63. シャルロット・ヴァルシュタイン
王城へ向かう馬車の中で、シャルロットは背筋を伸ばして座っていた。
窓の外を流れていく石畳と城壁の影を、ぼんやり眺めながら、
それでも姿勢だけは崩さない。
それは癖だ。
ヴァルシュタイン伯爵家に生まれて、叩き込まれた振る舞い。
――「どこで誰に見られているか、分からないのだから」
母の声が、今でも耳に残っている。
今日の用件は、伯爵家としての公式な呼び出しだった。
名目は「近況報告と今後の方針確認」。
要するに、貴族社会における位置の再確認だ。
シャルロット・ヴァルシュタイン。
二十四歳。
王国騎士団所属、分隊長。
そして、ヴァルシュタイン伯爵家の娘。
――逃げ場はない。
それは理解している。
だから彼女は、ため息をつかなかった。
♢
王城の応接間は、相変わらずだった。
広く、静かで、空気が澄んでいるようでいて、
どこか息苦しい。
古参の貴族たちが、壁際や椅子に腰掛けている。
視線は穏やかで、口元は柔らかい。
だが、その奥にあるのは値踏みだ。
「シャルロット嬢。お久しぶりですね」
「ご無沙汰しております」
完璧な微笑み。
首の角度。
声の高さ。
どれも、身体が勝手に覚えている。
話題は、自然と最近の出来事へ流れる。
――白銀騎士勲章。
――若き英雄。
――特任分隊長。
「あのエルディオ・アルヴェイン殿……」
その名が出た瞬間、
シャルロットの心臓が、ほんの少しだけ跳ねた。
顔には出さない。
出さないけれど、内側では、確実に反応している。
「ずいぶんと優秀だそうじゃないですか」
「ええ。戦功も申し分ないとか」
「となれば……」
そこから先は、言葉にされなくても分かる。
――囲え。
――繋げ。
――婚姻で。
貴族社会において、それは自然な発想だ。
英雄は、個人ではなく資源になる。
シャルロットは、にこやかに頷いた。
「そうですね。とても優秀な方です」
肯定はする。
だが、それ以上は踏み込ませない。
「ですが、彼はあくまで騎士団の特任。
私個人がどうこうできる立場ではありませんわ」
「まあまあ、そう仰らずに」
柔らかい笑い声。
含みのある目線。
――やっぱり、そう来るよね。
内心では、少し焦る。
彼女は知っている。
貴族たちが、どれほど簡単に人の人生を組み替えようとするか。
でも同時に、
胸の奥が、ちくりと甘く疼くのも事実だった。
――英雄。
――若くて。
――優秀で。
それを「私が知っている」という事実。
「……ふふ」
思わず、笑ってしまいそうになるのを堪える。
だって。
かっこいいし。
優しいし。
それに――
私にだけ、なんだか許されてる気がする。
♢
シャルロットは、微笑みを崩さないまま、指先にだけ意識を向けた。
手袋の縫い目。指の付け根。
わずかに力が入っているのが分かる。
だから、抜く。
――抜け。抜け。
声に出さなくても、身体は聞く。
貴族の場で、顔に出すのは負けだ。
怒りも、焦りも、喜びも。
すべては「隙」になる。
「特任というのが、またよいですね」
年配の貴族が、あくまで雑談の調子で言う。
「特任」を褒めているようで、実際は手綱の話をしている。
「自由に動かせる枠は便利だ」
言外の“便利”に、シャルロットは小さく頷いた。
便利。
その言葉がここで意味するのは、本人の意思ではない。
動かす側の都合だ。
「若い英雄は、扱いを間違えると厄介になりますからね」
別の声が重なる。
厄介。
それは称賛の形をした警戒だ。
シャルロットは、軽く笑う。
「戦功者は、戦功者としての場所がございますわ」
言い方は柔らかい。
けれど、線は引く。
ここから先は、伯爵家の娘としての仕事だ。
「それで、その場所を……どなたが用意するのが最善でしょう?」
質問の形をした誘導。
目の奥が、薄く光る。
――来た。
囲え。
繋げ。
婚姻で。
最初にそれを言い出す人は少ない。
言えば、自分の欲が見えるから。
だから皆、遠回りをする。
遠回りは、品位の仮面だ。
シャルロットは、その遠回りに付き合う。
「王国騎士団が定めるところでございます。
私が勝手に、英雄の“居場所”を用意するなど……」
そう言って、もう一段、言葉を薄くする。
“用意できない”のではなく、“勝手にしない”。
相手はすぐ理解する。
――シャルロット嬢は、否定していない。
――拒んでいるのは、段取り(・・)だけだ。
「ですが、あなたは分隊長で、しかも伯爵家。
“言える”立場でしょう」
そう来る。
シャルロットは笑みを保ったまま、心の中で奥歯を噛む。
言える。
言えたら、どれほど楽か。
でも言った瞬間、それは“私が望んだ”ことになる。
望んだと見られるのが、怖い。
望んでいる自分が、いるのも怖い。
「立場があるからこそ、慎みが必要なのです」
返答は正しい。
あまりにも正しい。
正しさの中に隠して、別の本音が胸で跳ねる。
――でも、もし。
もし、彼が本当に“囲われる”のなら。
誰の囲いがいい?
