67. 幸せを覚えさせる
いつもなら、部屋の前までだ。
廊下の灯りの下で「おやすみ」と言って、彼女は引き返す。
その足音が遠ざかって、扉が閉まって、静けさが戻る。
その静けさに僕は慣れていた。慣れたふりをするのが得意だった。
だから、今夜も同じだと思っていた。
「……おやすみ」
シャルが言う。
僕は頷いて、鍵に手をかけた。
そのとき。
「……待って」
声が、妙に小さい。
彼女は笑っていない。いつもの明るさが薄い。
僕が振り返るより先に、彼女が一歩踏み込んだ。
扉が閉まり切る前に、彼女の指が隙間を押し広げる。
「シャル、もう遅い。帰らないと——」
「戻らない」
短い。即答。
それは冗談の調子じゃなくて、決定だ。
「……なんで」
「怖かったから」
言った瞬間、彼女の喉が一度だけ詰まった。
それでも続ける。
「エルが……どこかに行っちゃいそうで」
♢
どこにも行かない。
そう言えばいいのに、言葉が引っかかった。
“どこか”は場所じゃない。
戦場でもない。国境でもない。
たぶん——僕の中の、戻らない場所のことだ。
「どこにも行かないよ……」
声が自分で思ったより弱い。
弱いのに、彼女は満足しない。
「でも……」
「今日はもう遅い。シャルが帰らないと——」
「戻らない」
また同じ言葉。
繰り返すことで、彼女は自分にも言い聞かせているみたいだった。
「……僕ら、付き合ってるわけでも」
「うん。知ってる」
噛みつかない。
怒らない。
その代わり、彼女は近づく。
「私、邪魔かな…?」
その言葉で、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「邪魔なわけない」
反射みたいに出た。
否定が速すぎて、自分で驚く。
彼女はそれを見逃さない。
「エルにとって私、必要ない…?」
「……そんなことは」
「じゃあ、いいよね」
♢
言いかけた言葉を
彼女が背伸びをして、僕の口を塞いだ。
軽い。
触れるだけ。
なのに、息が止まる。
驚いたのは、たぶん僕の方だ。
シャルの方が驚いていない。
決めて来た人の目をしている。
唇が離れる。
彼女の頬が赤い。だけど視線は逸れない。
「エルにとって私が邪魔だって言うなら、帰る」
囁く声が甘い。
甘いのに、刃みたいだ。
「でも、そうじゃないなら……」
耳元に唇が寄る。
「これからも一緒にいさせて」
♢
拒めなかった。
拒む理由が、言葉の形にならない。
貴族がどうとか。騎士団がどうとか。体面がどうとか。
全部、正しいはずなのに。
その正しさが今は、僕から逃げ道を奪うだけだった。
「……シャル、積極的だよね。もしかして…」
名前を呼んだ声が掠れた。
彼女は嬉しそうに笑いそうになって、でも堪えた。
「意地悪言わないで」
僕が何か言う前に、先回りで釘を刺す。
「初めてに決まってるでしょ……ばか」
“ばか”の言い方が、可愛くて、ずるい。
叱ってるのに、甘えている。
それに、と彼女は続ける
言った瞬間、彼女の眉がきゅっと寄った。
「エルにだけは言われたくないかな」
胸が痛い。
図星だった。
僕は謝るしかない。
「……ごめん」
「許してあげない」
笑って言うのに、目が真剣だ。
彼女は許さないと言いながら、離れる気がない。
♢
彼女が僕の服の胸元を掴んだ。
強引じゃない。
でも、逃がさない。
それがシャルのやり方だ。
「私、邪魔?」
また来た。
確認じゃない。
“逃げ道を閉める”問いだ。
僕は黙った。
否定はできる。
けれど否定だけでは足りないと分かってしまった。
「……邪魔じゃない」
やっと出た言葉は、情けないくらい小さい。
彼女はそこで、初めて少し息を吐く。
「じゃあ……」
細い声。
「お願い。これからも一緒にいさせて」
♢
次のキスは、さっきより深かった。
彼女の指が震えている。
震えているのに、止めない。
僕の背中に回る腕が、抱きしめるというより“確かめる”みたいで。
「ここにいる」「いなくならない」
そう言い聞かせるための力だった。
「なんか…慣れてるの、やだ…」
「ごめん…」
これに関しては、何も言い返すかとができない。
