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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
シャルロット編

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79.『何も起きない日の、影』

 

 灯りは落としていた。

 それでも部屋は暗くならない。シャルの部屋は、闇を「置いておく」ことを許している。屋敷の闇みたいに、息を奪うためにあるものじゃない。

 薄いランプの光が壁の模様をやわらかく撫で、火の気のない暖炉の前でも空気は冷えきらない。毛布は整えられているのに、整えられた冷たさがない。人が暮らすための、温度がある。


 帰ってきた瞬間から、エルは考えることをやめたかった。

 思考が動き出したら、またあの廊下の冷たさが胸の内に入り込んでくる。母の声が、屋敷の語彙が、正しさの刃が、すべてを“整えて”しまう。

 整えられる前に、自分が自分でなくなる前に、息をする場所を確保しなければならない。


 だから、身体の方を先に動かした。


 名前を呼ぶより先に。

 言い訳を置くより先に。

「ただいま」のかわりに、熱を求めた。


 触れられる温度が欲しかった。

 生きている証が欲しかった。

 この身が今ここにいることを、頭じゃなく皮膚で確かめたかった。


 シャルの指先。呼吸。体温。髪の匂い。

 それらに触れている間だけ、世界が屋敷じゃなくなる。

 屋敷に戻る言葉を、いったん全部、口の中で溶かせる。


 シャルは驚いたはずだった。

 急すぎる帰還も、乱れた呼吸も、目の焦点も――全部。

 それでもシャルは、立ち上がって何かを言う前に、まず一歩だけ退いて、そして静かに腕を広げた。

「落ち着いて」でも、「大丈夫」でもなく。

 ただ、入っていい場所を作る仕草だった。


 エルはそこに飛び込んだ。


 強く抱き寄せてしまって、シャルが「痛い」と言った。

 その一言で、ようやく力加減を思い出す。

 ――痛い、と言える。

 痛いと言っても、関係が壊れない。

 屋敷の空気なら、それは「乱れ」に分類され、すぐに処理される。ここでは違う。


 言葉はほとんどなかった。

 あるのは、呼吸の音と、肌が擦れる音と、布が落ちる音だけ。

 何かを説明するより先に、熱を重ねてしまいたかった。

 逃げだと自覚している。それでも逃げる。

 逃げることで、やっと生き延びられる夜がある。


 “描く”必要はない。

 ここで大事なのは行為じゃない。逃避の温度だ。


 エルはただ、何も考えたくなくて、シャルを求めた。

 シャルは拒まなかった。

 受け止めた。

 受け止めた上で、飲み込まれないように、ちゃんと息をさせてくれた。

 抱きしめながら、耳元で小さく息を吐き、時折、指先で背中をなぞり、エルの呼吸が崩れるたびに「ここにいる」と伝えるように、肩口に口づけを落とした。


 それは慰めではない。

 管理でもない。

 ただ、帰還のための合図だ。


 ♢


 どれくらい時間が過ぎたのか分からない。

 気づけば二人とも裸のまま、同じ枕を挟むように横になっていた。


 シーツの皺は乱れている。

 置かれたカップの茶は冷めてしまっている。

 けれど部屋の空気は冷えなかった。シャルが、エルの背中に腕を回したままだからだ。


 エルは天井を見ていた。

 目を閉じれば、屋敷が戻ってくる気がした。

 目を開けていれば、ここが現実だと分かる。

 現実が怖い。だけど、今は現実の方が救いだ。


 シャルが、頬をエルの肩に寄せる。

 呼吸が首筋に触れて、くすぐったい。

 くすぐったさがある、というだけで胸が緩む。屋敷にはくすぐったさがない。あっても、すぐ消される。


「……そんなに、つらいことあった?」


 問いは柔らかい。

 答えを要求してこない。

 “はい/いいえ”で終わる逃げ道が最初から用意されている。


 それが、エルには救いだった。


「……うん」


 声が掠れた。

 掠れても、恥にならない。

 ここでは、弱さは処理されない。


 シャルの腕が少しだけ強くなる。

 抱きしめられるというより、支えられる感覚。


「……ごめんね」


 シャルが言った。


「謝ることじゃない」


 エルは反射で返して、すぐに唇を噛む。

 屋敷の癖だ。言葉の秩序を整えてしまう癖。


 シャルはそれを責めない。

 ただ、静かに続ける。


「ねえ。……なんで、お母さんに怒鳴っちゃったの?」


 エルの胸の奥が、きしんだ。

 あの部屋の空気が、一瞬だけ戻る。

 母の目。言葉。守る、守る、守る――。


 エルは喉を鳴らした。

 名前を出すだけで罪悪感が蘇る。

 罪悪感は、屋敷へ引き戻す鎖だ。


 でもシャルは、鎖を引かない。


「言いたくなかったら、言わなくていいよ」


 すぐに付け足す。

 逃げ道を先に置く。

 その優しさは“整理”じゃない。温度だ。


 エルは息を吸った。

 吸った息が震えた。

 震えても、止めなくていい。


「……隠したくない」


 エルは言った。自分でも驚くほど、幼い声になった。


「シャルには……僕のこと、全部知っててほしい」


 シャルの指が、エルの肩の上で少しだけ動いた。

 驚き。戸惑い。怖さ。

 それでも手を離さない決意。


「……うん」


 シャルは頷いた。


「全部、聞く」