問いの形は、すぐに“答え”を呼んでしまう。
シャルロットは、心の内側だけでそれを押し戻す。
押し戻す。
押し戻したのに、嬉しさが残る。
「シャルロット嬢は、冷静でいらっしゃる」
褒め言葉。
同時に、釘。
冷静――つまり、個人の感情で動くな。
「ええ。私は騎士ですもの」
笑う。
騎士として笑う。
伯爵家の娘として笑う。
その笑いの裏側で、別の自分が小さく手を振っている。
――でも。
――“私にだけ許されてる気がする”って、思っちゃった。
可愛い勘違いが、理性の内側でぬくぬく育っていく。
「……お若いのですよね、彼は」
さらりと刺してくる声。
「ええ、二十一と伺っております」
口が勝手に答えた。
答えてから、しまったと思う。
年齢情報は、武器になる。
貴族の場では、特に。
「まあ……若い。実に若い」
「三年もすれば、価値はさらに上がる」
価値。
またその言葉。
シャルロットは微笑みのまま、胸の奥を握り潰す。
――価値じゃない。
――彼は、物じゃない。
でも、そんなことを言うのは愚かだ。
ここでは通らない。
通らない言葉を出せば、彼の方が傷つく。
だから、言わない。
「私が年上でも、大丈夫だよね」
心の中だけで、別の言葉をこぼす。
二十四。
三つ差。
大丈夫。
大丈夫だと、誰に言い聞かせているのか分からない。
「……伯爵家としては、どうお考えで?」
最後に、家の名が引き出される。
ヴァルシュタインとしてどうする、と。
シャルロットは、背筋を真っ直ぐにした。
「家の意向と、騎士団の規律は切り分けております」
きっぱりと言う。
それは宣言であり、盾でもある。
盾の裏で、胸が小さく揺れた。
――切り分ける。
――でも、もし“隣にいてもいい”って思えたら?
その問いは、今日の彼女の中で、ずっと残る。
♢
エルディオ・アルヴェインの姿を思い浮かべる。
派手な容姿ではない。
貴族受けする華やかさとも、少し違う。
髪は、光の当たり方で色が変わる。
濃い色なのに、重たくない。
きちんと整えられているけれど、飾り気はない。
体格は、無駄がない。
鍛えられているのに、誇示していない。
一番印象に残るのは、表情だ。
感情がないわけじゃない。
ただ、外に出さないだけ。
だからこそ、
ほんの少し柔らかくなった(気がする)瞬間が、
やけに特別に見えてしまう。
――私にだけ。
そんな勘違いを、
胸の奥で、こっそり育ててしまう。
年の差だって、気にしない。
彼は二十一。
私は二十四。
三つ差なんて、誤差みたいなものだ。
「……大丈夫だよね」
誰にも聞かれないように、
心の中でそう呟く。
助けてくれた。
守ってくれた。
それに、拒否されなかった。
十分じゃない?