「んっ……ほんと、許して…あげない…。絶対に…」
「どうしたら許してくれる…?」
「言わなきゃわかんないの…?」
「シャル……本当に、いいの?」
「いい」
即答。
「ほかの貴族たちが……」
「今さらだと思わない?」
笑う。
でも、笑いの裏に不安が透ける。
彼女だって怖い。
怖いのに、踏み込む。
「エルが嫌だって言うなら帰る」
「……」
「言う?」
言えなかった。
僕はいつも、最短の言葉で終わらせてきたのに。
今夜は短い言葉が、彼女を傷つける刃になる気がした。
「……言わない」
♢
その瞬間、シャルの表情が崩れた。
泣きそうで。
笑いそうで。
どちらにも振り切れない顔。
彼女は僕の胸に額を押し当て、息を殺す。
「……怖かった」
小さく零す。
子どもみたいな声。
「さっきまでエル、遠かったから」
遠い。
その一言が、胸の奥に落ちて、抜けない。
僕は腕を回した。
躊躇いが遅れて来る前に。
「……ごめん」
「謝らないで」
シャルが顔を上げる。
「謝るの、リィナのときだけでしょ」
痛い。
でも、彼女はちゃんと刺してくる。
刺して、抜かない。
「私は、ここにいるって言ったの」
「……うん」
「だから、エルもここにいて」
♢
彼女の指が、僕の袖を掴んだまま離れない。
強くはない。
でも、意図的にほどかない力。
「ねえ」
シャルが、近すぎる距離で言う。
「エルってさ……私がいなくなったら、どうするの」
唐突だった。
冗談みたいな声なのに、冗談じゃない。
「……どうもしない、なんて言わないで」
先回りして、封じる。
「そんな顔で言われたら、信じられないから」
僕は答えに詰まる。
正解がない。
いなくなったら?
考えたことはある。
何度も。
でも、それを口にしたら、彼女はもっと深く潜ってくる。
「……分からない」
正直な言葉が、喉から落ちた。
シャルはそれを聞いて、少しだけ目を細めた。
「うん」
肯定だ。
否定しない。
「分からないって言えるなら、まだ大丈夫」
「……何が」
「私が、離れなくていい理由」
その言い方が、あまりにも自然で。
彼女の中では、もう答えが決まっているみたいだった。
「エルはね」
囁く声。
「“行かない”って言えない人だから」
胸を、正確に撃ち抜かれる。
「だから、私が決めてあげる」
「……何を」
「行かせないってこと」
笑って言う。
でも冗談じゃない。
「私、こう見えて諦め悪いよ?」
知ってる。
もう十分。
「エルがどれだけ遠くに行きそうでも」
彼女の額が、僕の胸に触れる。
「引っ張り戻すから」
声が、少し震えた。
「……それが、怖い?」
「……正直、少し」
答えると、シャルは嬉しそうに笑った。
「よかった」
「……なにが」
「怖がってくれて」
彼女は、ぎゅっと一度だけ僕にしがみつく。
「怖くない人は、すぐ置いていくから」
♢
彼女が僕の手を取って、ベッドの方へ導く。
乱暴じゃない。
でも迷いがない。
その背中が、強いふりじゃなく、強い決意に見えた。
僕は最後に一度だけ理性を探した。
「……シャル、ほんとに——」
「黙って」
言われて、言葉が止まる。
「今だけ、黙って」
その声が震えているから、従うしかなかった。
♢
その夜のことを、僕は“正確に”覚えていない。
覚えていないというより、
言葉にして固定してしまうのが怖い。
ただ、ひとつだけ確かなのは。
シャルは途中で一度も、僕から目を逸らさなかった。
怖いくせに。
震えているくせに。
逃げない。
「エル」
名前を呼ばれるたび、胸の奥がほどけた。
僕が嫌っていた“余白”が、
彼女の声で、勝手に生まれていった。
♢
夜明け前。
薄い光がカーテンの隙間から差し込んで、部屋の輪郭がゆっくり戻ってくる。
僕は息を殺して、隣の寝顔を見ていた。
シャルは、ようやく眠っている。
頬に残った涙の跡が、ほんの少し乾いている。
シーツに残る痕が、今夜のすべてを静かに語っていた。
僕の腕の中で、彼女は小さく息を吐く。
それだけで、胸が痛いほど満たされる。
♢
彼女の寝息が、僕の胸に当たる。
規則的で、安心しきった呼吸。
それが、胸に重い。
「……ねえ、エル」
