69. 否定しなかった
それから数日。
門で別れたあの日の視線は、消えるどころか——形を変えて増えた。
騎士団の中で、噂は噂のまま「事実」にならない。
誰も確証を持って語らない。
誰も名指しで問わない。
けれど、誰もが「前提」として扱い始めた。
それがいちばん厄介だった。
廊下の角を曲がったとき、ちょうど向こうから来た若い騎士が、こちらを見て一瞬だけ目を見開く。
次の瞬間、礼を取る角度がやけに丁寧になる。
「分隊長、おはようございます」
「……おはよう」
声に出した自分の返事が、いつも通りに聞こえなくて、腹の底が少しだけざわつく。
視線は首元に落ちる。
外套の襟で隠しているはずの場所。
一瞬だけ、そこを見てしまった気配が、確かにある。
その騎士はすぐに目を逸らし、何事もなかったように通り過ぎる。
……何事もないふりが、いちばん“何かがある”と告げていた。
♢
訓練場ではもっと露骨だった。
整列。号令。反復。
いつも通りのはずの朝の空気が、どこか固い。
「分隊長」
副官がいつもより一歩距離を取って、書類束を差し出してくる。
「今日の巡回、変更が入っています。王都南の路地——」
「了解」
「……あと」
副官はほんの一瞬だけ言い淀み、何でもないような顔を作った。
「帰投時刻、いつも通りで問題ありませんか」
「……何の確認だ」
問い返すと、彼は苦笑いを浮かべる。
「いえ。念のためです。最近、分隊長は——」
言葉が止まり、代わりに“察している”目がこちらに向く。
「……急いでいる日が多いので」
喉の奥が熱くなる。
「任務が立て込んでるだけだ」
そう言い切れば、普通はそこで話が終わる。
でも終わらない。
副官は「そうですね」と頷き、さらに一段、声を落とす。
「何かあったら、……あの方が心配しますし」
胸の奥を、鈍い針で刺される。
あの方。
名前すら出さないのに、通じる。
それがもう、“確信”だった。
「……そうだな」
認めるつもりなんてなかった。
なのに口から出たのは、否定ではなく、その先だった。
「シャルは……心配するだろう」
言った瞬間、訓練場の空気が一拍止まった気がした。
誰も声を上げない。
誰も笑わない。
ただ、何人かが視線を逸らし、何人かが「やはり」と静かに息を吐いた。
副官は小さく頷く。
「でしたら、帰投を遅らせないよう配慮します」
配慮。
善意。
だからこそ逃げ道がない。
「……余計なことをするな」
ぶっきらぼうに言ってしまう。
けれど副官は怒らない。
「承知しました。ただ——」
彼は少しだけ困った顔をした。
「分隊長に倒れられるのは、困ります」
「……」
「それと、あの方が泣くのも、困る」
思わず視線を上げると、副官は急に咳払いをして、いつもの事務的な顔に戻った。
「失礼しました。巡回の件に戻ります」
それ以上は踏み込まない。
踏み込めない。
でも、引き返しもしない。
この“ちょうどいい距離”が、いまは檻みたいに感じた。
♢
巡回に出れば、さらに厄介だった。
街中で偶然すれ違う貴族たち。
視線。囁き。止まる会話。
それに加えて、騎士団内部の空気が変わる。
部下たちが、妙にこちらの顔色を窺う。
「分隊長、今日の昼は……」
「食え。各自で」
「いえ、分隊長もです。最近、顔色が——」
「大丈夫だ」
「……“大丈夫”は信用できないって、言われません?」
言ったのは一番若い騎士だった。
言った後に「あ」と気づいたように顔を真っ赤にする。
「……す、すみません! 私、今——」
「いい」
短く返す。
叱るほどのことじゃない。
けれど胸の奥が、嫌にざわつく。
“言われません?”
