68. 私が先に潰す
門の前で別れたあと、空気が変わった。
はっきりと何かが起きたわけじゃない。
怒号も、指差しも、止められることもない。
ただ——
視線が、増えた。
すれ違う騎士の一瞬の間。
使用人が視線を落とす前の、ほんのわずかなためらい。
貴族たちの会話が、こちらを見る直前に不自然に止まる。
理由は分かっている。
首元が、熱い。
外套の襟で隠しているはずなのに、見られている気がしてならない。
いや、実際に見られている。
「……分隊長?」
部下のひとりが、少しだけ声を落として呼びかけてきた。
「なんだ」
「いえ……その……」
言い淀む視線が、首元に落ちる。
すぐに逸らされるけれど、もう遅い。
「……失礼しました」
逃げるように去っていく背中を見送りながら、胸の奥が、じわりと重くなった。
♢
聞こえてしまう。
「やっぱり、あの二人だって」
「最近ずっと一緒だもの」
「今朝なんて……」
「エルディオ分隊長の部屋から、でしょ?」
ひそひそとした声。
決して大きくはならない。
けれど、確実に存在している。
否定しなければならない立場だ。
曖昧にしていい話じゃない。
分かっている。
分かっているのに——
口が、重い。
胸の中で、言い訳が幾つも浮かんでは消える。
“仕事の都合だ”
“偶然居合わせただけだ”
“誤解だ”
どれも、口にすればするほど苦しくなる気がした。
僕はもう、上手く嘘をつけない。
そして何より、嘘をついた瞬間に彼女の顔が脳裏に浮かぶ。あの、まっすぐな目。
♢
罪悪感が、遅れてやってきた。
リィナのことが、頭をよぎる。
思い出そうとしていなかったのに、勝手に浮かぶ。
まただ。
また、同じことをしている。
誰かを隣に置いて、守れるか分からない場所に立たせている。
シャルは強い。
分かっている。
分かっているけれど、それは免罪符にならない。
守れるかどうかじゃない。
守れなかったとき、僕は耐えられるのか。
また、誰かを失ったとき、僕は——
「……何やってるんだ、僕は」
小さく呟いた声は、誰にも届かない。
届かないはずだった。
♢
——その背中を、見ている視線があった。
「エル?」
明るい声。
聞き慣れた声。
振り返る前に、分かってしまう。
「なに、そんな顔してるの」
シャルロットが、そこにいた。
さっきまで後ろにいたらしい。
気配を消すつもりもなく、でも、わざと前には出てこなかった距離。
“見られる”のを、僕が一番気にしていることを知った上で、合わせてくれていた距離だ。
「……何でもない」
そう言った瞬間、彼女は一歩、距離を詰めた。
♢
「嘘」
即答だった。
「その顔、昨日の夜と同じだよ」
胸が、跳ねる。
「罪悪感の顔」
軽く言う。
でも、外していない。
「……シャル」
名前を呼ぶと、彼女はにっこり笑った。
「なに? 首?」
指先が自分の首元を指す。
「気にしてるでしょ」
否定できない。
「別に隠さなくていいのに」
「……君が困る」
「困らないよ」
即答。
「むしろ、分かりやすくて助かる」
♢
「助かる……?」
「そう」
シャルは周囲を一度だけ見回してから、わざとらしく肩をすくめた。
「だってさ、みんな“やっぱり”って顔してる」
「……」
「最近ずっと一緒」
「今朝、同じ部屋から」
「首元の痕」
指折り数えて、楽しそうに。
「全部、事実だし」
胸が、ぎゅっと締まる。
「……シャル、それは——」
「エル」
彼女は遮った。
声は明るい。
でも、目が逸れていない。
「否定しないで」
♢
「……」
「否定されたら、私が悲しいから」
あまりにも素直で、あまりにも重い理由。
「私はね」
一歩、さらに近づく。
誰が見ているかなんて、気にしない距離。
「エルの隣にいるの、誇らしいよ」
誇らしい、という言葉が胸に刺さる。
それは本来、僕が彼女に言うべき言葉のはずなのに。
「だからさ」
彼女は少しだけ声を落とした。
「エルが罪悪感で潰れそうになる前に、潰す」
「……は?」
♢
「ほら」
彼女はくるりと向きを変え、僕の腕を自然に取った。
絡めるわけじゃない。
