76. 何も起きない日の、影-1
三日間の休暇は、思っていたよりも短く感じた。
騎士団の日常が当たり前になってから、長くまとまった時間をもらうのは、これが初めてだった。
休暇、と言われても、何をすればいいのか最初は分からない。
訓練も任務もない時間に、身体の置きどころがなくて、落ち着かない。
休みなのに、休んでいる実感だけが薄い。
何もしないでいると、頭の中の音が大きくなる。
けれど、手紙のことを思い出した。
アインからの、ぶっきらぼうで、相変わらず要件しか書いていない文面。
――一度、家に戻ってこい。
理由は書かれていなかった。
でも、それで十分だった。
理由を尋ねれば、それはたぶん逃げ道になる。
拒むための言い訳になる。
だから、もう聞かない。
逃げる理由も、拒む理由も、もうなかった。
僕は馬を走らせ、懐かしい道を進んだ。
風景は、ほとんど変わっていない。
畑の並び、川沿いの道の曲がり方、木々の影の落ちる角度。
変わったのは、僕だけだ。
変わってしまったのは、僕だけだ
――そう思うほどに、景色は容赦なく昔のままだった。
屋敷に顔を出す前に、立ち寄る場所があった。
馬を降りて、歩く。
小さな墓地。
石畳の奥、見慣れた墓標。
そこに、彼女は眠っている。
……いや、眠っている、なんて言い方は違うかもしれない。
眠りなら、起きる。
彼女は、起きない。
だからこれは、眠りじゃない。
分かっているのに、口にすると喉が裂けそうで、
僕はまだ正しい言い方を選べない。
僕は、墓の前に立った。
驚いたことに、墓の周囲はきれいに整えられていた。
雑草は抜かれ、花は枯れていない。
石の縁に溜まるはずの土埃さえ払われている。
誰かが、定期的に手入れをしている。
雨が降っても、風が吹いても、季節が変わっても、
――「ここに人の手が入っている」と一目で分かる整い方だった。
それが誰なのか、分からなくてもいい。
知る資格があるのかも分からない。
けれど、それだけで胸の奥が少しだけ楽になった。
彼女が一人きりで放置されていない、と分かるだけで、僕の中の罪が少しだけ薄まる気がした。
僕は、ゆっくり息を吸ってから、口を開いた。
「……ただいま、リィナ」
声は、思ったよりも落ち着いていた。
泣きそうになると思っていたのに、涙はまだ出なかった。
泣く準備はしてきたはずなのに、身体がそれを拒むみたいに固い。
泣いたら最後、戻れなくなる。
――どこかでまだそう思っているのかもしれない。
「ここに来るの、久しぶりだね」
墓石に手を置く。
冷たい。
でも、その冷たさが現実を教えてくれる。
温度がないということは、ここにいるのは身体じゃないということだ。
分かっている。
分かっているのに、指先がそこを離れようとしない。
「君が亡くなってから……五年だ」
五年。
言葉にすると短い。
でも、その一日一日を、僕ははっきり覚えている。
朝の光の色も、夜の沈み方も、季節の匂いも。
五年分の「君がいない」を、僕は勝手に積み重ねた。
「一日も、忘れなかったよ」
嘘じゃない。
本当に、一度も忘れたことはない。
忘れたら、君がいなくなってしまう気がして――それが、怖かった。
「忘れたら、君がいなくなってしまう気がして……それが、怖かった」
僕は、墓の前に膝をついた。
視線が自然と下がる。
頭を下げるのは祈りみたいで嫌だった。
でも、立ったままだと僕は強がってしまう。
今日は強がりたくない。
「僕は……君を愛していた」
はっきりと言う。
逃げない。
逃げたくない。
逃げたところで、結局戻ってくる言葉だから。
「今でも、愛してる」
胸の奥が少し痛む。
でも、これは嘘じゃない。
「その気持ちに、嘘はないよ」
風が木々を揺らす。
葉擦れの音がやけに優しく聞こえた。
優しいのに、胸がきゅっと締まる。
優しさはいつだって残酷だ。
優しいほど、「君がいない」がくっきりする。
「……でもね」
そこで、少しだけ言葉に詰まった。
喉の奥が細くなる。
息を吸うと、冷たい空気が胸に刺さる。
「君が、なんて言うかは分からないけど」
分からない。
本当に、分からない。
君は優しい人だった。
だからきっと笑って言う。
