78.何も起きない日の、影-3
夜の屋敷は、昼よりも静かだった。
静かというより、音を許していない。
風は吹いているはずなのに、窓の外で止められている。
灯りは最低限。
廊下の奥に人の気配はないが、完全な無人ではないと分かる程度の、薄い存在感だけが残っている。
屋敷の夜は、眠りのためにあるのではなく、秩序を保つためにある。
人間の休息ではなく、建物の都合。
誰も声を立てない。誰も足を早めない。誰もため息を落とさない。
落とした瞬間、拾われるからだ。拾われたものは、形を変えて戻ってくる。
エルは自室の椅子に腰掛けたまま、剣に手を伸ばさずにいた。
いつもなら、何も考えずに手入れを始めている時間だ。
刃を磨き、油を引き、余分な思考を削ぎ落とす。
そうやって、夜をやり過ごしてきた。
今日は、それをしなかった。
昼の会話が、遅れて身体に染み込んできている。
言葉としてではなく、配置として。
命令の内容ではなく、命令が置かれた“位置”として。
半年。
噂が均されるまでの時間。
外の熱が冷めるまでの冷却期間。
締める、という言葉が、まだ胸の奥に残っている。
締める。
結び直す。結び目を強くする。ほどけないように。ほどくつもりがないように。
――泊まる選択を、間違えたかもしれない。
そう思った時、扉を叩く音がした。
強くない。
使用人のそれとも違う。
躊躇いを含んだ、短い音。
「……起きてると思って」
声を聞いた瞬間、身体が一瞬だけ軽くなる。
それが危険だと分かっているから、エルはすぐに呼吸を整えた。
軽くなる、という反応は、期待に近い。期待は、この屋敷では裏切りの形で回収される。
「どうぞ」
扉が開く。
ミレイユが立っていた。
夜着ではない。
かといって、社交用でもない。
屋敷の中で“目立たない”ために選ばれた服。
それは“母が息子に会いに来た”服というより、“屋敷の者が規律を乱さないための”服だった。
彼女は中へ入ると、扉を閉めない。
完全に遮断しないことで、この訪問が“私的すぎない”位置に留まる。
廊下に音が漏れても困らないように。困るような会話はしない、と先に決めたような置き方。
ミレイユは視線を一度、部屋の隅へ流した。
目線の置き方が、屋敷の人間のそれだ。
部屋の状態を確認する目線。
整っているか、乱れていないか、余計なものがないか。
「眠れなかった?」
確認ではない。
詰問でもない。
母の勘に近い声。
「……少し」
エルはそう答えた。
本当は、眠れるかどうかを考える余裕がなかった。
眠れない、という言葉を出すことも、この屋敷では余計な情報になる。余計な情報は、余計な手当てを呼ぶ。手当ては管理に繋がる。
ミレイユは頷き、部屋を見回す。
整えられた室内。
最低限の私物。
剣が触られていないことにも、気づいただろう。
「剣……今日は」
言いかけて、止める。
止めるところが、母だ。
止めることで、踏み込みすぎないようにしている。
「……手が、伸びませんでした」
エルが答えると、ミレイユの眉がほんの少しだけ動く。
その微かな動きが、母の心配であると分かるから、エルは視線を逸らしたくなる。逸らしたら終わりだ。母を見れば、子どもが出てくる。
ミレイユは椅子に座らない。
座れば長くなる。長くなれば、ここへ来た理由が濃くなる。
理由が濃くなれば、屋敷の空気が嗅ぎつける。
「王都は……もう慣れた?」
穏やかな話題。
表層の会話。
「はい。生活自体は問題ありません」
「食事は?」
「……取っています」
嘘ではない。
ただ、必要な量を、必要な時間に、必要なだけ。
味は覚えていない。覚えるほどの余裕がない。
「眠りも?」
「……それも」
エルは短く答える。
“眠れていない”とは言わない。言えば、次の質問が来る。次が来れば、こちらが崩れる。
ミレイユはそれ以上踏み込まない。
踏み込まないことが、優しさであると知っている人の振る舞いだ。
その優しさが、逆に痛い。優しさは、触れられている感覚を連れてくる。
