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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
シャルロット編

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78/89

78.何も起きない日の、影-3

 

 夜の屋敷は、昼よりも静かだった。

 静かというより、音を許していない。


 風は吹いているはずなのに、窓の外で止められている。

 灯りは最低限。

 廊下の奥に人の気配はないが、完全な無人ではないと分かる程度の、薄い存在感だけが残っている。


 屋敷の夜は、眠りのためにあるのではなく、秩序を保つためにある。

 人間の休息ではなく、建物の都合。

 誰も声を立てない。誰も足を早めない。誰もため息を落とさない。

 落とした瞬間、拾われるからだ。拾われたものは、形を変えて戻ってくる。


 エルは自室の椅子に腰掛けたまま、剣に手を伸ばさずにいた。

 いつもなら、何も考えずに手入れを始めている時間だ。

 刃を磨き、油を引き、余分な思考を削ぎ落とす。

 そうやって、夜をやり過ごしてきた。


 今日は、それをしなかった。


 昼の会話が、遅れて身体に染み込んできている。

 言葉としてではなく、配置として。

 命令の内容ではなく、命令が置かれた“位置”として。


 半年。

 噂が均されるまでの時間。

 外の熱が冷めるまでの冷却期間。


 締める、という言葉が、まだ胸の奥に残っている。

 締める。

 結び直す。結び目を強くする。ほどけないように。ほどくつもりがないように。


 ――泊まる選択を、間違えたかもしれない。


 そう思った時、扉を叩く音がした。


 強くない。

 使用人のそれとも違う。

 躊躇いを含んだ、短い音。


「……起きてると思って」


 声を聞いた瞬間、身体が一瞬だけ軽くなる。

 それが危険だと分かっているから、エルはすぐに呼吸を整えた。

 軽くなる、という反応は、期待に近い。期待は、この屋敷では裏切りの形で回収される。


「どうぞ」


 扉が開く。

 ミレイユが立っていた。


 夜着ではない。

 かといって、社交用でもない。

 屋敷の中で“目立たない”ために選ばれた服。

 それは“母が息子に会いに来た”服というより、“屋敷の者が規律を乱さないための”服だった。


 彼女は中へ入ると、扉を閉めない。

 完全に遮断しないことで、この訪問が“私的すぎない”位置に留まる。

 廊下に音が漏れても困らないように。困るような会話はしない、と先に決めたような置き方。


 ミレイユは視線を一度、部屋の隅へ流した。

 目線の置き方が、屋敷の人間のそれだ。

 部屋の状態を確認する目線。

 整っているか、乱れていないか、余計なものがないか。


「眠れなかった?」


 確認ではない。

 詰問でもない。

 母の勘に近い声。


「……少し」


 エルはそう答えた。

 本当は、眠れるかどうかを考える余裕がなかった。

 眠れない、という言葉を出すことも、この屋敷では余計な情報になる。余計な情報は、余計な手当てを呼ぶ。手当ては管理に繋がる。


 ミレイユは頷き、部屋を見回す。

 整えられた室内。

 最低限の私物。

 剣が触られていないことにも、気づいただろう。


「剣……今日は」


 言いかけて、止める。

 止めるところが、母だ。

 止めることで、踏み込みすぎないようにしている。


「……手が、伸びませんでした」


 エルが答えると、ミレイユの眉がほんの少しだけ動く。

 その微かな動きが、母の心配であると分かるから、エルは視線を逸らしたくなる。逸らしたら終わりだ。母を見れば、子どもが出てくる。


 ミレイユは椅子に座らない。

 座れば長くなる。長くなれば、ここへ来た理由が濃くなる。

 理由が濃くなれば、屋敷の空気が嗅ぎつける。


「王都は……もう慣れた?」


 穏やかな話題。

 表層の会話。


「はい。生活自体は問題ありません」


「食事は?」


「……取っています」


 嘘ではない。

 ただ、必要な量を、必要な時間に、必要なだけ。

 味は覚えていない。覚えるほどの余裕がない。


「眠りも?」


「……それも」


 エルは短く答える。

 “眠れていない”とは言わない。言えば、次の質問が来る。次が来れば、こちらが崩れる。


 ミレイユはそれ以上踏み込まない。

 踏み込まないことが、優しさであると知っている人の振る舞いだ。

