71. 逃げられるのに、逃げなかった
シャルが隣にいるのが、当たり前になっていた。
それがいつからなのか、正確には思い出せない。
気づけば、朝に目を覚ましたとき、隣にいないと違和感を覚えるようになっていた。
息遣い。
体温。
シーツの僅かな沈み。
それらがないだけで、胸の奥が少し落ち着かなくなる。
「……おかしいな」
独り言が、静かな部屋に落ちる。
シャルは今朝、少し早く屋敷へ戻った。
用事があると言っていた。
理由も聞いた。
曖昧なものじゃない。
ちゃんと納得できる理由だった。
だから、今ここにいないこと自体は、何もおかしくない。
なのに。
「……」
椅子に腰を下ろしても、書類を開いても、集中できない。
指先が、無意識に彼女の座っていた場所をなぞってしまう。
いない。
それだけで、思考が一段落ちる。
「……僕は」
そこで、言葉が止まった。
――依存、という言葉が頭をよぎる。
即座に否定した。
そんな単純な話じゃない。
依存なら、もっと分かりやすく、苦しいはずだ。
これは違う。
……違う、はずだ。
♢
騎士団に出ると、いつも通りの一日が始まる。
挨拶。
報告。
指示。
部下たちの態度も、ここ数日で定着した“距離感”のまま。
誰も何も言わない。
誰も踏み込まない。
それが、逆に重い。
「分隊長」
副官が声をかけてくる。
「今日の巡回ですが、北側を重点的に——」
「分かった」
言葉は問題なく出る。
判断も鈍っていない。
……それなのに。
「分隊長?」
「何だ」
「……いえ。何でもありません」
副官は一瞬、何か言いかけてやめた。
その“やめ方”に、慣れてしまっている自分がいる。
(……察されている)
それを不快に思うべきなのに、思わない。
むしろ、
説明しなくていいことに、少しだけ安堵している。
その事実が、胸に引っかかった。
♢
巡回の途中、ふと考える。
——今なら、逃げられる。
誰も名指ししていない。
誰も確定させていない。
否定しようと思えば、まだできる。
距離を取る。
忙しさを理由にする。
立場を盾にする。
いつもやってきたことだ。
そうすれば、
誰も傷つかない。
少なくとも、“表向き”は。
(……なのに)
その想像をした瞬間、胸の奥がひどく冷えた。
息が、少しだけ詰まる。
逃げる。
離れる。
正しい距離を取る。
それら全部が、
今の自分にとって“救い”ではないと、はっきり分かってしまった。
「……」
足を止める。
何をしている。
巡回中だ。
そう自分を叱咤して歩き出すが、思考は止まらない。
逃げられるのに、逃げたくない。
それが、こんなにもはっきりとした感覚だとは思わなかった。
♢
ふと、リィナのことを思い出す。
思い出したくて思い出したわけじゃない。
ただ、自然と浮かんだ。
あの頃の自分は、
“守っているつもり”だった。
距離を取り、踏み込まず、責任を曖昧にして。
それを優しさだと、思い込んでいた。
——違った。
守っていたのは、相手じゃない。
自分だ。
壊れるのが怖くて、
失うのが怖くて、
だから、最初から深く踏み込まなかった。
「……」
シャルは、違う。
彼女は踏み込んでくる。
迷いなく。
覚悟を持って。
守られている感覚は、ない。
代わりにあるのは、
逃げ場が減っていく感覚。
それなのに。
それが、怖くない。
……いや。
正確には、怖い。
でも、嫌じゃない。
♢
その日の夜。
部屋に戻ると、灯りは点いていなかった。
いつもなら、もう帰ってきている時間だ。
「……遅いな」
呟いた声が、やけに静かに響く。
上着を脱ぎ、椅子にかける。
いつもの動作。
なのに、どこか落ち着かない。
シャルがいない。
それだけで、
部屋が広く感じる。
「……」
無意識に、扉の方を見る。
待っている。
待つ、という行為が、こんなにも自然になっていることに気づいて、胸がざわつく。
——待つ準備、するから。
あの言葉が、頭をよぎる。
縛る言葉じゃない。
約束でもない。
ただ、“前提”だった。
「……僕は」
椅子に深く腰掛け、天井を仰ぐ。
いつから、こんなふうになった?
