74.なにも起きない日-1
シャルが隣にいるのが、当たり前になっていた。
それがいつからなのか、正確には思い出せない。
気づけば、朝に目を覚ましたとき、隣にいないと違和感を覚えるようになっていた。
息遣い。
体温。
シーツの僅かな沈み。
それらがないだけで、胸の奥が少し落ち着かなくなる。
——おかしいな。
そう思う回数が、最近増えた。
何かが欠けたわけじゃない。
むしろ逆だ。
欠けていたものが、揃いすぎている。
欠けていない。
壊れていない。
何も起きない。
それが、怖い。
♢
半年。
シャルが僕の隣にいるようになって、半年が過ぎた。
数字にすると短いはずなのに、体感はもう、ずっと前からそうだった気がする。
最初の一週間の緊張が異常に長くて、その次の一ヶ月は薄い霧みたいで、
気づいたら季節が変わっていた。
そして今日、僕は二十二歳になった。
誕生日、と言われても、祝われ慣れていない。
何かが増える日というより、何かを失わずに済んだ日、という感覚の方が近い。
それでもシャルは、朝から当然みたいに言った。
「おめでとう、エル」
軽い声。
明るい声。
けれど目だけは、逃がさない。
逃げさせない。
「……ありがとう」
それだけ返した僕を、シャルは責めない。
一緒に笑って、いつも通り朝食を用意して、
僕が口に運ぶのを見届けてから、満足そうに頷いた。
「今日はお休みなんでしょ?」
「……ああ」
「じゃあ、今日は“何もしない日”にしよ」
何もしない日。
その言葉に、胸のどこかがぞくりとした。
「何もしない」というのは、本来、救いだったはずなのに。
♢
僕の生活は、騎士団と屋敷と、その間の道でできている。
半年の間に、それが変わった。
変わったのは場所ではなく、そこにいる“僕”の扱われ方だ。
騎士団でも、家でも。
皆が、気を使っているのが分かる。
露骨じゃない。
けれど確実に、言葉の選び方が変わった。
「アルヴェイン隊長、今日はお早めに戻られますよね。
お待ちの方がいらっしゃるでしょうから」
——そういう言い方。
誰も名前を出さない。
出さなくても、全員が同じものを見ている。
それは許可じゃない。祝福でもない。
ただの黙認だ。
黙認は、優しい。
境界線を曖昧にして、争いを避けるための知恵だ。
でもその優しさが、僕を息苦しくさせる。
「気を使われている」
それが“ありがたい”はずなのに、胸に引っかかる。
まるで、僕が借り物の幸福に座らされているみたいで。
シャルは、伯爵家の令嬢だ。
立場で言えば、僕なんかが触れていい存在じゃない。
それなのに彼女は、堂々と僕の隣にいる。
誰が見ていようと、歩幅を合わせる。
誰の視線が刺さろうと、肩を寄せる。
それを周囲が黙って受け入れているのは、シャルが強いからだ。
強い意志で、強い笑顔で、全部を「当然」にしてしまうからだ。
——そして、僕が止めないからだ。
止めない。
否定しない。
距離を取らない。
それは、選んでしまっているのと同じだ。
僕は彼女に告白していない。
好きだ、とも。
愛してる、とも。
言っていない。
言えない。
言葉にしてしまえば、形になる。
形になれば、責任が生まれる。
責任は、相手を縛る。
縛る資格が、僕にはない。
♢
メイリスの名前が、ふと頭に浮かぶ。
思い出したくて思い出したわけじゃない。
何も起きない日が続くと、過去の“起きたこと”が勝手に浮上してくる。
メイリスは優しかった。
あまりにも優しくて、僕はそこに溺れた。
優しさに溺れるというのは、甘えることじゃない。
逃げることだ。
自分の罪から、痛みから、責任から。
僕は、逃げた。
メイリスの隣にいる間だけ、戦場の匂いを薄められる気がした。
彼女が笑うと、魔族を殺した手が少しだけ軽くなる気がした。
——気のせいなのに。
僕は彼女を利用した。
言葉にすると、胸が痛む。
利用して、救われたふりをした。
救われたふりをして、また戦場に戻った。
戦争は、口実だった。
「やらなければならない」と言えば、いくらでも自分を正当化できる。