 その優しさが、逆に痛い。優しさは、触れられている感覚を連れてくる。


「……シャルロット様は、元気そう?」


 名前が出る。

 だが、敬称は落とさない。


「……はい。忙しそうですが」


「そう」


 一拍。

 間が置かれる。


「良い方ね」


 評価の言葉。

 悪意はない。

 だが、その“良い”は、人としての評価ではなく、立場としての評価に近い。


 エルは違和感を覚えたが、口には出さない。

 違和感を言葉にすると、ここで会話が“本題”へ引き寄せられる。引き寄せられた瞬間、母ではなく屋敷が話し始める。


「……はい」


 肯定しかできない。


「大変でしょう。あの立場は」


 その一言で、昼の言葉が重なる。

 任官。

 家として応じる。

 節度。

 擦り合わせ。


「……慣れています」


 エルは理性で返す。

 正解の答えだ。

 屋敷が求める“正しい息子”の答え。


 ミレイユは微笑む。

 その微笑みが、母のものだと分かるから、余計に胸が詰まる。

 母は、本当に喜びたいのだろう。

 息子が王都で役目を持ち、認められ、立派に振る舞っていることを。

 でも同時に、屋敷の中で喜びすぎるのは危険だと知っている。

 喜びすぎれば噂になる。噂になれば管理が来る。管理が来れば息子が削られる。


 だから笑みは小さい。

 小さい笑みは、長く続く。

 長く続くものほど、じわじわ刺さる。


「あなた、昔からそうだったわね」


 ミレイユは言った。


「大丈夫な顔をするのが、上手」


 上手。

 褒め言葉の形をしている。


 エルの喉が僅かに鳴った。

 反論したいわけではない。

 ただ、その言葉が“正しい”ことが嫌だった。

 上手、という言葉は、努力を褒めているようで、努力を固定してしまう。上手なら、これからもやれ、という意味が隠れる。


「……そう見えるだけです」


 言葉を選んで返す。

 反抗にはならない程度。

 でも、否定は置く。置かなければ自分が消える。


「背負いすぎている、とは思わない?」


 その言葉で、空気が少し変わる。

 背負う。

 立場。

 責任。

 昼間に聞いた単語と、重なりすぎている。


 ミレイユは“母として心配している”だけだ。

 分かっている。

 分かっているからこそ、その心配が屋敷の語彙に寄ってしまうのが怖い。


「……必要なことです」


 エルは短く答える。

 論理で包む。

 包めば、感情が漏れない。漏れなければ、ここでは安全だ。


「必要なこと、ね」


 ミレイユが繰り返す。

 繰り返しは、確認に見えて、刃になることがある。


「あなたが“必要”だと思っているのか……そう言わされているのか」


 言わされている。

 その言葉は、母の優しさだ。

 でも同時に、エルの内側を勝手に読み解こうとする言葉でもある。


「……母さん」


 呼びかけるだけで、声が少し揺れる。

 揺れたことに気づかれたくない。


「ううん、違うの。責めたいわけじゃなくて……」


 ミレイユは慌てる。

 慌て方が母だ。

 屋敷の人間は、慌てない。慌てるのは感情だからだ。

 だから、エルは一瞬だけ救われそうになる。

 救われそうになって、すぐに怖くなる。救いは借りになる。


「……分かってます」


 エルは言う。

 分かっている、と先に言えば、これ以上踏み込ませずに済む。

 それは防衛だ。


 ミレイユは小さく息を吐く。


「……守るものが、増えたのよ」


 その瞬間、胸の奥で何かが鳴った。

 音ではない。

 圧力が、少しだけずれた感覚。


「守る、という言葉は……」


 言いかけて、止める。

 まだ耐えられる。

 まだ、ここで壊れる必要はない。


「シャルロット様は、あなたにとって……大切でしょう」


 ミレイユの声が柔らかい。

 柔らかいほど危険だ。

 柔らかい言葉は“正しさ”に見える。正しさに見える言葉は、拒否しにくい。


「はい」


 エルは答える。

 短く。

 肯定だけ。

 具体を出せば、管理される材料になる。材料になれば、屋敷が触ってくる。


「……なら」


 ミレイユが少しだけ近づく。

 距離が縮まる。

 縮まる距離は、母のものだ。

 母の距離は、エルの中の子どもを起こす。


 ミレイユは、その危険を自分でも感じたのか、足を止めた。

 止めた位置が、絶妙に“母”と“屋敷”の間だ。


「あなたなら、大丈夫よ」


 ミレイユは、そう言った。


 信頼。

 愛情。

 母性。

 すべてが込められた言葉。


 だからこそ、エルの中で、防衛線がきしんだ。