 短い言葉。

 短いからこそ、約束に近い。


 続けて、シャルは息を吸う。

 その呼吸は、逃げるための息じゃない。

 受け止めるための息だ。


「……聞いた上で、私が決める」


 エルの呼吸が止まる。

 残酷なはずなのに、救いだった。

 裁かれるんじゃない。選ばれる。

 屋敷の正しさじゃなく、シャル自身の意思で――エルを受け取るかどうかを決める。


 その重さが、エルの中の“軽く済ませたい癖”を許さなかった。

 軽く済ませたら、また同じ形で壊れる。

 だから、正面から言うしかない。


 エルは目を逸らさなかった。

 逸らしたら、逃げになる。

 逃げることが悪いわけじゃない。

 ただ、シャルの前でだけは――逃げたまま終わりたくない。


「……ありがとう」


 声が掠れる。

 掠れても、この部屋はそれを罪にしない。


「順番に話す」


 エルは言った。

 まず、いちばん深い影から。

 誤解されたら一番痛いところから。


 ♢


 エルはしばらく黙っていた。

 話し始めたら止められないと分かっていたから。

 言葉にした瞬間、過去が現在に混ざる。混ざれば、息が苦しくなる。


 それでも、口が動く。

 言葉が、ぽつりぽつりと落ちていく。


「僕は……元々この世界の人間じゃないんだ」


 シャルの体が、わずかに強張った。

 でも、声は揺れない。


「……どういうこと?」


 エルは一度だけ目を閉じた。

 頭の中で、別の空が開く。

 匂いの違う空気。音の違う街。

 剣も魔法もない代わりに、意味の分からない速度で動くものがある世界。


「僕は一度……死んでる」


 シャルが息を止める。


「前の世界で。……それから、この世界に生まれ変わった」


「生まれ……変わった……?」


 シャルは、言葉を慎重に繰り返す。

 否定しないために。

 でも、信じるために急がないために。


 エルは続けた。


「前の世界は……剣も、魔法もなかった。

 代わりに、“道具”がすごく発達してた」


「道具……?」


「人を運ぶために、鉄でできた箱が道の上を走ってた。

 それに乗ると、どこへでも行ける」


 シャルが眉を寄せる。

 想像できない顔だ。

 それでも、聞いている。


「空も飛べた」


「……空を?」


「鉄でできた……大きな鳥みたいなものが、空を飛ぶ。

 それに何百人も乗って、遠い国へ行ける」


 シャルの目が大きくなる。


「なに、それ……」


 エルは苦く笑った。

 軽さじゃない。諦めに近い笑いだ。


「分からないでしょ」


 そう言って、エルはふっと息を吐き、口の中で別の音を転がした。


『わかんないでしょ』


 ――日本語。

 この世界の音ではない。

 言葉の肌触りが、違う。


 シャルが固まった。

 耳で理解できないのに、意味だけが“問い”だと分かってしまうのが怖い。そんな顔。


「……いま、なんて言ったの?」


「“わかんないでしょ”って言った。

 僕が元々いた世界の言葉で……日本語っていう」


「に……ほんご……」


 シャルは、ゆっくり復唱する。


「嘘……ついてるわけじゃないんだよね?」


 声が震えている。

 震えても、離れない。


「妄想でも……ないんだよね?」


 エルは頷いた。


「うん。……僕の中では、全部現実だ」


 シャルは目を伏せ、しばらく沈黙した。

 整理している。

 でも、切り捨てるためじゃない。抱えるための整理だ。


 そして、顔を上げた。


「……話すと長くなる?」


「長くなる」


「……うん」


 シャルは小さく笑った。

 冗談じゃない。覚悟の笑いだった。


「じゃあ、長くてもいい。聞くよ」


 エルの喉が熱くなった。

 こんなふうに“聞く”と言ってくれる人を、前の人生で持ったことがなかった。


 ♢


「……僕は、昔から弱かった」


 エルは言った。

 弱い、という言葉が、屋敷の中では禁句だった。

 でもここでは言える。言っても、切り捨てられない。


「子どもの頃から、学校では……ずっといじめられた」


「……どうして?」


「分からない。

 目立つことをしたわけでもないのに、標的になった」


 シャルの指が、エルの腕をそっと撫でた。

 “続けていい”の合図。


「家に帰っても、安らげなかった」


 息が詰まる。

 喉の奥が痛い。

 痛いのに、止めない。止めたら、また“なかったこと”になる。


「家は……古い家だった。

 “家の名前”とか“体裁”をすごく大事にする家で……」


「……うん」


「僕はそこで、“家の恥”みたいに扱われた」


 シャルの手が止まった。

 言葉が刺さった証拠だ。


「怒鳴られた。殴られた。

 “ちゃんとしろ”って、毎日言われた」


 エルは、目を閉じた。

 閉じると、壁が近くなる。

 でもシャルがいる。呼吸が聞こえる。

 呼吸の音が、壁を少し押し返してくれる。


「家の人たちは、僕を“僕”として見てなかった。

 ただ、家の名前を継ぐための……部品みたいに見てた」


 シャルが、息を吐く。


「……苦しかったね」


 短い言葉。

 正解じゃない。整理じゃない。

 ただ、痛みを認める言葉。


 エルは少しだけ頷いた。


「学校でも家でも、逃げ場がなかった。

 それで……心が壊れた」


「……壊れたって」


「動けなくなった。

 朝起きられない。体が重い。呼吸が苦しい。

