75.『何も起きない日』
エルの隣が、私の定位置になった。
いつから、なんて曖昧にしたくない。
曖昧にしたら、彼は「じゃあ最初から無かったことにしよう」と平気で引き返してしまう。
――そういう人だって、私は最初に知った。
だから私は、覚えている。
初めて彼の部屋の扉が、私の前で“完全に閉まらなくなった日”を。
初めて彼が、私の手を振り払わなかった夜を。
初めて「来るな」と言わずに、黙って椅子を引いた午後を。
半年。
数字にすると、軽い。
でも私の中では、砂時計みたいに重たく積もっている。
一粒一粒が、彼の呼吸の癖や、視線の逃げ方や、困った顔の種類を教えてくれたから。
そして今日、彼は二十二歳になった。
誕生日というより、彼にとっては「失わずに通り過ぎた日」に近い。
そんなふうに数えてきた人の目を、私は見慣れてしまっている。
見慣れてしまったからこそ――そこから引き上げたくなる。
「おめでとう、エル」
私は朝いちばんに言った。
明るく。
軽く。
いつも通りみたいに。
でも、目だけは外さない。
彼は目を逸らすときほど、心が騒いでいるから。
「……ありがとう」
短い返事。
でも、その短さは拒絶じゃない。
彼の“出せる分だけ”だ。
私はそれでいい。
受け取ってくれたのなら、十分。
朝食を用意して、彼がちゃんと口に運ぶのを見届ける。
噛む回数、飲み込むタイミング、ため息の混じり方。
そういう細いところで、彼はいつも嘘をつかない。
「今日はお休みなんでしょ?」
「……ああ」
「じゃあ、今日は“何もしない日”にしよ」
その言葉が落ちた瞬間、空気が一瞬、薄くなる。
彼の肩がほんの少し固くなる。
私は笑顔のまま、内側で頬の裏を噛んだ。
――やっぱり。
彼にとって「何もしない」は、休息じゃない。
空白は、過去が浮いてくる時間だ。
♢
私たちの生活は、騎士団と屋敷と、その間の道でできている。
その構図は変わらない。
変わらないのに、周囲の扱いだけが変わった。
言葉にしない優しさ。
視線の方向。
話しかける順番。
廊下での立ち位置。
誰も何も言わない。
でも、言わないからこそ分かる。
“ああ、そういう関係なんだな”っていう理解が、空気に混ざっている。
彼らは私たちを祝福しているわけじゃない。
ただ、波風を立てないために見て見ぬふりをしてくれている。
誰も口にしない。
けれど、道だけは静かに空く。
その沈黙が、彼の胸に針みたいに残るのを私は知っている。
その配慮が、私にはありがたい。
でも、エルには針になる。
「気を使われている」
その実感が強いほど、彼は自分の居場所を“借り物”みたいに思ってしまう。
伯爵家の令嬢が、騎士団の隊長の隣にいる。
それが当然として扱われるほど、逆に怖くなる。
返せと言われたら?
取り上げられたら?
最初から許されていなかった、と言われたら?
