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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
シャルロット編

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77.何も起きない日の、影-2

 

 屋敷の門をくぐった瞬間、空気が変わった。


 湿り気が消え、音が均される。

 外の風は確かに吹いていたはずなのに、門を越えたところから先では、風は「許可された分」しか入ってこない。

 石畳の反射は均一で、影は深くならない。

 影が深くならない場所では、感情もまた深くなりにくい。


 エルは馬を降り、手綱を渡した。

 門番は礼をするが、声は低く、短い。

「お帰りなさい」ではなかった。

「お待ちしておりました」でもない。

 ただ、必要な動作だけがある。


 ――帰った、という感覚がない。


 門の内側は、いつもそうだった。

 迎え入れる場所ではなく、確認される場所。

 自分がここに属しているかどうかを、言葉ではなく態度で量られる。


 石畳を踏む音が一定に返ってくる。

 この屋敷の「一定」は、安心ではない。

 一定とは、こちらの揺れを許さないという意味だ。

 揺れれば、均される。

 均されるための手順が、ここには最初から組み込まれている。


 使用人が近づき、行き先を告げる。

 客間ではない。

 父の私室でもない。

 控えの間。


 エルは頷き、歩き出す。

 背中に視線は刺さらない。

 刺さらないことが、逆に重い。

 注目されていないのではなく、もう判断が終わっていると分かるからだ。


 廊下は長く、音が少ない。

 靴音が一定に響く。

 一定であることが、安心にならない。

 変化がないということは、こちらが何を感じていようと関係なく、進行が止まらないということだから。


 扉の金具は磨かれている。

 磨かれていることが、触れる者の指紋を許さない。

 指紋は「人が触れた」という痕跡だ。

 痕跡が残ると、誰かが処理しなければならない。

 この屋敷が嫌うのは、処理の増加だった。

 だから、最初から痕跡を残しにくいように作る。

 作り方の時点で、感情の居場所がない。


 控えの間に通される。

 椅子は硬く、机は低い。

 茶は出るが、香りは弱い。

 冷めるのが早い。

 時間を測るための道具として置かれているみたいだった。


 茶碗の縁に指を添えると、陶器の温度がすでに落ちている。

 温かいものが温かいままでいられる時間は、屋敷の内側では短い。

 それは火力の問題ではなく、維持する意思の問題だ。

 温度を維持する意思は、歓迎の意思に近い。

 歓迎は、責任を生む。

 責任が生まれると、迎え入れた側はその存在を「守る」義務を持つ。

 守る義務を持つ者は、後で逃げられない。

 だから、最初から温度を下げておく。

 温度が下がっていれば、誰も巻き込まれない。


 机の上には、余白が多い。

 余白は客への配慮ではなく、物を置く者の都合を映す。

 ここには、必要なものだけが置かれる。

 逆に言えば、置かれていないものは「必要ではない」と扱われる。


 砂時計がないのは、皮肉だった。

 この屋敷には時間の道具が多いのに、落ちる砂のように可視化されるものは置かない。

 可視化されれば、人は焦る。

 焦れば、判断が乱れる。

 乱れは屋敷の秩序にとって不都合だ。

 不都合は、排除される。

 排除の対象になる前に、人は自分で整えようとする。

 整えようとする癖は、この屋敷で生きるための呼吸の仕方になっていた。


 だから音だけがある。

 時計の針が進む音。

 廊下の遠い靴音。

 火が爆ぜる気配。

 気配だけで、実際の火は見せない。

 見せる必要がないからだ。

 見えない火は、誰のものにもならない。

 誰のものにもならないものは、責任の所在が曖昧になる。

 曖昧な責任は扱いにくい。

 この屋敷は扱いにくいものを嫌う。