リィナを失った僕は、戦争を居場所にした。
血と泥の中の方が、まだ分かりやすかったからだ。
殺すか、殺されるか。
勝つか、死ぬか。
そこには、「幸せになっていいか」なんて問いが入り込む余地がない。
問いがない世界は、楽だった。
魔族、と総じて呼ばれるものの中には、様々な種族がいる。
エルフのように耳の長い者。
ドワーフのように背の低い者。
獣人。
ヴァンパイア。
——名前を付ければ、同じ“人”にしか見えない者たち。
広義で見れば、同じだ。
同じはずなのに。
僕は「魔族」という言葉で、心を切り離した。
罪悪感を感じないように、目を閉じた。
そして目を閉じるために、誰かの優しさに縋った。
それが、僕のやり方だった。
♢
だから、怖い。
シャルが作ってくれたこの心地いい関係すら、僕は利用しているのかもしれない。
そう考えると、胃の奥が冷える。
背中が汗ばむ。
シャルは僕の過去を聞いてこない。
何も。
本当に何も。
最初は救いだった。
踏み込まれないことは、楽だ。
でも今は、それが不安になる。
どうして、聞かない。
どうして、確かめない。
どうして、こんな僕と一緒にいる。
答えは出ない。
彼女は「好き」や「愛してる」を、ためらいなく口にする。
軽い言葉じゃない。
軽く言える人間じゃない。
だから余計に、僕は苦しくなる。
僕みたいな、間違い続けている人間が、幸せになっていいはずがない。
その思いが、舌の裏にこびりついている。
剥がそうとするたびに、血が出る。
僕は、彼女に対しての言葉を口にできる覚悟がない。
「そばにいていい?」と聞かれて、肯定してしまった。
肯定したくせに、まだ自分からは何も差し出せていない。
それでも僕は、彼女にそばにいてほしいと願ってしまっている。
その願いが、卑しい。
自分勝手だ。
相手の未来を食い潰す願いだ。
♢
今日は休日だった。
騎士団の訓練も、報告も、巡回もない。
つまり、僕が“役割”で自分をごまかせない日だ。
部屋には静かな光が差している。
窓際の椅子で、シャルは本を読んでいる。
ページをめくる指先が柔らかい。
そこだけ、世界が別の場所みたいに静かだ。
僕はその背後に座って、彼女の背もたれ代わりになっていた。
腕を回して、抱きしめている。
いつから、こういうことができるようになったんだろう。
最初は触れるだけで、息が詰まって、逃げ場を探したのに。
今は、逃げ場が減っていくのが怖いはずなのに。
その減っていく感覚が、どこか心地いい。
言葉はあまりない。
でも、彼女はそこにいる。
僕は、それを赦されていると感じるようになっていた。
赦し。
そんなもの、誰にも与えられていないのに。
与えられる資格がないと知っているのに。
それでも、背中に当たる彼女の体温が、僕を少しだけ生かす。
「エル」
シャルが、本から目を上げずに言う。
声はいつも通り明るいのに、僕の胸の奥にまっすぐ届く。
「ねえ、今日のプレゼント、もう見た?」
「……まだ」
「じゃあ、あとで一緒に開けよ」
「……ああ」
僕の返事は短い。
短いのに、シャルは満足そうに頷いて、またページをめくる。
この空気が、怖い。
何も起きない。
波風が立たない。
疑いも、否定も、別れの気配もない。
その穏やかさが、まるで嵐の前触れみたいに感じる。
僕は、過去に覚えている。
穏やかだった日々が、突然終わったことを。
何の予兆もなく、消えてしまったことを。
「……シャル」
呼んでしまう。
彼女の肩が小さく動く。
「なに?」
「……その、」
言葉が続かない。
何を聞く。
何を言う。
「……何でもない」
逃げた。
シャルは笑わない。
怒らない。
責めない。
ただ、ページを閉じて、ゆっくり振り向く。
「何でもない、って顔じゃない」
淡々とした声。
でも、柔らかい。
「……」
「言えないなら、言える形にして」
言える形。
言葉じゃなくてもいい、と彼女は言っている。
逃げ道を残すようでいて、逃がさない言い方だ。
僕は、腕に力を入れた。
抱きしめる力を、ほんの少しだけ強くする。