そういう想像を、彼は一人で育ててしまう。
だから私は、余計に堂々とする。
歩幅を揃える。
肩を寄せる。
視線が刺さろうと、私の笑顔は薄くしない。
彼が「やめろ」と言わない限り、私はやめない。
そして彼は――言わない。
♢
彼は、私に言葉をくれない。
好き、とか。
愛してる、とか。
そういう種類の言葉を、彼は口にしない。
それを私は、責めない。
急かさない。
彼が言葉を怖がるのは、誠実だからだ。
言葉は形になる。
形は責任になる。
責任は相手を縛る。
縛る資格がない、と彼は思っている。
だから私は、別のところで甘さを積む。
言葉じゃない、肯定を積む。
触れ方、
座る距離、
視線の戻り方、
部屋に残す体温。
“逃げ道を消す”んじゃない。
“帰り道を増やす”。
私のやり方は、それだ。
♢
メイリス。
リィナ。
その名前を私は、ほとんど何も知らないまま胸にしまっている。
噂で聞いた程度の輪郭と、彼の沈黙の重さから推し量るだけ。
聞こうと思えば、聞ける。
でも私は、あえて聞かない。
聞いてしまったら、私の言葉でまとめてしまいそうだから。
「理解した」って顔をして、彼の痛みを軽くしてしまいそうだから。
そんなことは、したくない。
彼の過去は、私の納得のためにあるんじゃない。
彼の中で、ちゃんと生きている。
だから私は、代わりに今を確かめる。
今日の呼吸。
今日の視線。
今日の沈黙。
♢
休日の光は、やけに優しい。
窓から差す光の温度が、柔らかすぎて怖い。
柔らかいものは、壊れやすい気がするから。
私は椅子に座って本を開く。
読む、というより“静かにしている”ための本だ。
背後で、エルが座る。
私の背もたれみたいに、背中を貸す。
そのまま腕が回る。
抱きしめられる。
彼の腕の力は強くない。
でも、ほどけない。
――これが、甘い。
甘いのに、胸の奥が落ち着かない。
彼の抱きしめ方には、ときどき“置き去りにされる前の確認”みたいな緊張が混ざるから。
「エル」
本を閉じないまま、私は声を落とす。
「ねえ、プレゼント、もう見た?」
「……まだ」
「じゃあ、あとで一緒に開けよ」
「……ああ」
その返事の短さが、今日は少しだけ硬い。
私はページをめくりながら、彼の腕の中の沈黙を撫でるように受け止める。
何も起きない。
それが怖いのは――私じゃない。
怖がっているのは、彼だ。
♢
「……シャル」
呼ばれる。
小さく、迷いの混じった声。
私はわざとゆっくり振り向く。
急に振り向くと、彼は身構えるから。
「なに?」
「……その、」
言葉が続かない。
私は待つ。
待つのは得意だ。
半年で覚えた。
「……何でもない」
逃げた。
私は笑わない。
怒らない。
代わりに、息だけを少し柔らかくする。
「何でもないって顔、してないよ」
「……」
「言葉が出ないなら、別の形でいい」
私は彼の腕の中に、少し体重を預けた。
“ここにいる”を、わざと分かりやすくする。
彼の腕が、ほんの少しだけ強くなる。
「うん」
私は短く頷く。
「それで十分」
その瞬間、彼の呼吸が少しだけ戻る。
♢
「ねえ、エル」
私は明るいまま言う。
明るさは、彼の鎧を溶かす温度だ。
「今日、怖い?」
「……何が」
「何も起きないこと」
返事がない。
でも、その沈黙の濃さが答えだ。
「最近さ」
私は本を膝に置いた。
「何もない時間のほうが、エルの目が忙しい」
「……」
「戦ってる時のほうが、落ち着いて見える」
言ってから、少しだけ後悔する。
でも、ここは刺さなきゃいけない。
彼は否定しかけて、飲み込む。
否定は鎧に戻る合図だから。
「エル」
名前を呼ぶ。
逃げ道を細くするためじゃない。
戻ってこれるようにするため。
「私は、何もない日が好きだよ」
彼の腕の力がわずかに揺れる。
好き、という言葉が彼には重い。
だからこそ、私は言う。
「何もないから、一緒にいられる」
「……僕は」
低い声が落ちる。
「何もないと、考える」
「考えなくていいことも?」
「……」
「考えたくないことも?」
「……ああ」
やっと出た肯定。
喉が痛そうな肯定。
私はそこから先を、名前では踏み込まない。
代わりに、逃げずに出せる形にして渡す。
「じゃあ、当てっこしよ」
彼が少しだけ眉を寄せる。
「……当てっこ?」
「うん。私が言う。違ったら首振って」