誰に。
言うまでもない。
「……うざいな、お前ら」
吐き捨てるように言ったのに、若い騎士たちは笑わなかった。
真面目な顔で、頷く。
「すみません。でも——」
別の騎士が、真っ直ぐこちらを見た。
「分隊長が帰ってこないの、私たち困ります」
「……」
「それに……あの方、待つって言うタイプですよね」
待つ。
あの言葉が、胸の奥に沈む。
縛るでも疑うでもなく、
ただ「予定に入れる」みたいに、当たり前に言ったあの声。
——待つ準備、するから。
「……勝手に決めるな」
そう言いながら、否定しなかった。
否定できなかった。
誰かを隣に置いて、守れるか分からない場所に立たせている。
それが痛くて、怖くて、正しいはずの言葉を探すのに——
正しい言葉は、いつもシャルを傷つける刃になる気がした。
♢
昼下がり、詰所の廊下。
窓から差し込む光が、磨かれた床に細い帯を作る。
そこを踏むたび、靴音がやけに大きく響いた。
「分隊長」
古参の騎士が、隣に並ぶ。
笑わない。
目だけが優しい。
「聞きません。詮索もしません」
「……だったら話しかけるな」
「はい」
素直に頷いて、それでも隣を歩く。
「ただ……」
一拍。
「否定しないと決めたなら、覚悟を持ってください」
胸の奥がきしむ。
何を、どこまで。
覚悟という言葉は曖昧で、だからこそ重い。
「……決めた覚えはない」
絞り出すと、古参は静かに首を振った。
「口に出す前に決まっている人間を、何人も見てきました」
そして、小さく笑う。
「分隊長は、いま、その顔です」
そう言われて、返す言葉が消えた。
シャルは今日、ここにいない。
なのに、存在が重い。
いないのに、逃げ場を塞いでいる。
——否定したくない感情。
その感情が、正しさを押しのけて前に出る。
怖い。
痛い。
でも。
嫌じゃない。
♢
同じ頃。
ヴァルシュタイン家の屋敷では、別の“視線”がシャルを包んでいた。
大広間の窓辺。
淡い光がカーテンを透かし、床の模様に揺れる。
「シャルロット」
父、アルベルト・ヴァルシュタインは椅子に深く腰掛けたまま、静かに言った。
声は穏やかだ。
けれど貴族特有の“逃さない”圧がある。
「最近、お前の名前をよく耳にする」
「そう」
シャルはあっさり頷く。
紅茶のカップを置く音も、いつも通り。
「お前が、騎士団の分隊長と——」
「うん」
「……」
父が一瞬だけ言葉を切る。
続けるのは母のエレオノーラだった。
「噂は、噂のままではないわ」
母は美しい所作で扇を閉じ、シャルを見た。
「お前が軽い気持ちで動く子ではないと、私たちは知っている」
軽い気持ちじゃない。
その一言が胸の奥で静かに鳴る。
シャルは笑った。
明るい笑いではなく、少しだけ大人の笑い。
「軽い気持ちだったら、ここまでやらない」
「……やらない、とは?」
父が問う。
シャルは少しだけ指先をカップの縁に滑らせ、視線を落とした。
「離れないって決めること」
屋敷の空気が、ほんの少し冷える。
それは非難ではなく、理解の一歩手前の沈黙だった。
「怖くないの?」
母が静かに尋ねた。
責める声ではない。
心配する声。
シャルは一瞬だけ目を伏せる。
その瞬間、彼女の中で“怖さ”が形になる。
怖い。
すごく。
噂も、視線も、立場も、将来も。
夜になって一人になると、勝手に最悪の想像をする。
エルがどこかへ行ってしまう想像。
誰かの言葉で、エルが自分を突き放す想像。
でも。
シャルは顔を上げ、母を見た。
「怖いよ」
素直に言う。
「めちゃくちゃ」
父母が息を呑むより先に、シャルは小さく笑った。
「でも、それでも」
一拍。
「離れる方が、もっと怖い」
それは泣き言じゃなく、確認だった。
自分に言い聞かせる言葉。
“これでいい”と、自分で決めるための言葉。
父はゆっくりと目を閉じ、長い息を吐いた。
「……そうか」
母は扇を持ち直し、静かに頷く。
「なら、覚えておきなさい」
「なに?」
「“選んだ”なら、最後まで選び続けること」