「……大丈夫、というのは」


 声が低くなる。

 低くなるのは、怒りではない。

 感情が出ないように押さえる時の声だ。


「大丈夫じゃない時に、使われる言葉です」


 ミレイユは驚いたように目を見開く。

 驚くのは、母だ。

 屋敷の人間なら驚かない。驚かないまま整理に入る。


「エル……」


「違う」


 エルの声が、少しだけ荒れる。


「母さんは、心配してるだけだ。分かってる」


 理性が、まだ前に出ている。

 理性で橋を架ける。

 母に向かって怒りたくない。

 怒りたくないから、先に理解を示す。


「でも、“分かったつもり”で触られるのは……」


 言葉が、続かない。

 続ければ、本当のことが出てしまう。

 本当のことは、この屋敷で最も危険だ。


 ミレイユは言葉を探す。

 探す時間が長いほど、刺さる言葉が出やすくなる。

 母は、正しい言葉を言おうとしている。

 正しい言葉ほど、エルを壊す。


「……ちゃんと」


 ミレイユの声が小さくなる。


「ちゃんと、休めてる?」


 その一言で、均していたものが崩れた。


 休む。

 その単語は、善意の形をしている。

 善意の形をした刃。

「休むべき」という正しさを抱えた刃。

 正しさは、拒否しにくい。拒否できないものは、内側に刺さる。


「休むって、何ですか」


 声が、はっきりと荒れる。


「何をすれば“休んだ”ことになるんですか」


 ミレイユが口を開くより先に、エルの言葉が続く。

 続いてしまう。

 止められない。


「眠れば? 食べれば? 笑えば?

 それで“休めたね”って言われるんですか」


 息が熱くなる。

 熱くなると、声が尖る。

 尖った声は、屋敷の壁に跳ね返る。

 跳ね返った声は、より自分を追い詰める。


「立ち止まったら、次は進めって言われる。

 耐えたら、もっと耐えられるって評価される」


 ミレイユが何か言おうとする。

 だが、言う前にエルの言葉が上から被さる。

 被さるのは攻撃ではない。

 被さることで、母の言葉を聞く前に自分を守ろうとしている。


「“強いね”って言われるたびに、弱い場所が封じられる」


 ミレイユの目が揺れる。

 その揺れが、痛い。


「エル、落ち着いて――」


「落ち着いてる!」


 声が部屋に響いた。

 響いた瞬間、自分でも分かる。

 これは正解の態度じゃない。

 正解の態度を崩した時点で、屋敷の中では負けだ。


 でも、もう戻れない。


「ずっと、落ち着いてきた!

 泣かなかった。怒らなかった。

 正解の態度を取ってきた!」


 息が乱れる。

 乱れた息は、感情の証明だ。

 証明してしまうのが怖いのに、止まらない。


「屋敷で。騎士団で。王都で。

 ずっと、正解の顔をしてきた!」


 ミレイユが一歩近づく。

 近づきたいのだろう。

 抱きしめたいのだろう。

 母ならそうする。


 でもミレイユは、抱きしめない。

 抱きしめられない。

 抱きしめた瞬間、屋敷の空気に逆らう形になるからだ。


 その“できなさ”が、エルの胸をさらに締める。


「守るって言葉で縛られるのが嫌なんです」


 エルは言う。

 言ってしまう。


「守るって言えば、拒んだ方が悪くなる。

 守るって言えば、僕の選択が“義務”に変わる」


 ミレイユが唇を噛む。

 噛むところが母だ。

 でも、その痛みもまた、エルを救わない。


「僕は選んだ」


 短い言葉。

 短いほど本心だ。


「シャルを、僕の隣に置くって決めた。

 それを、手順とか節度とか擦り合わせとか――」


 昼の言葉が混ざる。

 混ざった瞬間、エルの表情が歪む。


「……“整える”って言葉で触られたくない」


 ミレイユが顔を上げる。

 その目が、母の目だ。

 だからこそ、次の言葉が怖い。


「エル……あなたを守りたいだけなの」


 その言葉で、エルの中の何かが切れた。

 切れたのは怒りではない。

 糸だ。

 ずっと張り続け、ほどけないように、ほどけないように、と自分で結び直してきた糸が、音もなく切れた。


「……守る?」


 エルの声が低くなる。

 低いまま、震える。

 震えは泣きではない。まだ泣けない。泣くには、この屋敷は冷たすぎる。


「ほら」


 エルは笑っていないのに、笑ったみたいな声になる。


「またそれだ」


「……何?」


「“あなたのため”って言葉」


 言葉が、冷たくなる。

 冷たくなるのは、感情を凍らせているからだ。凍らせないと崩れる。


「“あなたのためを思って”

