64. 静かな事故
自宅に戻り、自室の扉を閉める。
背中で、鍵の音を聞いた瞬間。張りつめていたものが、わずかにほどけた。
誰もいない。誰にも見られていない。
それだけで、呼吸が少し深くなる。
シャルロットは無意識のまま鏡の前に立ち、外套を外した。指先が慣れた動きで留め具を解き、制服の上着を脱ぐ。
鏡の中の自分と、目が合う。
「……」
言葉は出なかった。
代わりに、昼間の光景が遅れて戻ってくる。
――私、あなたの隣に、いてもいい?
聞いてしまった。冗談でも、勢いでもなかった。
そして、彼は。
「……構わない」
そう言った。
胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。今さらになって、実感が追いついてくる。
嬉しくなってしまう自分を、止められなかった。
だって。
それって、これからは。「様子を見る」だけじゃ、ないってことだよね。
用事がなくても。理由がなくても。ただ一緒にいても。
彼の家に行っても……おかしく、ないよね。
♢
ブラウス一枚になり、鏡を見る。
頬が、はっきりと赤い。照明のせいじゃない。体調でもない。自分で分かるほど、明確に。
「……変」
小さく呟く。
でも、視線を逸らせない。
彼の顔が浮かぶ。淡々としていて、冷たく見えて。
それなのに、拒否しなかった。
拒否されなかった。
それだけで、ここまで考えてしまう自分がいる。
“そういうこと”が、この先にあるかもしれない――そんなことまで。
考えちゃいけない。分かっている。
貴族として。分隊長として。二十四歳として。
分別は、ある。
それなのに。
胸の奥が、静かにざわつく。抑えようとすると、余計に意識してしまう。
♢
眠れない、というよりも。身体だけが休息を求め、意識だけが取り残されている感覚だった。
シャルロットは、何度も寝返りを打った。シーツの感触が変わるたび、余計に目が冴える。
静かすぎる部屋。壁時計の音が、やけに大きく聞こえる。
目を閉じると、あの声が思い出される。
「……構わない」
たったそれだけの言葉。肯定でも、約束でもない。
それなのに。どうして、あんなにも胸に残るのか。
――私だけ、許されてるみたい。
そんな考えが浮かんだ瞬間、シャルロットは、ぎゅっと目を閉じた。
違う。それは違う。
彼は、誰にでも同じだ。必要のないことを省いただけ。
自分が特別なわけじゃない。
そう言い聞かせても、感情は、言葉ほど素直じゃない。
♢
夜の静けさは、思考を増幅させる。
昼間なら無視できた想像が、ひとつ、またひとつと浮かび上がる。
彼の隣を歩く自分。何気ない会話。理由もなく一緒にいる時間。
「……ダメだって」
小さく声に出してみる。
でも、止まらない。
理性は「違う」と言っている。感情は「嬉しい」と囁いている。
その間で揺れる自分が、情けなくて、腹立たしい。
それでも、布団の中で、身体を丸めてしまう自分がいる。
♢
どれくらいの時間が経ったのか、分からない。
気づいたときには、呼吸が少し乱れていて、シーツの感触が、さっきとは違っていた。
「あ……」
声にならない声。
慌てて身体を起こし、周囲を見回す。
誰もいない。当然だ。
それが分かっているからこそ、胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「……私、最低」
ぽつりと呟く。
誰に見られたわけでもない。誰かを裏切ったわけでもない。
それでも。
英雄の隣に立ちたいと思った自分が、こんな夜を過ごしていることが、どうしようもなく恥ずかしかった。
♢
朝。
目が覚めて、最初に感じたのは違和感だった。
……冷たい。
背中ではない。肩でもない。
身体の、もっと下。シーツに触れている部分が、ひやりとしている。
一瞬、何が起きたのか分からず。次の瞬間、すべてを理解してしまった。
「…………」
起き上がる。
シーツを見る勇気はなくて、視線を逸らしたまま、布団をたぐり寄せる。