答えは、出ている。
——否定しなかった日からだ。
♢
否定しなかった日。
あの日、何を言われたわけでもない。
誰かに詰め寄られたわけでもない。
ただ、問いがあって、沈黙があって、そのまま夜が来ただけだ。
それでも。
あの沈黙は、確実に境界線だった。
否定しなかったという事実は、
何も選ばなかったようでいて、
実際には——選んでしまったということだった。
「……」
椅子の背に体重を預ける。
木の感触が、背中に伝わる。
逃げなかった。
距離を取らなかった。
曖昧な言葉で濁さなかった。
それは、正解だったのか。
それとも、ただの弱さだったのか。
答えは、まだ出ない。
けれど。
「……戻れないな」
そう思った瞬間、不思議と後悔は湧かなかった。
♢
リィナと過ごした日々を、思い返す。
彼女は優しかった。
穏やかで、静かで、こちらの事情を決して深く聞かなかった。
それを、ありがたいと思っていた。
踏み込まれないこと。
詮索されないこと。
期待されないこと。
全部が、楽だった。
だから、自分も踏み込まなかった。
深入りしなかった。
“守る”という言葉の裏で、距離を保った。
——結果、失った。
守らなかったのは、彼女じゃない。
関係そのものだった。
「……同じだ」
思わず、声が漏れる。
シャルは違う。
彼女は、楽を選ばない。
踏み込む。
距離を詰める。
逃げ道を一つずつ潰す。
それを、優しさだとも正義だとも言わない。
ただ、“覚悟”だと言う。
「……ずるいな」
そんな言葉が、自然と浮かぶ。
♢
考えてみれば、最初からそうだった。
シャルは、こちらが距離を取る前に踏み込んできた。
こちらが曖昧な言葉を選ぶ前に、結論を出していた。
「逃げない」
「離れない」
「選んだ」
その言葉たちは、
約束でも、誓いでもない。
前提だった。
それが、怖かった。
同時に。
それが、救いだった。
♢
“守られている”感覚は、ない。
代わりにあるのは、
見逃されない感覚。
誤魔化せない感覚。
弱さを弱さのまま置いていかれない感覚。
それを、重いと感じるのは自然だ。
逃げ場が減る。
余白が消える。
それでも。
「……それでも、か」
声に出してみる。
それでも、嫌じゃない。
この距離が。
この重さが。
この、選ばれている感じが。
♢
自覚してしまった以上、もう戻れない。
シャルは、捕まえに来る人間じゃない。
けれど、捕まる場所を提示してくる。
そして、その場所が——
あまりにも居心地がいい。
「……厄介だ」
吐き出すように呟く。
依存じゃない。
支配でもない。
“選択”だ。
それが一番、逃げられない。
♢
扉の向こうに、気配がない。
シャルはまだ帰っていない。
それでも、もう分かっている。
彼女は戻る。
疑いようがない。
疑わなくなっている自分が、もういる。
「……待ってるな」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
待つ、という行為が、
不安でも、我慢でもなく、
ただの自然な流れになっている。
それが、何より決定的だった。
♢
否定しなかった日から。
僕は、
逃げなくていい理由を得たんじゃない。
逃げないことを、
“選び続ける側”に立ってしまったんだ。
その自覚が、
胸の奥で、静かに、でも確かに重みを増していく。
シャルが隣にいる未来を、
想像してしまった以上。
——もう、戻れない。
♢
戻れない、という言葉は本来、恐怖のはずだった。
戦場で退路を断たれたときみたいに。
選択肢が削られて、呼吸が浅くなって、視界が狭くなる、あの感覚。
なのに、今の“戻れなさ”は少し違う。
胸の奥が締まるのに、
同時に、どこかで息がしやすくなる。
矛盾している。
「……馬鹿みたいだ」
誰かに言われたわけじゃない。
責められたわけでもない。
ただ、自分が自分を見て、呆れているだけだ。
♢
考えてみれば、僕はいつだって“言わない”ことで生き延びてきた。
言えば、形になる。
形になれば、責任が生まれる。
責任は、相手を縛る。
だから言わない。
だから曖昧にする。
だから距離を取る。
そうやって、守ってきたつもりだった。
でも実際には、
守っていたのは自分の逃げ道だった。
「……」
目を閉じる。
シャルがいない部屋は静かだ。
静かすぎて、余計な音がする。
紙の擦れる音。
遠くの廊下の足音。
窓の外を通り過ぎる風の気配。
それらが全部、“一人”を強調してくる。
一人は、慣れているはずだった。
慣れていた、はずだった。
♢
慣れているふりをするのが得意だった。
誰にも頼らない顔。
平然としている顔。
痛みを無視できる顔。
そして、隣に誰かがいても、
いつかいなくなる前提で扱う癖。
——それが、正しいと思っていた。
でも。
シャルは、その前提を壊してくる。
いなくなる前提を許さない。
逃げる前提を許さない。
別れを“当然”にしない。
それは、優しさというより、意志だ。
意志は、怖い。
でも、意志は——救いにもなる。
♢
“帰ってくる”ことを疑わない。
いつから、僕はそんなふうに考えるようになった?