「……シャルロット様は、元気そう?」
名前が出る。
だが、敬称は落とさない。
「……はい。忙しそうですが」
「そう」
一拍。
間が置かれる。
「良い方ね」
評価の言葉。
悪意はない。
だが、その“良い”は、人としての評価ではなく、立場としての評価に近い。
エルは違和感を覚えたが、口には出さない。
違和感を言葉にすると、ここで会話が“本題”へ引き寄せられる。引き寄せられた瞬間、母ではなく屋敷が話し始める。
「……はい」
肯定しかできない。
「大変でしょう。あの立場は」
その一言で、昼の言葉が重なる。
任官。
家として応じる。
節度。
擦り合わせ。
「……慣れています」
エルは理性で返す。
正解の答えだ。
屋敷が求める“正しい息子”の答え。
ミレイユは微笑む。
その微笑みが、母のものだと分かるから、余計に胸が詰まる。
母は、本当に喜びたいのだろう。
息子が王都で役目を持ち、認められ、立派に振る舞っていることを。
でも同時に、屋敷の中で喜びすぎるのは危険だと知っている。
喜びすぎれば噂になる。噂になれば管理が来る。管理が来れば息子が削られる。
だから笑みは小さい。
小さい笑みは、長く続く。
長く続くものほど、じわじわ刺さる。
「あなた、昔からそうだったわね」
ミレイユは言った。
「大丈夫な顔をするのが、上手」
上手。
褒め言葉の形をしている。
エルの喉が僅かに鳴った。
反論したいわけではない。
ただ、その言葉が“正しい”ことが嫌だった。
上手、という言葉は、努力を褒めているようで、努力を固定してしまう。上手なら、これからもやれ、という意味が隠れる。
「……そう見えるだけです」
言葉を選んで返す。
反抗にはならない程度。
でも、否定は置く。置かなければ自分が消える。
「背負いすぎている、とは思わない?」
その言葉で、空気が少し変わる。
背負う。
立場。
責任。
昼間に聞いた単語と、重なりすぎている。
ミレイユは“母として心配している”だけだ。
分かっている。
分かっているからこそ、その心配が屋敷の語彙に寄ってしまうのが怖い。
「……必要なことです」
エルは短く答える。
論理で包む。
包めば、感情が漏れない。漏れなければ、ここでは安全だ。
「必要なこと、ね」
ミレイユが繰り返す。
繰り返しは、確認に見えて、刃になることがある。
「あなたが“必要”だと思っているのか……そう言わされているのか」
言わされている。
その言葉は、母の優しさだ。
でも同時に、エルの内側を勝手に読み解こうとする言葉でもある。
「……母さん」
呼びかけるだけで、声が少し揺れる。
揺れたことに気づかれたくない。
「ううん、違うの。責めたいわけじゃなくて……」
ミレイユは慌てる。
慌て方が母だ。
屋敷の人間は、慌てない。慌てるのは感情だからだ。
だから、エルは一瞬だけ救われそうになる。
救われそうになって、すぐに怖くなる。救いは借りになる。
「……分かってます」
エルは言う。
分かっている、と先に言えば、これ以上踏み込ませずに済む。
それは防衛だ。
ミレイユは小さく息を吐く。
「……守るものが、増えたのよ」
その瞬間、胸の奥で何かが鳴った。
音ではない。
圧力が、少しだけずれた感覚。
「守る、という言葉は……」
言いかけて、止める。
まだ耐えられる。
まだ、ここで壊れる必要はない。
「シャルロット様は、あなたにとって……大切でしょう」
ミレイユの声が柔らかい。
柔らかいほど危険だ。
柔らかい言葉は“正しさ”に見える。正しさに見える言葉は、拒否しにくい。
「はい」
エルは答える。
短く。
肯定だけ。
具体を出せば、管理される材料になる。材料になれば、屋敷が触ってくる。
「……なら」
ミレイユが少しだけ近づく。
距離が縮まる。
縮まる距離は、母のものだ。
母の距離は、エルの中の子どもを起こす。
ミレイユは、その危険を自分でも感じたのか、足を止めた。
止めた位置が、絶妙に“母”と“屋敷”の間だ。
「あなたなら、大丈夫よ」
ミレイユは、そう言った。
信頼。
