77.何も起きない日の、影-2
屋敷の門をくぐった瞬間、空気が変わった。
湿り気が消え、音が均される。
外の風は確かに吹いていたはずなのに、門を越えたところから先では、風は「許可された分」しか入ってこない。
石畳の反射は均一で、影は深くならない。
影が深くならない場所では、感情もまた深くなりにくい。
エルは馬を降り、手綱を渡した。
門番は礼をするが、声は低く、短い。
「お帰りなさい」ではなかった。
「お待ちしておりました」でもない。
ただ、必要な動作だけがある。
――帰った、という感覚がない。
門の内側は、いつもそうだった。
迎え入れる場所ではなく、確認される場所。
自分がここに属しているかどうかを、言葉ではなく態度で量られる。
石畳を踏む音が一定に返ってくる。
この屋敷の「一定」は、安心ではない。
一定とは、こちらの揺れを許さないという意味だ。
揺れれば、均される。
均されるための手順が、ここには最初から組み込まれている。
使用人が近づき、行き先を告げる。
客間ではない。
父の私室でもない。
控えの間。
エルは頷き、歩き出す。
背中に視線は刺さらない。
刺さらないことが、逆に重い。
注目されていないのではなく、もう判断が終わっていると分かるからだ。
廊下は長く、音が少ない。
靴音が一定に響く。
一定であることが、安心にならない。
変化がないということは、こちらが何を感じていようと関係なく、進行が止まらないということだから。
扉の金具は磨かれている。
磨かれていることが、触れる者の指紋を許さない。
指紋は「人が触れた」という痕跡だ。
痕跡が残ると、誰かが処理しなければならない。
この屋敷が嫌うのは、処理の増加だった。
だから、最初から痕跡を残しにくいように作る。
作り方の時点で、感情の居場所がない。
控えの間に通される。
椅子は硬く、机は低い。
茶は出るが、香りは弱い。
冷めるのが早い。
時間を測るための道具として置かれているみたいだった。
茶碗の縁に指を添えると、陶器の温度がすでに落ちている。
温かいものが温かいままでいられる時間は、屋敷の内側では短い。
それは火力の問題ではなく、維持する意思の問題だ。
温度を維持する意思は、歓迎の意思に近い。
歓迎は、責任を生む。
責任が生まれると、迎え入れた側はその存在を「守る」義務を持つ。
守る義務を持つ者は、後で逃げられない。
だから、最初から温度を下げておく。
温度が下がっていれば、誰も巻き込まれない。
机の上には、余白が多い。
余白は客への配慮ではなく、物を置く者の都合を映す。
ここには、必要なものだけが置かれる。
逆に言えば、置かれていないものは「必要ではない」と扱われる。
砂時計がないのは、皮肉だった。
この屋敷には時間の道具が多いのに、落ちる砂のように可視化されるものは置かない。
可視化されれば、人は焦る。
焦れば、判断が乱れる。
乱れは屋敷の秩序にとって不都合だ。
不都合は、排除される。
排除の対象になる前に、人は自分で整えようとする。
整えようとする癖は、この屋敷で生きるための呼吸の仕方になっていた。
だから音だけがある。
時計の針が進む音。
廊下の遠い靴音。
火が爆ぜる気配。
気配だけで、実際の火は見せない。
見せる必要がないからだ。
見えない火は、誰のものにもならない。
誰のものにもならないものは、責任の所在が曖昧になる。
曖昧な責任は扱いにくい。
この屋敷は扱いにくいものを嫌う。
だから、見えない火すら「気配」だけにする。
気配なら、触れずに済む。
エルは背もたれに寄りかからない。
寄りかかれば、休んだ形になる。
休んだ形は隙になる。
この屋敷で隙を見せることは、慰めを受け取ることより危険だった。
慰めは借りになる。
借りは支配に変わる。
支配は「守る」という言葉を纏って戻ってくる。
守るという言葉は便利だ。
便利だから、誰も悪者にならない。
悪者がいないまま、拘束だけが完成する。
拘束が完成したあとで逃げようとすると、逃げた側だけが悪者になる。
この屋敷は、そういう形を好む。
部屋の隅に、花瓶が置かれている。
花は生けてある。
だが、季節に対して微妙にずれている。
この土地の野の花ではない。
選ばれた花だ。