 そのうち、何も感じなくなる」


 シャルの声が小さくなる。


「……それで、どうしたの?」


「病院っていうさ……この世界で言う治療院みたいな所に連れて行かれた。

 そこで……僕に名前がついた」


「名前……?」


「“ひどく落ち込んでる状態”っていう名前。

 それが貼られた途端、僕は“病気の子”になった」


 シャルが唇を噛む。

 怒りを飲み込んでいる顔だ。


「薬が出た。たくさん。

 飲むと、眠くなる。体が動かなくなる。

 それでも“大人は安心した”。

 “治療してる”って形ができたから」


「……形」


「うん。形。

 形ができると、みんな安心する。

 でも、僕は苦しくなる」


 シャルが、エルの指先を握る。

 握ることで、「今」の温度を渡すみたいに。


「それからも、状況は変わらなかった」


 エルは続けた。

 言葉は淡々としているのに、胸の中は熱い。


「場所を変えても、人は変わらなかった。

 “ちゃんとしろ”って言われるほど、ちゃんとできなくなった」


「……助けてくれる人はいなかったの?」


 シャルの問いが震える。

 震えるのに、目を逸らさない。


 エルは首を振った。


「いた。……でも、僕を抱えた人も壊れた」


 叔母の話。

 拾われて、支えられて、けれど支えた側も追い詰められて、やがて追い出される。

 どこへ行っても、居場所は仮のものだった。

 仮の場所で生きるほど、人間はうまくできていない。


「……それでも僕は、生き延びた」


 生き延びた、という言葉が自分の口から出て、エルは苦く笑った。

 それは誇りじゃない。

 ただ、死に損ねただけの時間だった。


 ♢


「それで……僕は、一人になった」


 エルは天井を見たまま言った。


「誰にも期待されなくて、誰にも望まれなくて……

 ただ、生きてるだけの人間になった」


「……生きてるだけって」


「生きていても仕方がないと思ってた。

 でも、死ぬ勇気もなかった」


 シャルの声が掠れる。


「……じゃあ、どうやって」


「“助けを求める場所”を見つけた」


 エルは説明した。

 この世界に“自立支援センター”などという概念はないかもしれない。だから言い換える。


「困ってる人が行くと、話を聞いてくれて、住む場所や……生きるための仕組みを教えてくれる場所。

 そして、国の決まりで、最低限の暮らしを支えてくれる」


「……国が?」


「うん。

 食べるためのお金が出たり、家が借りられたりする」


 シャルは信じられない顔をする。

 でも、否定しない。


「そんな……世界があるの」


「ある。

 でも、優しいだけじゃない。

 僕は、その仕組みに支えられて……ただ、時間だけが過ぎた」


 エルは息を吐く。


「薬を飲んで、眠って、起きて、また飲んで。

 季節が変わっていくのを見てるだけ」


 シャルの指が強くなる。


「……それで、最後は?」


 エルは少しだけ間を置いた。

 死の話を、この温度の中に落とすのが怖い。


「……ある日、もう動けなくなった」


 ぽつり。


「食べられなくなって、治療院にも行けなくなって……

 気づいたら、誕生日が来てた」


 シャルの呼吸が止まる。


「二十七歳になって……そのまま、眠った。

 目が覚めなかった」


 言い終えた瞬間、エルの喉が鳴った。

 涙じゃない。

 でも、もう涙の手前だ。


 シャルは、何も言わなかった。

 “かわいそう”も、“つらかったね”も言わない。

 言えば、それが“片付け”になると分かっているから。


 ただ、エルの手を握り直した。

 ぎゅ、と。

 力ではない。誓いの握り方。


「……そう、だったんだ」


 やっとそれだけ言う。

 それだけで十分だった。


 エルは、怖くて聞いてしまう。


「……幻滅した?」


 シャルが、すぐ首を振る。


「ううん」


 一拍置いて、息を吸う。


「……ちょっと、驚いてはいる。

 でも……幻滅じゃない」


 シャルはエルの顔を見た。

 逃げない目で、見た。


「エルが今ここにいることのほうが、私は……重い」


 重い。

 その言葉が、エルの胸をほどく。

 軽くしない。忘れない。誤魔化さない。

 受け止めるって、そういうことだ。


 ♢


 エルはゆっくり息を吐いた。


「……それでさ」


 言葉が続く。止まらない。

 止めたら、また屋敷へ戻ってしまう。


「僕は……この世界で、生まれ直したみたいなものなんだ。

 でも、前の人生の癖は残ってた」


「癖……?」


「“守る”って言葉が怖い」


 シャルが目を伏せる。

 伏せたのは、理解しようとしているからだ。


「守るって言われると、僕は……黙るしかなくなる。

 守るって言われると、正しい子でいるしかなくなる」


 シャルの指が、そっと胸に触れた。

 心臓の上。

 そこに“いまここ”を繋ぎ止めるみたいに。


「昨日、屋敷で部屋に母さんが来た」


 エルは続ける。


「母さんは悪くない。

 母さんは……母さんなりに、僕を心配してる」


 言葉が揺れる。

 揺れるのを、シャルがただ聴く。


「でも、屋敷の空気が混ざる。

 心配の言葉が……屋敷の言葉になる」


「屋敷の言葉……」


「節度。手順。擦り合わせ。

 “正しい形”にする言葉」


 エルは目を閉じた。

 あなたなら大丈夫。守るものが増えた。休めてる?