愛情。
母性。
すべてが込められた言葉。
だからこそ、エルの中で、防衛線がきしんだ。
「……大丈夫、というのは」
声が低くなる。
低くなるのは、怒りではない。
感情が出ないように押さえる時の声だ。
「大丈夫じゃない時に、使われる言葉です」
ミレイユは驚いたように目を見開く。
驚くのは、母だ。
屋敷の人間なら驚かない。驚かないまま整理に入る。
「エル……」
「違う」
エルの声が、少しだけ荒れる。
「母さんは、心配してるだけだ。分かってる」
理性が、まだ前に出ている。
理性で橋を架ける。
母に向かって怒りたくない。
怒りたくないから、先に理解を示す。
「でも、“分かったつもり”で触られるのは……」
言葉が、続かない。
続ければ、本当のことが出てしまう。
本当のことは、この屋敷で最も危険だ。
ミレイユは言葉を探す。
探す時間が長いほど、刺さる言葉が出やすくなる。
母は、正しい言葉を言おうとしている。
正しい言葉ほど、エルを壊す。
「……ちゃんと」
ミレイユの声が小さくなる。
「ちゃんと、休めてる?」
その一言で、均していたものが崩れた。
休む。
その単語は、善意の形をしている。
善意の形をした刃。
「休むべき」という正しさを抱えた刃。
正しさは、拒否しにくい。拒否できないものは、内側に刺さる。
「休むって、何ですか」
声が、はっきりと荒れる。
「何をすれば“休んだ”ことになるんですか」
ミレイユが口を開くより先に、エルの言葉が続く。
続いてしまう。
止められない。
「眠れば? 食べれば? 笑えば?
それで“休めたね”って言われるんですか」
息が熱くなる。
熱くなると、声が尖る。
尖った声は、屋敷の壁に跳ね返る。
跳ね返った声は、より自分を追い詰める。
「立ち止まったら、次は進めって言われる。
耐えたら、もっと耐えられるって評価される」
ミレイユが何か言おうとする。
だが、言う前にエルの言葉が上から被さる。
被さるのは攻撃ではない。
被さることで、母の言葉を聞く前に自分を守ろうとしている。
「“強いね”って言われるたびに、弱い場所が封じられる」
ミレイユの目が揺れる。
その揺れが、痛い。
「エル、落ち着いて――」
「落ち着いてる!」
声が部屋に響いた。
響いた瞬間、自分でも分かる。
これは正解の態度じゃない。
正解の態度を崩した時点で、屋敷の中では負けだ。
でも、もう戻れない。
「ずっと、落ち着いてきた!
泣かなかった。怒らなかった。
正解の態度を取ってきた!」
息が乱れる。
乱れた息は、感情の証明だ。
証明してしまうのが怖いのに、止まらない。
「屋敷で。騎士団で。王都で。
ずっと、正解の顔をしてきた!」
ミレイユが一歩近づく。
近づきたいのだろう。
抱きしめたいのだろう。
母ならそうする。
でもミレイユは、抱きしめない。
抱きしめられない。
抱きしめた瞬間、屋敷の空気に逆らう形になるからだ。
その“できなさ”が、エルの胸をさらに締める。
「守るって言葉で縛られるのが嫌なんです」
エルは言う。
言ってしまう。
「守るって言えば、拒んだ方が悪くなる。
守るって言えば、僕の選択が“義務”に変わる」
ミレイユが唇を噛む。
噛むところが母だ。
でも、その痛みもまた、エルを救わない。
「僕は選んだ」
短い言葉。
短いほど本心だ。
「シャルを、僕の隣に置くって決めた。
それを、手順とか節度とか擦り合わせとか――」
昼の言葉が混ざる。
混ざった瞬間、エルの表情が歪む。
「……“整える”って言葉で触られたくない」
ミレイユが顔を上げる。
その目が、母の目だ。
だからこそ、次の言葉が怖い。
「エル……あなたを守りたいだけなの」
その言葉で、エルの中の何かが切れた。
切れたのは怒りではない。
糸だ。
ずっと張り続け、ほどけないように、ほどけないように、と自分で結び直してきた糸が、音もなく切れた。
「……守る?」
エルの声が低くなる。
低いまま、震える。
震えは泣きではない。まだ泣けない。泣くには、この屋敷は冷たすぎる。