目を閉じたまま、シャルが言った。
「起きてるでしょ」
「……起きてる」
「やっぱり」
少し笑う。
「こういうとき、エル絶対寝ないもん」
見抜かれている。
「考えごとしてるでしょ」
「……してない」
「嘘」
即答。
「今ね」
彼女は、僕の胸元に指を這わせる。
撫でるだけ。
触れるだけ。
「私、すごく幸せ」
唐突だった。
「エルがここにいて」
一拍。
「逃げないで」
胸が締まる。
「……それだけで」
彼女は、顔を上げて僕を見る。
夜明け前の薄暗さの中で、瞳がやけに澄んでいた。
「だからね」
囁く。
「もしエルが、また“死にたい”って言ったら」
「……」
「そのときは、私が代わりに泣くから」
重い。
でも、優しい。
「泣いて、怒って、抱きしめて」
小さく笑う。
「エルが死ぬ理由、全部奪うから」
「……それ、幸せなのか」
「うん」
迷いのない声。
「だって、エルはもう一人で抱えなくていいでしょ」
その言葉で、胸の奥が崩れた。
「……シャル」
「なに」
「……重いな」
正直な感想。
彼女は一瞬驚いて、それから満足そうに笑った。
「でしょ?」
誇らしげに。
「軽かったら、エル逃げるもん」
♢
彼女は僕の胸に頬を寄せたまま、小さく息を吐いた。
それから、誤魔化すみたいに視線を逸らし——
「……ふぁ」
情けないくらい素直な欠伸が漏れる。
「……今、欠伸した?」
「してない」
即答。
目尻が少しだけ潤んでいるくせに、強情だ。
「してた」
「してないってば……」
言いながら、彼女は僕の腕の中で身を縮めた。
頬を赤くして、唇を押し結ぶ。
「……だって、眠いんだもん」
小さくぼやくみたいに言ってから、すぐに強がって付け足す。
「でも、まだ寝ない」
「なんで」
「エルが起きてそうだから」
その言い方が、ずるい。
まるで僕が眠らせないみたいに聞こえるのに、責める音がない。
僕が返事に詰まっている間に、彼女はもう一度だけ、短く欠伸を噛み殺した。
口元を手で隠す仕草が、妙に可愛い。
「……見ないで」
「見てない」
「嘘。見てた」
「……見てた」
認めると、彼女は満足そうに鼻を鳴らし、僕の胸に額を擦りつけた。
「じゃあ、責任」
「何の」
「私が眠いの、エルのせい」
横暴だ。
でも、横暴な言い方で甘えてくるのが、シャルだ。
僕は小さく息を吐いて、髪を撫でた。
「疲れてたんだろ」
「うん……でも」
彼女は少し間を置いた。
「……一人でするより、ずっとよかった」
さらっと言って、すぐ恥ずかしくなったみたいに顔を伏せる。
僕は聞かなかったふりをして、髪を撫でた。
「無理させた。ごめん」
「ううん。私が、引き止めた」
その言い方が、あまりにシャルらしい。
“責任”を押し付けてくるのに、
“罪”だけは自分でも抱える。
「……ね、エル」
「ん?」
「しちゃった、ね」
彼女がやけに真剣な目で僕を見る。
「……ああ」
「せ・き・に・ん、とってくれるよね?」
冗談の形。
でも、冗談じゃない。
「伯爵家の令嬢の——」
「言わなくていい」
僕が遮ると、シャルは少し驚いて、それから嬉しそうに笑った。
「珍しい。エルが止めた」
「……今は、そういう言葉が要らない」
言ってから、自分でびっくりする。
シャルが目を丸くする。
「……エル、いま、甘いね」
「……うるさい」
♢
しばらく、何もせずに抱き合っていた。
抱き合っているだけで、胸の中にあった硬いものが少しずつ溶ける。
それが怖い。
でも、嫌じゃない。
「ね、エル」
「なに?」
「好き」
シャルが言う。
「エルが私のことどう思っててもいい」
「……」
「昔の子のこと忘れられないなら、それでもいい」
刺さる。
刺さるのに、逃げない言葉だ。
「それでも、私はエルが好き」
彼女は言い切った。
脅しじゃなく、誓いみたいに。
「全部、私で塗りつぶす」
危ない言葉。
でも彼女はそれを、綺麗な顔で言う。
「エルのこと幸せにしてあげる。
もう死にたいなんて言わせないくらい、徹底的に」
♢
僕は笑ってしまった。
乾いた笑いじゃない。
「横暴だね」
「横暴だよ」
堂々と言う。
