65. 覚えさせるという責任
夜のレオネスは、静かだった。
討伐後の街は、いつもこうなる。
何かが壊れたあとの空気だけが、妙に澄んでいる。
魔族の拠点は、すでに跡形もない。
瓦礫も、死骸も、戦場だった痕跡すら残っていない。
――終わった。
それだけが事実だった。
シャルロットは、街道を歩きながら、何度も後ろを振り返ってしまう。
理由は分かっている。
エルディオ・アルヴェインが、そこにいるかどうかを確認しているのだ。
彼は、少し後ろを歩いている。
足音は一定で、乱れがない。
戦闘の直後とは思えないほど、いつも通りの歩き方だった。
あまりにも、いつも通りで。
♢
「いつも通り」という言葉が、怖い。
戦闘のあとに「いつも通り」でいられる人間は、二種類しかいない。
強がりで、自分を支えるために平静を装う者。
それか――平静そのものが、崩れない者。
エルディオ・アルヴェインは、前者ではない。
強がりに必要な「誰かに見せる」という意識が、彼には薄い。
見られているかどうかで態度を変える人間なら、もっと分かりやすい揺れが出る。
だからこそ、後者だと分かってしまう。
崩れない。
最初から、その形で固定されている。
シャルロットは歩幅を崩さないようにしながら、何度も「確認」を繰り返してしまう。
少し後ろ。足音。距離。呼吸の間隔。
彼がそこにいる。生きている。ここに戻ってきた。
それが分かるたび、胸の奥が痛くなる。
――どうして、こんな確認が必要なんだろう。
自分が「守る側」だから?
分隊長として、部下の生存を確かめる癖が抜けないから?
違う。
その確認は、部下に向けるものじゃない。
誰かを守る目じゃない。
ただ、ひとりの人間として、
「いなくならないで」と思っている目だ。
その事実に気づいてしまい、シャルロットは口の中を噛みそうになる。
情けない。
でも、止められない。
♢
今回の討伐は、拍子抜けするほど早く終わった。
正確には、
始まる前に終わっていた。
エルが単独で前に出て、
各個撃破。
拠点は崩壊。
残敵なし。
支援部隊は動く前に役目を失い、
他の分隊は、配置についたまま撤収した。
「……俺たち、何もしてないな」
誰かが、気まずそうに呟いていた。
それに対して、反論は出なかった。
出せなかった。
だって、
すべてが、エルの言った通りに進んだから。
♢
「言った通りに進む」というのは、本来なら安心の言葉だ。
作戦が機能した。配置が機能した。予測が当たった。
守る側はそこで胸を撫で下ろす。
けれど今日のそれは、安心ではなく、置き去りだった。
「役目を失った」という表現が、正確すぎる。
誰かが悪いわけじゃない。
誰かが怠けたわけでもない。
ただ、必要がなかった。彼が一人で足りてしまった。
――足りる、という言葉が嫌だった。
足りるなら、他は要らない。
要らないなら、守る側の席も消える。
守る側の席が消えた場所で、彼が独りで立つ。
それは「最強」じゃない。
「孤立」だ。
しかも彼は、その孤立を孤立として扱っていない。
孤立を恐れていない。
孤立を「普通の配置」だと思っている。
だから周りの隊が動けないのは、負けたからじゃない。
「やる意味がない」からだ。
意味がないことをやっても、混乱だけが増える。
混乱が増えれば、結果が汚れる。
結果が汚れれば、責任の所在が曖昧になる。
全員がそれを知っていて、全員が黙る。
黙って、彼の背中を見送る。
そして終わる。
終わってしまう。
シャルロットは、その「終わり方」が、何より怖かった。
♢
「戦略兵器だな……」
別の分隊長が、半ば冗談のように言った。
「二十一だぞ?