 “守りたいだけ”

 “あなたなら大丈夫”」


 一つ一つ数えるみたいに言う。

 数えると、形になる。

 形になったものは、こちらを縛る。

 縛って、動けなくして、最後に「安心して」と言う。


「その言葉で、どれだけ僕は――」


 言い切れない。

 言い切れば、過去が全部開いてしまう。

 開いたら、この部屋が血で濡れるみたいに感じる。


 ミレイユが一歩、さらに近づく。


「エル、違うの。私は……」


「違わない」


 エルは首を振る。

 振ることで何かを否定しているのに、否定したい対象が多すぎて自分でも分からなくなる。

 屋敷か。父か。王国か。母か。自分自身か。


「母さんは悪くない。分かってる」


 言う。言ってしまう。

 分かってる、と言いながら、分かってほしい。

 矛盾が、胸の中で渦を巻く。


「でも、“分かった顔”をされるのがいちばん嫌なんだ」


 ミレイユが息を呑む。

 息を呑む音が、部屋に落ちる。


「あなたは、私に分かってほしくないの?」


 問いが、母の問いだ。

 母として正しい。

 だからこそ、残酷だ。


「分かってほしい」


 エルは言う。

 声が少しだけ弱くなる。

 弱くなる瞬間が危険だ。危険だから、すぐに声を硬くする。


「でも、“分かった”って言われた瞬間に、僕の中の何かが消える」


 ミレイユが目を伏せる。

 伏せ方が、屋敷の人間のそれだ。

 感情を見せないための動作。


「……なら、どうしたらいいの」


 問いが、母の問いになりかけて、最後は屋敷の問いになる。

 答えを求める問い。

 答えを出せば整理が始まる問い。


「……どうもしなくていい」


 エルは言う。

 でも、それは本心ではない。

 本心は、“どうにかしてほしい”だ。

 どうにかしてほしい、と言った瞬間、子どもになる。

 子どもになった瞬間、屋敷は勝つ。


「ただ……僕を整えないで」


 “触るな”と言わないのは、せめて母を傷つけないためだ。

 でも言い換えたところで、意味は同じだった。


 ミレイユの肩が僅かに揺れた。

 泣きそうなのかもしれない。

 泣けば、母だ。

 でも彼女は泣かない。

 泣かないことを選べる人だ。泣かないことを選んできた人だ。


「あなたが壊れるのが怖いのよ」


 声が掠れる。

 掠れた声は、感情の証明だ。

 証明は、エルの中の防衛をさらに揺らす。

 母が母になればなるほど、屋敷の影が濃くなる。

 濃くなった影の中で、息子は生きていけない。


「壊れない」


 エルは反射で言う。

 “壊れない”と言わなければ、壊れていると認めることになる。

 認めれば止まれなくなる。止まったら、崩れる。


「壊れない、じゃない」


 ミレイユが言い返す。


「壊れてもいい、って言える場所が必要なの」


 その言葉が優しすぎる。

 優しすぎて、痛い。

 痛いから、エルは笑いそうになる。笑ったら壊れる。


「ここなら壊れてもいいって……そんな場所が、僕にあると思うんですか」


 声が荒れる。


「屋敷は違う。騎士団は違う。王都は違う。

 どこにもそんな場所はない」


 ミレイユが口を開きかける。

 そして、言ってしまう。


「……シャルロット様が、いるでしょう」


 その瞬間、エルの目が揺れた。

 揺れてしまったのが負けだと分かる。

 負けだと分かるから、次の言葉が刃になる。


「ほら」


 エルが言う。

 笑っていないのに、笑ったみたいな声になる。


「ほら、そうやって」


 ミレイユが戸惑う。


「そうやって、シャルを――」


 言葉が詰まる。

 詰まるのは怒りではない。恐怖だ。

 シャルが屋敷に触られる恐怖。

 シャルが“処理”される恐怖。

 シャルが“守るため”の名目で、削られる恐怖。


「……“便利な答え”にしないで」


「便利な答え……?」


「“シャルがいるでしょう”で、全部終わらせないで!」


 声が跳ねる。

 跳ねた声は、もう戻れない。


「シャルは、僕の逃げ道じゃない」


 言い切る。


「僕の――」


 喉が詰まる。

 その詰まりが、今まで飲み込んできたもの全部だ。


「僕の帰る場所にしたいんだ」


 ミレイユが息を呑む。

 息を呑む音が、また落ちる。


「帰る場所……」


「帰る場所にするために、僕はちゃんと立ってる!」


