72. 黙認以上
それは、はっきりとした出来事ではなかった。
誰かが宣言したわけでも。
公式に認められたわけでも。
噂が確定情報に変わったわけでもない。
ただ——
空気が変わった。
誰も口にしないまま、同じものを見て、同じ結論に寄っていく。
黙認未満ではもうない。
けれど公認とも言い切れない。
その曖昧さこそが、いちばん強い“確信”になっていた。
♢
騎士団・詰所内
「最近、アルヴェイン隊長の顔色、目に見えて良くなりましたよね」
昼の詰所。
武具の手入れをしながら、若い騎士がぽつりと口にする。
「確かにな」
と、古参の騎士が頷いた。
「以前は、目の下に常に影があった」
「寝てない感じでしたよね。
食事も、ほとんど取られてなかったですし」
別の騎士が思い出すように言う。
「それが最近は
朝もちゃんと召し上がってますし
今日なんて……」
少し声を落として。
「お弁当、持ってらっしゃいましたよ?」
「……そう、なのか」
古参が眉をわずかに上げる。
「君はよく見ているな」
「え、あ、すみません……でも、
包みが、明らかに手作りで、
それも、量も栄養も考えられてる感じで……」
若い騎士はそこで、言い過ぎたと思ったのか慌てて口を噤んだ。
だが古参は咎めるような顔をしない。むしろ、ほんの少しだけ目を細めた。
「……匂いがしたか」
「え?」
「開いた瞬間の匂いだ。保存の香草の使い方で分かる」
古参は淡々と言い、若い騎士の反応を見てから続ける。
「塩気を抑えて、香りで満足させる。胃が弱い人間に合わせるやり方だ」
「……隊長、胃が弱いんですか?」
「弱いというより、長いこと壊していた」
古参の声は低い。軽い噂話の温度ではない。
詰所の空気が、ほんの少しだけ沈む。
「それで、包みは?」
若い騎士は恐る恐る思い出す。
薄い紙ではない。少し厚手で、折り目がきっちりしていた。
紐の結び目も飾りではない。ほどけにくい結び方だった。
「……すごく丁寧でした」
「雑に扱わせない丁寧さ、ですね」
「そういうのは、作った人間の性格が出る」
古参はそこで言葉を止めた。
「誰が」とは言わない。言う必要がないからだ。
代わりに別の騎士が、ぽつりと言った。
「隊長、昼に水も飲むようになりましたよね。
そうそう。前は喉が切れてても無視してたのに」
「……監視されている、というより」
若い騎士が言いかけて、言い直す。
「……気にされている、って感じです」
古参が、ふっと短く息を吐いた。
笑ったのか、安堵したのか、判別がつかない程度の。
「隊長はな。気にされることに慣れていない」
「……慣れてない?」
「慣れてない。だから最初は拒む」
古参は武具を磨く手を止めずに言った。
「だが、拒めない相手には……」
一拍。
「少しずつ、譲る」
その言葉に、若い騎士が目を瞬かせる。
「譲る、って……隊長が?」
「そうだ。隊長は譲らない男だった」
「なら、今は……」
古参は言い切らなかった。
代わりに、詰所の空気だけが、確信へ寄っていく。
「……今日も早く帰られるんですよね」
遠慮がちだった若い騎士の声が、少しだけ柔らかくなる。
誰も否定しない。
否定の代わりに、同じ言葉が自然に共有される。
「……お待ちの方がいらっしゃるだろうからな」
誰も名前を出さない。
出す必要がないからだ。
「そうか」
と古参は静かに言った。
「それなら、最近の指揮の変化も納得がいく」
「指揮?」
「魔族討伐の任務だ」
一瞬、場の空気が引き締まる。
「以前はな…
隊長は、何でも一人で片付けようとされた」
「……ですね」
若い騎士が苦笑する。
「前線に出て、無茶して、
戻ってきて、血を流しながら報告して、
それでも、次の日にはまた同じように……」
「だが今は違う」
古参は武具から手を離す。
「全体を見ている、
指示が的確だ、
前に出るべき時と、下がるべき時を分けている」
「結果」
別の騎士が続ける。
「死者ゼロです。
この数回の任務、負傷者すら最小限」
「しかも」
と、別の騎士が言葉を継いだ。
声が少しだけ弾む。誇りと、安心が混ざった声だ。
「隊長、最後に必ず確認してから帰られるんですよ」
「確認?」
「俺たち全員の顔」
騎士は自分の胸元を軽く叩く。
「人数、傷、足取り。……逃げるように帰らなくなった」
「昔は?」
「昔は、終わった瞬間にいなくなった」