シャルが言ったからか。
「離れない」と言ったからか。
「逃がさない」と笑ったからか。
どれも違う気がする。
たぶん、もっと単純で。
もっと、残酷で。
彼女が実際に、何度も戻ってきたからだ。
口だけじゃない。
言葉だけじゃない。
戻ってきて、
隣に座って、
当たり前みたいに僕の顔を覗き込んで、
“今日”を回収していく。
それを何度も繰り返されたら——
疑う理由の方が、なくなる。
♢
疑わないことは、楽だ。
けれど同時に、
疑えないことは、怖い。
僕はずっと、
疑うことで自分を守ってきた。
期待しなければ、裏切られない。
信じなければ、失望しない。
選ばなければ、失わない。
そういう“正しさ”だけで出来た鎧。
シャルは、それを外側から叩き割るんじゃない。
内側から、溶かす。
笑って。
抱きついて。
名前を呼んで。
「逃げないで」と、静かに言って。
鎧を着たままでも、温度は入ってくる。
気づいたときには、
鎧の意味が薄くなっている。
「……怖いな」
声に出すと、その怖さが少しだけ形になる。
形になった怖さを、
僕はいつもなら否定する。
でも今日は、否定が出てこない。
♢
もし、これが依存なら。
もっと見苦しいはずだ。
もっと荒々しいはずだ。
もっと、相手を縛りつけるための言葉が欲しくなるはずだ。
——でも、違う。
僕が欲しいのは、縛りじゃない。
“確認”だ。
帰ってくること。
いなくならないこと。
隣に立つこと。
シャルがいつも口にしてきた、当たり前の言葉。
それを、僕も当たり前にしてしまっただけだ。
……その“だけ”が、致命的なのに。
♢
扉の方を見る。
まだ開かない。
気配もない。
それでも、胸の奥に焦りが溜まっていくのが分かる。
焦りは、弱さだ。
弱さは、嫌いだった。
でも今は、
弱さを否定できない。
否定したところで、
それが消えるわけじゃないと知ってしまったからだ。
「……遅い」
もう一度、呟く。
その言葉には、責める響きがない。
苛立ちもない。
ただ、“待っている”という事実だけがある。
♢
待つという行為に、意味が生まれた。
それが僕にとって、どれだけ異常なことか。
待つのは、無駄だと思ってきた。
待つのは、相手に期待することだと思ってきた。
期待は、危険だ。
危険なのに。
僕は今、期待している。
シャルが帰ってくる未来を、
当たり前に思っている。
「……馬鹿だ」
同じ言葉を繰り返す。
でも、その馬鹿さを、
今は捨てたくないと思ってしまう。
♢
リィナのとき。
僕は、待たなかった。
待っているふりはした。
でも、心のどこかで“終わり”を準備していた。
終わる準備をしていれば、
終わったときに、自分が壊れない。
そう思っていた。
でも、実際には——
終わったあとも、壊れた。
壊れたのは、準備のせいじゃない。
壊れたのは、
準備したからだ。
終わりを用意した瞬間に、
始まりを殺していた。
「……」
それを、今さら理解する。
遅すぎる理解だ。
けれど、理解したからこそ、
シャルの“終わりを許さない”やり方が、胸に刺さる。
彼女は、始まりを殺さない。
怖がりながら、踏み込む。
震えながら、笑う。
不安を抱えたまま、隣に立つ。
それは強さじゃない。
覚悟だ。
♢
覚悟は、こちらにも伝染する。
僕が逃げ道を探すより先に、
逃げ道の価値が薄れていく。
逃げれば楽だ。
逃げれば簡単だ。
逃げれば正しい。
でも、逃げた先には
“シャルがいない”日常がある。
その想像だけで、胸が冷える。
……結局、答えは単純だ。
僕はもう、
彼女のいない日常に戻りたくない。
それを認めてしまった以上、
もう“戻れない”。
♢
ふっと、廊下の遠くで足音がした気がする。
幻聴かもしれない。
ただの使用人かもしれない。
それでも、心臓が一度だけ跳ねる。
——期待している。
その事実が、胸を熱くする。
そして、同じくらい、怖い。
僕は椅子から立ち上がり、
無意味だと分かっていながら扉に近づき、
取っ手に触れない距離で止まった。
まるで、扉の向こうにいる気配を、
先に抱きしめてしまうみたいに。
「……帰ってこい」
小さく、吐息みたいに呟く。
それは命令じゃない。
祈りでもない。
ただの、本音だ。
言葉にした瞬間、
胸の奥が少しだけ楽になった。
——僕は、待っている。
それを、ようやく自分に認めた。
シャルが帰ってくる未来を、
当たり前にしてしまったことも。
その当たり前が、
僕の弱さであり、