でも、離れない。
あまりに当たり前の動作で、周囲の視線が一斉に集まる。
でも、シャルは怯まない。むしろ、わざと見せつけるみたいに歩調を合わせる。
「こうしてれば、噂も視線も全部、私に向く」
「……シャル」
「いいの」
楽しそうに言う。
「だって、私が選んだんだもん」
胸が、苦しくなる。
「……後悔しないのか」
そう聞くと、彼女は一瞬だけきょとんとしてから笑った。
「しないよ」
「一ミリも?」
「一ミリも」
断言だった。
♢
「エルがね」
歩きながら、彼女は続ける。
「“また誰かを傷つけた”って顔してるの、嫌い」
「……」
「だって、それ、私を見てないでしょ」
足が止まる。
僕の腕を取ったまま、シャルも止まった。
彼女は振り返って、真正面から僕を見る。
真正面。逃げ場のない距離。
「私は、被害者じゃない」
「……」
「選んだの。自分で」
胸の奥が、きしむ。
その言葉は“許して”じゃない。
“受け止めろ”だ。
彼女の覚悟を、僕が軽く扱うな、と。
♢
「だからさ」
彼女は急に笑顔になる。
「もっと堂々として」
「……できない」
正直な言葉。
「なら、私がやる」
即答。
「堂々として、隣に立つ」
「……重いな」
思わず漏れた。
彼女は一瞬だけ目を丸くして、それから満足そうに笑った。
「でしょ?」
「それが私だもん」
♢
周囲の視線が、確かにこちらに集まる。
でも、不思議と、さっきよりも息がしやすい。
シャルが、楽しそうだからだ。
笑って、前を見て、僕を逃がさない。それが、怖いくらい救いになる。
「ねえ」
彼女が急に小声で囁く。
「さっきの人たち、全員に聞こえるように言おうか」
「……何を」
「“私のだから”って」
「やめて」
即答すると、彼女は嬉しそうに笑った。
「冗談冗談」
「……本気だろ」
「半分くらい?」
♢
それでも、腕は離さない。
「エル」
「なに」
「罪悪感はさ」
少しだけ、真面目な声。
「私が持つ分もあるから」
「……」
「一人で全部背負わなくていい」
それは救いでもあり、逃げ道を塞ぐ言葉でもあった。
“背負え”じゃない。
“渡せ”だ。
♢
「ほら」
彼女はぐっと近づいてくる。
「今日も、私が隣」
「……ああ」
短く答えると、彼女は満足そうに頷いた。
「よろしい」
♢
歩き出す。
視線は消えない。
噂も消えない。
罪悪感も、完全には消えない。
でも。
シャルは笑っている。
堂々と、明るく、重たく。
それだけで、世界が少しだけ、耐えられるものになる。
♢
「ね、エル」
「なに」
「私、重いでしょ」
「……ああ」
「でも、逃げない?」
「……今のところは」
そう答えると、彼女は楽しそうに笑った。
「じゃあ、合格」
「何のだ」
「私の隣に立つ資格」
♢
胸が、少しだけ温かくなる。
相変わらず、怖い。
相変わらず、痛い。
でも。
シャルが隣にいる。
それだけで、今日を生きる理由としては——
十分すぎるほどだった。
♢
門を離れてしばらく歩いても、シャルは腕を離さなかった。
絡めているわけでも、強く掴んでいるわけでもない。
ただ、自然に、当たり前のように、そこにある。
それが、逆に重い。
「……シャル」
「ん?」
返事が軽い。
軽すぎて、こちらの胸の重さと釣り合わない。
「……視線、気にならないのか」
そう聞くと、彼女は一瞬だけ考える素振りをしてから笑った。
「なるよ?」
「……なるのか」
「なるけど」
彼女は肩をすくめる。
「それより、エルが一人で潰れそうなの見てる方が、嫌」
即答だった。
♢
「私ね」
歩きながら、シャルは続ける。
「こういうの、初めてじゃないんだよ」
「……噂?」
「うん」
あっさり頷く。
「貴族の娘だし。顔も名前も、それなりに知られてるし」
「……」
「勝手に話作られて、勝手に盛られて、勝手に終わる」
指先で外套の端をくいっと摘まむ。
「だからね」
彼女は少しだけ声を落とした。
「“自分で選んだ噂”なら、まだマシ」
胸が、ぎゅっと締まる。
♢
「エルと一緒に歩いて」
「エルの部屋から出てきて」