 だから、見えない火すら「気配」だけにする。

 気配なら、触れずに済む。


 エルは背もたれに寄りかからない。

 寄りかかれば、休んだ形になる。

 休んだ形は隙になる。

 この屋敷で隙を見せることは、慰めを受け取ることより危険だった。

 慰めは借りになる。

 借りは支配に変わる。

 支配は「守る」という言葉を纏って戻ってくる。

 守るという言葉は便利だ。

 便利だから、誰も悪者にならない。

 悪者がいないまま、拘束だけが完成する。

 拘束が完成したあとで逃げようとすると、逃げた側だけが悪者になる。

 この屋敷は、そういう形を好む。


 部屋の隅に、花瓶が置かれている。

 花は生けてある。

 だが、季節に対して微妙にずれている。

 この土地の野の花ではない。

 選ばれた花だ。

 選ばれたものは、自然ではない。

 自然でないものほど、長持ちするように見える。

 長持ちするように見えるだけで、実際は切り取られている。

 切り取られたものは、いずれ枯れる。

 枯れたら捨てられる。

 捨てられることを前提に飾るものは、どこか冷たい。

 冷たさが、この屋敷には似合う。


 窓の外の庭は整っている。

 整いすぎていて、何も感じない。

 草は決められた高さに切られ、道は汚れず、石畳には苔すら許されない。

 庭は「ここで起きることは管理されている」と告げるために存在しているみたいだった。

 管理されている場所では、偶然は起きにくい。

 偶然が起きない場所では、救いも起きにくい。

 救いは多くの場合、偶然の形をして現れる。

 この屋敷は、救いより秩序を優先する。


 エルは茶を飲まない。

 飲めば、口の中に温度が残る。

 温度は感情を連れてくる。

 ここでは余計なものだ。


 待つ時間は、いつも「罰」ではない。

 罰ならまだ分かりやすい。

 これは整理だ。

 整理の前の余白。

 書類の束を机に置く前に、机上を拭き上げるような無言の工程。


 ――自分は、工程の中にいる。


 そう思った瞬間、呼吸が少し浅くなる。

 それを「緊張」と呼ぶと軽い。

 緊張は自分の意思に属する。

 けれど、いま胸にあるのは意思ではなく構造だった。

 構造に触れたとき、身体は勝手に反応する。

 構造の反応は、逃げ場がない。

 逃げ場がない反応は、感情より先に身体を固める。

 固まった身体は、言葉を少なくする。

 言葉が少なければ、余計なものが増えない。

 この屋敷は言葉を増やさない者を好む。

 好まれるためにではない。

 生き残るためにだ。


 扉の外で小さく布が擦れる音がした。

 侍女の衣擦れだ。

 音は立てないはずの動作。

 立てないように訓練された音。

 それが聞こえたということは、訓練の向こう側まで神経が尖っているということだった。


 エルは視線を上げない。

 視線を上げれば、相手の顔を見る。

 顔を見れば、相手は「見られた」と感じる。

「見られた」は関係の始まりだ。

 関係は余計なものを連れてくる。

 余計なものは噂になる。

 噂は、誰の所有物でもない。

 所有物でないものは、統制しにくい。

 統制しにくいものが増えると、屋敷は締める。

 締めるときに削られるのは、いつも弱い方だ。


 エルはここに、関係を作りに来ていない。

 作るのは結論だけ。

 結論は、家が決める。


 机の角に、微かな欠けがある。

 この屋敷で欠けが残っているのは珍しい。

 欠けを修復しない理由は二つしかない。

 修復するほどの価値がないか、欠けが「必要」だからだ。

 必要な欠け。

 それは、完全に見えるものほど不自然だと示すための飾りみたいだった。

 完全さは、嘘に近い。

 嘘のような完全さは、人を安心させる。

 安心すると、人は油断する。

 油断した人間は、扱いやすい。

 扱いやすさは、支配の入口になる。

 欠けを残すことで、油断を防ぐ。

 油断を防ぐことは、ここでは優しさではなく効率だった。


 エルは指先でその欠けをなぞらない。

 なぞれば、指先が覚える。