誰かが短く言う。
「あれは……隊長が一人で血を洗う時間だったんだと思う」
空気が少し冷える。
軽口が止まる。
若い騎士が、たまらず言った。
「……隊長って、俺たちのこと嫌いなんだと思ってました」
「分かる」
「俺もそう思ってた」
「でも違うんだな」
古参が頷いた。
「嫌いなら、最初から切り捨てる。
隊長は切り捨てない。だから余計に厄介だ」
「厄介……」
若い騎士が苦笑する。
「優しいから厄介なんだ」
古参は言い切った。
「優しいから背負う。
背負うから壊れる。
壊れそうになった時に……今は引き戻されている」
誰が、とは言わない。
誰もが、分かっている。
若い騎士が、少しだけ声を落とした。
「……俺、隊長が変わったの嬉しいです」
「お前、口が軽いな」
「軽いですけど!」
言い返してから、若い騎士は真面目に続ける。
「嬉しいですよ。だって、隊長が“生きてる”感じするから」
「……」
「生きて帰ってきて、ちゃんと飯食って、
俺らの顔見て、叱るとこ叱って…。
それで、最後に……帰る。」
古参は黙ったまま、しばらく武具の表面に映る光を見ていた。
「……隊長はな」
ぽつりと呟く。
「帰る場所を作るのが下手だった」
「今は?」
若い騎士が問う。
古参は答えなかった。
答えの代わりに、詰所の誰もが同じ方向を一瞬だけ思い浮かべる。
その沈黙が、何よりの返事だった。
♢
騎士団・副官室付近
「隊長」
副官が書類を差し出しながら、淡々と言う。
「本日の報告は以上です
残務は私の方で処理しておきますので」
「……助かる」
アルヴェインは短く答える。
言葉の端が昔より少しだけ柔らかい。副官は気づいているが、指摘しない。
「帰投後、何かあれば呼びますが」
一拍。
「恐らく、今日は呼びません」
副官は一瞬だけ視線を上げたが、何も言わない。
「わかった」
それだけ。
否定も。
詮索も。
確認も。
——必要ない。
副官は内心で思う。
(もう、“そういう段階”だ)
そして同時に、別の現実も理解している。
(隊長自身が、それを言葉にするまで)
(周囲は、余計な角を立てない)
(——守るべきは、噂ではなく隊長の呼吸だ)
副官は廊下の向こうを見た。
隊長が帰る方向。
そこに“待つ人”がいることを、もう部隊全体が知っている。
知っているからこそ、誰も口にしない。
(公認にしてしまえば、仕事になる)
(仕事にしてしまえば、隊長は自分を処理する)
(——だから今は、黙認のままがいい)
副官は書類を束ね直し、いつも通りの声で付け加える。
「明日の巡回の変更点は、私から各班へ通達しておきます」
隊長が「頼む」と短く返す。
それだけで、副官は十分だった。
(帰れる)
(帰させる)
(それが部隊の利益でもあり、隊長の命綱でもある)
副官は余計な感情を顔に出さないまま、背中で静かに息を吐いた。
♢
ヴァルシュタイン家・使用人区画
「お嬢様、お屋敷には……お戻りにならないおつもりでしょうか」
夕方。
侍女が控えめに切り出す。
年嵩の執事が、静かに答えた。
「お嬢様は、今
アルヴェイン様という、大切な方を見つけられたのです」
「遅かれ早かれ」
と、別の侍女が頷く。
「お相手を見つけられれば、こうなると思っていました」
「ですが……」
若い侍女が首を傾げる。
「昔のお嬢様は、あんな感じじゃなかったですよね」
「よく泣いておられましたし」
「どちらかと言うと、守られる立場というか……」
「そうですな」
執事が遠くを見る。
「伯爵家のご令嬢として、
丁寧に、大切に育てられました」
「変わられたのは……」
別の侍女が思い出す。
「騎士団に入られてから、ですよね」
「ええ」
「最初は後方で、いつも震えておられたと聞きました」
「窮地に陥った時に」
執事が静かに続ける。
「助けてくださったのが……」
一瞬の沈黙。
「……アルヴェイン様、ですか」
「そう、
体に傷一つ残さず、
死にかけていたところを助けられた、と」
「……死にかけて、って」
若い侍女が息を呑む。
「そんな……お嬢様が?」
「ええ」
年嵩の執事は淡々としているが、目は笑っていない。
「騎士団に入られて間もない頃でした…。
お嬢様はあの頃、剣も槍も形だけで…。
それでも名家の娘として入団されたから、周りの視線も厳しかった」
侍女たちは顔を見合わせる。