♢
許されてる、という感覚は、証拠がないのにしつこい。
証拠がないから、好き放題に形を変える。
形を変えて、いつでも“正しそう”になる。
たとえば――あの目。
エルディオがこちらを見る時、
彼の視線は、他人を測る視線に見えない。
測っていないのではなく、測り方が違う。
騎士団の視線は、格付けの線を引く。
だが彼の視線は、線を引かないまま、ただ“そこにある”。
逃げ場がないのに、責められている感じがしない。
責められていないのに、逃げたくなる。
そういう目だ。
彼のまつ毛は、意外と長い。
濃くはない。長いのに目立たない。
そのせいで、視線の動きが読みづらい。
だから、こちらは勝手に想像する。
――今、柔らかかった。
――今、少しだけ安心してくれた。
――今、“私だから”立ち止まった。
想像は、いつも甘い方へ転がる。
髪は、近くで見ると色が複雑だ。
黒に見えるのに、光で少し冷たい色が混ざる。
触れたら硬そうで、でも実際は少しだけ柔らかそうで。
触れるはずがないのに、そう思ってしまう。
体格は、戦う人の体だ。
騎士団の“見せる鍛え方”とは違う。
肩や背中の線が、必要なだけある。
余分がない。
余分がないから、生活の匂いもしない。
でもその手だけは、生活へ降りてくる。
指が長い。
武器を握るための形。
それなのに、私の問いに答える時、その指先が少しだけ緩む気がした。
――「……手、痛くない?」
あの質問。
私は、もっと騎士らしく聞くべきだったのかもしれない。
「負傷はありませんか」
「異常は」
そういう言葉なら、制度の中に収まった。
でも私は、“痛くない?”と言った。
生活の言葉で、彼を呼んだ。
呼んでしまった。
呼んで、拒否されなかった。
拒否されない――それは、怖い。
“拒否される”のは分かりやすい。
線が引かれる。
そこから先へは進まなくて済む。
拒否されないと、線が引かれない。
線がないと、人は勝手に進んでしまう。
私が進んだら、どうなるんだろう。
彼は、止めるんだろうか。
止めない気がする。
止めないというより、止め方を知らない気がする。
だから怖い。
怖いのに、嬉しい。
嬉しいのに、焦る。
焦りを見せたくないから、また笑う。
ヴァルシュタイン伯爵家の娘として笑う。
その笑いが、
誰にも見えない場所で、少しだけ幼いものへ変わっていく。
「……私の方が年上でも、大丈夫だよね」
自分で自分を慰めるみたいに、胸の内で言う。
その瞬間、自分が可笑しくなる。
――何を真剣に考えてるの。
――私は伯爵家の娘で、分隊長で、騎士で。
そうなのに。
彼の「構わない」ひとつで、
世界の重さが変わる気がする。
♢
応接間を出る頃には、
シャルロットはいつもの自分に戻っていた。
背筋はまっすぐ。
足取りは軽やか。
王城の回廊を歩きながら、
彼女はふと、窓の外を見る。
青空が広がっている。
――早く、戻ろう。
騎士団に。
そして、あの人のところへ。
♢
王城を出ると、空気の温度が変わった。
冷たいわけではない。
ただ、軽い。
王城の中の空気は、薄い絹みたいに絡みつく。
動くたびに、音が立たないように配慮されている。
その配慮が、逆に息を詰まらせる。
外の空気は、何も気にしない。
風が髪を揺らしても、誰も眉をひそめない。
それだけで、少し救われる。
馬車へ向かいながら、シャルロットは自分の頬を内側から軽く噛んだ。
笑いが残っている。
王城の笑いは、仮面だ。
仮面を外せない時間が続くと、仮面の内側が熱を持つ。
熱は、焦りになる。
――囲え。
――繋げ。
――婚姻で。
言われた言葉は、刃ではない。
ただの常識だ。
常識は、反論しづらい。
反論しづらいから、飲み込むしかない。
飲み込んで、沈める。
沈めたはずなのに、
胸の底で、別の感情がふわっと浮いてくる。
嬉しい。
――彼が、そういう“対象”だと言われたことが。
――私が、それを知っていることが。
――私が、彼の近くにいることが。
嬉しいなんて、だめなのに。
だめだと思うほど、嬉しさが甘くなる。
シャルロットは、指先を握って、ほどいた。
落ち着け。
落ち着け。
私は、理性がある。
私は、騎士で、分隊長で、伯爵家の娘だ。
ちゃんと“分かっている”。
――それでも。
「……会えたら、いいな」
小さく呟いた瞬間、
自分の幼さに、少しだけ笑ってしまった。
会えたら、いいな。
そんなの、子供の言い方だ。
でも言ってしまう。
彼の顔を思い出すと、
あの無表情の中の、ほんのわずかな変化を思い出すと、
どうしても、言ってしまう。
馬車に乗り込む前、ふと視線を上げる。
王城の白い壁。
あそこにいる人たちは、英雄を資源として扱う。
なら、私はどうする?