「ほら」
エルは笑っていないのに、笑ったみたいな声になる。
「またそれだ」
「……何?」
「“あなたのため”って言葉」
言葉が、冷たくなる。
冷たくなるのは、感情を凍らせているからだ。凍らせないと崩れる。
「“あなたのためを思って”
“守りたいだけ”
“あなたなら大丈夫”」
一つ一つ数えるみたいに言う。
数えると、形になる。
形になったものは、こちらを縛る。
縛って、動けなくして、最後に「安心して」と言う。
「その言葉で、どれだけ僕は――」
言い切れない。
言い切れば、過去が全部開いてしまう。
開いたら、この部屋が血で濡れるみたいに感じる。
ミレイユが一歩、さらに近づく。
「エル、違うの。私は……」
「違わない」
エルは首を振る。
振ることで何かを否定しているのに、否定したい対象が多すぎて自分でも分からなくなる。
屋敷か。父か。王国か。母か。自分自身か。
「母さんは悪くない。分かってる」
言う。言ってしまう。
分かってる、と言いながら、分かってほしい。
矛盾が、胸の中で渦を巻く。
「でも、“分かった顔”をされるのがいちばん嫌なんだ」
ミレイユが息を呑む。
息を呑む音が、部屋に落ちる。
「あなたは、私に分かってほしくないの?」
問いが、母の問いだ。
母として正しい。
だからこそ、残酷だ。
「分かってほしい」
エルは言う。
声が少しだけ弱くなる。
弱くなる瞬間が危険だ。危険だから、すぐに声を硬くする。
「でも、“分かった”って言われた瞬間に、僕の中の何かが消える」
ミレイユが目を伏せる。
伏せ方が、屋敷の人間のそれだ。
感情を見せないための動作。
「……なら、どうしたらいいの」
問いが、母の問いになりかけて、最後は屋敷の問いになる。
答えを求める問い。
答えを出せば整理が始まる問い。
「……どうもしなくていい」
エルは言う。
でも、それは本心ではない。
本心は、“どうにかしてほしい”だ。
どうにかしてほしい、と言った瞬間、子どもになる。
子どもになった瞬間、屋敷は勝つ。
「ただ……僕を整えないで」
“触るな”と言わないのは、せめて母を傷つけないためだ。
でも言い換えたところで、意味は同じだった。
ミレイユの肩が僅かに揺れた。
泣きそうなのかもしれない。
泣けば、母だ。
でも彼女は泣かない。
泣かないことを選べる人だ。泣かないことを選んできた人だ。
「あなたが壊れるのが怖いのよ」
声が掠れる。
掠れた声は、感情の証明だ。
証明は、エルの中の防衛をさらに揺らす。
母が母になればなるほど、屋敷の影が濃くなる。
濃くなった影の中で、息子は生きていけない。
「壊れない」
エルは反射で言う。
“壊れない”と言わなければ、壊れていると認めることになる。
認めれば止まれなくなる。止まったら、崩れる。
「壊れない、じゃない」
ミレイユが言い返す。
「壊れてもいい、って言える場所が必要なの」
その言葉が優しすぎる。
優しすぎて、痛い。
痛いから、エルは笑いそうになる。笑ったら壊れる。
「ここなら壊れてもいいって……そんな場所が、僕にあると思うんですか」
声が荒れる。
「屋敷は違う。騎士団は違う。王都は違う。
どこにもそんな場所はない」
ミレイユが口を開きかける。
そして、言ってしまう。
「……シャルロット様が、いるでしょう」
その瞬間、エルの目が揺れた。
揺れてしまったのが負けだと分かる。
負けだと分かるから、次の言葉が刃になる。
「ほら」
エルが言う。
笑っていないのに、笑ったみたいな声になる。
「ほら、そうやって」
ミレイユが戸惑う。
「そうやって、シャルを――」
言葉が詰まる。
詰まるのは怒りではない。恐怖だ。
シャルが屋敷に触られる恐怖。
シャルが“処理”される恐怖。
シャルが“守るため”の名目で、削られる恐怖。
「……“便利な答え”にしないで」
「便利な答え……?」
「“シャルがいるでしょう”で、全部終わらせないで!」
声が跳ねる。
跳ねた声は、もう戻れない。
「シャルは、僕の逃げ道じゃない」