選ばれたものは、自然ではない。
自然でないものほど、長持ちするように見える。
長持ちするように見えるだけで、実際は切り取られている。
切り取られたものは、いずれ枯れる。
枯れたら捨てられる。
捨てられることを前提に飾るものは、どこか冷たい。
冷たさが、この屋敷には似合う。
窓の外の庭は整っている。
整いすぎていて、何も感じない。
草は決められた高さに切られ、道は汚れず、石畳には苔すら許されない。
庭は「ここで起きることは管理されている」と告げるために存在しているみたいだった。
管理されている場所では、偶然は起きにくい。
偶然が起きない場所では、救いも起きにくい。
救いは多くの場合、偶然の形をして現れる。
この屋敷は、救いより秩序を優先する。
エルは茶を飲まない。
飲めば、口の中に温度が残る。
温度は感情を連れてくる。
ここでは余計なものだ。
待つ時間は、いつも「罰」ではない。
罰ならまだ分かりやすい。
これは整理だ。
整理の前の余白。
書類の束を机に置く前に、机上を拭き上げるような無言の工程。
――自分は、工程の中にいる。
そう思った瞬間、呼吸が少し浅くなる。
それを「緊張」と呼ぶと軽い。
緊張は自分の意思に属する。
けれど、いま胸にあるのは意思ではなく構造だった。
構造に触れたとき、身体は勝手に反応する。
構造の反応は、逃げ場がない。
逃げ場がない反応は、感情より先に身体を固める。
固まった身体は、言葉を少なくする。
言葉が少なければ、余計なものが増えない。
この屋敷は言葉を増やさない者を好む。
好まれるためにではない。
生き残るためにだ。
扉の外で小さく布が擦れる音がした。
侍女の衣擦れだ。
音は立てないはずの動作。
立てないように訓練された音。
それが聞こえたということは、訓練の向こう側まで神経が尖っているということだった。
エルは視線を上げない。
視線を上げれば、相手の顔を見る。
顔を見れば、相手は「見られた」と感じる。
「見られた」は関係の始まりだ。
関係は余計なものを連れてくる。
余計なものは噂になる。
噂は、誰の所有物でもない。
所有物でないものは、統制しにくい。
統制しにくいものが増えると、屋敷は締める。
締めるときに削られるのは、いつも弱い方だ。
エルはここに、関係を作りに来ていない。
作るのは結論だけ。
結論は、家が決める。
机の角に、微かな欠けがある。
この屋敷で欠けが残っているのは珍しい。
欠けを修復しない理由は二つしかない。
修復するほどの価値がないか、欠けが「必要」だからだ。
必要な欠け。
それは、完全に見えるものほど不自然だと示すための飾りみたいだった。
完全さは、嘘に近い。
嘘のような完全さは、人を安心させる。
安心すると、人は油断する。
油断した人間は、扱いやすい。
扱いやすさは、支配の入口になる。
欠けを残すことで、油断を防ぐ。
油断を防ぐことは、ここでは優しさではなく効率だった。
エルは指先でその欠けをなぞらない。
なぞれば、指先が覚える。
覚えたものは、今夜ひとりになった時に戻ってくる。
戻ってくるものを増やしたくない。
増えたものは、思考を増やす。
思考は判断を増やす。
判断は痛みを増やす。
――考えるな。
自分に言い聞かせる必要がある時点で、すでに考えている。
その事実だけが冷たく残る。
冷たいまま残るものは、後で溶けない。
溶けないものは、形のまま刺さる。
扉の向こうで足音が止まった。
一定の重さ。
一定の間隔。
迷いがない。
迷いがない足音は、来る者が「目的」を持っている証拠だ。
目的がある者は、こちらの感情に興味がない。
興味がない者は、正しさだけを運べる。
その正しさが、いちばん冷たい。
♢
扉が開く音。
足音。
一定の重さ。
父――アインが入ってくる。
視線は合わない。
椅子に座る前に、立ったまま言う。
「座れ」
それだけで、役割が確定する。
これは家族の会話ではない。
処理の開始だ。
エルは背筋を伸ばす。
姿勢を正す癖が、勝手に出る。
この場所で身についた癖だ。
姿勢が正しい者ほど、心の歪みは見えにくい。
見えにくい歪みは、周囲に見逃される。
見逃された歪みは、後で大きく折れる。
折れる時に音がしない折れ方は、最も危険だ。
