62. そばにいていい
合同訓練の通達は、朝だった。
王国騎士団本部から、魔法師団へ。
文面は簡潔で、感情が入り込む余地はない。
「戦功者の適性確認の一環として、合同訓練への参加を要請する」
推薦の文字はない。
要請でも、栄誉でもない。
理由は制度だ。
制度は、誰かの意思を主語にしない。
エルディオ・アルヴェインは、その名を紙の上で確認し、
折り目を揃えて戻した。
「確認、という扱いか」
呟きは、独り言にもならない程度だった。
否定する理由はない。
受けるべきかどうかを測る段でもない。
配置が動いた。
それだけだ。
♢
魔法師団の敷地は、騎士団とは空気が違う。
整っているが、揃っていない。
歩調も、視線も、統一されていない。
誰かが立ち止まり、誰かが走り、
誰かは座ったまま書き物をしている。
訓練場というより、実験場に近い。
エルが足を踏み入れた瞬間、
視線が集まった。
ただし、騎士団のそれとは質が違う。
敵意でも、値踏みでもない。
観察だ。
「……あれが?」
「白銀位の?」
「魔力は……普通、なの…か?」
声はひそひそと、しかし隠す気もなく飛ぶ。
魔法師団では、噂は遮音されない。
遮る理由がないからだ。
ここでは、人は結果ではなく現象として扱われる。
エルは、その扱いに抵抗を覚えなかった。
戦場でも、
彼はよく「現象」として扱われてきた。
♢
訓練の内容は、基礎だった。
治癒魔法。
防護付与。
戦闘補助の初歩。
高度な術式も、複雑な理論も出てこない。
それが、この場の意図だった。
「戦功者の適性確認」
つまり――
できるかどうかではなく、どうやるかを見る。
エルは、言われたとおりに手を動かした。
術式は簡潔。
力の込め方も最小。
効率だけを考えた、余白のない動き。
治癒を受けた魔法師が、瞬きをする。
「……え?」
「もう、終わり?」
確認のような声。
エルは頷かない。
説明もしない。
次の対象へ、手を伸ばす。
補助付与。
一瞬で、感覚が変わる。
「軽い……?」
「いや、軽いっていうより……ズレてない?」
言葉を探す声。
エルは、気にしない。
彼にとってこれは、
助ける行為ではなく、整える作業だった。
戦場では、仲間の状態を完全に理解する余裕はない。
だから、過剰に与えない。
足りなければ死ぬが、
与えすぎても死ぬ。
彼のやり方は、いつもその中間にあった。
♢
気づけば、周囲の空気が変わっていた。
ざわめきが、消えている。
観察する側の目が、
戸惑いに近いものへ移っている。
「……理論、どうなってる?」
「術式、見えた?」
「魔力の流れ、測れなかったんだけど」
誰も、エルに直接聞かない。
聞けば、説明が必要になる。
説明は、比較を生む。
比較は、序列を生む。
序列は、今この場では扱いづらい。
魔法師団は、その判断が早い。
結果として、
距離が保たれる。
評価は上がる。
しかし、近づいてこない。
近づけない、という方が正しい。
彼のやり方は、
再現できないからだ。
再現できないものは、共有できない。
共有できないものは、個人に閉じる。
閉じたものには、
礼も、雑談も、寄らない。
それが、この団の流儀だった。
♢
訓練が終わる。
記録は取られ、
報告は淡々とまとめられる。
「適性は高い」
「応用可能性あり」
「だが、運用には注意が必要」
どれも、正確で、温度がない。
エルは、それを当然として受け取った。
評価は、距離を縮めない。
距離を縮めるのは、人だけだ。
そして今、
ここに人はいない。
♢
訓練場の外で、
シャルロットが待っていた。
騎士団の制服のまま、
壁に寄りかからず、立っている。
「終わった?」
「ああ」
それだけで、十分だった。
彼女は一歩近づき、
エルの手を見る。
視線が、少しだけ下がる。
「……手、痛くない?」
唐突で、
制度から外れた言葉。
エルは一瞬、返答が遅れた。
痛みはない。
事実だ。
だが、
その質問が向けられたこと自体が、
彼の判断を一拍遅らせた。
「……問題ない」
答えは短い。
シャルは、安心したように息を吐く。
その仕草を、
エルは見てしまった。
見てから、
視線を逸らす。
戦場では、
仲間の顔色を見る暇はなかった。
今は、ある。
その余白が、
少しずつ、彼の中で位置を変えていた。
♢
宿に戻ると、
問題は再燃した。
使用人の件だ。
騎士団側からの連絡は、
体裁を理由にしている。
「特任分隊長という立場上、最低限の随行が――」
最低限。
その言葉が、エルには余分だった。
「必要ない」
それだけで、会話を終わらせる。