「これくらいしないと、君はどっか行っちゃいそうだし」
それに、と彼女は続けた。
「私が全部覚えさせるって言ったでしょ。生きる理由も、心配してるってことも」
一拍。
「それに、幸せも」
「幸せは……初めて聞いたかな」
「うん。今言った」
シャルは得意げに笑って、僕の胸に頬を押し付けた。
「私がエルのこと、幸せにするから」
「僕の意思は……?」
そう言って少し笑うと、彼女は真顔になった。
「あると思うの?」
そして、笑う。
「エルはもう、私のなんだから」
抱きしめる力が強くなる。
逃げられない、と思う。
でもその“逃げられなさ”が、どこか救いみたいで。
僕は小さく息を吐いた。
「……敵わないな」
「知ってる」
♢
服を整えながら、シャルが僕をじっと見る。
視線が、妙に熱い。
「……なに」
「ううん」
首を振る。
「エルって、ちゃんと生きてる顔するんだなって」
「……どういう意味」
「私が隣にいるときの顔」
胸がざわつく。
「ねえ」
彼女は僕の襟元を直しながら言う。
「今日、誰かに何か言われたらさ」
「……何を」
「私のこと」
一拍。
「ちゃんと見てたって言って」
「……なんで」
「だって」
にやっと笑う。
「見てたでしょ?私」
「……」
「エルの隣」
堂々と言う。
「ずっと」
逃げ場がない。
「それでね」
指先で、軽く胸を押す。
「もし、エルが否定したら」
「……したら」
「夜、もっと離れない」
冗談みたいな言い方。
でも目が本気。
「……脅し?」
「約束」
彼女は満足そうに頷く。
「私、独占欲強いから」
知ってる。
もう十分。
「でも」
一瞬だけ、真面目な顔になる。
「エルが嫌なら、やめる」
「……」
「嫌?」
問われて、答えは出ていた。
「……嫌じゃない」
その一言で、彼女はぱっと笑う。
「じゃあ、決まり」
嬉しそうに。
「今日も一緒」
♢
身支度を整える時間になって、ようやく現実が戻ってくる。
鏡を見たシャルが、ぱっと笑った。
「あは。エル、見て。首、真っ赤」
「君がやったんだろ……」
「うん」
悪びれない。
「周りからなんて言われるか、楽しみだね?」
「君なぁ……」
「マーキング、しとかないと」
「怖いよ……」
「私の男なんだから当然でしょ?」
言い切る声が、明るい。
明るいのに、底が重い。
“明るいタイプのメンヘラ”
その言葉が頭をよぎって、僕は思わず笑ってしまった。
でも。
嫌じゃない。
依存じゃない。
そう言い切れるほど強くもない。
けれど、彼女は“僕を幸せにする”と宣言した。
それが、たぶん初めてだった。
僕を「戦える」に戻すんじゃなく、
僕を「生きる」に戻そうとする人。
♢
支度を終えたあとも、シャルはすぐに扉へ向かわなかった。
鏡の前で髪を整えながら、何度もこちらを盗み見る。
視線が合うと、何事もなかったように逸らすくせに、また見る。
「……まだ何かある?」
声をかけると、彼女は少し考えるような顔をした。
「ううん」
否定。
でも終わりじゃない。
「……でも」
来た。
「エル、今日はちゃんと朝ごはん食べた?」
「……いつも通り」
「“いつも通り”は信用できないんだよね」
彼女はそう言って、テーブルの上を指でなぞる。
「戦場に行く日も、執務が詰まってる日も、同じ顔するでしょ」
「……そうかな」
「そうだよ」
即答。
「私、見てるから」
胸が少しだけ重くなる。
でも、嫌じゃない。
「ね」
シャルが距離を詰める。
触れない。
でも近い。
「今日もちゃんと帰ってきて」
「……任務次第だ」
「曖昧」
不満そうに言ってから、少しだけ表情を緩める。
「じゃあ、帰れなくなりそうなら伝えて」
「……なんで?」
「待つ準備、するから」
その言葉が、胸の奥に残った。
待つ。
彼女は、待つと言った。
それは“縛る”でも“疑う”でもなく、
ただ“予定に入れる”みたいな言い方だった。
♢
扉の前で、シャルが立ち止まる。
「ねえ、エル」
「なに」
「今日も隣に行くよ」
確認じゃない。
宣言だ。
僕は一瞬迷ってから、頷いた。
「……好きにしろ」
シャルが笑う。
「好きにするね」
その言葉が、昨日と同じなのに。