 善意の形をした刃。正しさの刃。


「母さんが言ったんだ。

 “あなたを守りたいだけなの”って」


 シャルが小さく息を呑む。


 エルは、昨日言えなかった続きを、ここで言う。


「守る、守る、守る……!」


 声が震える。

 怒鳴るのとは違う。崩れる震えだ。


「その“守る”が今まで――僕の何を守ってくれたんだ!」


 シャルが目を見開く。

 でも、離れない。


「守るって言葉で、僕はずっと……片付けられてきた。

 守るって言葉で、僕の怒りも、悲しみも、全部“正しく整えられた”」


 シャルの指が、エルの手を強く握った。


「だから、母さんに怒鳴った。

 ……シャルを、“便利な答え”にされたくなかった」


 シャルは眉を寄せる。

 責めじゃない。理解しようとしている皺だ。


「……私のこと、便利な答えに?」


「“シャルがいるでしょう”って言われた」


 エルは苦く笑う。


「それで全部終わるみたいに。

 僕の痛みが、シャルで片付くみたいに」


 シャルの目が揺れた。

 怒りと悲しみが混ざる。


「……片付けない」


 シャルは低い声で言った。


「私は、あなたの痛みを片付けない。

 私で終わらせない」


 その言葉が、エルの胸を打つ。

 守るでも、大丈夫でもない。

 ここにいていい、という宣言だ。


 ♢


 エルは続けようとして、いったん言葉を飲み込んだ。

 喉の奥で、屋敷の空気がまだ固まっているみたいだった。

 言葉にした瞬間、それが刃になる。だから、順番を間違えたくなかった。


 シャルは、急かさない。

 ただ、エルの指を握り直した。

 握り直し方が、確認じゃなくて“支え”だった。


「言いたいことがあるなら、言って」


 優しいのに、甘やかしじゃない。

 逃げ道を置いたうえで、逃げない目で見てくれる声。


 エルは息を吸って、吐いた。胸の奥が痛んだ。


「……僕のそばにいた人の話をする」


 シャルのまつげが揺れた。

 “他の女”として受け取らないように、彼女は一瞬で自分を抑える。

 けれど抑えた痛みは消えない。消えないまま、ちゃんとここに置く。


「……うん」


 短い返事。

 短いからこそ、重い。


 エルが続けようとした瞬間、シャルが先に言った。


「ね、エル」


 名前を呼ぶ。

 名前を呼ぶだけで、空気が「私たち」の方へ寄る。


「聞いて、私が壊れそうになったら……言う」


 エルが息を止める。


「怒鳴らない。責めない。

 でも、泣くかもしれない。嫉妬もする。

 それでも――逃げない」


 シャルの声は震えている。

 震えていても、背中の腕はほどけない。


「だから、話して。

 全部聞いた上で、私が決める」


 エルの胸の奥が、熱で痛む。

 怖い。

 でも、怖いことを一緒に抱えるのが“家族”の入口だと、初めて思えた。


「……ありがとう」


 声が掠れる。

 掠れても、シャルはそれを愛おしむように指先を絡める。


「順番に話す」


 エルは言った。

 まず、いちばん深い影から。

 誤解されたら一番痛いところから。


 ♢


「リィナのことから」


 シャルが、静かに頷く。

 続きを促すための頷き。


 エルは、一度だけ視線を落とした。

 落とした視線の先には、何もない。なのに、そこに彼女がいる気がした。


「リィナは……この世界の言葉で、たぶん“白子しろこ”って呼ばれる」


「……白子?」


「髪も肌も、まるで光みたいに白い。

 瞳の色も薄くて……陽に弱かった」


 エルは自分の言葉が“説明”になりすぎないように気をつけた。

 リィナは図鑑じゃない。記憶だ。痛みだ。

 目を細めて笑う癖。言葉を飲み込む癖。寒い日に指先をポケットに隠す癖。

 そういう細部が、胸の奥をいちいち刺す。


「前の世界なら、そういう体質を“アルビノ”って呼ぶ」


 シャルが聞き慣れない音を反芻する。


「ある……びの」


「……うん。

 綺麗な言葉に聞こえるかもしれないけど、リィナはそのせいで、ずっと生きづらかった」


 笑っても、世界は優しくならない。

 優しくならないから、笑う。

 そんな笑い方をする人だった。


「それだけじゃない」


 エルの声が少しだけ低くなる。

 低いのは怒りじゃない。崩れないように支えるための声だ。


「治らない病気を持ってた。

 薬を飲んでも、祈っても、時間が稼げるだけの……そういう病気」


 シャルが息を止める。


「……リィナは、その病気のせいで……」


「うん」


 エルは頷いた。

 頷いた瞬間、喉が痛んだ。


「……僕は、リィナを愛してた」


 言い切るのが怖かった。

 でも、ここを曖昧にしたら、シャルの中に“よくある嘘”が入り込む。

 エルはそれが一番嫌だった。


「愛してたし……今も引きずってる」


 シャルの肩がほんの少しだけ揺れた。

 痛い。けれど逃げない。

 その痛みを“綺麗”にしないために、シャルは小さく息を吐く。


「嫉妬、していい?」


 責めるためじゃない。

 自分の感情を隠して“正解”にしないための言葉だ。


 エルは、泣きそうに笑った。


「……していい」


「じゃあ、する」


 シャルはそう言って、それ以上は言わなかった。

 嫉妬を武器にしない。エルを縛る道具にしない。

 ただ、ここに置く。ここに置いたまま、手を離さない。