言い切る。
「僕の――」
喉が詰まる。
その詰まりが、今まで飲み込んできたもの全部だ。
「僕の帰る場所にしたいんだ」
ミレイユが息を呑む。
息を呑む音が、また落ちる。
「帰る場所……」
「帰る場所にするために、僕はちゃんと立ってる!」
立ってる、という言葉が、立っていない自分を露呈する。
露呈してしまったことが、悔しい。
悔しさが、熱になる。
「なのに、屋敷は“守る”とか“節度”とか“手順”とかで、全部を形にして――」
昼の言葉が混ざる。
混ざるたび、胸が冷える。
「形にした瞬間、愛情は管理になる」
自分で言いながら、胸がひゅっと冷える。
管理。
管理されてきたのは自分だ。
管理されることで守られてきた、と言われてきた。
ミレイユが、息を吸って、言う。
「管理しないと、守れないこともあるわ」
その返しが、屋敷の返しだ。
母の返しではない。
ミレイユ自身も言ってしまったと気づく。
気づいた顔がする。
でも言葉は戻らない。戻らない言葉は残る。
残った言葉の上で、エルの中の何かが完全に裏返った。
「守る……?」
エルは、もう一度その単語を口にする。
今度は低くない。
低いところから、熱が噴き上がる。
「守る、守る、守る……!」
声が荒れる。
荒れた声が壁に当たって返る。
返った声が、自分の耳を殴る。
「その“守る”が今まで――僕の何を守ってくれたんだ!」
言った瞬間、胸の奥が痛い。
痛いのは、答えを知っているからだ。
「僕は“守られた”ことなんてない!」
息が切れる。
切れても言葉が止まらない。
「守るって言われるたびに、僕は動けなくなった。
守るって言われるたびに、僕は黙るしかなかった。
守るって言われるたびに、僕は“正しい子”でいるしかなかった!」
ミレイユが声を失う。
失った声を取り戻そうとして唇が震える。
「エル、それは……」
「違うって言わないで」
エルの声が、今度は泣きに近い。
「違うって言ったら、僕はまた――“分かったふり”をされたことになる」
吐き出す。
出してしまう。
もう抑えられない。
「僕は、守られてきたんじゃない。
“守るため”って言葉で、いつも片付けられてきたんだ」
ミレイユが一歩引く。
その一歩引きが、屋敷の一歩引きに見えてしまう。
見えてしまった瞬間、エルの中で最後の糸がほどける。
「母さん」
呼ぶ声が、幼くなる。
幼くなるのを自分が嫌悪する。
嫌悪が怒りに変わる。怒りは、恥を隠すのに便利だ。
「母さんは、僕のこと――一回でも、庇ってくれた?」
言ってしまった。
言ってから、遅れて自分が凍る。
これは“言ってはいけない”問いだ。
母を裁く問いだ。
でも止まらない。
「父に何か言われた時、屋敷に何か決められた時、
王都へ行けと言われた時、
僕が“嫌だ”って言えなかった時――」
喉が詰まる。
詰まるのは涙ではない。
息だ。言葉が多すぎて、息が足りない。
「その時、母さんは何をしてた?」
ミレイユの目が揺れる。
揺れが答えだ。
答えを聞かなくても分かる。
「……ごめんなさい」
ミレイユが、かすれた声で言う。
謝罪が出た瞬間、エルの怒りが一瞬で萎む。
萎んだ怒りの代わりに、もっと冷たいものが残る。
虚しさだ。
虚しさは、怒りより壊す。
「謝らないで」
エルは言う。
言葉が静かになる。静かになるほど危険だ。
静かな声は、もう戻れない声だ。
「謝られたら、僕が悪いみたいになる」
ミレイユが息を呑む。
「あなたが悪いわけじゃない」
「じゃあ、誰が悪いんですか」
エルが問う。
問うこと自体が、もう答えを持っていないことの証明だ。
誰も悪くないのに、誰かが壊れる。
その構造が、この屋敷だ。
「……僕は」
エルの声が、さらに冷える。
「もう、ここで言葉を使いたくない」
それは拒絶ではない。
降参だ。
でも降参は、屋敷にとっては“整った”状態だ。
整った状態のままでは、シャルの元へ帰れない。
エルは息を吸う。
吸った息が喉の奥で止まる。
止まった息のまま、言う。
「……だから」