戦争慣れしすぎだろ」
「慣れてるっていうか……
もう“そういう存在”だよな」
軽口のようでいて、どこか本気だった。
シャルロットは、その会話を聞きながら、笑えなかった。
戦略兵器。
確かに、そうだ。
彼ほど戦場に適した人間はいない。
迷わない。
躊躇しない。
無駄を挟まない。
でも――
それは、
生きている人の戦い方じゃない。
♢
戦略兵器。
その言葉を口にした分隊長は、たぶん悪意がない。
恐怖を冗談に変えて、場を軽くしようとしている。
騎士団ではよくあることだ。
重いものほど、軽口で包む。
でも「戦略兵器」という評価が、最も残酷なのは、
それが褒め言葉の形をしているからだ。
兵器は、役割に徹する。
兵器は、消耗しても構わない。
兵器は、戻る場所を必要としない。
――そういう存在。
シャルロットは、その言葉の続きを、勝手に頭の中で補ってしまう。
「壊れてもいい」
「失ってもいい」
「死んでもいい」
違う、と言いたかった。
彼は人間だ、と言い切りたかった。
でも今日の戦い方は、その「違う」を言いにくくさせる。
生きている人間は、少しだけ迷う。
躊躇しながら、それでも進む。
無駄を抱えたまま、誰かを守る。
無駄は、弱さじゃない。
無駄は、生きている証拠だ。
なのに彼は、無駄を切り落としている。
切り落としすぎて、そこに“人”の輪郭が薄い。
だから、胸が痛む。
痛むのに、目が離せない。
♢
戦闘中、シャルロットはずっと見ていた。
見ていた、というのは嘘だった。
正確には、見てしまった。
「見るべきもの」だけを見ようとしていたのに、
「見なくていいもの」まで視界に入ってきた。
エルが前に出る瞬間。
隊列の端から端まで、無言の了解が走った。
止める声は上がらない。
止める必要がないからだ。
彼が前に出るのは、命令の結果じゃない。
流れの結果だ。
誰も命令していないのに、
彼だけが「そこに置かれる」。
置かれて、当然のように動く。
♢
最初の一撃は、魔法だった。
広域殲滅――と呼ぶには、あまりに無駄がない。
空を裂いて落ちる、ではない。
「そこに通す」だけ。
爆風が起きる。砂煙が巻く。
視界が塞がれた瞬間、普通なら人間は一拍遅れる。
「今、何が起きた」
「どこが崩れた」
「次に来るのはどこだ」
確認のために、意識が散る。
だが、エルの意識は散らない。
散る余地がない。
最初から「次」に入っている。
砂煙の中に、彼の影が消える。
消えたのではなく、溶けた。
――危ない。
そう思った瞬間、もう次が起きていた。
♢
転移。
その言葉は、便利で、軽い。
だが彼の転移は、便利さではなく、切断だった。
距離を切る。迷いを切る。躊躇を切る。
「移動」という手順を丸ごと省略して、結果だけを取りに行く。
砂煙の中で、金属音が一つ鳴る。
短い。
次の瞬間、別の場所で同じ音。
“各個撃破”という言葉が、文字通りに見える。
一体ずつ。
呼吸が揃う前に。
統率が戻る前に。
敵が「群れ」になる時間を与えない。
それは強さではなく、徹底だ。
徹底は、感情を必要としない。
感情がないほど、徹底できる。
その理屈が成立してしまうことが、怖い。
♢
そして最後。
拠点の中心――核の場所。
そこに至る瞬間、彼は一瞬もためらわなかった。
「危険だから避ける」
その発想が、最初から存在しない。
危険だから「行く」。
危険だから「そこが最短」。
その思考は、戦術として正しい。
だからこそ、止められない。
止められないのに、心臓が痛い。
痛いのに、
彼が無事であることだけが、嬉しい。
そんな感情の混ざり方を、
シャルロットは自分で許せなかった。
♢
守る側として、
分隊長として、
そして、ひとりの人間として。
彼の動きは、完璧だった。
危険な場所に立つことを恐れず、
むしろ、危険な場所に自分から踏み込んでいく。
回避の余地はあった。
距離を取る選択肢もあった。
それでも彼は、
一番危ない位置を選んだ。
――死んでもいい人の動き。
その考えが、胸に突き刺さった。
♢
どうして、こんなふうになってしまったんだろう。
シャルロットは、歩きながら、何度もそれを考える。
普通に生きていたら、こうはならない。
軍属でなければ。
戦場に身を置かなければ。
命を数える環境にいなければ。
まして、
彼は辺境伯家の人間とはいえ、
幼い頃から戦争を背負う理由なんて、なかったはずだ。