軽い遊びみたいな顔をして、私は彼の心臓の真横を狙う。
「――幸せになっていいのか、って思ってる?」
彼の呼吸が止まる。
そして、ゆっくり頷く。
私はそこで初めて、彼の指先に触れる。
指を絡めるんじゃなく、包むだけ。
逃げられるくらいの力。
「じゃあ、もうひとつ」
私は声を落とす。
「私が隣にいる理由が分からなくて、苦しい?」
彼は首を振れない。
「……うん」
私は頷く。
「それ、普通だよ」
普通。
その言葉は、彼にとって一番遠い。
「エルはずっと、一人で背負ってきた」
彼が否定したくなる気配。
私は先回りして、柔らかく言う。
「逃げたって思ってるでしょ」
彼の肩が少し震える。
「逃げたって言える人はね」
私は、ほんの少しだけ笑う。
「痛いって知ってる人だよ」
♢
彼の呼吸が、浅くなる。
心臓が速い。
私は、ここで抱きつかない。
慰めを投げない。
彼は慰めを“借り物”にしてしまうから。
代わりに、言う。
「壊れる準備、してる?」
彼の体が硬直する。
図星。
――そう。彼はいつも、終わりを用意してしまう。
終わりを用意すれば、終わった時に壊れないと思っている。
でも本当は、用意した瞬間に今を壊している。
「……怖い」
彼が、やっと言う。
私は頷いて、少しだけ甘くする。
「うん。怖いよね」
たったそれだけ。
“分かるよ”を、軽く置くだけ。
そして私は、もう一段だけ、彼が出せる言葉に変換する。
「愛してるって言えないなら、言わなくていい」
彼の目が揺れる。
「でも、今」
私は彼の胸元に指先を置いた。
重さがそこにある。
「いなくならないで、って言える?」
告白じゃない。
でも、彼の弱さを出す言葉だ。
彼はすぐに言えない。
でも、逃げもしない。
私は待つ。
“待つ”は、彼にとって「壊れない証明」になる。
「……シャル」
「なに?」
「……いなくなるな」
小さな声。
震えている。
でも、確かに言った。
私は即答する。
「うん。いなくならない」
言い切ると、彼の息が少しだけ落ちる。
「……そばにいてほしい」
その言葉が続いた瞬間、胸が熱くなる。
言葉にしたら形になる。
形になったら怖い。
彼はそれを分かっていて言った。
だから私は、明るく笑う。
「知ってる」
明るいまま、でもふざけない。
「エル、言葉は遅いけどね」
私は彼の頬に触れる。
触れるのは初めてじゃない。
でも、“ここ”に触れるのは、今日は特別にする。
「行動はずっと、そうだったよ」
彼の腕が、少し強くなる。
ほどけない抱きしめ方になる。
♢
風が窓を鳴らす。
世界は動く。
何も起きない日でも、時間は進む。
私は本を閉じて、膝の上に置いた。
「ねえ、エル」
私は、誕生日の人にだけ許されるお願いをする顔で言う。
「今日はさ」
彼が目を細める。
身構えの目。
私は笑って、甘さをひとつ足す。
「プレゼント、開ける前に……一個だけ」
「……何」
「今日は“終わりの予習”しないで」
彼の眉が、わずかに揺れる。
痛いところを撫でられた顔。
「……できるかな」
「できるよ」
即答。
根拠を求められるのも分かっているから、先に言う。
「私は、ここにいるよ」
それに
「逃げない」
それは傲慢に聞こえるかもしれない。
でも傲慢じゃない、覚悟だ。
「それに」
私はもう一段、優しい理由を足す。
「エルが“怖い”って言えたから」
彼が目を閉じる。
怖い、と言えた。
いなくなるな、と言えた。
そばにいてほしい、と言えた。
それだけで、今日はきっと少し違う。
「……シャル」
「なに?」
「……おめでとうって、言ってくれて」
言葉が詰まる。
「……嬉しかった」
その瞬間、私は胸がいっぱいになる。
でも泣かない。
泣くと彼が慌ててしまう。
私は代わりに、もう一度、触れるだけのキスを額に落とす。
軽くて、逃げられない甘さ。
「おめでとう、エル」
彼の腕が、ぎゅっと強くなる。
抱きしめ返すみたいに、私を“ここ”に固定する。
私は笑う。
「今日は何もしない日」
そう言って。
「だから、ここにいよ」
彼が頷く。
頷きが、今日は少しだけはっきりしている。
何も起きない。
それが怖い。
でも、怖いって言えた。
怖いって言っても、私は隣にいる。
それだけで、今日の“何もない”は、たぶん少しだけ救いになる。
私は彼の腕の中で息を吐く。