危険なのに、この屋敷はその形を「整っている」と判断しやすい。
アインは向かいに座らない。
斜め。
対話ではなく、確認の距離。
「戻ったな」
肯定でも、安堵でもない。
事実確認。
「はい」
「半年だ」
唐突に置かれた言葉は、時間ではなく条件だった。
アインにとって半年は、心の整理ではない。
外の熱が冷めるまでの冷却期間だ。
「叙勲の余波が落ち着いた。噂が均された。――だから、今から締める」
締める。
その単語だけで、呼びつけの目的が確定した。
功績の評価ではない。
祝福でもない。
後処理だ。
「騎士団での功績は把握している」
評価が来る。
だが、胸は軽くならない。
この言葉は、報酬ではない。
功績は、褒美ではなく資料になる。
数値と記録に置き換えられ、家の棚に収まる。
戦いの中にあった熱や痛みは、ここへ持ち込めない。
持ち込めば、家の都合の外側が混ざるからだ。
混ざれば、判断が鈍る。
鈍った判断は、秩序を壊す。
秩序が壊れると、誰かが責任を取らされる。
責任を取らされるのは、たいてい弱い者だ。
弱い者が責任を取らされる仕組みが続くから、誰も強い者には逆らわない。
逆らわない空気が、この屋敷の土台になる。
アインは「把握」という言葉を選んだ。
称賛ではない。
喜びでもない。
把握。
人を人として触れる言葉ではなく、対象を管理する言葉。
エルは、相槌を打つ速度を一定に保つ。
遅れれば迷いに見える。
早ければ迎合に見える。
どちらも弱い。
弱さはこの場で許されない。
許されないものは、切り捨てられる。
「叙勲“後”の扱いが残っている」
アインは淡々と言う。
「官の名簿が整う。式典は終わっても、扱いは終わらない。――お前は“個人の騎士”ではなくなる」
個人ではなくなる。
それは昇る言葉の形をして、実際には括られる宣告だ。
括られる者は、外から見れば「守られている」。
守られている者は、動けない。
動けないことを安全と呼ぶ者は多い。
だが安全は、自由の代償として成立する。
代償が見えない形で支払われると、人は自分の自由が削れていることに気づきにくい。
気づきにくい削れ方は、最も残酷だ。
「王国直轄の部隊へ移す話が来ている。特務だ。任官も含めてだ。家として応じる」
直轄。
特務。
それは誉れの形をしている。
同時に、逃げ道を消す言葉でもある。
直轄は後ろ盾に見える。
後ろ盾は保護に見える。
保護は、拘束に似ている。
拘束は「守る」の顔で近づく。
エルの喉が、わずかに鳴りそうになって止まる。
止めたのは意思ではない。
癖だ。
この屋敷で身についた、音を小さくする癖。
音が小さければ、存在も小さくできる。
存在が小さければ、狙われにくい。
狙われにくいことは、生き残りに近い。
「お前が望むかどうかは関係ない」
関係ない、と言った。
言わない方が従わせやすいのに、アインは言った。
言ったということは、従うことがすでに前提で、確認の段階ですらないということだ。
「これは、お前の功績を守るためだ」
守る、が出る。
出た瞬間、反論が難しくなる。
守ると言われれば、拒む側が壊す側になる。
壊す側になりたくない者は、黙る。
黙る者が増えるほど、屋敷の言葉は強くなる。
アインは続ける。
「私生活も整理する。噂の温度が下がった今しかできない」
噂。
この屋敷の都合の良い刃。
誰の所有物でもないから、誰も責任を取らない。
責任を取らない刃は、よく切れる。
よく切れる刃ほど、血が出にくい切り方もできる。
血が出にくい切り方は、切られた側が自分で気づきにくい。
気づきにくい切り傷は、後から腐る。
「伯爵令嬢との関係だ」
名前は出さない。
肩書きで十分だという扱い。
「交際を否定するつもりはない」
否定しない。
それは許可の形をしているが、自由ではない。
自由なら「お前が決めろ」になる。
ここではならない。
「公の場では節度を守れ。振る舞いは事前に擦り合わせる。相手方の家とも手順を合わせる」
節度。
擦り合わせ。
手順。
愛情が手順に置き換わる。
手順になった瞬間、愛情は愛情ではなくなる。
しかし、手順にならなければ屋敷の外へ出せない。
出せないものは、屋敷の中で腐る。
腐ったものは噂になる。