そういう想像はできる。
でも、想像できるからこそ怖い。
僕が都合よく君の声を借りてしまう気がするから。
それでも、僕は言わなければならなかった。
「僕さ……そばにいて欲しい人が、できたんだ」
心臓が大きく跳ねた。
言葉にした瞬間、僕の中の何かが“元に戻れなくなる”方向へ傾くのが分かる。
「その人はね……」
自然と、顔が思い浮かぶ。
笑顔。
視線。
強いくせに、優しいところ。
明るい声の裏で、こちらの息づかいをきちんと読んでいるところ。
「明るくて……でも、すごく冷静で」
言葉が少しずつ溢れてくる。
「僕が何も言わなくても、分かろうとしてくれて…
踏み込むときと、待つときを、ちゃんと選べる人で」
墓石を見つめながら続ける。
墓石の文字は黙ったままだ。
なのに僕は、見つめるほどに“許し”を乞うみたいになる。
「僕の弱さを、責めない。
でも、見なかったことにも、しない」
喉が少しだけ熱くなる。
熱が上に上がって、目の奥が痛い。
「……怖いくらい、強い人だ」
ふっと息が漏れた。
笑ったわけじゃない。
泣く前の、逃げ道みたいな息だ。
「たぶん、君とは全然違うタイプだね」
でも、と心の中で付け足す。
――それでいい、と。
君と同じである必要なんてない。
比べる必要もない。
そう言い聞かせるのに、僕は君の墓前に来なければならなかった。
来なければ、僕はずっと比べたまま生きてしまう。
「君がいなくなったのは、やっぱり悲しい」
正直な気持ちだ。
「今でも……正直、引きずってる」
視界が少し滲んだ。
滲みはまだ涙にならない。
涙になる手前で、痛みだけが張り付いている。
「でもね」
僕は空を見上げた。
冬の空は高くて、冷たい。
そこに雲が薄く伸びて、誰かが引っ掻いたみたいな跡になっている。
「君はきっと、笑って言うんだろうな」
あの日の、彼女の声を思い出す。
「『私のことは気にしないで、エルらしく生きて』って」
胸がぎゅっと締め付けられる。
君の声が、僕の耳の奥で今も生きている。
生きているからこそ、僕はそれに縛られる。縛られて、動けなくなる。
「分かってるよ」
声が少し震えた。
「リィナは……自分の影を、いつまでも僕に追わせたくないんだよね」
そういう人だった。
自分の痛みで誰かを縛らない人だった。
だからこそ僕は、君の影を罰として握りしめてしまった。
君はそれを望まないと分かっているのに。
「最期の瞬間まで、リィナとして…
僕の……最愛の人として、生きた」
その事実が今も誇りだ。
誇りだからこそ、苦しい。
君が最後まで君だったことが、僕の救いであり、同時に僕を置いていく強さでもあるから。
「だから……」
深く息を吸う。
「今度は、僕自身の幸せを、見つける番なんだろうね」
言い切るのはまだ怖い。
それでも言葉にした。
言葉にしなければ、僕はまた“準備”の方へ逃げる。
終わりの予習をして、壊れる準備をして、今日を殺してしまう。
「全部、忘れるわけじゃない。
君のことも、思い出も、消えない」
消せるはずがない。
消したくもない。
僕の中で君は、ちゃんと生きた。
生きた人を消すことはできないし、消すことが前進でもない。
でも。
「それでも、前に進む」
それは、裏切りじゃない。
選択だ。
君を捨てる選択じゃなく、
君の“終わり”を僕の“終わり”にしない選択だ。
「……また来るよ、リィナ」
墓石に、そっと触れる。
「今度は」
一瞬、迷ってから。
「僕の大事な人と、一緒に」
その言葉を口にした途端、胸の奥で張りつめていた糸が、静かに切れた。
――今度は、僕の大事な人と一緒に。
それは裏切りじゃない、と自分に言い聞かせるための言葉だったはずなのに。
言い終えた瞬間、僕は“許し”を乞うみたいに、墓石の文字を見つめてしまった。
返事はない。
罰もない。
冬の風が葉を揺らすだけで、世界は淡々と続いている。
その“何も起きなさ”が、痛かった。
まるで、僕が何を告白しても君はもう届かない場所にいるのだと突きつけられるみたいで。
喉の奥が熱くなる。
息を吸うのが少し遅れて、空気が胸に刺さる。
僕は墓の前に膝をついた。
石の冷たさに額を預けそうになって、
ぎりぎりで踏みとどまる。