それなのに。
二十一歳にして、
まるで何十年も戦場にいたかのような戦い方をする。
――どこか、壊れている。
その考えが、
心配という形で、胸を締めつける。
♢
貴族として生きてきたシャルロットは、
「理由がないこと」を、あまり信用しない。
人は理由で動く。
組織は理由で人を動かす。
社会は理由で人を縛る。
理由がないなら、そこには何かが隠れている。
だから彼が「こうなる理由」を探してしまう。
辺境伯家。
戦場と無縁ではない家。
けれど、二十一歳の戦い方ではない。
戦術の巧さではない。
反射でもない。
訓練の成果でも説明しきれない。
――“慣れ”だ。
命が途切れる瞬間に慣れている。
自分の命が途切れる可能性にも慣れている。
それは、誰かが長い時間をかけて削った人間にしか出ない。
削ったのは戦場か。
それとも、戦場より前に、何かがあったのか。
シャルロットは知らない。
知らないから、恐ろしくなる。
知らないのに、
「放っておけない」と思ってしまうのが、さらに怖い。
貴族社会なら、こういう時の正解は簡単だ。
近づかない。
囲い込まない。
話題にしない。
安全な距離で評価し、利用する。
それが「正しい」。
でも、彼は騎士団にいる。
同じ円卓に座る。
同じ階級章をつけている。
同格として、隣に立つ。
逃げるには、近すぎる。
♢
街道の灯りが、少しずつ増えていく。
もうすぐ、宿に戻る。
このまま、何も言わずに終わらせてしまったら。
また、言えなくなる。
シャルロットは、足を止めた。
「……エル」
彼も、止まる。
振り返る顔は、いつも通りだった。
疲労も、昂りも、後悔もない。
ただの、平常。
♢
平常、という顔が腹立たしかった。
怒っているわけじゃない。
責めたいわけでもない。
ただ――その平常が、彼の中で「当然」になっていることが、苦しい。
戦場から戻った人間が、
何事もなかったように立っている。
それは強さではなく、習慣だ。
習慣は、作られる。
繰り返しでしか作られない。
彼は、何を繰り返してきたのか。
シャルロットは、言葉を選ぶ。
分隊長としての言葉なら、いくらでも言える。
「次は支援を厚くする」
「単独行動のリスクを評価する」
「退路を確保する」
でも今、欲しいのはその言葉じゃない。
“人として”の言葉だ。
それを言っていいのか。
言う資格があるのか。
同格。
その二文字が、喉の奥に引っかかる。
同格だから、命令できない。
同格だから、止められない。
同格だから、代わりに背負えない。
――それでも。
言わなければ、彼は次も同じことをする。
次は、もう「確認」すらできないかもしれない。
その可能性を想像した瞬間、
シャルロットの中で何かが決まってしまった。
「重い」と分かっている言葉を、
それでも投げる覚悟。
地雷の中心は、恋じゃない。
“責任”だ。
放っておけば、後悔する。
後悔するくらいなら、今、嫌われた方がいい。
♢
「助けられた日のこと」
シャルロットは、視線を逸らしたまま言う。
「……私は、毎晩思い出す」
言ってしまったあとで、
少しだけ後悔する。
重すぎる。
でも、止められなかった。
エルは、何も言わない。
返せないからだ。
思い出が、彼の中にない。
♢
言った瞬間、心臓が遅れて跳ねた。
毎晩。
その言葉は、依存に近い。
自分で分かる。
分かっているのに、引き戻せない。
シャルロットは視線を逸らしたまま、
爪が掌に食い込むのを感じた。
こんな言い方をしたかったわけじゃない。
でも、嘘はつけなかった。
助けられた日のことを思い出すのは、
“感謝”だけじゃない。
あの日から、彼は彼女の中で「現実」になってしまった。
英雄の噂でも、勲章の話でもなく、
息をして、血が通って、どこか壊れているかもしれない一人の人間として。
それを思い出すたび、
胸が痛む。
そして、痛むことに慣れていく自分が怖い。
「慣れ」は、危ない。
慣れた痛みは、いつか当たり前になる。
当たり前になったら、もっと深い場所まで踏み込んでしまう。
シャルロットは、呼吸を整える。
今は、自分の話じゃない。
彼の話だ。
そう言い聞かせて、続きを押し出す。
♢
「今日のことだって、そう」
シャルロットは、拳を握る。
「なんで……
なんで、あそこまで強いの」
言葉を探しながら、続ける。
「強い、って言うのも違う気がする。
冷たい? 冷徹?