アインは噂を嫌う。
噂は誰の所有物でもないからだ。
所有できないものは、統制できない。
統制できないものは危険だ。
「余計な噂を増やすな」
余計な。
必要な噂なら許される。
必要な噂とは、家の権威を補強するものだ。
勇名、叙勲、任官、婚約、社交。
それらは噂であっても、秩序の一部として機能する。
逆に、秩序に寄与しない噂は余計になる。
余計な噂は、余計な人間を連れてくる。
余計な人間は、感情を連れてくる。
感情は、秩序の外側だ。
「夜の習慣を、特務へ持ち込むな」
夜。
言葉はそれだけで、十分だった。
名は出ない。
名を出す必要がないほど、処理は終わっている。
処理が終わっているから、存在が「存在」として残らない。
残らないための手順が、すでに屋敷の内側で完了している。
不在が「不在」として成立するには、手順がいる。
誰も口にしない。
誰も探さない。
誰も説明を求めない。
そのための準備が屋敷の内側で完了している。
完了しているから、名が要らない。
ただ、誤読の余地が残る言葉でもある。
夜遊びでも、女遊びでも、自壊の癖でも、聞く者は別の影を想像できてしまう。
だから、影の方向を少しだけ絞る必要がある。
絞りすぎれば、責任が生まれる。
責任は、誰かを縛る。
縛りが増えれば、屋敷は不都合になる。
不都合を増やさずに影だけ絞る――それがこの屋敷の技術だ。
アインは、ほんの半歩だけ言葉を足した。
「不在は、不在として扱え」
名を出さないまま、指す。
“そこに触れるな”ではなく、
“触れたことにするな”でもなく、
“存在を確定させるな”という命令。
確定した瞬間に、物語になる。
物語になれば、人は意味を求める。
意味を求めれば、言葉が増える。
言葉が増えれば、誰かが答えなければならない。
答えを負わされる者が生まれる。
屋敷はそれを嫌う。
だから確定させない。
確定させないまま、処理だけを済ませる。
エルの胃の奥が冷たくなる。
怒りではない。
悲しみでもない。
感情として成立する前の、ただの反射。
反射を感情に育てたら、ここでは負ける。
負ければ、判断される。
判断されれば、次の整理が来る。
整理されるのは、いつも弱い方だ。
「屋敷の内側は整理した。混ぜるな」
混ぜるな。
命令としては短い。
短い命令は、実行しやすい。
実行しやすい命令ほど、人を縛る。
エルは拳を握らない。
握れば、血が巡る。
血が巡れば、温度が上がる。
温度が上がれば、言葉が出る。
言葉が出れば、関係が生まれる。
関係が生まれれば、誰かが責任を取らされる。
責任を取らされるのは、たぶん自分だ。
だから、握らない。
動かない。
表情を変えない。
冷たいまま、受け取る。
受け取れる者だけが、屋敷の外へ出られる。
「以上だ」
会話は終わる。
終わらせられる。
退室を告げられない。
自分で立ち上がるしかない。
エルは一礼し、扉へ向かう。
背中に声はかからない。
声がかからないことが、この処理の完成形だ。
引き止める言葉があれば、引き止めた側にも責任が生まれる。
責任が生まれることを、この屋敷は避ける。
避けるために、言葉を減らす。
言葉が減るほど、空白は増える。
空白が増えるほど、受け取る側は自分で埋めるしかなくなる。
自分で埋めた埋め方は、後から自分を縛る。
縛りが自己生成されるのが、最も効率がいい。
♢
廊下に出ると、空気が少しだけ緩む。
だが、温度は上がらない。
緩むのは、肺だけだ。
心は緩まない。
心が緩むには、誰かが「おかえり」と言う必要がある。
この屋敷では、その言葉は軽々しく使われない。
使われないというより、使えない。
誰かを迎え入れるという行為は、迎え入れた側にも責任を発生させるからだ。
責任を発生させない迎え入れなど、この屋敷には存在しない。
だから、最初から迎え入れない。
迎え入れているように見える動作だけを置く。
動作は残るが、温度は残らない。
残らない温度の代わりに、秩序だけが残る。
エルは廊下を歩く。
歩く速度は一定。
一定であることが自分の支えになる。
速度が乱れれば、内側が露出する。
露出したものは、判断材料になる。
判断材料になるものは、いずれ整理される。
整理されることを、エルは知っている。