「エルの隣に立ってる」
一つずつ、淡々と。
「全部、私が選んだ」
「……後戻りできないぞ」
「うん」
迷いがない。
「だから、後戻りしない」
♢
その言葉が、優しさなのか、檻なのか。
判断がつかない。
「……シャル」
名前を呼ぶと、彼女は少しだけ立ち止まった。
「なに?」
顔を上げて、こちらを見る。
真正面から。逃げ場のない距離で。
「……君は、怖くないのか」
しばらく沈黙。
シャルは目を瞬いてから、少しだけ困った顔をした。
「怖いよ」
「……」
「めちゃくちゃ」
即答だった。
「怖いし、不安だし、夜になったら一人で勝手に考え込むし」
胸の奥が痛む。
「でもね」
彼女は、にっと笑った。
「それでも、離れる方が怖い」
♢
人通りが増える。
騎士団の詰所が近づくにつれて、視線の数も増える。露骨なものも、そうでないものも。
そして、扉が見える距離まで来ると、空気の重さがもう一段増した。
中から出てくる騎士たちの目が、一瞬だけこちらに吸い寄せられる。
すぐ逸らす者もいれば、わざと見ないふりをする者もいる。
どれも同じだ。――見ている。
「……分隊長」
まただ。
さっきとは別の部下が、妙に丁寧な声音で頭を下げた。
「おはようございます」
「……おはよう」
返した瞬間、視線が首元に落ちて、慌てて戻る。
その一連の動きが、やけに刺さる。
胸の奥が冷える前に、シャルが一歩だけ前へ出た。
「おはよー!」
明るい声が、空気を裂く。
張りつめた糸を、笑いながら指で弾くみたいに。
「え、なにその顔。怖っ。こっちが怒られるかと思った」
冗談みたいに言って、彼女はにこにこと笑う。
周囲が、息の仕方を思い出すのが分かった。
――上手い。
上手すぎる。
「シャル……」
小さく呼ぶと、彼女は振り返らずに言った。
「なに? 罪悪感、また出た?」
心臓が跳ねる。
「出たよね。分かる。だって、今のエル、目がちょっと遠いもん」
悪びれない声。
でも、外さない。
「ね」
彼女は、ほんの少しだけ声を落とす。
「ここ、仕事場だよ」
「……」
「だから今は、“分隊長”の顔して」
一拍。
「罪悪感は、夜に私が回収するから」
回収。
その言葉が、やさしくて、ぞっとするほど重い。
「……回収って」
思わず返すと、シャルはようやくこちらを見て、にっこり笑った。
「うん。回収」
笑顔のまま、釘を打つみたいに。
「エルが一人で抱えるの、禁止。昨日から」
「昨日からって……」
「昨日から」
断言。
「だって私、もう知っちゃったもん。エルが潰れる顔」
胸が、きしむ。
「だから」
彼女は、わざと周囲にも聞こえるくらいの明るさで言う。
「今日も私、隣。異論ある人は、どうぞ私に言って?」
誰も言えない。
言えるはずがない。
それを分かった上で、彼女は笑っている。
「……ひどい女だな」
掠れた声でそう言うと、シャルは満足そうに頷いた。
「でしょ?」
そして、少しだけ小声になる。
「でも、エルのこと逃がすよりマシ」
その一言で、胸の奥の冷たさが、少しだけ溶けた。
♢
視線の中へ、踏み込む。
噂の中心へ。
罪悪感の渦の中へ。
それでも、足は止まらない。
シャルが、隣にいる。
明るくて、重くて、逃がさない。
その重さが、今日の僕を立たせる。
——今日を生きる理由としては、やっぱり。
十分すぎるほどだった。
シャル編、少しずつ“日常に重さが混ざっていく”話になってきました。
守る/守られるじゃなく、隣に立つことを選び続ける関係を書いています。
エルが罪悪感で沈むたび、
それを明るく、強引に、でも確実に潰しにくるシャル。
この歪さと甘さが、最後まで続いていきます。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
よければ 感想・評価・レビュー をもらえると、とても励みになります。
重かった、甘かった、怖かった――どんな一言でも大歓迎です。
次話も、シャルは逃がしません。
まだの方がおられましたら、感想、評価、レビューをそっと残してくださると嬉しいです。