 エルの胸が、少しだけほどけた。


「……リィナの最期を、僕は看取った」


 シャルが、ゆっくり息を吐く。


「ちゃんと、そばにいたの?」


「いた。……逃げたくても、逃げられなかった」


 エルは声を掠らせた。


「最後、リィナは……笑ったんだ。

 僕が泣かないように、って顔をして」


 優しさは、時々、刃になる。

 泣いていいと言われるほど、泣けなくなる。

 守ると言われるほど、黙るしかなくなる。

 世界はそういうふうにできている。


「葬儀のとき……涙が止まらなかった」


 言った瞬間、エルの目の奥が熱くなる。

 でも泣かない。ここで泣いたら、リィナの影に溺れる。

 溺れたら、シャルの手を離してしまう。


「僕はそこで、壊れたんだと思う」


「……壊れたって」


 シャルの声がかすかに震える。


「うん。

 心が動かなくなった。

 動くと痛いから、動かさない方法ばかり探した」


 シャルは唇を噛み、頷いた。

 その頷きが、次の話を受け止める覚悟になっている。


 ♢


「次は……メイリスの話」


 エルがそう言ったとき、シャルの表情が変わった。

 鋭さが混じる。独占欲が、隠れない形を取り始める。

 でもそれは攻撃ではない。確認だ。

 自分の心が壊れないための、確認。


 シャルは、息を整えてから言った。


「噂で聞いてる。……あなたが彼女を、都合よく扱ったって」


 エルの胸が痛む。

 痛むのは、その噂が完全な嘘じゃないからだ。

 嘘じゃない部分があるから、今まで言えなかった。


「……違う」


 エルは、すぐに否定した。

 強く、でも乱暴にならないように。


「少なくとも……“使い捨てた”つもりは一度もない」


「じゃあ、どうだったの」


 シャルの声は震えている。

 震えているのに、目を逸らさない。

 その視線が、エルに“逃げ道”ではなく“出口”を作る。


 エルは、ここで逃げたくなる自分を殺した。

 シャルにだけは誤解されたくない。

 それは、エルの中で誓いみたいになっていた。


「当時の僕は……戦場にいた」


「戦場?」


「うん。

 死が近い場所。

 考えなくて済む場所」


 シャルの眉が寄る。怒りではなく、理解のための皺だ。


「あなたは、そこで……考えないようにしてたの?」


「してた。

 しないと、壊れると思った」


 エルは言った。

 壊れるのが怖いのに、壊れていることを認めるのがもっと怖い。

 だから、壊れていると感じない場所に自分を置く。

 死が近い場所は、感情の順番が狂う。狂うから、痛みが見えなくなる。

 見えなくなるのが、救いだった。


「メイリスは、その頃から僕のそばにいた。

 子どもの頃から一緒で……当たり前すぎて、説明できないくらいに近い存在だった」


 シャルの目が揺れる。

 揺れは傷だ。

 でも傷を隠さない。隠したら“正解”になってしまう。


「……それで」


「僕は、壊れたまま戦ってた。

 たぶん、周りから見れば、死にに行ってた」


 シャルの手が強くなる。

 止めたいのに止められない握り方。


「メイリスは、それを見ていられなかった」


 エルは喉を鳴らして、続ける。


「だから彼女は……自分を差し出した」


 シャルの目が鋭くなる。

 次の瞬間、それが痛みに変わる。

 独占欲が、どうしようもなく疼く。


「あなたを止めるために?」


「……たぶん、そう」


「あなたは……受け取ったの?」


 エルは頷いた。逃げない。


「受け取った。

 ……甘えた」


 言った瞬間、シャルの頬を涙が伝った。

 声を荒げない。怒鳴らない。

 ただ、耐えるように瞬きをする。


 エルの胸が締めつけられる。


「ごめ――」


「言わないで」


 シャルが遮った。

 小さい声なのに、強い。


「謝らないで。

 それ、あなたの癖。……痛いところを、すぐ“ごめん”で塞ぐ」


 エルの喉が詰まる。


 シャルは涙を拭わずに続けた。


「続けて。全部聞くって言った。

 ……だから、逃げないで話して」


 その“逃げないで”が、鋭くて、泣きそうなほど優しい。


 エルは息を吸う。


「周りから見れば、都合よく利用したんだろう。

 僕自身も……そう見えるのは分かる」


「……好きだったの?」


 シャルの声が震える。

 答え次第で壊れることを、自分で分かってる震え。


「“愛”ではない」


 エルはきっぱり言った。

 嘘をつかない。曖昧にしない。


「でも、“特別”ではあった。

 幼い頃から一緒で……僕の一番弱いところを見た人間のひとりだから」


 シャルは目を閉じた。

 閉じて、開いて、まっすぐエルを見る。


「……あなたの弱いところは、私が一番にしたい」


 言い方が、もう縋りだった。

 強がりじゃない。祈りに近い。


 エルの胸が痛む。

 痛むからこそ、言わなければならない。


「……大事なことがある」


 エルは言った。


「僕は、性に逃げる癖がある」


 シャルの呼吸が止まる。


 エルは続けた。

 言い訳にしないために、言葉をまっすぐにする。


「前の人生のときから、そうだった。

 触れてないと、心が落ち着かないみたいになる。

 考え始めると、壊れそうになる。

 だから、考えない方へ逃げる」


 シャルの目から、また涙が落ちる。

 怒りじゃない。