知っているから、一定のまま歩く。
一定の歩幅は、抵抗ではなく防御だ。
曲がり角の手前で、空気が一段薄くなる。
湿度が変わるわけではない。
気配が変わる。
誰かが「そこにいる」と分かる程度の、最小限の存在感。
エルは視線を上げない。
上げなければ、見なかったことにできる。
見なかったことにできれば、会話は発生しない。
会話が発生しなければ、説明も発生しない。
説明が発生しなければ、感情は保留にできる。
保留にできる感情は、まだ凍らせられる。
凍らせられるうちは、折れない。
だが、足音が止まる。
止まったのは、自分ではない。
相手だ。
相手が止まったということは、相手が話す準備をしたということだ。
準備された会話は、偶然ではない。
偶然ではない言葉は、目的を持つ。
目的を持つ言葉は、まっすぐ刺さる。
刺さったあとも抜けにくい。
「エルディオ」
呼ばれ方が正しい。
正しい呼び方は距離を作る。
距離がある呼び方は、逃げ道を塞ぐ。
エルは足を止める。
止めた瞬間、背中に冷たい汗が滲む。
汗は感情ではない。
ただの身体の反応。
だが身体の反応が先に出る時、感情は後から必ず追いついてくる。
視線を上げる。
そこにいたのはミレイユだった。
服は地味で、装飾がない。
地味であることは、目立たないためではなく、波風を立てないためだ。
この屋敷で波風を立てない者は、長く生きる。
波風を立てない者は、言葉を飲み込むのが上手い。
飲み込んだ言葉が消えるとは限らない。
消えない言葉は、体のどこかに残る。
残った言葉は、ある夜に突然、骨の内側を刺す。
刺す場所が骨だと、痛みは表に出にくい。
表に出にくい痛みは、誰にも気づかれない。
気づかれない痛みは、長く続く。
「……少し、時間をくれる?」
丁寧さは残っている。
けれど、構文が少し崩れている。
“確認”ではない。
“お願い”に近い。
その崩れが、母の輪郭だった。
エルは頷く。
頷いたのは了承ではなく、拒否しないという反射だ。
拒否すれば、その理由を問われる。
問われれば、説明が必要になる。
説明が必要になれば、今の自分は折れる。
ミレイユは先導しない。
並びもしない。
一歩だけ前を歩く。
近すぎず遠すぎず、会話だけが成立する距離。
母子の距離ではない。
屋敷の距離だ。
屋敷の距離は安全に見える。
安全に見える距離ほど、実は残酷だ。
触れないから、救えない。
救えないから、罪悪感も発生しにくい。
罪悪感が発生しにくい関係は、長続きする。
長続きする冷たさが、この屋敷には多い。
案内されたのは小さな物置のような、空きの間だった。
客を迎える部屋ではない。
誰にも見られない場所。
見られない場所が選ばれるということは、この会話が「公式ではない」ということだ。
公式ではない会話は、責任を残さない。
責任を残さない言葉は、聞いた側だけが抱える。
ミレイユは椅子を勧めない。
立ったまま言う。
「中央へ……戻るのね」
事実の確認。
だが語尾の伸びが、温度を隠しきれていない。
屋敷の言葉で、母が言うと、どうしても痛みが漏れる。
漏れた痛みは、すぐに屋敷の空気が吸い取ろうとする。
吸い取られる前に言葉を切る。
そうやって生きてきた口だ。
「……はい」
「おめでとう、と言うべきなんでしょうね」
断定ではなく、ため息に近い。
“べき”という単語は、屋敷の空気に同調している証でもある。
同調していなければ、この屋敷で母は生き残れない。
生き残るための同調は、母であることを薄くする。
薄くした母性が、今はかえって痛々しい。
エルは答えない。
答えれば、礼を言うことになる。
礼を言えば、喜びを演じることになる。
演じれば、自分が自分ではなくなる。
自分が自分ではなくなるのは、戦場より怖い。
戦場は敵が明確だ。
ここでは敵が明確ではない。
明確でない敵は、どこまでも追ってくる。
沈黙が落ちる。
ミレイユは、その沈黙を恐れない。
恐れない者だけが、正しく刺せる。
「――探してはいけないものが、増える」
言い方は短い。
短い言葉は、逃げ道を奪う。
エルの喉が鳴る。
鳴っただけで、ミレイユは十分だと判断したように続ける。
「探すこと自体が、噂になる。……いまは、特に」
噂。