シャルは抵抗しない。
本を膝に置いて、僕の腕の中に体重を預ける。
「うん」
短い相槌。
「それでいいよ」
それだけで、胸が痛くなる。
優しさが痛い。
優しさが続くことが怖い。
♢
「ねえ、エル」
シャルが小さく言う。
「今日はさ、“何もしない日”って言ったけど……」
僕は息を止めた。
“何か”が来る気がした。
彼女は、僕の顔を見上げる。
距離が近い。
逃げられない。
「怖い?」
その一言で、心臓が跳ねた。
「……何が」
「何も起きないこと」
僕は、答えられなかった。
図星だった。
図星すぎて、言葉が出ない。
シャルは、僕の沈黙を責めない。
ただ、確かめるように続ける。
「最近、エルね。何もない時間のときの方が、顔が硬い」
「……」
「騎士団で戦ってるときの方が、ちゃんと呼吸してる」
それは、僕が一番隠したいことだった。
「……そんなことは」
否定しかけて、止まる。
否定したら、また鎧に戻ってしまう。
シャルは、僕の鎧の外側を叩かない。
内側から、少しずつ温めて溶かす。
「エル」
名前。
それだけで、逃げ道が減る。
「私はね」
シャルは、やけに明るい声で言った。
わざと明るくしているのが分かる。
「何もない日が好きだよ」
「……」
「何もないから、一緒にいられる」
それは、僕にとって眩しい理屈だ。
正しい。
温かい。
優しい。
でも、その優しさが、僕の中の汚れを照らしてしまう。
「……僕は」
声が低くなる。
「何もないと、考えてしまう」
シャルの目が少し細くなる。
「うん」と頷く。
「考えなくていいことも?」
「……」
「考えたくないことも?」
「……ああ」
やっと肯定できた。
それだけで喉が痛い。
シャルは、僕の頬に指を触れない。
触れないまま、距離だけを近づける。
「なら、今日はさ」
彼女は笑った。
明るく。
「考えてること、当てっこしよ」
「……当てっこ?」
「うん。エルが言えないなら、私が言う。違ったら首振って」
子どもみたいな提案なのに、逃げられない。
彼女はいつも、こうして僕の言葉を引き出す。
「……ずるいな」
「知ってる」
笑いながら言い切る。
それが、僕を少しだけ救う。
深刻になりすぎる前に、息をさせてくれる。
シャルは、少しだけ真顔になった。
「メイリスさんのこと、考えてる?」
息が止まった。
首を振ることも、頷くこともできない。
どちらも、痛すぎる。
シャルは僕の沈黙を“答え”として受け取ったらしい。
小さく頷く。
「リィナさんのことも?」
胸の奥が、きしんだ。
名前を出されるだけで、世界が一瞬暗くなる。
僕は、視線を落とした。
シャルはそれ以上、深掘りしない。
代わりに、別の角度から刺してくる。
「幸せになっていいのかな、って思ってる?」
その問いは、鋭すぎた。
僕の中の一番奥、誰にも触れさせたくない部分を正確に掴んだ。
僕は、ゆっくり頷いた。
シャルは、そこで初めて僕の手に触れた。
指先を包む。
強くない。
逃げられる程度の力。
でも逃げないと決めた手には、その程度で十分だった。
「じゃあ、エル」
彼女はまっすぐ言う。
「今日も、私が隣にいる理由が分からなくて苦しい?」
「……」
言葉にするのが怖い。
でも、首を振れない。
答えは、肯定だ。
「うん」
シャルは短く言った。
「それ、当たり前だよ」
当たり前。
「エルはね、ずっと一人で背負ってきたから」
僕は、反射的に否定したくなる。
背負ってなんかいない、と。
逃げてきただけだ、と。
でもシャルは、その否定も先回りしている。
「逃げた、って思ってるでしょ」
胸が詰まった。
「逃げたことがある人はね」
シャルは、少しだけ笑う。
「逃げたって言える」
「……」
「逃げたって言える人は、ちゃんと“痛い”って知ってる」
痛い。
僕が痛いと知っているから、罪悪感がある。
罪悪感があるから、自分を罰したい。
「だから、今」
シャルは、僕の手を少しだけ強く握った。
「何も起きない日が怖い」
僕は、初めてはっきりと認めた。
「……怖い」
声が震えた。
シャルはすぐに抱きついてこない。
