続きます。

それでもよければ、また一緒に歩いてください。


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