また同じ単語。
屋敷の人間は、感情の代わりに噂を使う。
噂は誰にも属さないから、誰も責任を取らずに人を切れる。
切る時に血を見ないための言葉。
血を見なければ、切った側は自分を責めなくて済む。
責めなくて済むから、切ることを繰り返せる。
繰り返される切断は、やがて文化になる。
文化になった切断は、止められない。
「あなたのためじゃない。……伯爵令嬢のため」
“守る”とは言わない。
ミレイユは“守る”を避ける。
避けるのは優しさではなく、正当化をしたくないからだ。
正当化は、人を安心させる代わりに、人を鈍らせる。
鈍った人間は、誰かの手順に従いやすい。
従いやすい者は、支配に適してしまう。
「……それは、父の言葉ですか」
エルがそう言うと、ミレイユは首を振らない。
肯定もしない。
ただ、一拍置いて言う。
「屋敷の空気よ」
屋敷の空気。
個人の意思より強いもの。
逆らうだけ無駄だと告げる言葉でもある。
ミレイユは、視線を外さずに言う。
「あなた、折れないように見える」
褒める温度がない。
観察の言葉だ。
「でも……折れない人ほど、折れる時に音がしない」
音がしない。
堤防が崩れているのに音がしない。
音がしない崩壊は、周囲に気づかれない。
気づかれない崩壊は、誰にも止められない。
エルは唇を噛まない。
噛めば痛みが出る。
痛みが出れば、感情が動く。
動けば、ここで負ける。
負けるというのは、声を出すことではない。
涙を見せることでもない。
屋敷に「扱いにくい」と思わせた瞬間、負ける。
扱いにくい者は、整理される。
ミレイユは一歩だけ近づいて、すぐに止まった。
近づきすぎない。
触れない。
触れれば、母になってしまう。
母になれば、屋敷の空気に逆らう形になる。
逆らう形になれば、母自身が整理される。
整理された母は、息子を守れない。
守れないなら、母がこの屋敷で生き残った意味が薄れる。
意味が薄れることに、彼女は耐えられない。
だから止まる。
止まることで、触れない愛情が成立する。
「ひとつだけ、訊くわ」
「……何を」
「今夜、泊まるの?」
泊まるかどうか。
単純な質問の形。
だが、実際は違う。
泊まれば、屋敷の中で“何か”に触れる確率が増える。
触れれば、噂になる。
噂になれば、伯爵令嬢の立場が傷つく。
それが父の論理。
そして屋敷の空気。
「……泊まる予定でした」
エルの声は低い。
低いまま、平坦にする。
平坦であれば、感情がないように見える。
ミレイユは頷く。
頷き方が、少しだけ疲れている。
疲れていることを見せるのは、この屋敷では危険だ。
危険なのに、それが漏れた。
漏れたこと自体が、母の限界だった。
「じゃあ……最小限にして」
最小限。
それは、存在を最小限にするということだ。
「必要なものだけ持って。朝には出て。屋敷の中を歩く時間を増やさないで」
「……命令ですか」
エルが言うと、ミレイユは首を横に振る。
「命令じゃない」
否定が先に出る。
母の言葉だ。
屋敷の言葉なら、まず条件が来る。
そして、ほんの少し遅れて、彼女は続けた。
「……でも、もう十分に命令は浴びたでしょう」
“浴びた”という語感が、屋敷の語彙からはみ出している。
はみ出したところに、母の皮膚が見える。
皮膚は、触れられないほど薄い。
薄い皮膚ほど、痛みが伝わりやすい。
痛みが伝わりやすいからこそ、彼女は厚く言葉を纏ってきた。
その厚みが、いま少しだけ剥がれた。
ミレイユは視線を落とす。
落としたまま、短く言う。
「エルディオ――」
一度、屋敷の呼び方が出てしまう。
それが怖い。
怖いから、彼女は息を吸って、言い直した。
「……エル」
呼び捨てではない。
ただ、肩書きを落とした音。
落とした音は、触れないまま触れる。
「ここで、探さないで。……あなた自身を壊す形で、探さないで」
それは命令ではない。
助言でもない。
祈りに近い。
けれど祈りにしてしまうと、屋敷の空気に負ける。
祈りは無力だ。
無力なものほど、この屋敷では切り捨てられる。
だから彼女は、最後を言い切らない。
言い切らないことで、責任を残さない。
責任を残さない形でしか、母は息子に触れられない。
エルは目を逸らさない。
逸らさないまま、言う。