 覚えたものは、今夜ひとりになった時に戻ってくる。

 戻ってくるものを増やしたくない。

 増えたものは、思考を増やす。

 思考は判断を増やす。

 判断は痛みを増やす。


 ――考えるな。


 自分に言い聞かせる必要がある時点で、すでに考えている。

 その事実だけが冷たく残る。

 冷たいまま残るものは、後で溶けない。

 溶けないものは、形のまま刺さる。


 扉の向こうで足音が止まった。

 一定の重さ。

 一定の間隔。

 迷いがない。

 迷いがない足音は、来る者が「目的」を持っている証拠だ。


 目的がある者は、こちらの感情に興味がない。

 興味がない者は、正しさだけを運べる。


 その正しさが、いちばん冷たい。


 ♢


 扉が開く音。

 足音。

 一定の重さ。


 父――アインが入ってくる。


 視線は合わない。

 椅子に座る前に、立ったまま言う。


「座れ」


 それだけで、役割が確定する。

 これは家族の会話ではない。

 処理の開始だ。


 エルは背筋を伸ばす。

 姿勢を正す癖が、勝手に出る。

 この場所で身についた癖だ。

 姿勢が正しい者ほど、心の歪みは見えにくい。

 見えにくい歪みは、周囲に見逃される。

 見逃された歪みは、後で大きく折れる。

 折れる時に音がしない折れ方は、最も危険だ。

 危険なのに、この屋敷はその形を「整っている」と判断しやすい。


 アインは向かいに座らない。

 斜め。

 対話ではなく、確認の距離。


「戻ったな」


 肯定でも、安堵でもない。

 事実確認。


「はい」


「半年だ」


 唐突に置かれた言葉は、時間ではなく条件だった。

 アインにとって半年は、心の整理ではない。

 外の熱が冷めるまでの冷却期間だ。


「叙勲の余波が落ち着いた。噂が均された。――だから、今から締める」


 締める。

 その単語だけで、呼びつけの目的が確定した。

 功績の評価ではない。

 祝福でもない。

 後処理だ。


「騎士団での功績は把握している」


 評価が来る。

 だが、胸は軽くならない。

 この言葉は、報酬ではない。


 功績は、褒美ではなく資料になる。

 数値と記録に置き換えられ、家の棚に収まる。

 戦いの中にあった熱や痛みは、ここへ持ち込めない。

 持ち込めば、家の都合の外側が混ざるからだ。

 混ざれば、判断が鈍る。

 鈍った判断は、秩序を壊す。

 秩序が壊れると、誰かが責任を取らされる。

 責任を取らされるのは、たいてい弱い者だ。

 弱い者が責任を取らされる仕組みが続くから、誰も強い者には逆らわない。

 逆らわない空気が、この屋敷の土台になる。


 アインは「把握」という言葉を選んだ。

 称賛ではない。

 喜びでもない。

 把握。

 人を人として触れる言葉ではなく、対象を管理する言葉。


 エルは、相槌を打つ速度を一定に保つ。

 遅れれば迷いに見える。

 早ければ迎合に見える。

 どちらも弱い。

 弱さはこの場で許されない。

 許されないものは、切り捨てられる。


「叙勲“後”の扱いが残っている」


 アインは淡々と言う。


「官の名簿が整う。式典は終わっても、扱いは終わらない。――お前は“個人の騎士”ではなくなる」


 個人ではなくなる。

 それは昇る言葉の形をして、実際には括られる宣告だ。

 括られる者は、外から見れば「守られている」。

 守られている者は、動けない。

 動けないことを安全と呼ぶ者は多い。

 だが安全は、自由の代償として成立する。

 代償が見えない形で支払われると、人は自分の自由が削れていることに気づきにくい。

 気づきにくい削れ方は、最も残酷だ。


「王国直轄の部隊へ移す話が来ている。特務だ。任官も含めてだ。家として応じる」


 直轄。

 特務。

 それは誉れの形をしている。

 同時に、逃げ道を消す言葉でもある。

 直轄は後ろ盾に見える。

 後ろ盾は保護に見える。

 保護は、拘束に似ている。

 拘束は「守る」の顔で近づく。