 あなたがそんなふうに生きてきたことへの痛みだ。


「……それって」


「病気だと思う」


 エルは言った。


「“性依存症”っていう。

 都合のいい言葉に見えるかもしれない。

 僕も……そういう言葉で逃げてた」


 シャルの唇が震える。

 震えて、次の瞬間――


「やだ」


 シャルが、初めて感情を噴かせた。


「そんなの、やだ……!」


 声は荒れない。けれど必死だった。

 胸の奥を抉るみたいな“やだ”だった。


「あなたが、そうやって壊れそうになるのも、

 壊れないために誰かに縋ってきたのも、

 ……全部、やだ」


 エルの呼吸が止まる。


 シャルは泣きながら、でも目を逸らさずに言う。


「それでも、私のところに帰ってきて」


 命令じゃない。願いだ。

 独占欲が、刃になる一歩手前で、祈りに変わった言葉。


「逃げたくなったら、私に逃げて。

 壊れそうなら、私のところで壊れて。

 ……お願いだから、あなたを一人にしないで」


 エルの視界が滲む。

 守るじゃない。

 整えるでもない。

 ただ、帰還を求める声。


 エルは震える息で言った。


「……不思議に思わない?」


 自分の告白を続けるしかない。


「僕が……君を、毎晩君が気絶するまで求めること」


 シャルは涙を落としたまま、頷いた。


「……思う。

 でも、今は責めたいんじゃない。知りたいだけ」


 エルは、息を吸って言った。


「そうしないと……おかしくなりそうになるからだよ」


 シャルが、ぎゅっと目を閉じる。


「シャルのせいじゃない。

 君が魅力的だから、だけでもない。

 僕の壊れ方が、そこに繋がってる」


 エルはシャルの手を握り返した。


「でも」


 ここが、一番大事だ。


「だからって、君を道具みたいにしたいわけじゃない」


 シャルが目を開ける。

 涙で濡れた瞳が、まっすぐエルを刺す。


「君は……僕の帰る場所だ」


 声が揺れる。

 揺れは嘘じゃない。生身だ。


「メイリスの話をしたのは、君にだけは誤解してほしくないから」


 シャルが、鼻を鳴らすように笑ってしまう。泣きながら。


「誤解、しない」


 でもすぐ、真顔に戻る。


「……しないようにする。

 その代わり、あなたも逃げないで。私の前から」


 エルの胸が熱くなる。


「メイリスを僕から引き剥がしたのは……あの家だ」


 エルは言う。


「屋敷が、手順と節度で、全部を形にして。

 彼女の気持ちも、僕の壊れ方も、“処理”した」


 シャルの眉が寄る。

 今度は明確な怒りが灯る。


「……あなたが彼女を捨てたんじゃない、ってこと?」


 エルは頷く。

 でも、それで自分を免罪しない。


「……僕にも罪はある」


「うん」


 シャルが頷く。

 肯定じゃない。受け止めだ。


「甘えた。逃げた。

 都合よく受け取った。

 だから、周りがそう言うのも分かる」


 そして、最後に。


「でも、ひとつだけ確かなのは」


 エルはシャルを見た。


「僕が今、選んでるのは君だけだってことだ」


 言い切る。逃げない。

 曖昧にしない。


「君を、僕の帰る場所にしたい。

 だから……全部話したかった」


 ♢


 シャルは、長い沈黙のあとで、息を吐いた。

 泣いたせいで少し赤い目のまま、笑った。


「……分かった、とは言わない」


 その言葉に、エルの胸が震える。

 “分かったふり”が一番怖いのを、シャルは知っている。


「でも、聞いた。全部、聞いた」


 シャルはエルの手を持ち上げ、指先に口づけた。

 印ではない。所有でもない。

 “ここにいていい”の確認だ。


「私が決めるって言ったよね」


 エルが小さく頷く。


 シャルは涙の跡を残したまま、はっきり言った。


「……決めた」


 エルの喉が鳴る。


「逃がさない」


 独占欲の言葉。

 でも、それが刃にならない。

 シャルが言うと、それは“居場所の宣言”になる。


「あなたが壊れても、整えたりしない。

 あなたが怖がっても、“大丈夫”って言って封じたりしない」


 エルの目が熱くなる。


「ただ、帰ってきて。

 あなたが帰ってくる場所として、私がここにいる」


 そして、シャルは一瞬だけ言葉を選ぶ。

 重さを、正しく重くするために。


「……でも」


 シャルはエルの目を見た。


「あなたが“嫌だ”って言うなら、私は止まる。

 それだけは約束する」


 その一言で、重さが刃から誓いに変わる。

 逃げ道があるから、逃げなくていい。

 選べるから、縛られない。


 エルの胸の奥が、ほどけて、痛んだ。


「……うん」


 その返事は、誓いだった。


 ♢


 沈黙が落ちる。

 ただの無音ではない。

 触れ合った肌の熱がまだ残っていて、呼吸の余韻が消えきらないままの、温度を持った沈黙だった。


 夜は深い。

 けれど、この部屋は暗くない。

 ランプの柔らかな光が、二人の影を壁に溶かしている。


 エルは分かっていた。

 ここまで話してきたのは、この言葉を言うためだったのだと。


 逃げるためじゃない。

 縋るためでもない。


 ただ――正直になるため。

 これを言わずに、シャルのそばにいる資格はない。


「……もう、正直に言う」


 掠れた声だった。

 それでも、逃げなかった。