「そんなに……」
「ええ。いじめ、というほど露骨ではない」
執事が言葉を選ぶ。
「しかし、“期待されない”という形の孤立はありました」
「……それで、窮地に?」
「任務中、後方支援の予定が崩れた」
執事は短く説明する。
「魔族の斥候が想定より早く入り込み、後衛が切り離された」
「お嬢様は……」
別の侍女が喉を鳴らす。
「足が竦んで動けなかった、と」
執事は事実だけを言う。
「怖さで声も出ず、武器も握れず、
泣くことすらできなかった」
若い侍女が思わず唇を噛んだ。
「……その時」
執事は少しだけ言い淀む。
「アルヴェイン様が、前線から戻られた」
「前線から?」
「本来、戻るべきではない」
執事の声が低くなる。
「だが戻った。そして、お嬢様を“拾った”」
拾った、という言葉が妙に生々しい。
命を拾う、という意味だ。
「抱えて、運び出した
盾を割られても、
自分が切られても、
お嬢様だけは、体に傷一つ残さなかった」
侍女たちは、言葉を失う。
「それで、お嬢様は……」
「泣きました」
執事は静かに言った。
「その日だけではない…
しばらくの間、夜になると泣いていた」
「……」
「でも、泣きながら」
執事は続ける。
「次の日から剣を握った。
自分の足で立つ練習を始めた」
若い侍女が、ぽつりと呟く。
「助けられたのは、命だけじゃなかったんですね」
執事は頷いた。
「ええ。お嬢様は“守られる”だけで終わる方ではない。
守られたなら、次は守る側に回る。
その時に選んだ相手が——」
言いかけて、執事は口を閉じる。
言う必要がないからだ。
「……アルヴェイン様」
侍女が小さく呟いた。
「ええ」
執事はほんの少しだけ柔らかい声で言った。
「今度は、お嬢様が守る番なのでしょう」
侍女たちが静かに頷く。
「それ以来でしょうな」
執事が結論づける。
「お嬢様が、“守る側”になられたのは」
そして誰も口にしないまま、同じことを思う。
——お嬢様は、もう戻らない。
戻れないのではなく、戻らないのだ。
♢
ヴァルシュタイン家・主寝室
「シャルロットは……」
父、アルベルトが低く呟く。
「今日も、あの若造のところか」
「ええ」
母、エレオノーラは紅茶を口に運ぶ。
その所作は穏やかで、いつも通りだ。
「随分と、入れ込んでいるな…。
まさか娘が、あそこまで……」
「それだけ愛しているのでしょう」
母は淡く言う。
肯定でも否定でもなく、“事実”として。
「だがな」
父は眉を寄せる。
「……あのアインの息子だぞ」
空気が一段、重くなる。
ここで父が言っているのは、娘の相手——アルヴェイン隊長そのものではない。
まず浮かぶのは、父親の名だ。
「アイン・アルヴェイン」
父は昔の名を思い出す。
「あの男は冷酷無比だった。
敵にも味方にも容赦がなかった。
功績は多いが、人を人と思わぬ男だった」
父はさらに言葉を重ねる。
そこにあるのは嫌悪というより、経験から来る警戒だった。
「アインはな……ただ冷酷だっただけじゃない。
“正しい”と言い切る男だった」
母が目を細める。
「正しい?」
「正しさのために切れる男だ」
父は低く言う。
「戦で勝つためなら、補給線ごと村を捨てる。
味方の撤退を早めるために、橋を落とす。
そして——その判断が、結果として正しかった」
母は黙って紅茶を置いた。
父の言葉が、嫌な現実を含んでいるのを理解している。
「誰も反論できなかった。
反論すれば、“お前が死者を増やす”と言われる。
実際、アインの判断は死者を減らした」
「……それは」
母が静かに言う。
「英雄の振る舞いにも見えるわね」
「だから厄介なんだ」
父は即座に返す。
「英雄の皮を被った冷酷さは、誰にも止められない。
アインは止まらなかった。
止まらなかったから、味方が救われた。
救われたが……同時に壊れた者も多い」
父は指先を組み直す。
「そして、あの男は“家族”というものを持たなかった。
持たなかったというより——」
一拍。
「持つつもりがなかった」
母が眉を寄せる。
「……なぜ?」
「弱点になるからだ」
父は淡々と言う。
「愛せば迷う。
守りたくなれば判断が鈍る。
だから、最初から持たない」
その言葉の冷たさに、室内の空気がさらに沈む。
「それが、アイン・アルヴェインだ」
父はそこで、ふっと息を吐いた。