……ううん、たぶんどっちも違う」
息を吸う。
「おかしいよ」
声が、震え始める。
「私、心配なの。
エル、君の戦い方……
どこか壊れてて、
まるで死んでもいいみたいに見えるから」
♢
沈黙。
夜風が、二人の間を通り抜ける。
「……生きる理由がない人の戦い方だよ、あれは」
言った瞬間、
シャルロットの目から、涙がこぼれた。
止めるつもりはなかった。
隠すつもりも、なかった。
重いと分かっていて、
それでも投げた言葉だ。
♢
エルは、何も答えられなかった。
反論も、否定も、できない。
図星だから。
ここまで正確に自分を言い当てられたのは、
母親と、リィナ以外では、初めてだった。
だからこそ、
言葉が見つからない。
♢
「ね」
シャルロットは、涙を拭いながら、無理に笑う。
「私だけが覚えてるの、ずるいよね」
助けられた日のことも。
今日の戦いも。
君が壊れているかもしれない、という感覚も。
全部、私だけが覚えてる。
♢
ずるい、という言葉は、優しい皮を被った刃だ。
本当は「ずるい」なんて思っていない。
覚えているのは、私が勝手に覚えているだけだ。
彼が忘れたのも、わざとじゃない。
それでも「ずるい」と言ってしまうのは、
そこに願いが混じっているからだ。
――私にも、少しでいいから、分けてほしい。
彼が背負っているものを。
彼が切り落としてきたものを。
彼が忘れたふりをしている痛みを。
分けてほしい、なんて言えない。
同格だから。
対等だから。
勝手に支えたら、それは支配になる。
だから「ずるい」という形にして、
“彼のせいではない”と言いながら、
“私が関わる余地”を作る。
卑怯だと分かっている。
分かっているのに、
その卑怯さを手放せないくらい、
彼のことが怖い。
彼がいなくなるのが怖い。
怖いから、口にした。
ずるいよね、と。
♢
エルは、ようやく口を開いた。
「……悪い」
短い言葉。
感情の謝罪ではない。
事実への応答だ。
♢
それでも。
その一言で、
シャルロットの中で何かが決まった。
泣き腫らした目で、彼を見る。
「じゃあ」
一歩、近づく。
「私が、これから君に覚えさせる」
逃げ道を、与えない言葉。
優しさでも、同情でもない。
覚悟の宣言。
「生きる理由も。
誰かに心配されることも」
笑う。
少しだけ、泣き顔のまま。
「全部」
♢
「全部」と言ったあと、
シャルロットは自分の声が思ったより落ち着いていたことに驚いた。
泣いているのに、
覚悟だけが冷えている。
泣いているのは、感情。
決めたのは、理性。
その組み合わせが、自分でも不思議だった。
エルは、何も言わない。
返事がないことが、拒絶ではないと分かる。
彼は「拒絶」をするとき、もっと明確に切る。
沈黙は、切っていない。
切っていない――それだけで十分だった。
♢
二人の間に、夜風がもう一度抜ける。
シャルロットは、涙を拭った指先を握り直した。
震えが止まらない。
止まらないのは寒さのせいじゃない。
「……帰ろう」
自分でそう言い、歩き出す。
言ったことを取り消すつもりはない。
軽くするつもりもない。
重いまま持って帰る。
持って帰って、明日も持つ。
それが「覚えさせる」ということだと、彼女は理解している。
♢
エルも歩き出す。
いつも通りの歩幅。
いつも通りの速度。
並べないほど速いわけじゃない。
遅くて合わせやすいわけでもない。
ただ、一定。
その一定が、さっきまでの会話を嘘にしない。
嘘にしないから、怖い。
怖いのに、嬉しい。
シャルロットはその矛盾を抱えたまま、
彼の隣ではなく、半歩前を歩いた。
隣に並ぶのは、まだ少し怖かった。
でも、背中にするのも怖い。
半歩前なら、振り返れる。
彼がいなくならないか、確かめられる。
確かめたい自分を、彼女は否定できなかった。
♢
宿が見えてくる。
灯りがにじむ窓。
人の気配。
食事の匂い。
日常が戻ってくる。
それなのに、シャルロットの胸の奥は、まだ戦場のままだった。
戦場は終わった。
拠点は崩れた。
残敵はいない。
それでも――終わっていない。
終わっていないのは、彼の中だ。
そして、彼に手を伸ばした自分の中だ。
♢
玄関前に着くと、騎士たちが何人か振り返る。
「あ、分隊長」
「お疲れさまです」
いつもの挨拶。
いつもの距離。
シャルロットは返礼しながら、背筋を伸ばした。
守る側の顔。
分隊長の顔。
伯爵家の娘の顔。
全部、まだ作れる。
――じゃあ、私は壊れてない?