 シャルが、息を呑む。

 驚きではない。

 “来る”と分かっていた言葉を、真正面から受け止めるための呼吸だ。


 エルは続ける。

 一気に言わない。

 一言ずつ、胸の奥から拾い上げるように。


 屋敷の言葉じゃない。

 正しさで整えた言葉でもない。


 ただ、自分の言葉で。


「今まで……言葉にしてこなかったけど」


 一拍、間を置く。

 心臓の音が、やけに大きく聞こえる。


「僕は、シャルロット・ヴァルシュタインという女性を……心から、愛してる」


 シャルの睫毛が震えた。

 必死に瞬きを堪えているのが分かる。


「君はもう……僕にとって、なくてはならない存在になってしまった」


 “なってしまった”という言い方は、逃げではない。

 抗えなかったという告白だ。

 理屈でも、責任でもなく、感情が先に辿り着いてしまったという真実。


「君のことを……僕の帰る場所だって、思ってる」


 その瞬間、シャルの目から一粒、涙が落ちた。

 音はしない。

 けれど、その一粒で、部屋の空気が決定的に変わった。


 エルは止まらない。

 止めたら、もう言えなくなる。


「君の……重いところも」


 シャルが、わずかに笑う。

 自嘲じゃない。理解の笑み。


「独占欲が果てしなく強いところも」


 シャルの喉が小さく鳴る。


「顔も、声も、その体も、心も……」


 エルの声が震え始める。

 でも、逃げない。


「髪の先から、つま先に至るまで……」


 呼吸が乱れる。


「僕は、君のことを……愛してしまっている」


 シャルは泣きながら笑った。

 嬉しさと、怖さと、救われてしまう予感が混ざった、壊れそうな笑顔だった。


「君になら……」


 エルは、一度だけ言葉を探した。

 そして、選んだ。


「殺されたっていいとすら、思ってる」


「エル……!」


 シャルの声が、悲鳴に近くなる。

 慌ててエルの頬に触れる。

 触れても、ここでは刃にならない。


「そんなこと……言わないで」


 震えながらも、手は離さない。


 エルは、子どもみたいに続ける。


「大好きなんだ……君のこと」


 声が崩れる。


「もう離したくない。どこにも行かせたくない」


 涙が溢れる。


「ずっと……ずっと、そばにいてほしい」


 泣きながら言う。

 ここでは、泣くことは罪じゃない。


「君のおかげで、僕は未来を考えるようになった」


 エルは、泣き笑いになる。


「結婚すること、子どものこと……君との人生」


 その言葉を口にするだけで、胸が熱くなる。


「過去に囚われてばかりの僕に……一歩踏み出す勇気をくれた」


 エルはシャルの肩に額を押しつける。


「未来をくれた。……全部、全部、君のおかげだ」


 嗚咽混じりの声で、最後に言う。


「愛してる。シャル……愛してるんだ」


 ♢


 シャルの涙が止まらない。

 止めない。止める必要がない。


 シャルは何度も頷きながら、エルを強く抱きしめた。

 逃がさない抱き方だった。

 でも、潰さない抱き方でもあった。

 ――壊れないように抱きしめる、という矛盾を、彼女は体温でやってのける。


「……うん」


 何度も、何度も。


「私も……愛してる」


 声は震えている。

 それでも、言い切る。


「エルのこと。誰にも渡したくない」


 エルが、小さく笑う。

 笑ってしまうほど、救われてしまった。


「私だけのエルでいてほしい」


 シャルは、泣きながら続ける。

 ここからは告白じゃない。

 選び続ける覚悟の宣言だ。


「ね、エル」


 名前を呼ぶ声が、やけに優しい。


「私は……あなたの過去に勝てない」


 エルの胸が痛む。


「あなたが受けてきたもの全部を、なかったことにはできない」


 逃げない。

 綺麗事にしない。


「でもね……」


 シャルは、エルの指を握り、自分の胸に当てた。

 心臓の上。


「勝つ必要はないって、分かった」


 涙の中で、笑う。


「私が欲しいのは……あなたが帰ってくる先」


 エルの呼吸が詰まる。


「あなたが怖がっても、泣いても、壊れても」


 指に力がこもる。


「その全部を抱えたまま、私はあなたと生きたい」


 涙のまま、はっきり言う。


「だから――結婚して」


 エルが息を止める。


 シャルは、首を振らない。

 逃げ道を与えない“重さ”を、自分で選んで口にする。


「お願いじゃない」


 一拍。


「決定」


 エルの喉が鳴る。


「エルは、私の夫になる。私の家族になる」


 そして、シャルは言葉を重ねる。

 重ねるのは脅しじゃない。

 自分の欲しい未来を、はっきり言うためだ。


「あなたが夜を怖がっても、私は寝る前に抱きしめる。

 あなたが言葉を失っても、私は黙って隣にいる。

 あなたが過去に引きずられても、私は一緒に引きずる」


 涙が頬を濡らすまま、笑う。


「あなたのこと、独りにしない。

 独りにさせない。

 ……私のわがままだよ。分かってる。

 でも、わがままでもいい。私は欲しい」


 エルの胸が、熱で苦しくなる。


「あなたが私だけを見てくれる証が欲しい、って言ったら……嫌いになる?」


 シャルが言う。

 試す言い方じゃない。怖がりながら差し出す言い方だ。

 嫌われるのが怖いのに、欲しいと言わずにいられない。


「……嫌いにならない」