 エルの喉が、わずかに鳴りそうになって止まる。

 止めたのは意思ではない。

 癖だ。

 この屋敷で身についた、音を小さくする癖。

 音が小さければ、存在も小さくできる。

 存在が小さければ、狙われにくい。

 狙われにくいことは、生き残りに近い。


「お前が望むかどうかは関係ない」


 関係ない、と言った。

 言わない方が従わせやすいのに、アインは言った。

 言ったということは、従うことがすでに前提で、確認の段階ですらないということだ。


「これは、お前の功績を守るためだ」


 守る、が出る。

 出た瞬間、反論が難しくなる。

 守ると言われれば、拒む側が壊す側になる。

 壊す側になりたくない者は、黙る。

 黙る者が増えるほど、屋敷の言葉は強くなる。


 アインは続ける。


「私生活も整理する。噂の温度が下がった今しかできない」


 噂。

 この屋敷の都合の良い刃。

 誰の所有物でもないから、誰も責任を取らない。

 責任を取らない刃は、よく切れる。

 よく切れる刃ほど、血が出にくい切り方もできる。

 血が出にくい切り方は、切られた側が自分で気づきにくい。

 気づきにくい切り傷は、後から腐る。


「伯爵令嬢との関係だ」


 名前は出さない。

 肩書きで十分だという扱い。


「交際を否定するつもりはない」


 否定しない。

 それは許可の形をしているが、自由ではない。

 自由なら「お前が決めろ」になる。

 ここではならない。


「公の場では節度を守れ。振る舞いは事前に擦り合わせる。相手方の家とも手順を合わせる」


 節度。

 擦り合わせ。

 手順。

 愛情が手順に置き換わる。

 手順になった瞬間、愛情は愛情ではなくなる。

 しかし、手順にならなければ屋敷の外へ出せない。

 出せないものは、屋敷の中で腐る。

 腐ったものは噂になる。


 アインは噂を嫌う。

 噂は誰の所有物でもないからだ。

 所有できないものは、統制できない。

 統制できないものは危険だ。


「余計な噂を増やすな」


 余計な。

 必要な噂なら許される。

 必要な噂とは、家の権威を補強するものだ。

 勇名、叙勲、任官、婚約、社交。

 それらは噂であっても、秩序の一部として機能する。

 逆に、秩序に寄与しない噂は余計になる。

 余計な噂は、余計な人間を連れてくる。

 余計な人間は、感情を連れてくる。

 感情は、秩序の外側だ。


「夜の習慣を、特務へ持ち込むな」


 夜。

 言葉はそれだけで、十分だった。

 名は出ない。

 名を出す必要がないほど、処理は終わっている。

 処理が終わっているから、存在が「存在」として残らない。

 残らないための手順が、すでに屋敷の内側で完了している。


 不在が「不在」として成立するには、手順がいる。

 誰も口にしない。

 誰も探さない。

 誰も説明を求めない。

 そのための準備が屋敷の内側で完了している。

 完了しているから、名が要らない。


 ただ、誤読の余地が残る言葉でもある。

 夜遊びでも、女遊びでも、自壊の癖でも、聞く者は別の影を想像できてしまう。

 だから、影の方向を少しだけ絞る必要がある。

 絞りすぎれば、責任が生まれる。

 責任は、誰かを縛る。

 縛りが増えれば、屋敷は不都合になる。

 不都合を増やさずに影だけ絞る――それがこの屋敷の技術だ。


 アインは、ほんの半歩だけ言葉を足した。


「不在は、不在として扱え」


 名を出さないまま、指す。

 “そこに触れるな”ではなく、

 “触れたことにするな”でもなく、

 “存在を確定させるな”という命令。


 確定した瞬間に、物語になる。

 物語になれば、人は意味を求める。

 意味を求めれば、言葉が増える。

 言葉が増えれば、誰かが答えなければならない。

 答えを負わされる者が生まれる。

 屋敷はそれを嫌う。

 だから確定させない。

 確定させないまま、処理だけを済ませる。


 エルの胃の奥が冷たくなる。

 怒りではない。

 悲しみでもない。