「もういい」
声が冷たくなる。
冷たい声は、防衛の声だ。
「母さんの言うことは正しい」
正しい。
その単語は、諦めの単語だ。
「屋敷の空気も正しい。
父の言葉も正しい。
王国の都合も正しい。
全部、正しい」
正しいものばかりの場所で、人間は壊れる。
壊れても、誰も責任を取らない。
正しいからだ。
「でも、僕は……」
言葉が止まる。
止まった瞬間、最後の一行だけが残る。
「もういい……帰ってくるんじゃ、なかった」
言った瞬間、自分でも驚くほど、冷たい声だった。
冷たい声の奥で、自分が震えているのが分かる。
震えを止められない。
「エル!」
ミレイユが叫ぶ。
叫ぶのは母だ。
屋敷の人間は叫ばない。
「待って! エル! 話を――!」
エルは振り返らない。
振り返れば、母の顔を見る。
母の顔を見れば、罪悪感が生まれる。
罪悪感が生まれれば、屋敷に戻ってしまう。
戻れば、また均される。
均されたら、シャルの元へ帰れなくなる。
だから、見ない。
荷を掴む。
最低限。
最小限。
ミレイユが昼に言った言葉が、皮肉みたいに頭の中を通る。
最低限の魔力。
転移。
音も光も、最小限。
♢
次に視界が戻った時、湯気の立つ茶の香りがした。
香りがある、というだけで胸が緩む。
屋敷には香りがない。あっても薄い。
香りは感情を連れてくるからだ。
ここには、香りがある。
感情が許されている。
暖炉の火は小さい。派手に燃えていない。
けれど部屋は冷えていない。
熱が「必要な分」だけ、ちゃんと残されている。
本を読んでいたシャルが、顔を上げた。
ページの端に指を挟んだまま、視線だけを寄越す。
驚きがあっても、慌てない。
慌てないのは冷たいからじゃない。
慌てたらエルの呼吸がさらに崩れると、無意識に分かっている動きだ。
「……エル?」
その“間”で、胸の奥が一気に緩む。
緩んだ瞬間、呼吸が崩れる。
崩れた呼吸は、涙の前段階だ。
涙まで行けば、もう戻れない。
戻れないことが、今は救いだ。
シャルは立ち上がらない。
立ち上がって駆け寄れば、こちらを“正す”動きになる。
正す動きは、屋敷の動きだ。
だから、座ったまま、声だけを伸ばす。
「……ここ、間違えてない?」
冗談に聞こえる。
でも冗談の形をした確認だ。
責めないための距離の作り方。
エルは笑えない。
笑えないまま、喉が詰まる。
「シャル……」
名前を呼ぶだけで、声が揺れる。
揺れを隠さなくていいのが怖い。
怖いのに、嬉しい。
嬉しいと認めた瞬間に崩れそうで、息を吸う。
「……三日は戻らないって言ってなかった?」
責めない声。
ただの確認。
ただの確認が、屋敷では存在しなかったものだ。
「……そう、言った」
エルは短く答えた。
短くしか答えられない。
理由を言えば、言葉がほどけてしまう。
シャルは目を細める。細め方が柔らかい。
それは“疑う”目じゃない。
“見てしまった”目だ。
エルの手元。
最低限の荷。
呼吸の乱れ。
肩の固さ。
目の焦点。
全部が「帰ってくる予定じゃなかった」人間のそれだ。
シャルは本を閉じる。
指を挟んでいたページを、ちゃんと覚えるみたいに撫でてから閉じる。
その動作が、エルには救いだった。
落ち着いた手が動くだけで、世界がほどける。
「座る?」
命令じゃない。
座れ、でも、座りなさい、でもない。
選べる形で置かれた言葉。
選べるというだけで、胸の奥が熱を持つ。
エルは答えない。
代わりに、身体が動く。
動く方向が、正解じゃなくて本能になっている。
「シャル……!」
言葉が足りず、足が先に出る。
距離が一気に詰まる。
近づいた瞬間、エルはもう止まれない。
力いっぱい抱きしめる。
「……っ」
シャルが小さく息を呑む。
驚きの音。驚きが許される音。
驚きは生きている証拠だ。
けれどシャルは、突き放さない。
腕が背中に回る。
回る腕が、重くない。
重くないのに、確かだ。
「エル……痛い」
囁くみたいに言った。
怒っていない。
でも“ここにいる”ことを伝える言葉。