慰めの言葉を投げない。
代わりに、静かに言う。
「壊れるのを待ってるみたいで、怖いんでしょ」
僕の中の何かが、崩れた。
そうだ。
僕は、壊れるのを待っている。
幸せが続くと、いつか反動が来る。
いつか誰かがいなくなる。
いつか自分が罰を受ける。
——そうやって、終わりを準備してきた。
終わりを準備すれば、終わったときに壊れない。
そう思っていた。
でも、違う。
準備した瞬間に、始まりを殺している。
僕は、息を吐いた。
吐いた息が、少しだけ温かい。
「……僕は」
言葉が出る。
「僕は、告白してない」
シャルは頷いた。
「うん」
「好きだとも、愛してるとも……言ってない」
「うん」
「言えない」
「うん」
肯定が続く。
拒否されない。
驚かれない。
それが、余計に胸を締め付ける。
「……言う資格がない」
言ってしまった。
シャルの目が、少しだけ揺れた。
怒りじゃない。
悲しみでもない。
理解だ。
「エル」
彼女は名前を呼んだ。
「資格って、誰が決めるの」
「……僕が」
「じゃあ、エルが決め直せるね」
さらりと言う。
まるで、机の上の紙を裏返すみたいに。
「……そんな簡単に」
「簡単じゃないよ」
シャルは、笑わない。
「でも、できるよ」
僕は、苦しくて笑いそうになった。
なぜ笑う。
こんなに苦しいのに。
それは、多分、救われそうになる恐怖だ。
救いは怖い。
救いは重い。
救いは責任だ。
「……僕は」
喉が痛い。
「僕は、メイリスを利用した」
シャルの指が、少しだけ強くなる。
「うん」
「戦争を居場所にして、たくさん殺した」
「うん」
「魔族って呼んで……人じゃないって思うことで、罪悪感を殺した」
「うん」
「……最低だ」
声が掠れる。
「最低だって思う」
シャルは、そこでようやく僕の胸に額を当てた。
抱きつくんじゃなく、寄りかかる。
「最低な人はね」
小さく言う。
「最低だって言えない」
その言葉が、胸を刺す。
「エルは、最低だから苦しいんじゃない」
「……」
「苦しいから、まだ人なんだよ」
僕は、泣きそうになった。
泣く資格もないのに。
「僕は、シャルのことも……利用してるのかもしれない」
その一言を出すのに、全身の力を使った。
シャルは、少しだけ黙る。
それから、ゆっくり言った。
「利用してるかどうか、確かめたい?」
「……」
「確かめ方、知ってる」
僕は、息を呑んだ。
「……どうやって」
シャルは、明るい声に戻して言った。
「“利用してない方の行動”を、ひとつ選ぶ」
僕は、彼女の言葉を理解できない。
シャルは続ける。
「愛してるって言えないなら、言わなくていい」
「……」
「でもね。利用してないって示したいなら」
彼女は僕の胸元に指先を置いた。
そこに、重さがある。
「“いなくならないで”って言って」
世界が止まった。
それは、告白じゃない。
愛の言葉じゃない。
でも、僕の弱さをそのまま差し出す言葉だ。
「……」
言えない。
言ったら、壊れてしまいそうだ。
シャルは急かさない。
ただ、待つ。
僕の背中に回した腕が、少しだけ震えた。
自分の震えが、恥ずかしい。
恥ずかしいのに、止まらない。
「……シャル」
「なに?」
「……いなくなるな」
声が小さすぎて、自分でも聞き取れるか分からない。
でもシャルは、確かに聞き取った。
「うん」
即答。
「いなくならない」
その返事が、約束の重さを持ってしまうことが怖い。
怖いのに、嬉しい。
怖いのに、救われる。
「……僕は」
続ける。
「……僕は、そばにいてほしい」
言ってしまった。
言葉にしてしまった。
形になってしまった。
責任が生まれる。
相手を縛る。
でも、シャルは笑った。
明るく、でも目は冷静に。
「うん」
「知ってる」
知ってる、の一言が、怖いくらい優しい。
「エルはね」
シャルは、僕の頬に初めて手を触れた。
指先が温かい。
「言葉は遅いけど、行動はずっとそうだったよ」
僕は、息を吸う。
行動。
背中を貸している。
抱きしめている。
離さない。
——僕は、ずっと、もう選んでいた。