 感情として成立する前の、ただの反射。


 反射を感情に育てたら、ここでは負ける。

 負ければ、判断される。

 判断されれば、次の整理が来る。


 整理されるのは、いつも弱い方だ。


「屋敷の内側は整理した。混ぜるな」


 混ぜるな。

 命令としては短い。

 短い命令は、実行しやすい。

 実行しやすい命令ほど、人を縛る。


 エルは拳を握らない。

 握れば、血が巡る。

 血が巡れば、温度が上がる。

 温度が上がれば、言葉が出る。

 言葉が出れば、関係が生まれる。

 関係が生まれれば、誰かが責任を取らされる。

 責任を取らされるのは、たぶん自分だ。


 だから、握らない。

 動かない。

 表情を変えない。


 冷たいまま、受け取る。

 受け取れる者だけが、屋敷の外へ出られる。


「以上だ」


 会話は終わる。

 終わらせられる。


 退室を告げられない。

 自分で立ち上がるしかない。


 エルは一礼し、扉へ向かう。

 背中に声はかからない。

 声がかからないことが、この処理の完成形だ。

 引き止める言葉があれば、引き止めた側にも責任が生まれる。

 責任が生まれることを、この屋敷は避ける。

 避けるために、言葉を減らす。

 言葉が減るほど、空白は増える。

 空白が増えるほど、受け取る側は自分で埋めるしかなくなる。

 自分で埋めた埋め方は、後から自分を縛る。

 縛りが自己生成されるのが、最も効率がいい。


 ♢


 廊下に出ると、空気が少しだけ緩む。

 だが、温度は上がらない。


 緩むのは、肺だけだ。

 心は緩まない。

 心が緩むには、誰かが「おかえり」と言う必要がある。

 この屋敷では、その言葉は軽々しく使われない。

 使われないというより、使えない。

 誰かを迎え入れるという行為は、迎え入れた側にも責任を発生させるからだ。

 責任を発生させない迎え入れなど、この屋敷には存在しない。

 だから、最初から迎え入れない。

 迎え入れているように見える動作だけを置く。

 動作は残るが、温度は残らない。

 残らない温度の代わりに、秩序だけが残る。


 エルは廊下を歩く。

 歩く速度は一定。

 一定であることが自分の支えになる。

 速度が乱れれば、内側が露出する。

 露出したものは、判断材料になる。

 判断材料になるものは、いずれ整理される。

 整理されることを、エルは知っている。

 知っているから、一定のまま歩く。

 一定の歩幅は、抵抗ではなく防御だ。


 曲がり角の手前で、空気が一段薄くなる。

 湿度が変わるわけではない。

 気配が変わる。

 誰かが「そこにいる」と分かる程度の、最小限の存在感。


 エルは視線を上げない。

 上げなければ、見なかったことにできる。

 見なかったことにできれば、会話は発生しない。

 会話が発生しなければ、説明も発生しない。

 説明が発生しなければ、感情は保留にできる。

 保留にできる感情は、まだ凍らせられる。

 凍らせられるうちは、折れない。


 だが、足音が止まる。


 止まったのは、自分ではない。

 相手だ。

 相手が止まったということは、相手が話す準備をしたということだ。

 準備された会話は、偶然ではない。

 偶然ではない言葉は、目的を持つ。

 目的を持つ言葉は、まっすぐ刺さる。

 刺さったあとも抜けにくい。


「エルディオ」


 呼ばれ方が正しい。

 正しい呼び方は距離を作る。

 距離がある呼び方は、逃げ道を塞ぐ。


 エルは足を止める。

 止めた瞬間、背中に冷たい汗が滲む。

 汗は感情ではない。

 ただの身体の反応。

 だが身体の反応が先に出る時、感情は後から必ず追いついてくる。


 視線を上げる。

 そこにいたのはミレイユだった。

 服は地味で、装飾がない。

 地味であることは、目立たないためではなく、波風を立てないためだ。

 この屋敷で波風を立てない者は、長く生きる。

 波風を立てない者は、言葉を飲み込むのが上手い。

 飲み込んだ言葉が消えるとは限らない。