母の言葉は冷たくない。
ただ現実の重さがある。
シャルは、笑った。
「うん。選び続ける」
そして心の中で、もう一度だけ繰り返す。
——私は、離れない。
それが、彼を救う檻になっても。
それでも。
離れる方が、怖い。
♢
夜。
エルが部屋に戻ると、灯りが一つだけ点いていた。
その下に、シャルがいた。
椅子に座っている。
待っていたというより、“ここにいるのが当然”みたいに。
「おかえり」
声が明るい。
でも目が、エルの顔を逃さない。
「……ただいま」
返した瞬間、シャルは立ち上がり、距離を詰めた。
触れない。
でも、逃げられない距離。
「今日は、誰かに何か言われた?」
先に来た。
責めない問い。
でも全部を見抜いている問い。
「……言われた」
短く答えると、シャルは頷いた。
「そっか」
一拍。
「じゃあ今日は、私が多めに甘やかすね」
言い方は軽い。
でも、そこに含まれる意味は重い。
“回収する”と言った通りの重さ。
エルが何か言う前に、シャルはそっと外套の襟に指をかける。
「……首、見られた?」
「……多分」
「多分じゃない」
即答。
「見られた」
当たり前のように断定して、シャルは小さく笑った。
「でも、いいよ」
「……よくない」
「いいの」
シャルはエルの胸に額を当てた。
体温が、じわりと伝わる。
「だって」
囁く声。
「否定しなかったね」
胸の奥が、音を立てて崩れる。
否定しなければならない立場。
曖昧にしていい話じゃない。
分かっているのに、口が重かった理由。
それを、彼女は“責めずに”拾い上げる。
「……シャル」
「うん」
「……僕は」
言葉が続かない。
続けたら、正しさが出てしまう。
正しさは彼女を切ってしまう。
シャルは、エルの服を握った。
強くない。
でも、ほどけない力。
「言わなくていい」
「……」
「言わなくていいけど」
彼女は顔を上げ、まっすぐエルを見る。
「逃げないで」
明るい声じゃない。
真っ直ぐな声。
「今日、逃げなかったでしょ」
「……」
「それだけで、私、すごく救われた」
救われた、という言葉が刺さる。
彼女が救われることで、自分も救われてしまうから。
シャルは、エルの服を握ったまま、しばらく何も言わなかった。
責めるでもなく。
急かすでもなく。
ただ、逃げ道を確かめるみたいに、そこにいる。
「ね」
小さな声。
「今日さ」
一拍、間を置く。
「誰が、何て言ったか、全部言わなくていいから」
「……」
「でも」
指先に、少しだけ力がこもる。
「“言われた”ってことだけは、ちゃんと教えて」
それは尋問じゃない。
報告の要求でもない。
――共有。
エルは視線を落としたまま、短く息を吐いた。
「……みんな、察してる」
それだけで十分だった。
シャルは、ふっと息を緩める。
「そっか」
それだけ。
否定も、驚きも、怒りもない。
「じゃあさ」
彼女は、エルの胸に額を預けた。
「今日は、思ってるより、しんどい日だったんだね」
胸に、重さが落ちる。
その重さは罪悪感じゃなく、彼女の体温だった。
「……否定できなかった」
絞り出すように言うと、シャルは小さく頷いた。
「うん」
「……否定しなきゃいけない立場なのに」
「うん」
「それでも——」
言葉が、そこで途切れる。
シャルは、そこで初めて顔を上げた。
まっすぐ、逃げ場のない距離で。
「それでも、否定しなかった」
ゆっくり、噛みしめるように。
「それ、すごく勇気いることだよ」
「……勇気?」
「うん」
彼女は真剣だった。
「だってエル、否定する方が簡単でしょ」
胸の奥を、正確に撃ち抜かれる。
「逃げるのも、切るのも、正しさで殴るのも」
一拍。
「全部、得意だもん」
否定できない。
シャルは、少しだけ困ったように笑った。
「だからね」
声が、柔らかくなる。
「否定しなかったの、私は嬉しい」
嬉しい。
その言葉が、刃みたいに刺さる。
「……嬉しいって、言うな」
「言う」
即答。
「だって、嬉しいから」