「だから私は怖い…。
血は、繋がる。
あの男の息子もまた、“正しさ”で人を切る人間かもしれん」
——ここまでが“アインの話”だ。
父の恐れは、血統そのものへの警戒だった。
母は、少しだけ首を傾げる。
「けれど」
柔らかく言う。
「あなたは、“息子”を見たの?」
父は答えない。
答えられない、の方が正しい。
母は静かに続けた。
「シャルロットは、見る目のない子ではありません。
それに——」
母は、ほんの少しだけ微笑む。
「“正しさで人を切る男”なら…、
そもそも娘は、ここまで近づけないでしょう」
父が眉を寄せる。
「近づけない?」
「ええ」
母は言い切る。
「娘は、“逃げる気配”に一番敏い。
逃げる男なら、捕まえる前に潰します。
でも今のシャルロットは、潰していない」
一拍。
「捕まえている」
父は嫌そうに顔を歪めた。
図星を突かれた顔だ。
「……厄介な娘だ」
「ええ」
母は微笑む。
「とても」
そして母は、ここで話を切り替える。
父が本当に引っかかっているのは、血統だけではないと分かっているからだ。
「あなたが気にしている“侍女の噂”のことですが」
父が目を伏せる。
「……ああ」
ここから先は、“アイン”ではなく“エル(アルヴェイン隊長)”本人の噂だ。
母は、わざと区切るように言葉を整えた。
「アインの話と、今の隊長の噂は別物ですわ。
混ぜれば、判断を誤ります」
父は唇を噛む。
「分かっている。だが……」
「“女を使い捨てる”という噂でしょう?」
母が静かに続ける。
父は低く言う。
「侍女を使い捨てたと聞いている。
人間的にも問題が、という話もな」
母は即座に遮らない。
“恐れ”を否定せずに受け止める。
その上で、淡々と返す。
「噂は噂ですわ。
けれど、噂があるという事実は——家として無視できない」
父が少しだけ顔を上げた。
「……そうだ」
母は頷き、続ける。
「だからこそ、気になるなら…本人から聞けばよろしいでしょう」
「それが、釈然としないのだ」
父は腕を組む。
「本人から聞くということは、もはや“認めるかどうか”の段階ではないか」
母は、ふっと笑った。
「あら…
もう、その段階だと思いますよ?」
「……何?」
「あなたも」
母は柔らかく、しかし確かに言った。
「そろそろ覚悟を決めた方が、よろしいのではなくて?」
父は言葉を失う。
「娘は、選びました」
母は続ける。
「そして、選ばれています」
「……」
「公認ではありません…
ですが」
一拍。
「黙認以上ですわ」
父は長く息を吐いた。
「……厄介な娘だ」
「ええ」
母は微笑む。
「とても」
その微笑みは“勝ち誇り”ではない。
腹を括った人間の穏やかさだった。
「迎えるなら、迎え方を整えましょう」
母は静かに言う。
「疑うなら、疑い方を間違えないこと。
アインの影で息子を裁かないこと。
そして——噂で娘を縛らないこと」
父は答えない。
けれど、その沈黙は、否定ではなかった。
♢
誰も、はっきりとは言わない。
けれど。
騎士団も。
屋敷も。
家族も。
もう全員、分かっている。
これはまだ、
公に認められた関係ではない。
だが確実に——
戻れない関係になりつつあることを。
そして、その中心にいる二人だけが、
まだそれを言葉にしていないことを。
言葉にしないまま、
それでも世界が先に“形”を作っていく。
空気が変わったのは、
噂が強くなったからではない。
噂を、誰も否定しなくなったからだ。
今回は、当事者ではなく「周囲」から見た二人を書きました。
誰も明言しないのに、全員が分かっている――
公認ではないけれど、もう引き返せない空気だけが先に出来上がっている、そんな段階です。
隊長の変化も、シャルロットの立ち位置も、
どれも「恋愛だから」ではなく、「生き方が変わった結果」として描いています。
だからこそ、祝福とも警戒ともつかない視線が混ざる形になりました。
次はまた、当事者側に戻る予定です。
この“黙認以上”の空気の中で、エルとシャルが何を選び続けるのか――
その続きを、見届けてもらえたら嬉しいです。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
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