 消えない言葉は、体のどこかに残る。

 残った言葉は、ある夜に突然、骨の内側を刺す。

 刺す場所が骨だと、痛みは表に出にくい。

 表に出にくい痛みは、誰にも気づかれない。

 気づかれない痛みは、長く続く。


「……少し、時間をくれる?」


 丁寧さは残っている。

 けれど、構文が少し崩れている。

 “確認”ではない。

 “お願い”に近い。


 その崩れが、母の輪郭だった。


 エルは頷く。

 頷いたのは了承ではなく、拒否しないという反射だ。

 拒否すれば、その理由を問われる。

 問われれば、説明が必要になる。

 説明が必要になれば、今の自分は折れる。


 ミレイユは先導しない。

 並びもしない。

 一歩だけ前を歩く。

 近すぎず遠すぎず、会話だけが成立する距離。

 母子の距離ではない。

 屋敷の距離だ。

 屋敷の距離は安全に見える。

 安全に見える距離ほど、実は残酷だ。

 触れないから、救えない。

 救えないから、罪悪感も発生しにくい。

 罪悪感が発生しにくい関係は、長続きする。

 長続きする冷たさが、この屋敷には多い。


 案内されたのは小さな物置のような、空きの間だった。

 客を迎える部屋ではない。

 誰にも見られない場所。

 見られない場所が選ばれるということは、この会話が「公式ではない」ということだ。

 公式ではない会話は、責任を残さない。

 責任を残さない言葉は、聞いた側だけが抱える。


 ミレイユは椅子を勧めない。

 立ったまま言う。


「中央へ……戻るのね」


 事実の確認。

 だが語尾の伸びが、温度を隠しきれていない。

 屋敷の言葉で、母が言うと、どうしても痛みが漏れる。

 漏れた痛みは、すぐに屋敷の空気が吸い取ろうとする。

 吸い取られる前に言葉を切る。

 そうやって生きてきた口だ。


「……はい」


「おめでとう、と言うべきなんでしょうね」


 断定ではなく、ため息に近い。

 “べき”という単語は、屋敷の空気に同調している証でもある。

 同調していなければ、この屋敷で母は生き残れない。

 生き残るための同調は、母であることを薄くする。

 薄くした母性が、今はかえって痛々しい。


 エルは答えない。

 答えれば、礼を言うことになる。

 礼を言えば、喜びを演じることになる。

 演じれば、自分が自分ではなくなる。

 自分が自分ではなくなるのは、戦場より怖い。

 戦場は敵が明確だ。

 ここでは敵が明確ではない。

 明確でない敵は、どこまでも追ってくる。


 沈黙が落ちる。

 ミレイユは、その沈黙を恐れない。

 恐れない者だけが、正しく刺せる。


「――探してはいけないものが、増える」


 言い方は短い。

 短い言葉は、逃げ道を奪う。


 エルの喉が鳴る。

 鳴っただけで、ミレイユは十分だと判断したように続ける。


「探すこと自体が、噂になる。……いまは、特に」


 噂。

 また同じ単語。

 屋敷の人間は、感情の代わりに噂を使う。

 噂は誰にも属さないから、誰も責任を取らずに人を切れる。

 切る時に血を見ないための言葉。

 血を見なければ、切った側は自分を責めなくて済む。

 責めなくて済むから、切ることを繰り返せる。

 繰り返される切断は、やがて文化になる。

 文化になった切断は、止められない。


「あなたのためじゃない。……伯爵令嬢のため」


 “守る”とは言わない。

 ミレイユは“守る”を避ける。

 避けるのは優しさではなく、正当化をしたくないからだ。

 正当化は、人を安心させる代わりに、人を鈍らせる。

 鈍った人間は、誰かの手順に従いやすい。

 従いやすい者は、支配に適してしまう。


「……それは、父の言葉ですか」


 エルがそう言うと、ミレイユは首を振らない。

 肯定もしない。

 ただ、一拍置いて言う。


「屋敷の空気よ」


 屋敷の空気。

 個人の意思より強いもの。

 逆らうだけ無駄だと告げる言葉でもある。


 ミレイユは、視線を外さずに言う。


「あなた、折れないように見える」