資源としてではなく、
人として、隣にいられるのは誰か。
答えを出すのは早い。
早すぎて、怖い。
だから、答えを“問い”の形に変える。
――「私、あなたの隣にいてもいい?」
今日の帰り道で、
私はそれを言うかもしれない。
言わないかもしれない。
言ったら、戻れない気がする。
でも、戻れないのは――
悪いことじゃない気もする。
♢
帰り道。
王城から少し離れた通りで、
シャルロットは彼を見つけた。
エルディオ・アルヴェイン。
いつもと変わらない。
特別な場所にいたわけでもなさそうだ。
何事もなかった顔。
その姿を見ただけで、
胸の奥が、ふわっと軽くなる。
「ね、今日はなにしてたの〜?」
声をかける。
意識的に、少しだけ軽く。
♢
意識的に軽くした声は、
思ったよりも明るく響いた。
自分の声が、こんなに弾むことがあるんだ、と驚く。
王城の中では、声は調整するものだった。
高さも、丸さも、距離も。
相手が気持ちよく聞こえるように整える。
でも今の声は、整えていない。
整えていないのに、
彼に向かってしまった。
それが嬉しい。
――やっぱり、私は会いたかったんだ。
シャルロットは、一歩だけ距離を詰めた。
詰めすぎない。
近づきすぎるのは怖い。
でも離れたままも嫌だ。
“ちょうどいい”という距離を探す。
探している自分が、少しだけ可愛いと思ってしまって、
また恥ずかしくなる。
彼の服装は簡素だ。
騎士団の制服でも、王城の礼服でもない。
必要なものだけが揃っている。
必要なものだけ。
その選び方が、彼らしい。
視線が、彼の顔へ向かう。
向かってしまう。
向かった瞬間、心臓が少し速くなる。
――落ち着け。
落ち着け、と言いながら、落ち着けない。
彼はいつもと変わらない顔をしている。
なのに、私は勝手に変化を探してしまう。
――少し疲れてる?
――少しだけ眉が柔らかい?
――私を見たから、止まった?
全部、私の都合のいい読み取り。
でも、都合がいいからやめられない。
彼がこちらを見る。
その視線を受けた瞬間、
胸の奥が“許された”みたいに熱を持つ。
許された、という言葉は危険だ。
勝手に意味を膨らませる。
だけど、
膨らませたくなる。
♢
エルは足を止め、こちらを見る。
「訓練と、報告」
相変わらず、簡潔。
でも――
前より、少し柔らかい。
……気がする。
「そっかぁ。大変そう」
「いつも通りだ」
そっけない返答なのに、
シャルロットは満足してしまう。
だって、立ち止まってくれた。
ちゃんと、答えてくれた。
それだけで、十分だ。
二人で並んで歩く。
歩幅は自然と合う。
沈黙が落ちるけれど、
気まずくはない。
むしろ――
心地いい。
シャルロットは、少しだけ間を置いてから、口を開いた。
「……あのさ」
声が、少しだけ小さくなる。
「私、あなたの“隣”にいてもいい?」
命令じゃない。
確認でもない。
ただの、問いかけ。
依存の入口。
エルは、すぐには答えない。
ほんの一瞬。
考えるような間。
その沈黙に、
シャルロットは息を詰める。
――断られたら、どうしよう。
でも。
「……構わない」
短い返事。
それだけなのに、
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「……ありがと」
小さく、そう言った。
彼は、何も言わない。
けれど、並んで歩き続けてくれる。
それでいい。
それがいい。
シャルロット・ヴァルシュタインは、
自分が今、とても危ない場所に足を踏み入れていることを、
まだ正確には理解していなかった。
可愛い地雷は、
理性という名の薄い膜で包まれたまま、
静かに、確実に、膨らんでいく。
シャルロットという人物を、「ヒロイン」ではなく「立場を持つ人間」として描く回でした。
家名、年齢、周囲の期待――その全部を理解した上で、それでも芽生えてしまう感情と、
それを理性で包もうとする不器用さ。
エルの拒否は怒りでも冷淡さでもなく、ただの省略。
けれど、その省略に“特別”を見出してしまうのが、シャルの可愛い地雷です。
この回で描いたのは恋の確定ではなく、
「隣にいてもいいかもしれない」と思ってしまう瞬間。
それがどれほど危うく、どれほど甘いかは、これから少しずつ明らかになります。
読んでくださってありがとうございました。
感想や印象をもらえたら、とても嬉しいです。