僕の救いであることも。
全部。
♢
そして気づく。
僕は、シャルに捕まっているんじゃない。
シャルが作った“戻る場所”に、
自分から足を踏み入れている。
怖いのに。
痛いのに。
それでも。
そこが、あまりにも温かいから。
♢
扉が開く音がした。
反射的に、体がそちらを向く。
「……ただいま」
シャルの声。
「おかえり」
自分でも驚くほど、声が早く出た。
彼女は少し疲れた顔をしていたが、笑った。
「今日は、遅くなっちゃった」
「用事は?」
「うん。ちょっとね」
それ以上、聞かなかった。
聞かなくてもいいと、分かっている。
聞かれなくても、彼女が逃げないことも。
シャルは靴を脱ぎ、自然に距離を詰めてくる。
触れない。
でも、近い。
「……今日は」
彼女が、僕の顔を見上げる。
「大丈夫だった?」
短い問い。
でも、全部を含んでいる。
「……察してるな」
「うん」
即答。
「だって、顔に書いてある」
「……」
「しんどい日だった、って」
否定しようとした。
でも、口が動かなかった。
「……否定できなかった」
それだけ言う。
シャルは、少しだけ目を細めた。
「そっか」
責めない。
驚かない。
ただ、受け取る。
「じゃあ」
一歩、近づく。
「今日は、私がそばにいる日だね」
決めつけでも、命令でもない。
当たり前みたいな口調。
「……シャル」
「ん?」
「……離れた方が、楽だって思うか?」
問いかけた瞬間、自分でも驚いた。
こんなことを聞くつもりはなかった。
なのに、口をついて出た。
シャルは、一瞬だけ考える。
それから、正直に言った。
「楽、かどうかで言えば」
一拍。
「離れた方が、簡単だよ」
胸が、きしむ。
「でも」
彼女は、僕を見た。
逃げ場のない距離で。
「簡単な方、選ばないって決めたの」
その言葉が、胸に深く沈む。
♢
「……重いな」
思わず漏れた。
シャルは笑う。
「知ってる」
「自覚あるのか」
「うん」
迷いがない。
「だって、覚悟だから」
覚悟。
その言葉が、彼女の中で軽くならないことを知っている。
「エル」
名前を呼ばれる。
「今日、逃げようと思った?」
「……」
正直すぎる問い。
少し黙ってから、答える。
「思った」
「うん」
「でも、できなかった」
「うん」
全部、肯定される。
「それでいいよ」
「……いいのか」
「いい」
即答。
「逃げられるのに逃げなかった、ってことだから」
逃げられるのに。
その言葉が、胸を締め付ける。
「……僕は」
声が、低くなる。
「捕まってるのか」
シャルは、少しだけ困った顔をした。
それから、笑う。
「捕まってるんじゃないよ」
一歩、近づいて。
「捕まる場所を、選んでるだけ」
その言い方が、優しくて、残酷だった。
♢
ベッドに腰を下ろす。
シャルは隣に座り、肩を寄せてくる。
「ね」
「……何だ」
「今日は、一人で考えすぎたでしょ」
「……ああ」
「じゃあ」
彼女は、そっと僕の腕を取った。
強くない。
でも、ほどけない。
「今日は、戻っておいで」
戻る。
その言葉が、胸に刺さる。
「……戻れるのか」
呟くと、彼女は迷わず答えた。
「戻す」
その確信が、怖い。
でも。
「……離れるなよ」
気づけば、そんな言葉が出ていた。
シャルは、一瞬だけ目を見開く。
それから、ゆっくり笑った。
「うん」
「逃げない」
その約束は、軽くない。
♢
彼女の体温が、隣にある。
それだけで、思考が静かになっていく。
僕は、分かってしまった。
この重さを、
この距離を、
この逃げ場のなさを。
心地いいと思ってしまったことを。
それは、弱さだ。
でも、今の僕には、必要な弱さだ。
シャルが、隣にいる。
それだけで。
——僕は、逃げなくていい理由を、また一つ増やしてしまった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
「逃げられるのに、逃げない」
その感覚が自分の中で形になってしまった瞬間って、恋より先に“覚悟”が来る気がします。
エルはまだ言葉で選べていないのに、もう行動で選び続けてしまっていて。
だからこそ、シャルの「当たり前」が優しくて、残酷で、救いになりました。
次は、シャルが“いない時の重さ”ではなく、
“いる時の重さ”でどこまでエルをほどいていけるのか——そこを丁寧に回収していきます。
感想・評価・レビュー、とても励みになります。
よければひとことでも残してもらえたら嬉しいです。