エルは、慌てて力を緩めようとして、緩めきれない。
自分の腕の中にある熱が、手放すのが怖い。
「ごめん……」
「謝らなくていい」
即答だった。
屋敷なら“謝るべきかどうか”の判断が入る。
ここでは判断が入らない。
入らない言葉が、エルの胸をほどく。
シャルは、抱きしめられたまま言う。
「……帰ってきたんだね」
“来た”じゃない。
“帰ってきた”。
その言葉が、エルの内側のどこかを一気に崩した。
帰る、という言葉は責任を発生させる。
屋敷が使えない言葉。
使えないから、エルはずっと渇いていた。
喉が鳴る。
涙ではない。
でももう、涙の前にいる。
「……帰ってきたくて」
出た声が、自分でも知らないほど幼い。
幼い声が出た瞬間、恥が立ち上がる。
恥は屋敷の感情だ。
屋敷で恥じるように教育された。
でもシャルは、幼さを拾わない。
拾って“かわいい”にしない。
かわいいにしたら、エルの誇りが壊れると知っているから。
「うん」
シャルはそれだけ言う。
それだけで十分だ、と言うみたいに。
エルの呼吸が震える。
震えが止まらない。
シャルは少しだけ身体を引く。
引くけれど、腕は離さない。
顔だけ見える距離にする。
距離を取るのは拒絶じゃない。
エルの目を見て、逃げないためだ。
「……エル。何があったの?」
言い方が柔らかい。
でも、“聞く”じゃなく“置く”に近い。
答えを要求しない問い。
エルは言葉を探す。
探した瞬間、昼の部屋の冷たさが蘇りかける。
シャルはすぐに言い足す。
「話せる範囲でいい。
話せないなら、今はそれでもいい」
逃げ道が先に用意される。
用意される逃げ道は、逃げるためではなく、息をするための隙間だ。
エルは、その隙間でやっと息を吐けた。
「……僕、怒鳴った」
言った瞬間、自分の声がまた震える。
怒鳴った、という事実を口にするのが、いちばん怖い。
怒鳴った人間は、屋敷では“未熟”として処理されるからだ。
シャルは眉を寄せない。
“怒鳴った”を評価しない。
評価しないことが、いちばんの救いになる。
「うん」
シャルは頷くだけ。
「……誰に?」
エルの喉が詰まる。
名前を出せば、屋敷の空気がこの部屋に混ざる気がする。
「……母さんに」
言った瞬間、胸が痛い。
罪悪感が立つ。
罪悪感は、エルを屋敷へ引き戻す鎖だ。
シャルは、鎖を引かない。
「……そっか」
それだけ。
“そっか”は判断じゃない。
状況を受け止めるだけの言葉。
シャルは視線を落として、エルの荷に目をやる。
荷は最小限。
最小限で飛んできたということは、戻るつもりだったかもしれないということ。
でも戻れなかったということ。
「……お茶、冷めちゃった」
シャルは言って、卓に手を伸ばす。
自分のカップを持ち上げる。
それから、もうひとつのカップを取る。
最初から用意されていたのではない。
いま、用意する。
「淹れ直すね」
命令じゃない。
“何かしてあげたい”が、形として出た言葉。
でも“守る”ではない。
“整理”でもない。
ただ、温度を増やすだけの行為。
エルは首を振ろうとして、できなかった。
断れば“遠慮”になる。
遠慮は屋敷の礼儀だ。
ここに屋敷を持ち込みたくない。
「……うん」
それだけ言う。
シャルが湯を注ぐ音がする。
静かな音。
屋敷の静けさと違う。
これは“許されている音”だ。
湯気が立ち上がる。
香りが広がる。
香りが広がるだけで、エルの胸がほどけていく。
シャルはカップを差し出しながら言った。
「エル。ここは、あなたの部屋でもあるよ」
エルが息を止める。
“あなたの部屋でもある”は、許可じゃない。
貸しでもない。
所有でもない。
ただ、居場所の事実だけを言う言葉。
屋敷には存在しない種類の言葉だ。
「……僕は」
エルの声が掠れる。
「僕は、帰るって言葉が……怖い」
吐き出してしまう。
吐き出した瞬間、顔が熱くなる。
でも止めない。止めなくていい。
シャルは、少しだけ笑った。
笑うけれど、軽くしない笑い方。
「怖くていい」