 立ってる、という言葉が、立っていない自分を露呈する。

 露呈してしまったことが、悔しい。

 悔しさが、熱になる。


「なのに、屋敷は“守る”とか“節度”とか“手順”とかで、全部を形にして――」


 昼の言葉が混ざる。

 混ざるたび、胸が冷える。


「形にした瞬間、愛情は管理になる」


 自分で言いながら、胸がひゅっと冷える。

 管理。

 管理されてきたのは自分だ。

 管理されることで守られてきた、と言われてきた。


 ミレイユが、息を吸って、言う。


「管理しないと、守れないこともあるわ」


 その返しが、屋敷の返しだ。

 母の返しではない。


 ミレイユ自身も言ってしまったと気づく。

 気づいた顔がする。

 でも言葉は戻らない。戻らない言葉は残る。


 残った言葉の上で、エルの中の何かが完全に裏返った。


「守る……?」


 エルは、もう一度その単語を口にする。

 今度は低くない。

 低いところから、熱が噴き上がる。


「守る、守る、守る……!」


 声が荒れる。

 荒れた声が壁に当たって返る。

 返った声が、自分の耳を殴る。


「その“守る”が今まで――僕の何を守ってくれたんだ!」


 言った瞬間、胸の奥が痛い。

 痛いのは、答えを知っているからだ。


「僕は“守られた”ことなんてない!」


 息が切れる。

 切れても言葉が止まらない。


「守るって言われるたびに、僕は動けなくなった。

 守るって言われるたびに、僕は黙るしかなかった。

 守るって言われるたびに、僕は“正しい子”でいるしかなかった!」


 ミレイユが声を失う。

 失った声を取り戻そうとして唇が震える。


「エル、それは……」


「違うって言わないで」


 エルの声が、今度は泣きに近い。


「違うって言ったら、僕はまた――“分かったふり”をされたことになる」


 吐き出す。

 出してしまう。

 もう抑えられない。


「僕は、守られてきたんじゃない。

 “守るため”って言葉で、いつも片付けられてきたんだ」


 ミレイユが一歩引く。

 その一歩引きが、屋敷の一歩引きに見えてしまう。

 見えてしまった瞬間、エルの中で最後の糸がほどける。


「母さん」


 呼ぶ声が、幼くなる。

 幼くなるのを自分が嫌悪する。

 嫌悪が怒りに変わる。怒りは、恥を隠すのに便利だ。


「母さんは、僕のこと――一回でも、庇ってくれた?」


 言ってしまった。

 言ってから、遅れて自分が凍る。

 これは“言ってはいけない”問いだ。

 母を裁く問いだ。

 でも止まらない。


「父に何か言われた時、屋敷に何か決められた時、

 王都へ行けと言われた時、

 僕が“嫌だ”って言えなかった時――」


 喉が詰まる。

 詰まるのは涙ではない。

 息だ。言葉が多すぎて、息が足りない。


「その時、母さんは何をしてた?」


 ミレイユの目が揺れる。

 揺れが答えだ。

 答えを聞かなくても分かる。


「……ごめんなさい」


 ミレイユが、かすれた声で言う。

 謝罪が出た瞬間、エルの怒りが一瞬で萎む。

 萎んだ怒りの代わりに、もっと冷たいものが残る。

 虚しさだ。

 虚しさは、怒りより壊す。


「謝らないで」


 エルは言う。

 言葉が静かになる。静かになるほど危険だ。

 静かな声は、もう戻れない声だ。


「謝られたら、僕が悪いみたいになる」


 ミレイユが息を呑む。


「あなたが悪いわけじゃない」


「じゃあ、誰が悪いんですか」


 エルが問う。

 問うこと自体が、もう答えを持っていないことの証明だ。

 誰も悪くないのに、誰かが壊れる。

 その構造が、この屋敷だ。


「……僕は」


 エルの声が、さらに冷える。


「もう、ここで言葉を使いたくない」


 それは拒絶ではない。

 降参だ。

 でも降参は、屋敷にとっては“整った”状態だ。

 整った状態のままでは、シャルの元へ帰れない。


 エルは息を吸う。

 吸った息が喉の奥で止まる。

 止まった息のまま、言う。


「……だから」


「もういい」


 声が冷たくなる。

 冷たい声は、防衛の声だ。


「母さんの言うことは正しい」


 正しい。

 その単語は、諦めの単語だ。


「屋敷の空気も正しい。

 父の言葉も正しい。

 王国の都合も正しい。