最低だ。
自分で、そう思った。
全部、“自分でやってしまったこと”だ。
だからこそ、自己嫌悪が、はっきりと残る。
急いで身支度を整え、何事もなかった顔を作る。
誰にも、気づかれていない。
それだけが、救いだった。
♢
王国騎士団本部。
魔族討伐の作戦会議は、いつもより張り詰めた空気で始まった。
分隊長たちが円卓を囲む。肩書きも、立場も、ここでは横並び。
♢
横並び、という言葉は便利だ。
組織はそれで公平を演出できるし、責任の所在も曖昧にできる。
だが、横並びは温かさではない。むしろ、冷たい。
横に並べられた者たちは、互いを見ないふりをする。見れば、比較が始まる。比較は序列を生む。序列を生めば、この場の横並びが壊れる。
だから、全員が「横を見ない」ために背筋を伸ばす。背筋を伸ばすことで、視線が正面に固定される。固定された視線の裏側で、耳だけが動く。
――誰が、どれだけの兵を動かせる。
――誰が、どれだけの損害を許容する。
――誰が、どれだけの責任を背負える。
会議は、言葉の形をしていても、本質は測定だ。
シャルロットは、その測定が得意だった。
貴族社会でも、騎士団でも。守る側の顔を作って、場の温度を一定に保つ。
今日も同じ。そう思って、息を吸う。
――なのに。
隣の席の気配が、想定より重い。
同じ階級章。同じ椅子。同じ円卓の距離。
それだけで同格が成立する。
同格が成立するということは、彼に対して止める権利がないということだ。
上官なら命令できる。部下なら指示できる。
同格は、提案しかできない。
提案は断られる余地がある。断られれば、関係は横並びのまま固定される。
逃げ道がない。
それが、同格の怖さだ。
♢
シャルロットは背筋を伸ばして座る。
――分隊長。
――指揮官。
――守る側。
その顔を、完璧に作る。
隣には、エルディオ・アルヴェイン。
同じ階級章。
同じ椅子の高さ。
同じ距離。
同格。
その事実が、昨日より重く感じられた。
♢
議題が提示される。
魔族拠点の位置。周辺地形。想定戦力。
地図が広げられ、数字が読み上げられる。
拠点――という単語は、戦場の常識を一段変える。
群れを追い払えば終わり、ではない。頭を落とせば終わり、でもない。
根を張ったものは、削っても戻る。燃やしても再生する。
中心に“核”がある。
核を壊せば瓦解する。壊せなければ、延々と立ち上がる。
短期で終わらせる。
その一点が、全員の前提になっている。
シャルロットは資料を追いながら、自分の頭が、いつも通りに回っていることを確認する。
冷静だ。判断も、遅れていない。
――大丈夫。
昨夜のことは、ここには持ち込まない。
それは、分隊長としての最低条件だ。
♢
各分隊長が、順に意見を出していく。
前線を厚くする案。持久戦を前提にした補給案。損耗を覚悟した強行突破案。
どれも間違いではない。どれも、犠牲を含んでいる。
騎士団の戦い方だ。
シャルロットは、自分の番で必要な修正を入れる。
被害予測を下げ、撤退路を太くする。
守る側として、正しい判断。
拍子抜けするほど、順調だ。
♢
――なのに。
エルの存在だけが、妙に引っかかる。
彼は、まだ意見を出していない。資料を読み、地図を見ているだけ。
だが、その視線の動きが、他と違う。
人の配置ではなく、壊すべき点だけを追っている。
“どう守るか”ではなく、“どこを潰せば終わるか”。
その視線の冷たさが、会議室の空気と噛み合ってしまうのが、少し怖い。
♢
会議が進むにつれ、シャルロットは、自分の異変に気づく。
集中力は、ある。判断も、鈍っていない。
♢
でも、守る側としての意識が、いつもより強く出ている。
彼が前線に立つ想定を聞くたび、胸の奥が、わずかに締まる。
――一人で行く。
――一人で終わらせる。
正しい。分かっている。
それが、最善だ。
それでも。
「……無茶しすぎ」
誰にも聞こえない声で、小さく呟いてしまう。
自分でも分かる。
これは、会議のための感情ではない。