――半年。
半年ぶんの“当たり前”は、簡単には壊れない。
壊れないように、私は明るく手を繋ぐ。
「プレゼント、開けよ」
そう言うと、彼は短く答える。
「……ああ」
返事は短いのに、彼はすぐには動かなかった。
抱きしめる腕の力だけが、少しだけ強くなる。
――離すのが怖い、と言っているみたいで。
私はわざと、軽く笑ってみせる。
「開ける前にさ」
「……ん?」
彼の声が、珍しく相槌の形をしている。
私はその小さな変化に、胸の奥がふわっと温かくなるのを感じた。
「まず、座って。ちゃんと座って」
「命令か」
「うん。今日だけは、命令」
ふざけた言い方にしたのに、彼は反論しない。
ゆっくり腕をほどいて、私の言う通り椅子に座る。
その動きが慎重で、壊れ物を扱うみたいで、胸がきゅっとなる。
――違う。
壊れ物なのは、物じゃない。
彼の“何もない日”の方だ。
私は包みを持ち上げる。
派手じゃない、でも丁寧に結んだ紐。
見せびらかすためじゃなく、ほどくための結び方。
「ねえ、エル」
呼ぶと、彼は視線を上げる。
目が合った瞬間だけ、彼は少しだけ息を止める。
私はその癖を、もう見逃さない。
「これはね、誕生日のプレゼントだけど」
「……うん」
「たぶん、本当は」
私は少しだけ声を落とす。
「“今日を通り過ぎるための道具”」
彼の眉が、わずかに動いた。
「道具?」
「うん。エル、何も起きない日が怖いでしょ」
「……」
「怖い時ってさ、頭の中が勝手に走る」
私は自分のこめかみを指先でとんとん、と叩く。
「終わりの予習とか、失う準備とか」
彼は否定しない。
その代わり、膝の上の手が硬くなった。
「だから、走りそうになったら」
私は包みを彼の膝に置く。
「これ触って」
「……これを?」
「そう。触って、今ここにいるって思い出すの」
明るい声で言う、わざと。
「私も一緒にやるから」
彼は少しだけ戸惑って、でも紐に指をかけた。
ほどく指先が不器用で、慎重で、優しい。
ほどけた瞬間、彼の呼吸が少しだけ深くなる。
中身は、彼の手に馴染む革の小さな革紐と、金具の付いた簡素な留め具。
装飾は少ない。
でも、触ったときだけ分かる柔らかさがある。
「……何だ、これ」
「合図」
「合図?」
「“戻ってきた”って分かる合図」
私はにやっと笑う。
「エルが、自分で自分を引き戻すための」
彼はしばらく黙って、革紐を指で撫でた。
撫でる、というより確かめている。
「……こんなの、」
「効くよ」
私は即答する。
「効くように作ったもん」
少しだけ沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、彼が小さく息を吐いた。
「……君は」
言いかけて止まる。
いつもの癖。
言葉にすると形になってしまうから、途中で切る。
私は焦らない。
代わりに、彼の視線の先に自分の指を差し出す。
「ね。つけてみよ」
「……今?」
「今。今日だけは、今」
彼は迷ったあと、留め具を指先でいじる。
私は手首を差し出したまま待つ。
留め具が嵌まる。
軽い金属音。
その瞬間、彼の目がほんの少しだけ揺れて――それから、落ち着いた。
「……外せるな」
確認の言葉。
鎖じゃないか、という確認。
私は笑う。
「外せるよ。いつでも」
そして、少しだけ甘く言う。
「でも、外さなくていい日が増えたら嬉しい」
彼は答えない。
答えない代わりに、私の手首を一度だけ、指で包み込む。
それだけで、充分だった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
今回は「何も起きない日」が持つ不安と、
それでも確かに積み重なっていく“安心”を描く回でした。
派手な出来事はなくても、隣にいることそのものが感情を揺らしていく——
そんな時間を大切にしています。
エルの怖さと、シャルの明るさが少しずつ噛み合っていく過程を、
感じ取ってもらえていたら嬉しいです。
よければ
・印象に残った場面
・エルやシャルの感情について
・「ここ好き」「ここ刺さった」などの一言感想
なんでも構いませんので、
感想・評価・レビューをいただけるととても励みになります。
次の話も、ゆっくり進めていきます。
またお付き合いいただけたら嬉しいです。