 全部、正しい」


 正しいものばかりの場所で、人間は壊れる。

 壊れても、誰も責任を取らない。

 正しいからだ。


「でも、僕は……」


 言葉が止まる。

 止まった瞬間、最後の一行だけが残る。


「もういい……帰ってくるんじゃ、なかった」


 言った瞬間、自分でも驚くほど、冷たい声だった。

 冷たい声の奥で、自分が震えているのが分かる。

 震えを止められない。


「エル!」


 ミレイユが叫ぶ。

 叫ぶのは母だ。

 屋敷の人間は叫ばない。


「待って! エル! 話を――!」


 エルは振り返らない。

 振り返れば、母の顔を見る。

 母の顔を見れば、罪悪感が生まれる。

 罪悪感が生まれれば、屋敷に戻ってしまう。

 戻れば、また均される。

 均されたら、シャルの元へ帰れなくなる。


 だから、見ない。


 荷を掴む。

 最低限。

 最小限。

 ミレイユが昼に言った言葉が、皮肉みたいに頭の中を通る。


 最低限の魔力。

 転移。


 音も光も、最小限。


 ♢


 次に視界が戻った時、湯気の立つ茶の香りがした。


 香りがある、というだけで胸が緩む。

 屋敷には香りがない。あっても薄い。

 香りは感情を連れてくるからだ。

 ここには、香りがある。

 感情が許されている。


 暖炉の火は小さい。派手に燃えていない。

 けれど部屋は冷えていない。

 熱が「必要な分」だけ、ちゃんと残されている。


 本を読んでいたシャルが、顔を上げた。

 ページの端に指を挟んだまま、視線だけを寄越す。

 驚きがあっても、慌てない。

 慌てないのは冷たいからじゃない。

 慌てたらエルの呼吸がさらに崩れると、無意識に分かっている動きだ。


「……エル?」


 その“間”で、胸の奥が一気に緩む。

 緩んだ瞬間、呼吸が崩れる。

 崩れた呼吸は、涙の前段階だ。

 涙まで行けば、もう戻れない。

 戻れないことが、今は救いだ。


 シャルは立ち上がらない。

 立ち上がって駆け寄れば、こちらを“正す”動きになる。

 正す動きは、屋敷の動きだ。

 だから、座ったまま、声だけを伸ばす。


「……ここ、間違えてない?」


 冗談に聞こえる。

 でも冗談の形をした確認だ。

 責めないための距離の作り方。


 エルは笑えない。

 笑えないまま、喉が詰まる。


「シャル……」


 名前を呼ぶだけで、声が揺れる。

 揺れを隠さなくていいのが怖い。

 怖いのに、嬉しい。

 嬉しいと認めた瞬間に崩れそうで、息を吸う。


「……三日は戻らないって言ってなかった?」


 責めない声。

 ただの確認。

 ただの確認が、屋敷では存在しなかったものだ。


「……そう、言った」


 エルは短く答えた。

 短くしか答えられない。

 理由を言えば、言葉がほどけてしまう。


 シャルは目を細める。細め方が柔らかい。

 それは“疑う”目じゃない。

 “見てしまった”目だ。


 エルの手元。

 最低限の荷。

 呼吸の乱れ。

 肩の固さ。

 目の焦点。

 全部が「帰ってくる予定じゃなかった」人間のそれだ。


 シャルは本を閉じる。

 指を挟んでいたページを、ちゃんと覚えるみたいに撫でてから閉じる。

 その動作が、エルには救いだった。

 落ち着いた手が動くだけで、世界がほどける。


「座る?」


 命令じゃない。

 座れ、でも、座りなさい、でもない。

 選べる形で置かれた言葉。

 選べるというだけで、胸の奥が熱を持つ。


 エルは答えない。

 代わりに、身体が動く。

 動く方向が、正解じゃなくて本能になっている。


「シャル……!」


 言葉が足りず、足が先に出る。

 距離が一気に詰まる。

 近づいた瞬間、エルはもう止まれない。


 力いっぱい抱きしめる。


「……っ」


 シャルが小さく息を呑む。

 驚きの音。驚きが許される音。

 驚きは生きている証拠だ。


 けれどシャルは、突き放さない。

 腕が背中に回る。

 回る腕が、重くない。

 重くないのに、確かだ。


「エル……痛い」


 囁くみたいに言った。

 怒っていない。

 でも“ここにいる”ことを伝える言葉。


 エルは、慌てて力を緩めようとして、緩めきれない。

 自分の腕の中にある熱が、手放すのが怖い。


「ごめん……」


「謝らなくていい」