ここで崩れたら、五年分の堤防が全部崩れる気がした。
――崩れていい。
今日は崩れた方がいい。
そう思った瞬間、涙が落ちた。
一滴目は驚くほど静かだった。
二滴目からは止まらなかった。
嗚咽は出ない。
声も荒れない。
ただ、熱いものが静かに流れていく。
堤防が崩れているのに、音がしないのが逆に怖い。
「……リィナ」
名前を呼んだだけで、喉が震えた。
墓前の空気が冷たいのに、涙は熱い。
熱いまま頬を伝って、顎から土に落ちる。
あの日の“終わり”が、脳裏に戻ってくる。
戦争じゃない。
血も泥も、叫びもない。
ただ、冬の薄い白さだけがあった。
窓の外の光は明るいのに温度がなくて、昼なのか朝なのかさえ曖昧で。
部屋の音は少なくて、薪が小さく鳴る気配と、遠い廊下の足音と、時計の針の音だけがあった。
僕は椅子に座っていた。
立ち上がらなかった。
近づけば確かめてしまうからだ。
呼吸の浅さ。
胸の上下の間隔。
頬の薄さ。
唇の色。
髪の艶が失われていく速さ。
僕は数えなかった。
数えた瞬間に、世界がそれを“終わりの記録”にしてしまう気がしたから。
でも。
君は数を持たないまま、僕のことを確かめた。
『……エル、そこにいる?』
暗闇の中で呼びかけるみたいな声だった。
怖がってはいない。
泣いてもいない。
ただ、“僕がいる”という一点だけを確かめる声。
『暗いよ……エル、そこにいるの?』
部屋が暗いわけじゃない。
冬の光は差している。
それでも君が「暗い」と言った時、僕は理解した。
――見えていない。
視力が君から離れてしまっている。
君は光を見ていなくて、僕を探していた。
胸の奥がきゅっと縮んだ。
でも僕はその縮み方に名前を付けなかった。
悲しみとも後悔とも呼ばなかった。
呼んだら感情が形になって、君の前に落ちてしまうから。
僕は手を伸ばした。
迷わない。
迷えば君が不安になる。
指先が君の手に触れた。
温度は薄い。
それでもそこにある。
「いるよ」
短い言葉ほど確かになる。
「ここにいる。君の隣に、ずっと」
ずっと、は禁句だったはずなのに。
その日だけは言ってしまった。
言わないと、君が迷子になる気がしたから。
『……そっか……よかった』
その“よかった”が残酷だった。
僕がいることが君の救いになってしまっていると分かるから。
僕がいなければ、君はもっと怖いのだと分かるから。
そして君は、いつも通りに僕を支える言葉を選んだ。
『……いつも……ありがとね』
ありがとう。
その言葉を君が口にするたび、僕は思った。
それは僕のための言葉だ、と。
弱っていく君が最後まで僕の心を支える言葉を選ぶ。
その優しさが僕を救ってしまう。
救われるから、余計に苦しい。
僕は「うん」とだけ返した。
ありがとうに、ありがとうを返さない。
会話が続けば、君の息を削る。
僕は君の息を言葉で奪いたくなかった。
――それなのに、その日は君の方から、未来の形を出した。
『……私ね……夢を見たの』
息の音みたいな言葉で、君は言った。
『……エルと……結婚する夢』
胸の奥が静かにひび割れた。
でも顔には出さなかった。
ここで崩れたら、君の続きを奪ってしまうから。
『ふたりで暮らして……結婚も、して……』
『……子供も……できて……』
『……幸せ、だった』
それは未練じゃなくて報告みたいだった。
“幸せだった”と、もう終わることを知っている人の声で言った。
僕は頷いた。
夢を否定しない。
現実と比べない。
君の幸福を奪わない。
君は見えていないのに、こちらを向く仕草をした。
焦点の合わない目で、それでも僕の方を探して。
『……エル……キス……して欲しい……な』
お願いだった。
遠慮も諦めも混ざっていない。
“恋人としての最後”を、君は選んだ。
僕は息を吸って言った。
「……わかった」
ゆっくり距離を詰める。
急がない。
確かめない。
引き返さない。
唇を合わせた。
深くもしない。
求め合いもしない。
ただ、触れているという事実だけを時間に刻むためのキス。
呼吸が混ざって、温度が重なって、世界が静かになった。
唇が離れたあと、君は小さく息を吐いた。
『あったか……いね……』
『……幸せ』
一拍置いて。