分隊長の正しさを保つほど、別のものがうるさくなる。
♢
「次、特任分隊長。意見は?」
指名されて、エルが顔を上げる。
一瞬。ほんの一瞬、目が合った気がして、シャルロットの心臓が跳ねた。
気のせい。きっと。
♢
「本陣に突っ込むのは、僕一人でいい」
会議室の空気が、わずかに揺れる。
「他は邪魔にしかならない」
断定。迷いがない。
冷たい言葉なのに、不思議と反論が出ない。
それは、彼が強いからだ。強さを、証明し続けてきたからだ――そう思ってしまうのもある。
でも、それだけじゃない。
♢
“成立してしまう”からだ。
反論するには代案が必要になる。
代案を出せば責任が生まれる。責任は失敗したとき、そのまま処罰になる。
だから皆、冷静を装う。
冷静という仮面の裏で、計算だけが回る。
「本当に一人で足りるのか」
「足りた場合、他の分隊は何をしていたことになるのか」
「失敗した場合、誰が責任を取るのか」
そのすべてが、言葉にならずに漂う。
シャルロットだけが、その漂いを個人として受け取ってしまう。
――一人で行く。
――一人で終わらせる。
その言葉は戦術であると同時に、距離を作る宣言でもあるからだ。
♢
エルが語る戦術は、冷静だった。
広域殲滅魔法で初動を制圧。
爆風と砂煙で視界と統率を奪う。
生き残った個体は、感知魔法で位置を把握し、転移で間合いを詰め、各個撃破。
♢
説明は短い。
だが、短いのに、嫌なほど具体的だった。
「外郭を壊す必要はない。核に通せばいい」
核を狙う一撃。
外れたとしても爆風で警戒は破綻する。
破綻した統率は、砂煙の中で戻らない。
「砂煙は視界を奪う。視界が奪われれば、統率が死ぬ」
統率が死ねば、群れは群れでなくなる。
群れでなくなれば、各個撃破が可能になる。
「生き残りは感知で拾う。濁りの中でも、魔力の歪みは残る。それだけ追えばいい」
普通なら無理だ。
濁りは感覚を鈍らせ、距離を歪め、判断を遅らせる。
だが彼は「可能かどうか」ではなく、「そうする」と言う。
「転移で間合いを詰める。視界が無いなら、距離を詰める手間を省けばいい」
省く。
手順を削る。
余計を捨てる。
彼の戦い方が、そのまま言葉になっている。
「剣で落とす。魔法で落とす。状況で切り替えるだけだ」
誇示ではない。
予定表の読み上げに近い。
“できる”のではなく、“そう動く”という確定。
シャルロットは喉の奥が少し乾くのを感じた。
――止めたい。
――でも止められない。
同格だから。
♢
「単独行動のリスクは?」
誰かが問う。
問うことで、場は形式を保てる。
形式を保てば、責任は均される。
エルは即答する。
「理解している。だからこそ、他を巻き込まない」
正しい。
合理的。
戦場で生き残る判断。
シャルロットは、唇を噛みそうになるのを堪えた。
――一人でいい。
その言葉が、胸に刺さる。
守る側の顔をしているのに。
同格として、ここに座っているのに。
彼の判断に、感情を挟む余地はない。
♢
会議は、そのまま結論へ向かう。
配置。
支援。
撤退ルート。
すべてが決まり、散会となった。
♢
散会、という言葉は軽い。
だが散会のあとに残るものは軽くない。
決まった配置。決まった役割。決まった撤退線。
そして決まった――彼の単独突入。
その一点だけが、胸の奥でずっと引っかかる。
引っかかるのに、会議の場で引き止める言葉が見つからない。
「危険です」と言えばいいのか。
彼は危険を理解している。理解した上で、最短を選ぶ。
「私も行きます」と言えばいいのか。
それは戦術ではなく、感情になる。
感情は、この場で最も弱いカードだ。
――私は分隊長。守る側の顔をしているのに。
守る側であるほど、彼が一人で行くことを止められない。
止めれば、守る側の判断が私情として扱われる。
私情は、騎士団では最後に切られる。
切られたくない。
切られたくない、という思いがもう私情なのに。
そんな矛盾が、胸の奥でじわじわと増える。
そして、その矛盾に、朝の自己嫌悪が重なる。