 即答だった。

 屋敷なら“謝るべきかどうか”の判断が入る。

 ここでは判断が入らない。

 入らない言葉が、エルの胸をほどく。


 シャルは、抱きしめられたまま言う。


「……帰ってきたんだね」


 “来た”じゃない。

 “帰ってきた”。

 その言葉が、エルの内側のどこかを一気に崩した。


 帰る、という言葉は責任を発生させる。

 屋敷が使えない言葉。

 使えないから、エルはずっと渇いていた。


 喉が鳴る。

 涙ではない。

 でももう、涙の前にいる。


「……帰ってきたくて」


 出た声が、自分でも知らないほど幼い。

 幼い声が出た瞬間、恥が立ち上がる。

 恥は屋敷の感情だ。

 屋敷で恥じるように教育された。


 でもシャルは、幼さを拾わない。

 拾って“かわいい”にしない。

 かわいいにしたら、エルの誇りが壊れると知っているから。


「うん」


 シャルはそれだけ言う。

 それだけで十分だ、と言うみたいに。


 エルの呼吸が震える。

 震えが止まらない。


 シャルは少しだけ身体を引く。

 引くけれど、腕は離さない。

 顔だけ見える距離にする。

 距離を取るのは拒絶じゃない。

 エルの目を見て、逃げないためだ。


「……エル。何があったの?」


 言い方が柔らかい。

 でも、“聞く”じゃなく“置く”に近い。

 答えを要求しない問い。


 エルは言葉を探す。

 探した瞬間、昼の部屋の冷たさが蘇りかける。


 シャルはすぐに言い足す。


「話せる範囲でいい。

 話せないなら、今はそれでもいい」


 逃げ道が先に用意される。

 用意される逃げ道は、逃げるためではなく、息をするための隙間だ。


 エルは、その隙間でやっと息を吐けた。


「……僕、怒鳴った」


 言った瞬間、自分の声がまた震える。

 怒鳴った、という事実を口にするのが、いちばん怖い。

 怒鳴った人間は、屋敷では“未熟”として処理されるからだ。


 シャルは眉を寄せない。

 “怒鳴った”を評価しない。

 評価しないことが、いちばんの救いになる。


「うん」


 シャルは頷くだけ。


「……誰に?」


 エルの喉が詰まる。

 名前を出せば、屋敷の空気がこの部屋に混ざる気がする。


「……母さんに」


 言った瞬間、胸が痛い。

 罪悪感が立つ。

 罪悪感は、エルを屋敷へ引き戻す鎖だ。


 シャルは、鎖を引かない。


「……そっか」


 それだけ。

 “そっか”は判断じゃない。

 状況を受け止めるだけの言葉。


 シャルは視線を落として、エルの荷に目をやる。

 荷は最小限。

 最小限で飛んできたということは、戻るつもりだったかもしれないということ。

 でも戻れなかったということ。


「……お茶、冷めちゃった」


 シャルは言って、卓に手を伸ばす。

 自分のカップを持ち上げる。

 それから、もうひとつのカップを取る。

 最初から用意されていたのではない。

 いま、用意する。


「淹れ直すね」


 命令じゃない。

 “何かしてあげたい”が、形として出た言葉。

 でも“守る”ではない。

 “整理”でもない。

 ただ、温度を増やすだけの行為。


 エルは首を振ろうとして、できなかった。

 断れば“遠慮”になる。

 遠慮は屋敷の礼儀だ。

 ここに屋敷を持ち込みたくない。


「……うん」


 それだけ言う。


 シャルが湯を注ぐ音がする。

 静かな音。

 屋敷の静けさと違う。

 これは“許されている音”だ。


 湯気が立ち上がる。

 香りが広がる。

 香りが広がるだけで、エルの胸がほどけていく。


 シャルはカップを差し出しながら言った。


「エル。ここは、あなたの部屋でもあるよ」


 エルが息を止める。


 “あなたの部屋でもある”は、許可じゃない。

 貸しでもない。

 所有でもない。

 ただ、居場所の事実だけを言う言葉。


 屋敷には存在しない種類の言葉だ。


「……僕は」


 エルの声が掠れる。


「僕は、帰るって言葉が……怖い」


 吐き出してしまう。

 吐き出した瞬間、顔が熱くなる。

 でも止めない。止めなくていい。


 シャルは、少しだけ笑った。

 笑うけれど、軽くしない笑い方。


「怖くていい」


 それは、“大丈夫”ではない。

 大丈夫はエルを縛る。