 褒める温度がない。

 観察の言葉だ。


「でも……折れない人ほど、折れる時に音がしない」


 音がしない。

 堤防が崩れているのに音がしない。

 音がしない崩壊は、周囲に気づかれない。

 気づかれない崩壊は、誰にも止められない。


 エルは唇を噛まない。

 噛めば痛みが出る。

 痛みが出れば、感情が動く。

 動けば、ここで負ける。

 負けるというのは、声を出すことではない。

 涙を見せることでもない。

 屋敷に「扱いにくい」と思わせた瞬間、負ける。

 扱いにくい者は、整理される。


 ミレイユは一歩だけ近づいて、すぐに止まった。

 近づきすぎない。

 触れない。

 触れれば、母になってしまう。

 母になれば、屋敷の空気に逆らう形になる。

 逆らう形になれば、母自身が整理される。

 整理された母は、息子を守れない。

 守れないなら、母がこの屋敷で生き残った意味が薄れる。

 意味が薄れることに、彼女は耐えられない。

 だから止まる。

 止まることで、触れない愛情が成立する。


「ひとつだけ、訊くわ」


「……何を」


「今夜、泊まるの?」


 泊まるかどうか。

 単純な質問の形。

 だが、実際は違う。


 泊まれば、屋敷の中で“何か”に触れる確率が増える。

 触れれば、噂になる。

 噂になれば、伯爵令嬢の立場が傷つく。

 それが父の論理。

 そして屋敷の空気。


「……泊まる予定でした」


 エルの声は低い。

 低いまま、平坦にする。

 平坦であれば、感情がないように見える。


 ミレイユは頷く。

 頷き方が、少しだけ疲れている。

 疲れていることを見せるのは、この屋敷では危険だ。

 危険なのに、それが漏れた。

 漏れたこと自体が、母の限界だった。


「じゃあ……最小限にして」


 最小限。

 それは、存在を最小限にするということだ。


「必要なものだけ持って。朝には出て。屋敷の中を歩く時間を増やさないで」


「……命令ですか」


 エルが言うと、ミレイユは首を横に振る。


「命令じゃない」


 否定が先に出る。

 母の言葉だ。

 屋敷の言葉なら、まず条件が来る。


 そして、ほんの少し遅れて、彼女は続けた。


「……でも、もう十分に命令は浴びたでしょう」


 “浴びた”という語感が、屋敷の語彙からはみ出している。

 はみ出したところに、母の皮膚が見える。

 皮膚は、触れられないほど薄い。

 薄い皮膚ほど、痛みが伝わりやすい。

 痛みが伝わりやすいからこそ、彼女は厚く言葉を纏ってきた。

 その厚みが、いま少しだけ剥がれた。


 ミレイユは視線を落とす。

 落としたまま、短く言う。


「エルディオ――」


 一度、屋敷の呼び方が出てしまう。

 それが怖い。

 怖いから、彼女は息を吸って、言い直した。


「……エル」


 呼び捨てではない。

 ただ、肩書きを落とした音。


 落とした音は、触れないまま触れる。


「ここで、探さないで。……あなた自身を壊す形で、探さないで」


 それは命令ではない。

 助言でもない。

 祈りに近い。

 けれど祈りにしてしまうと、屋敷の空気に負ける。

 祈りは無力だ。

 無力なものほど、この屋敷では切り捨てられる。

 だから彼女は、最後を言い切らない。

 言い切らないことで、責任を残さない。

 責任を残さない形でしか、母は息子に触れられない。


 エルは目を逸らさない。

 逸らさないまま、言う。


「……分かりました」


 分かった、と言うしかない。

 分かった、と言った瞬間から、現実は速度を上げる。


 ミレイユはそれ以上、何も言わない。

 言わないことで、この会話は完成する。

 完成する会話ほど、後から効く。


 ♢


 扉を出て廊下へ戻る。

 空気はまた均される。

 さっきの言葉が嘘のように、屋敷は静かだ。


 静かだからこそ、言葉だけが残る。


 ――探してはいけない。

 ――噂になる。

 ――折れる時に音がしない。

 ――最小限に。

 ――エル。