それは、“大丈夫”ではない。
大丈夫はエルを縛る。
怖くていい、はエルを生かす。
「怖いなら、今日は“戻ってきた”ってことだけでいい」
エルの胸が痛む。
痛むのは、やさしさが刺さるからだ。
刺さるのに、傷にならない。
血が出ない。
血が出ないのに、熱だけが増える。
エルの視界が滲む。
泣く手前。
泣くのが怖い。
でも、泣いても均されないと分かっている。
シャルが、手を伸ばす。
頬には触れない。
触れたら涙が落ちるから。
代わりに、エルの指先に触れる。
指先は逃げられる場所だ。
逃げられる触れ方が、上手い。
「……エル。今日は、ここにいて」
命令じゃない。
お願いでもない。
“いていい”の確認だ。
エルは頷く。
頷いた瞬間、呼吸が崩れる。
崩れた呼吸の奥で、やっと言葉が生まれる。
「……僕、もう……」
続かない。
続かないのを、シャルは急かさない。
エルはカップを持つ。
温度が指に移る。
移った温度が、身体に戻ってくる。
戻ってくる温度は、屋敷では許されなかったものだ。
「……明日じゃだめ?」
エルが、弱い声で言った。
“話す”の話じゃない。
“壊れる”の話だ。
シャルは首を振らない。
肯定もしない。
選択をエルに残す。
「明日でもいい。明後日でもいい。
でも——」
シャルは、そこで一拍置いた。
一拍置くことで、この先の言葉が“正しさ”にならないようにする。
「話したくなった時に、私に来て」
来て、という言葉は、縛らない。
戻れ、でも、ここにいろ、でもない。
エルに選ばせる言葉。
エルの胸の奥が、静かに決まる。
決まるのは、理性ではなく身体だ。
ここは、逃げ場じゃない。
帰る場所だ。
帰る場所なら、いつかは話さなければならない。
でも、話すことが義務じゃない。
エルは、震える息を吐いた。
「……シャル」
呼ぶ。
呼べる。
呼んでも、責任を取らされない。
呼んでも、整理されない。
「……ごめん」
小さく言う。
シャルは、また即答する。
「謝らなくていい」
そして、今度は少しだけ言葉を足した。
「帰ってきてくれて、ありがとう」
ありがとう。
評価じゃない。
管理じゃない。
手順じゃない。
ただ、受け取る言葉。
エルの目から、やっと何かが落ちた。
落ちても、誰も拾って刃にしない。
落ちたまま、温度だけが残る。
ここなら、壊れてもいいと思った。
壊れても、均されないと思った。
――ここが、帰る場所だと。
ようやく、身体が理解した。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
この第78話は、題名の通り「何も起きない日」のはずでした。事件も、戦いも、派手な展開もない。けれど――何も起きない、というのは「外側」の話で、エルの中では確かに何かが崩れていく夜でした。
ミレイユは母として来ます。
ただ、その“母”が完全に屋敷から自由ではない。
優しさの形をした言葉が、屋敷の語彙を纏ってしまう。
その綻びが、いちばん痛いところを刺してしまう。
エルが怒ったのは、責められたからでも、否定されたからでもなくて。
「守る」「大丈夫」「あなたのため」――それらが、彼の人生を何度も“正しく整えて”きたからです。
守るという言葉で守られたのではなく、守るという言葉で黙らされてきた。
その積み重ねが、あの夜、母の声をきっかけに溢れてしまいました。
そして最後に、シャルの部屋へ。
ここはエルにとっての“避難所”ではなく、“帰る場所”として描きたかった場所です。
正解を言わない。整理しない。急かさない。
ただ、温度と居場所だけを差し出す。
「大丈夫」ではなく「怖くていい」。
その一言が、エルをほどく鍵になってくれました。
次の話では、きっとエルは全部を言葉にできません。
でも、少しずつでも話し始められる。
話しても壊れない場所が、ここにはある――その確信だけで、この78話は終われると思いました。
また続きを書いていきます。
次も、見届けてもらえたら嬉しいです。