 怖くていい、はエルを生かす。


「怖いなら、今日は“戻ってきた”ってことだけでいい」


 エルの胸が痛む。

 痛むのは、やさしさが刺さるからだ。

 刺さるのに、傷にならない。

 血が出ない。

 血が出ないのに、熱だけが増える。


 エルの視界が滲む。

 泣く手前。

 泣くのが怖い。

 でも、泣いても均されないと分かっている。


 シャルが、手を伸ばす。

 頬には触れない。

 触れたら涙が落ちるから。

 代わりに、エルの指先に触れる。

 指先は逃げられる場所だ。

 逃げられる触れ方が、上手い。


「……エル。今日は、ここにいて」


 命令じゃない。

 お願いでもない。

 “いていい”の確認だ。


 エルは頷く。

 頷いた瞬間、呼吸が崩れる。

 崩れた呼吸の奥で、やっと言葉が生まれる。


「……僕、もう……」


 続かない。

 続かないのを、シャルは急かさない。


 エルはカップを持つ。

 温度が指に移る。

 移った温度が、身体に戻ってくる。


 戻ってくる温度は、屋敷では許されなかったものだ。


「……明日じゃだめ?」


 エルが、弱い声で言った。

 “話す”の話じゃない。

 “壊れる”の話だ。


 シャルは首を振らない。

 肯定もしない。

 選択をエルに残す。


「明日でもいい。明後日でもいい。

 でも——」


 シャルは、そこで一拍置いた。

 一拍置くことで、この先の言葉が“正しさ”にならないようにする。


「話したくなった時に、私に来て」


 来て、という言葉は、縛らない。

 戻れ、でも、ここにいろ、でもない。

 エルに選ばせる言葉。


 エルの胸の奥が、静かに決まる。

 決まるのは、理性ではなく身体だ。


 ここは、逃げ場じゃない。

 帰る場所だ。


 帰る場所なら、いつかは話さなければならない。

 でも、話すことが義務じゃない。


 エルは、震える息を吐いた。


「……シャル」


 呼ぶ。

 呼べる。

 呼んでも、責任を取らされない。

 呼んでも、整理されない。


「……ごめん」


 小さく言う。


 シャルは、また即答する。


「謝らなくていい」


 そして、今度は少しだけ言葉を足した。


「帰ってきてくれて、ありがとう」


 ありがとう。

 評価じゃない。

 管理じゃない。

 手順じゃない。


 ただ、受け取る言葉。


 エルの目から、やっと何かが落ちた。

 落ちても、誰も拾って刃にしない。

 落ちたまま、温度だけが残る。


 ここなら、壊れてもいいと思った。

 壊れても、均されないと思った。


 ――ここが、帰る場所だと。

 ようやく、身体が理解した。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


この第78話は、題名の通り「何も起きない日」のはずでした。事件も、戦いも、派手な展開もない。けれど――何も起きない、というのは「外側」の話で、エルの中では確かに何かが崩れていく夜でした。


ミレイユは母として来ます。

ただ、その“母”が完全に屋敷から自由ではない。

優しさの形をした言葉が、屋敷の語彙を纏ってしまう。

その綻びが、いちばん痛いところを刺してしまう。


エルが怒ったのは、責められたからでも、否定されたからでもなくて。

「守る」「大丈夫」「あなたのため」――それらが、彼の人生を何度も“正しく整えて”きたからです。

守るという言葉で守られたのではなく、守るという言葉で黙らされてきた。

その積み重ねが、あの夜、母の声をきっかけに溢れてしまいました。


そして最後に、シャルの部屋へ。

ここはエルにとっての“避難所”ではなく、“帰る場所”として描きたかった場所です。

正解を言わない。整理しない。急かさない。

ただ、温度と居場所だけを差し出す。

「大丈夫」ではなく「怖くていい」。

その一言が、エルをほどく鍵になってくれました。


次の話では、きっとエルは全部を言葉にできません。

でも、少しずつでも話し始められる。

話しても壊れない場所が、ここにはある――その確信だけで、この78話は終われると思いました。


また続きを書いていきます。

次も、見届けてもらえたら嬉しいです。

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