『……これだけが……心残り、だった』
心臓が痛いのに、僕は泣かなかった。
泣いたら君が“別れ”を理解してしまう気がしたから。
君は続けた。
『……愛した人に……ちゃんと……』
『……愛を……渡したかった』
僕は君の額に、そっと額を寄せた。
震えは声にならないまま喉に溜まる。
「……十分すぎるくらい、貰ってるよ……リィナ」
「……最初から……最後まで」
君の口元が緩んだ。
張りつめていたものが、ほどけていく顔だった。
『……エル』
『……最期まで……そこに、いて』
願いだった。
命令じゃない。
縛りでもない。
“あなたがここにいる世界で終わりたい”という選択。
僕は迷わず答えた。
「……いるよ」
「ここにいる。君の隣に」
君は安心したように、目を閉じた。
眠りに落ちるみたいな顔で。
やり残しのない人の顔で。
僕は動かなかった。
離れなかった。
逃げなかった。
泣かなかった。
泣いたら、君が背負ってしまうから。
――そして。
君の呼吸が、どこかで途切れた。
すぐに分かったわけじゃない。
最初は“よくある間”だと思った。
これまでも何度もあった長い間だと、自分に言い聞かせた。
僕は数えなかった。
一拍、二拍と数えた瞬間に、それが“確定”してしまうから。
僕はただ、胸の上下を探した。
喉のかすかな動きを探した。
耳に届く微かな音を探した。
――ない。
それでも僕は、しばらく“待った”。
待って、待って、待って。
そして、ようやく気づいた。
君の手の中の温度が変わらないことに。
冷たくなったわけじゃない。
消えたわけでもない。
ただ、“返ってこない”温度になった。
「……リィナ……?」
確認だった。
祈りじゃない。
願いでもない。
ただの問い。
返事はなかった。
世界が一つ、先へ進んでしまった。
僕は額をそっと君の額に寄せて、言った。
「……おやすみ」
声は低く、静かだった。
「……ありがとう」
愛してる、は言わなかった。
もう渡し終わっているから。
君が選びきった終わりを、壊したくなかった。
――その記憶が、今も僕の中で一番静かで、
一番残酷で、一番大事だ。
墓前の僕は息を吸って、吐いた。吐いた息が少し震える。
「……リィナ」
もう一度、名前を呼ぶ。
「僕は、君を愛してた。
今でも、それは本当だ」
声は掠れる。涙は止まらない。
「でも……僕は、
君の影を、僕の罰にし続けたくない」
石の冷たさに、指先を押し当てる。
「君は最後まで、君として生きた。
僕の最愛の人として、生きた」
だから。
「……今度は、僕が、
僕自身の幸せを、見つける番なんだろう」
虫が良すぎる言葉だと分かっている。
許される言葉じゃないかもしれない。
それでも
――言わなければ、僕は一生この場所で立ち止まる。
「全部を忘れるわけじゃない。
君のことも、思い出も、消えない」
消えないまま、持っていく。
持っていったまま、進む。
「それでも、前に進む」
それは裏切りじゃない。
君の終わりを、僕の終わりにしないことだ。
僕はもう一度だけ深く頭を下げた。
「……また来るよ、リィナ」
そして、さっき言った言葉を、今度は祈りじゃなく誓いとして言い直す。
「今度は……僕の大事な人と、一緒に」
涙が落ちる。
でもその涙は、もう“罰”じゃなかった。
君を連れていく涙じゃない。
君を置いていく涙でもない。
君を胸にしまったまま、歩くための涙だった。
僕は立ち上がる。
膝が少し痛む。
現実の痛みは悪くなかった。
痛いということは、まだ動けるということだ。
背を向けて歩き出す。
胸の奥に痛みは残っている。
でもその痛みは、僕を止めるためだけのものじゃない。
――僕を、前に押す重さにもなっていた。
馬を繋いだ場所へ戻る道が、やけに長く感じた。
足元の土は少し湿っていて、靴底に重さが残る。
それが今の僕にちょうどよかった。
軽いと、どこかへ飛んでいきそうだったから。
手綱を握る指が、まだ震えている。
寒さのせいにできる程度の震えじゃない。
呼吸を整えようとしても、胸の奥のどこかが小さく痙攣しているみたいに落ち着かない。
――帰る。
アインの屋敷へ。
僕の“家”へ。
その言葉が、喉の奥で引っかかった。