 エルは歩きながら、自分に規則を課す。


 ――今夜は、凍らせる。

 ――泣かない。

 ――考えない。

 ――増やさない。


 増やさない、というのが新しく加わる。

 触れない。

 見ない。

 聞かない。

 関係を増やさない。

 関係を増やさなければ、責任を増やさずに済む。

 責任を増やさなければ、整理される確率が下がる。

 確率という言い方自体、すでにこの屋敷の思考に染まっている。

 感情は確率で計れない。

 だがここでは、計れるものだけが扱える。

 扱えるものだけが残る。

 残るために、計れるふりをする。


 部屋に戻る。

 使用人が必要なものを運ぶ。

 運ばれるものは整っている。

 整っているものは、屋敷の意思に従っている証拠だ。

 屋敷の意思に従っているものは、責任が分散される。

 分散された責任は、誰にも刺さらない。

 刺さらない責任の中で人は生きる。

 生きることが、ただの持続になる。


 エルは荷を最小限にまとめる。

 剣の手入れをする。

 刃は嘘をつかない。

 刃は「切れる/切れない」だけを示す。

 人間より楽だ。

 人間は、切れる時も切れない時も、言葉を纏ってしまう。

 言葉は意味を生む。

 意味は責任を生む。

 責任は縛りを生む。

 縛りは「守る」に化ける。

 守るに化けた縛りは、美しい顔をしている。

 美しい顔のものほど、人は拒めない。


 油を引いた刃は、光を薄く返す。

 薄い返りは、感情のようでいて、感情ではない。

 感情に似ているが、感情ほど厄介ではない。

 厄介ではないものは扱える。

 扱えるものだけを、今夜は手元に置いておきたい。

 扱えないものは、どこかへ追いやるしかない。

 追いやったものが消えるとは限らない。

 消えないものは、夜に戻ってくる。

 戻ってきたものに触れれば、増える。

 増えれば、噂になる。

 噂になれば、誰かが傷つく。

 誰かが傷つくなら、自分が一人で抱えるしかない。

 そういう計算が、いつの間にか呼吸になっていた。


 窓の外を見る。

 庭は相変わらず整っている。

 整っている庭を見ていると、自分も整えられる気がする。

 整えられるのは救いではない。

 ただ、均されるだけだ。

 均された人間は、音を立てない。

 音を立てない人間は、折れても気づかれない。

 気づかれない折れ方が、いちばん長く残る。


 均されたまま朝が来る。

 均されたまま屋敷を出る。

 均されたまま中央へ向かう――いや、向かわされる。

 特務へ移る――いや、移される。

 言い直しが増えるほど、自分の意思が薄くなる。

 薄くなった意思は、ちぎれにくい。

 ちぎれにくい代わりに、握れない。

 握れない人生は、誰かに持たれたまま運ばれる。


 ――その流れに抗わないことが、今日の前進だとされる。


 エルは息を吸う。

 吐く。

 吐く息は白い。

 白いものは冷たい。

 冷たいものは、形を持つ。


 形を持ったまま、生きる。


 それが、この屋敷のやり方だった。

「何も起きない」日は、たぶんいちばん厄介です。

出来事がないぶん、世界が壊すのは“音”ではなく“形”になる。


門をくぐった瞬間に変わる空気。

言葉の温度を剥がして、必要な工程だけが進む会話。

守るという名で、混ぜるなと言い切る強さ。

そして、母が母であることを一瞬だけ落としそうになる怖さ。


派手な衝突はありません。

けれど、だからこそ――影だけが伸びていく回になりました。


もしよければ、今回の話で

「刺さった一文」や「いちばん冷たかった瞬間」、逆に「母が漏れたと思ったところ」など、短くてもいいので感想で教えてください。

評価やブックマークも、続きの更新の力になります。


ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。

次もまた、何も起きないようで、確実に進む話を書きます。


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