――私は何をしてるんだろう。
――守る側の顔を作れるくせに。
目の前の「戦術として正しい単独突入」が、苦しくなる。
♢
椅子を引く音。
立ち上がる気配。
シャルロットは、一瞬だけ動けなかった。
同格であることが、こんなにも逃げ道を消すなんて。
♢
廊下に出る。
騎士団の日常の音が戻ってくる。
書類の擦れる音。
金具の触れ合い。
遠くから聞こえる訓練の掛け声。
その日常が、さっきまでの緊張を、より際立たせる。
エルの背中が、少し前を歩いている。
追いかける理由はない。追いかける資格もない。
それでも、足が動く。
♢
背中を追いかけるという行為が、もう答えだった。
追いかけなければ済む。
追いかけなければ、同格でいられる。
同格でいれば、感情は隠せる。
――でも、追いかけてしまう。
足音を立てないように歩く。
立てないようにするほど、胸の鼓動がうるさい。
呼び止めたい。
呼び止めたくない。
理性が「今はやめろ」と言う。
感情が「今しかない」と言う。
――一人で行く。
――一人で終わらせる。
彼の言葉が、歩幅に合わせて反復される。
♢
追いついてしまう。
同じ歩幅。
同じ速度。
同格だから。
だからこそ、選ぶ言葉は、戦術でも命令でもない。
♢
「エル」
呼び止めると、彼は足を止めた。
振り返る。
昨日と変わらない顔。
何事もなかったような顔。
それが、少しだけ――
昨日より柔らかい気がする。
「なにか?」
淡々とした声。
「ね、今日はなにしてたの〜?」
自分でも驚くほど、軽い声が出た。
会議のあととは思えない。
でも、そうしないと距離が詰められなかった。
同格のまま、隣にいられる形が、他に見つからなかった。
「会議の準備」
簡潔。相変わらず。
「そっか。……お疲れさま」
並んで歩く。
自然に、同じ速度になる。
同格だから。
立場が同じだから。
だからこそ、逃げ場がない。
♢
少しの沈黙。
シャルロットは、胸の奥で何度も言葉を選ぶ。
聞きたいことは、たくさんある。
でも、聞ける立場ではない。
守る側。
分隊長。
同格。
それでも。
「……ね」
声が、少しだけ小さくなる。
エルが、視線を向ける。
「私のこと」
一拍。
「本当に、覚えてないんだよね?」
笑って言った。
冗談みたいに。軽く。
でも、それは直球だった。
承認欲求。
逃げ場のない、問い。
エルは、すぐには答えない。
考えるような沈黙。
その沈黙に、胸が締めつけられる。
♢
やがて、彼は言った。
「……記憶にはある」
否定じゃない。
肯定でもない。
でも。
シャルロットは、それで十分だと思ってしまった。
「そっか」
小さく笑う。
隣を歩く。
同じ立場で。
同じ速度で。
同格であることが、こんなにも苦しいなんて。
♢
会議の中で、恋は不要だった。
合理の中に、感情の席はなかった。
だからこそ、会議が終わったあとに残るこの感情が、余計に重い。
同格であることが、恋の入口を塞ぎながら、出口も塞いでいる。
シャルロット・ヴァルシュタインは、守る側として正しかった。
分隊長として、非の打ち所がなかった。
それでも。
円卓の中で彼と並んだその瞬間から、彼女の恋は、もう「戻れない場所」に置かれていた。
♢
可愛い地雷は、理性という薄い皮をまとったまま。
今日もまた、一歩、確実に近づいていた。
この話は、関係が進んだ回ではありません。
逃げ道が消えた回です。
夜の出来事は派手でも決定的でもなく、
会議の判断は正しく、冷静で、誰にも責められない。
それでも――
「同格」という立場が、二人の間から
誤魔化しと言い訳を一つずつ奪っていきました。
シャルは踏み出していません。
エルも受け入れていません。
けれど、並んでしまった。
並べてしまった。
この章で起きた一番大きな変化は、
好意でも、欲望でもなく、
関係が制度の外に逃げられなくなったことです。
次からは、
本人たちが何もしていないのに、
周囲だけが“何かを察し始める”段階に入ります。