「……分かりました」
分かった、と言うしかない。
分かった、と言った瞬間から、現実は速度を上げる。
ミレイユはそれ以上、何も言わない。
言わないことで、この会話は完成する。
完成する会話ほど、後から効く。
♢
扉を出て廊下へ戻る。
空気はまた均される。
さっきの言葉が嘘のように、屋敷は静かだ。
静かだからこそ、言葉だけが残る。
――探してはいけない。
――噂になる。
――折れる時に音がしない。
――最小限に。
――エル。
エルは歩きながら、自分に規則を課す。
――今夜は、凍らせる。
――泣かない。
――考えない。
――増やさない。
増やさない、というのが新しく加わる。
触れない。
見ない。
聞かない。
関係を増やさない。
関係を増やさなければ、責任を増やさずに済む。
責任を増やさなければ、整理される確率が下がる。
確率という言い方自体、すでにこの屋敷の思考に染まっている。
感情は確率で計れない。
だがここでは、計れるものだけが扱える。
扱えるものだけが残る。
残るために、計れるふりをする。
部屋に戻る。
使用人が必要なものを運ぶ。
運ばれるものは整っている。
整っているものは、屋敷の意思に従っている証拠だ。
屋敷の意思に従っているものは、責任が分散される。
分散された責任は、誰にも刺さらない。
刺さらない責任の中で人は生きる。
生きることが、ただの持続になる。
エルは荷を最小限にまとめる。
剣の手入れをする。
刃は嘘をつかない。
刃は「切れる/切れない」だけを示す。
人間より楽だ。
人間は、切れる時も切れない時も、言葉を纏ってしまう。
言葉は意味を生む。
意味は責任を生む。
責任は縛りを生む。
縛りは「守る」に化ける。
守るに化けた縛りは、美しい顔をしている。
美しい顔のものほど、人は拒めない。
油を引いた刃は、光を薄く返す。
薄い返りは、感情のようでいて、感情ではない。
感情に似ているが、感情ほど厄介ではない。
厄介ではないものは扱える。
扱えるものだけを、今夜は手元に置いておきたい。
扱えないものは、どこかへ追いやるしかない。
追いやったものが消えるとは限らない。
消えないものは、夜に戻ってくる。
戻ってきたものに触れれば、増える。
増えれば、噂になる。
噂になれば、誰かが傷つく。
誰かが傷つくなら、自分が一人で抱えるしかない。
そういう計算が、いつの間にか呼吸になっていた。
窓の外を見る。
庭は相変わらず整っている。
整っている庭を見ていると、自分も整えられる気がする。
整えられるのは救いではない。
ただ、均されるだけだ。
均された人間は、音を立てない。
音を立てない人間は、折れても気づかれない。
気づかれない折れ方が、いちばん長く残る。
均されたまま朝が来る。
均されたまま屋敷を出る。
均されたまま中央へ向かう――いや、向かわされる。
特務へ移る――いや、移される。
言い直しが増えるほど、自分の意思が薄くなる。
薄くなった意思は、ちぎれにくい。
ちぎれにくい代わりに、握れない。
握れない人生は、誰かに持たれたまま運ばれる。
――その流れに抗わないことが、今日の前進だとされる。
エルは息を吸う。
吐く。
吐く息は白い。
白いものは冷たい。
冷たいものは、形を持つ。
形を持ったまま、生きる。
それが、この屋敷のやり方だった。
「何も起きない」日は、たぶんいちばん厄介です。
出来事がないぶん、世界が壊すのは“音”ではなく“形”になる。
門をくぐった瞬間に変わる空気。
言葉の温度を剥がして、必要な工程だけが進む会話。
守るという名で、混ぜるなと言い切る強さ。
そして、母が母であることを一瞬だけ落としそうになる怖さ。
派手な衝突はありません。
けれど、だからこそ――影だけが伸びていく回になりました。
もしよければ、今回の話で
「刺さった一文」や「いちばん冷たかった瞬間」、逆に「母が漏れたと思ったところ」など、短くてもいいので感想で教えてください。
評価やブックマークも、続きの更新の力になります。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
次もまた、何も起きないようで、確実に進む話を書きます。