家、というのは本来、戻る場所のはずなのに。
僕にとってはずっと、“戻ったふりをする場所”だった。
戻れば安心するはずの場所で、僕はいつも緊張する。
玄関の匂いひとつで、過去が刺さるから。
玄関の扉を開けた瞬間に、五年前が蘇る気がする。
廊下の木の軋みで、あの日の足音が戻ってくる気がする。
暖炉の匂いが、リィナの部屋の冬の薄い光を連れてくる気がする。
そう思った途端、胃の奥がひやりとした。
馬に跨る。
背中の高さが少し変わるだけで、世界の距離も変わってしまう。
墓地が遠のく。
それが怖い。
置いていくみたいで怖い。
でも、本当は違う。
置いていくのが怖いんじゃない。
置いていけない自分が、まだ怖い。
置いていけないまま生きる自分が、どこかで“卑怯”に思える。
君が選びきった終わりを、僕が選びきれないまま生きることが、怖い。
道を進みながら、ふと気づく。
僕はさっき墓の前で“前に進む”と言った。
言ってしまった。
言葉にしてしまった。
だからこそ、次に屋敷の門をくぐる瞬間に
――その言葉が嘘か本当か、僕自身で試される気がした。
門が見える。
石の柱が見える。
いつもの位置にある紋章が見える。
視界に入っただけで、心臓が一度強く跳ねた。
門番の姿が、遠くに見える。
彼らは僕に気づけば頭を下げるだろう。
“おかえりなさい”と言うかもしれない。
言わないかもしれない。
そのどちらでも、僕は苦しくなる。
おかえり、と言われたら。
僕が帰ってきたことが当然になってしまう。
言われなかったら。
僕が“帰る場所を失った人間”みたいに感じてしまう。
どちらに転んでも、僕は自分を責める。
――何をしても、自分を責める。
その癖が、抜けない。
馬の歩みを落とす。
門の前に着くまでの数十歩が、やけに重い。
僕は、リィナの墓の前で泣いた。
泣いたまま、帰る。
泣いたまま、屋敷に入る。
それが、怖かった。
屋敷の中には、彼女のいない部屋がある。
彼女の声が響かない廊下がある。
彼女が二度と触れない窓枠がある。
そしてその全部が、今も“何も起きない顔”でそこにある。
――何も起きない日の影。
さっきまで墓前で思い出していた言葉が胸を刺す。
壊れる準備を、しないで。
あれは、リィナが僕に言った言葉じゃない。
けれど、今の僕の中に、その言葉の形だけが残っている。
誰かが隣にいることを許す言葉。
終わりの予習をやめる言葉。
怖いまま、今日を生きる言葉。
壊れる準備をするのは簡単だ。
いつものやり方だ。
門をくぐる前に、心を冷たくしてしまえばいい。
“戻った瞬間に傷つく準備”をしておけばいい。
そうすれば痛みは浅くなる――と、ずっと信じてきた。
でも本当は違う。
準備した瞬間に、僕はまた自分の手で、自分の今日を殺す。
門が目の前に迫る。
僕は手綱を握り直した。
指先に力を入れる。
深く息を吸う。
息が少し震える。
それでも、吐く。
「……ただいま」
誰に向けた言葉かは分からない。
屋敷かもしれない。
アインかもしれない。
それとも――もういない誰かかもしれない。
門番がこちらに気づいて、姿勢を正す。
声が飛んでくる前に、僕はもう一度胸の中で言い直す。
――壊れる準備は、しない。
できるかどうかじゃない。
今日だけでも、そう“選ぶ”。
馬を進める。
門をくぐる瞬間、胸の奥がきしむ。でも、逃げない。
逃げないで屋敷へ入ることが、こんなに怖いなんて知らなかった。
それでも僕は、怖さごと連れて帰る。
だって、戻るって決めたから。
そして――戻った先で、何も起きない日を、怖がったままでも生きてみたいと思ってしまったから。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
この話は「前に進む決意」ではなく、怖いまま戻ることを選んだ日を書きました。
強くなる話でも、乗り越える話でもありません。
それでも一歩、戻ってきてしまった――そんな回です。
もしよければ、感想や評価をいただけると嬉しいです。
あなたがどこで息が詰まったか、どこで立ち止まったか、それを教えてもらえたら、この先を書く力になります。
次も、もう少しだけ続きます。