 エルがかすれた声で言うと、シャルは泣きながら笑った。


「じゃあ、言うね」


 シャルはエルの頬を両手で包む。

 逃げられない距離。

 でも、逃げたくならない距離。


「あなたの子ども、欲しい」


 言葉が、部屋に落ちる。

 落ちた言葉が、刃にならない。

 刃にならないように、シャルは続ける。


「“あなたの子どもなら何人だって”って言うと、重すぎるって顔するでしょ。

 でも……私は本気。

 あなたが寂しくならないように。

 あなたが帰ってきたとき、帰ってきたって分かるように」


 涙で濡れた目で、まっすぐ言う。


「家族になりたい。

 あなたの名字が欲しい。あなたの朝が欲しい。

 あなたが笑わない日も、全部、私のものにしたい」


 エルの喉が鳴る。


「……重いな」


 エルが小さく笑うと、シャルは泣きながら笑った。


「嬉しいでしょ?」


「……うん。嬉しい」


 その返事を聞いて、シャルの笑みがさらに濃くなる。


「ならいいじゃん」


 シャルはエルの頬に、そっと口づける。

 軽いのに、誓いみたいな口づけ。


「シャルロットは……もう、エルだけの女だよ」


「……ありがとう」


 エルの声が震える。

 震えは、幸せの震えだ。


 シャルは、エルを抱きしめ直し、耳元に唇を寄せた。

 甘く、でも逃げられない距離で囁く。


「ね、エル」


 エルが、黙って頷く。


 シャルは、泣いて、笑って、囁いた。


「エルの赤ちゃん……欲しいな」


 その一言で、エルの胸の奥が、静かに決まる。

 逃げ場じゃない。

 ここは、帰る場所だ。


 未来は怖い。

 怖いのに、欲しい。

 欲しいと思えることが、怖いほど救いだった。


 エルはシャルの肩に顔を埋めた。

 泣きながら、笑いながら、小さく言った。


「……うん」


 それだけで、十分だった。


 ♢


 しばらく、二人は何も言わなかった。

 言わなくても、壊れない。

 言わなくても、ここにいられる。


 シャルが小さく鼻をすすり、エルの髪を指で梳いた。

 その指は、整えるためじゃない。

 ほどけたものを、そのまま愛おしむための指だ。


「……ねえ、エル」


「……なに」


 シャルは少しだけ笑う。

 泣いたあと特有の、弱くて、強い笑い方。


「今夜のあなた、ずるい」


 責める声じゃない。

 甘える声だ。


「……ずるい?」


「うん。

 こんな告白されたら、私はもう……逃げられない」


 エルの胸がきゅっと鳴る。

 その鳴り方が、痛くない。

 痛くない痛みは、初めてだった。


「逃げないで」


 エルは、子どもみたいに言う。


 シャルが笑って、エルの額に軽く口づけを落とした。


「逃げない。

 ……だから、あなたも逃げないで」


 エルは頷く。

 頷いた瞬間、また涙が出た。

 涙は弱さじゃない。

 帰ってきた証だ。


 シャルは、泣くエルの背中を撫でながら、ゆっくり息を吐いた。


「おやすみ、エル」


 命令じゃない。

 区切りじゃない。

 明日もここにいるための、合図。


「……おやすみ」


 エルは返した。

 返せた。

 屋敷では言えなかった言葉を、ここでは言えた。


 影は残る。

 何も起きない日にだって、影は消えない。

 けれど、影の中でも手を握っていられるなら――


 それは、もう、闇じゃない。



ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

79話『何も起きない日の、影』は、派手な事件が起きる回ではありません。


けれど――

“何も起きない”というのは、平穏ではなく、むしろ「影が姿を変えて残る日」なのだと思っています。


人は、過去を捨てて生き直せるわけじゃありません。

痛みを忘れて前へ進めるわけでもない。

それでも、生きていく。


この回で描きたかったのは、エルが“強くなる”瞬間ではなく、

「弱いまま、帰ってきていい」と許される瞬間でした。


そしてシャルは、救済者でも、正しさでもなく、

“受け止める人”としてそこにいます。

相手を整えたり、矯正したり、分かったふりをして片付けたりしない。

泣いて、嫉妬して、揺れながらも――

それでも「帰ってきて」と言える人。


重い言葉は、ときに刃になります。

でも、刃にならない重さもある。

逃げ道を消して縛る重さではなく、

“居場所を固定する重さ”です。


エルにとって「愛」は、気持ちの良い言葉ではありません。

守られること、救われること、正しくされること――

そのどれもが、彼の過去の中では痛みと一緒にあったから。

だからこそ彼は、愛を語るのが下手で、言葉にするのが遅い。


それでも、言葉にした。

シャルの前でだけは、誤魔化さずに言った。

それが、79話の“事件”だと思っています。


何も起きない日の、影。

影は消えません。

でも、影の中でも手を握れるなら、

それはもう、闇じゃない。


次の話で、二人の世界はまた動きます。

その動きの中で、この夜の温度が、ちゃんと支えになるように。

そう願いながら書きました。


最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

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