胸の奥で、そんな問いが浮かぶ。
違う。
壊れてないからこそ、怖い。
壊れてないからこそ、彼の壊れ方が見えてしまう。
見えてしまうなら、見なかったことにはできない。
♢
廊下で、部屋へ向かう前に。
エルが足を止めた。
シャルロットも止まる。
彼が何か言うのかと思った。
何か、さっきの続き。
否定でも、拒否でも、確認でも。
でもエルは、短く言う。
「……明日、準備がある」
それだけ。
戦術の準備。
報告の準備。
次の配置の準備。
生きる準備、ではない。
シャルロットは胸の奥がきゅっと縮むのを感じながら、頷いた。
「うん。分かってる」
分かってる。
分かっているのに、言葉が足りない。
足りない言葉を足そうとして、
結局、違う形で出してしまう。
「……ちゃんと、戻ってきてね」
命令ではない。
確認でもない。
ただの、お願い。
分隊長としては不格好で、
伯爵家の娘としては弱くて、
それでも、人としての言葉だった。
♢
エルは一拍置いた。
その一拍が、答えを探しているようにも、
答えが元からないようにも見える。
やがて、短く頷く。
「……努力する」
努力。
必ず戻る、ではない。
戻るつもりだ、とも言わない。
ただ、努力する。
それが彼の誠実さの形だと、シャルロットは思ってしまった。
思ってしまうから、また落ちる。
♢
部屋の前で別れる。
扉の取っ手に手をかけた瞬間、
シャルロットは小さく息を吐いた。
泣いた顔のままではいられない。
でも、泣かなかった顔にも戻れない。
彼女は、両方を抱えたまま扉を開ける。
――今日が終わる。
そんな言葉が頭をよぎる。
違う。
終わるのは「遠くから眺める」方だ。
ここからは、近い。
近いのは危ない。
危ないから、覚悟が要る。
覚悟があるから、さらに危ない。
♢
灯りを落とし、椅子に座る。
手を見つめる。
あの戦場で、何もできなかった自分の手。
指揮をして、配置を守って、結局、見ていただけの手。
それでも、今日。
その手で、言葉を投げた。
重い言葉。
戻れない言葉。
――覚えさせる。
その宣言は、優しさの形をしている。
でも本当は、逃がさないという宣言だ。
「……私、何してるんだろ」
笑いそうになって、笑えない。
怖いのに、嬉しい。
苦しいのに、誇らしい。
その全部が混ざって、
胸の奥で熱になる。
♢
翌日、また彼は戦場に向かう。
その現実は変わらない。
でも、今日からは違う。
今日からは、彼の中だけで終わらせない。
彼の中だけで完結させない。
誰もが「戦略兵器」と呼んで遠巻きにするなら、
私は逆をやる。
近づく。
近づいて、覚えさせる。
生きる理由を。
誰かに心配されることを。
戻ってくる場所を。
全部。
シャルロット・ヴァルシュタインは、
そう決めた。
そして決めた瞬間、
彼女は自分が確実に“落ちた”ことを理解した。
落ちたからこそ、
もう戻れない。
戻れないからこそ、
次が始まる。
♢
夜のレオネスは、静かだった。
でもその静けさの中で、
ひとつだけ確かな音がした。
――シャルロットの決意が、形になる音。
それは恋の音ではない。
恋よりも重い、責任の音だった。
ここまでが、王都編です。
英雄が称えられ、制度に組み込まれ、正しく扱われていく一方で、
その“正しさ”がどれほど人を孤立させるかを、静かに描いてきました。
エルは最後まで、感情を取り戻していません。
誰かを守る理由も、生きる理由も、彼自身の中にはまだありません。
それでも物語は前に進みます。
なぜなら――誰かが、それを引き受けてしまったからです。
シャルロット・ヴァルシュタインは、
理解し、心配し、泣いたうえで、逃げませんでした。
彼女が選んだのは救済ではなく、覚悟でした。
「覚えさせる」という言葉は、優しさではありません。
それは責任であり、拘束であり、同時に危険な選択です。
王都編は、
“英雄が完成する物語”ではなく、
“ヒロインが踏み出す物語”として閉じます。
次章からは、シャルロット編。
エルが変わる話ではありません。
シャルが、引き返せなくなる話です。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。