シャルは、エルの手を取った。
指を絡めるほど強くはない。
でも、ほどけない。
「私ね」
静かな声。
「エルが全部正しくなくていいと思ってる」
「……」
「守れないかもしれないとか」
「傷つけるかもしれないとか」
全部分かった上で。
「それでも、隣にいるって選ばれるの」
少しだけ、喉が鳴る。
「……怖い?」
エルが聞くと、シャルは一瞬だけ黙った。
そして、正直に言う。
「怖いよ」
「……」
「めちゃくちゃ」
小さく笑う。
「だから、離れない」
理由としては、あまりにも歪で。
でも、揺るぎがない。
「ね、エル」
囁く。
「私がこうやって近くにいるとき」
一拍。
「逃げる理由、減るでしょ」
「……増えてる気がする」
「うん」
肯定する。
「逃げ場は、減ってる」
悪びれない。
むしろ誇らしげ。
「でも、その代わり」
彼女は、そっとエルの背に腕を回した。
「一人になる場所も、なくしてる」
その言葉が、胸に沈む。
息を吸うたび、そこに彼女がいる。
「……重い」
思わず漏れる。
シャルは、満足そうに頷いた。
「知ってる」
「……分かっててやってるだろ」
「うん」
即答。
「だって、エル放っておくと、すぐ一人になるから」
一人で抱えて。
一人で決めて。
一人でいなくなる。
「それ、私が嫌」
短く、強い。
「だから」
彼女は、額をエルの胸に押し付けた。
「今日も、否定しなかったエルを」
一拍。
「私が全部引き受ける」
引き受ける。
守るでも、支えるでもない。
逃がさない側の言葉。
「……それ、優しさか?」
「依存一歩手前」
にこっと笑う。
「でも、まだ越えてないでしょ?」
「……多分」
「じゃあ、大丈夫」
基準が狂っている。
でも、その狂いが心地いい。
「ね」
最後に、シャルは小さく囁いた。
「明日も、同じでいいから」
「……同じ?」
「否定しないで」
命令じゃない。
お願いでもない。
“前提”。
エルは、ゆっくり息を吐いた。
「……約束はできない」
シャルは頷く。
「うん」
「でも」
彼女は、指を絡め直す。
「逃げないって言ったでしょ」
逃げない。
それだけで、十分だった。
シャルは、少しだけ笑って、エルの手を引いた。
寝室へ、ではなく。
まずは彼の“心”が戻れる場所へ連れていくみたいに。
「今日はね」
声が甘い。
「“分隊長”じゃなくて、“エル”に戻って」
戻る。
その言葉が胸に引っかかる。
「……戻れるのか」
呟くと、シャルは即答した。
「戻す」
迷いがない。
怖いほど、迷いがない。
「私がここにいる限り、戻す」
そして、少しだけ笑う。
「重いでしょ」
「……ああ」
「でも、逃げない?」
「……今のところは」
エルがそう言うと、シャルは満足そうに頷いた。
「合格」
「何のだ」
「私の隣に立つ資格」
相変わらず横暴で、相変わらず重い。
なのに、その重さが救いになる。
シャルは最後に、耳元で囁いた。
「明日も、否定しないでね」
それは命令じゃない。
願いでもない。
“当たり前”の確認。
エルは小さく息を吐いた。
「……努力する」
「努力じゃなくて」
シャルが笑う。
「一緒に、でしょ」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
怖い。
痛い。
でも。
シャルが、隣にいる。
それだけで——
僕は、否定しなくていい理由を手に入れてしまった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
69話は
「誰も言わないのに、もう前提になっている空気」と、
「それでも否定しなかった夜」を描きました。
シャルは守られる側ではなく、
エルを“逃がさない”側に立っています。
その重さを、少しでも感じてもらえていたら嬉しいです。
感想・評価・レビュー、とても励みになります。
一言でも大丈夫なので、感じたことを残してもらえたら嬉しいです。
よろしくお願いいたします。