♢
外の風が、窓を小さく鳴らした。
何も起きない日。
それでも世界は動いている。
シャルは本を閉じて、膝の上に置いた。
「今日さ」
また明るい声。
「誕生日なんでしょ?」
「……ああ」
「じゃあ、ひとつだけ」
彼女は、僕を振り返って言う。
「“何もしない日”のお願い、叶えて」
「……何」
「今日はね」
シャルは、笑った。
「壊れる準備、しないで」
胸が、ぎゅっと締まった。
僕がずっとしてきたことを、正確に言い当てられた。
終わりを準備すること。
壊れる準備をして、傷を浅くしようとすること。
それは、傷を浅くするんじゃない。
最初から深く傷つけている。
「……できるかな」
弱い声が出た。
シャルは頷いた。
「できるよ」
「……根拠は」
「私がいる」
即答。
それは、傲慢にも聞こえる。
でもシャルが言うと、傲慢じゃない。
覚悟だ。
「それに」
彼女は続ける。
「エルが“怖い”って言えたから」
僕は、目を閉じた。
怖い、と言えた。
いなくなるな、と言えた。
そばにいてほしい、と言えた。
たったそれだけで、世界の形が変わってしまう。
何も起きない日が怖い、という恐怖の中に。
少しだけ、別の感情が混じった。
——喜び。
こんなところで、喜びが生まれるなんて。
僕は、そんな感情を取り戻していいのか。
「……シャル」
「なに?」
「……おめでとうって言ってくれて」
言葉が詰まる。
「……嬉しかった」
シャルの目が大きくなった。
驚いた顔。
喜んだ顔。
その表情だけで、胸がいっぱいになる。
「うん」
シャルは笑った。
「じゃあ、もう一回言う」
彼女は少しだけ背伸びをして、僕の額に触れるだけのキスを落とした。
触れるだけ。
軽いのに、逃げられない。
「おめでとう、エル」
僕は、抱きしめる腕に力を込めた。
何も起きない。
それが怖い。
でも今は、その怖さの中に、温かいものがある。
「……ありがとう」
声が震えた。
シャルは、僕の腕の中で小さく笑う。
「今日は、何もしない日」
そう言って。
「だから、ここにいて」
僕は頷いた。
ここにいる。
壊れる準備をしない。
それは、簡単じゃない。
でも、今日だけは。
今日だけは——この甘い時間を、赦されていると思ってしまってもいい気がした。
何も起きない。
それが、こんなにも怖いなんて知らなかった。
でも同時に。
何も起きない。
それが、こんなにも救いになる日が来るなんて。
僕はまだ、信じきれない。
まだ、言葉にできないものが山ほどある。
それでも。
背中に当たる体温が、確かにそこにある。
——それだけで、僕は今日、逃げずにいられる気がした。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
今回はシャルではなく、エル視点で「何も起きない日」がどれほど怖く、そして同時にどれほど救いになり得るのかを丁寧に描きました。
戦争や喪失を理由に感情を凍らせ、罪悪感で自分を罰し続けてきたエルが、初めて「怖い」と言葉にし、「いなくならないで」と願う――その一歩に、すべてを詰め込んでいます。
派手な出来事はありません。
でも、何も起きない時間こそが、彼にとって最も向き合わなければならない“戦場”でした。
シャルは彼を救おうとはしません。ただ、逃げずにいられる場所を用意しただけです。
その静かな関係性が、少しでも伝わっていたら嬉しいです。
ここから先、エルは少しずつ感情を取り戻していきます。
喜びも、悲しみも、後悔も、過去も。
すべてをシャルに“話せるようになるまで”は、まだ時間がかかるでしょう。
でも、もう一人ではありません。
もしよければ、
感想・評価・レビューをいただけるととても励みになります。
短くても大丈夫ですし、「このシーンが良かった」「ここが刺さった」など一言でも嬉しいです。
読んでくださったあなたの感じたものを、ぜひ教えてください。
次の話も、ゆっくり丁寧に書いていきます。
また、エルとシャルの時間に付き合ってもらえたら幸いです。