今朝は、少し違って聞こえた。
廊下に出る。
朝の匂いがする。
僕は、ふと思った。
少しは……信じてみてもいいのかもしれない。
彼女の“横暴”を。
彼女の“重さ”を。
彼女の“幸せ”を。
そして何より——
立ち去らないという、その事実を。
♢
外に出ると、朝の空気が思ったより冷たい。
シャルは自然な動作で、僕の外套の端を軽く掴んだ。
「……寒い?」
「ううん」
首を振る。
「でも、離れたくないだけ」
あっさり言う。
「……正直だな」
「今さらでしょ」
笑う。
そのまま、彼女は手を離さない。
握るわけでもない。
引っ張るわけでもない。
ただ、いなくならないように“引っかけている”だけ。
「ね、エル」
「なに」
「私がさ」
一拍。
「こうして隣にいるの、重い?」
問い方が、軽い。
だから余計に本気だと分かる。
「……少し」
正直に言う。
シャルは、少しだけ驚いた顔をして、
それから満足そうに頷いた。
「よかった」
「……よかったのか」
「うん」
迷いがない。
「重くないと、エルは戻ってこないから」
戻る、という言葉が胸に引っかかる。
「……どこから」
「決まってるでしょ」
彼女は、僕の胸を指で軽く叩く。
「ここから」
♢
王都の通りに出ると、視線を感じる。
騎士団の人間。
使用人。
すれ違う貴族。
シャルはそれに気づいて、わざと一歩近づいた。
「見られてるね」
小声で笑う。
「……気にするな」
「気にしないよ」
にこっと笑って、続ける。
「だって、見られるのは“エルの隣にいる私”だから」
胸を張るでもなく、
誇示するでもなく。
当たり前のこととして言うのが、彼女らしい。
「……噂になる」
「うん」
「面倒だぞ」
「知ってる」
それでも歩調を合わせる。
「でもさ」
彼女は、少し声を落とす。
「エルが否定しなければ、私はそれでいい」
「……否定?」
「“違う”って言わなければ」
一拍。
「それだけで、十分」
その条件の低さが、逆に重い。
♢
門の前で、足が止まる。
仕事が始まる場所。
ここから先は、いつもの世界だ。
シャルは、名残惜しそうに一度だけ息を吸った。
「じゃあ」
「……ああ」
「今日も、隣に行くから」
確認じゃない。
予定だ。
「……分かった」
短い返事。
でも、逃げていない。
シャルはそれを聞いて、少しだけ微笑んだ。
「エル」
呼ばれて、振り向く。
「私さ」
一瞬、言葉を探す。
「昨日みたいなこと、毎日はしなくて大丈夫だから」
「…ほんとに?」
「いや、…ちょっと嘘かも」
「だろうね」
「…意地悪」
そう言って笑い合う。
「でも」
目が、真剣になる。
「いなくならないでくれれば、それでいい」
胸が、静かに鳴る。
「……努力する」
そう答えると、彼女は少しだけ困った顔をした。
「努力、じゃなくてさ」
近づいて、囁く。
「一緒に、でしょ」
♢
シャルは、最後にもう一度だけ僕を見てから、歩き出した。
半歩遅れて。
でも、確実に。
その距離が、不思議と心地いい。
僕は歩きながら考える。
——戻る、ってこういうことかもしれない。
全部を忘れることじゃない。
全部を断ち切ることでもない。
誰かに、隣に立たれることを許すこと。
それだけで、世界は少しだけ変わる。
♢
シャルが半歩遅れて、隣に来た。
ぴったりじゃない。
触れない。
でも、いなくならない距離。
僕は、息を吸う。
まだ怖い。
まだ痛い。
でも、今朝は少しだけ。
世界が、昨日より明るい気がした。
ここまで読んでくれて、ありがとうございます。
この話は、シャル編の第2話です。
関係が始まった話ではなく、始まってしまった関係を、否定しなかった話です。
エルはまだ前に進めていません。
シャルも、何かを解決したつもりはありません。
ただ一つだけ、
一人に戻らなかった。
それだけの話です。
シャルは救わないし、離れない。
エルは答えを出さないし、逃げない。
この章は、そんな中途半端で重たい関係が、
少しずつ日常になっていく過程を描いていきます。
次話では、
この「隣にいる」という選択が、
周囲やエル自身にどう影響していくのかを描いていく予定です。