怒りはない。
拒絶でもない。
単に、
省いていい要素だと判断した。
しかし、相手は困る。
省略は、
制度の外に置かれるからだ。
「ですが――」
「不要だ」
繰り返す。
それ以上、言葉を足さない。
彼にとって、
これ以上は説明の段だ。
説明は、
彼のやり方ではない。
♢
沈黙が落ちたところで、
シャルが口を開いた。
「じゃあ……」
一拍、置く。
その間に、
彼女は一つだけ考える。
制度を壊さず、
彼を縛らない方法。
「私が、時々様子を見る」
軽い言い方。
提案というより、生活の話。
騎士団の体裁も、
宿の都合も、
ぎりぎり傷つかない。
エルは、彼女を見る。
見る、という行為自体が、
少し前より増えていることに、
彼自身が気づいていない。
「……構わない」
断らなかった。
必要だとは言っていない。
頼んでもいない。
ただ、
省かなかった。
それだけだ。
♢
その夜。
シャルは部屋に戻り、
天井を見つめる。
胸の内に、
小さな勘違いが芽生える。
拒否されなかった。
否定されなかった。
それは、
許された、という感覚に近い。
本当は違う。
彼は何も許していない。
ただ、
段取りから外さなかっただけだ。
だが、
その違いを正確に理解できるほど、
人は冷静ではない。
シャルは、
少しだけ笑った。
「……そばにいていい、ってことだよね」
誰にも聞かせない声。
♢
笑ってしまったことに、すぐ気づく。
笑うような話ではないはずだ。
彼は、あのエルだ。
戦功者で、白銀位で、誰かの都合の外側にいる。
彼女の言葉を、甘く受け取ってはいけない。
そんなのは、自分が一番わかっている。
それでも、笑いは止まらなかった。
「構わない」
あの一言が、
胸の奥で、何度も形を変えて反響する。
“構わない”は、拒絶ではない。
“構わない”は、拒否でもない。
“構わない”は、少なくとも追い払われていない。
その解釈だけが、
きれいに残る。
♢
シャルは枕に顔を埋める。
冷たい布の匂いがして、呼吸が落ち着く。
落ち着こうとしているのに、
思考は勝手に先へ進む。
様子を見る、とはどういうことか。
彼女は自分で言っておきながら、
具体的に想像してしまう。
朝、食堂で。
遠くから見て、食べられているか確認する。
近づきすぎない。声もかけない。
でも、皿の位置や箸の動きは見る。
昼、訓練前の廊下で。
手袋の縫い目が擦れていないか。
包帯が必要なほどの傷がないか。
必要があれば、問う。
“痛くない?”と同じ温度で。
夜、帰ってきた時。
扉が開く音がいつもより重かったら、
ただ一言だけ、聞く。
「今日、無理してない?」
そんなふうに。
♢
――そういうことを、してもいい。
しても、拒否されない。
そこまで考えて、
シャルは自分で自分を止めようとする。
違う。
それは、飛躍だ。
彼は、きっと
“それで困らないから”と言っただけだ。
制度の隙間を、
生活の言葉で埋めただけ。
分かっている。
分かっているのに、
飛躍を止められない。
飛躍は、理屈では折れない。
折れるには、現実が必要だ。
現実がまだ来ていないから、
飛躍はそのまま膨らんでいく。
♢
シャルは、天井の木目を数える。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
数える行為が、
少しだけ冷静さを戻す。
でも、戻った冷静さは、
別の形で甘さを補強してしまう。
彼が“構わない”と言ったのは、
“私”に対してだ。
同じ提案を、別の騎士が言っても、
彼は同じ返事をしただろうか。
分からない。
分からないのに、
分からないという余白が、
都合よく埋まっていく。
埋まるたび、
胸の奥が少しだけ軽くなる。
軽くなると、
また笑ってしまう。
♢
「……だめだ」
シャルは小さく言う。
だめだと思えるのは、
自分がまだ冷静でいようとしている証拠だ。
でも、
“だめだ”と言えるのは、
“したい”がどこかにあるからだ。
その“したい”が何か、
名前を付けないまま、
彼女は目を閉じる。
名前を付けたら、
自分が自分に責任を持たなくてはいけない。
責任を持った瞬間、
これがただの誤解ではなくなる。
誤解のままでいられる間は、
甘いまま、守れる。
守りたい。
その矛盾が、
さらに地雷を膨らませる。
♢
あの時、彼は手を引かなかった。
“痛くない?”と聞いた時、
彼は避けなかった。
答えは短かった。
でも、短いまま答えた。
それは、
“質問されること自体を切らなかった”ということだ。
シャルはそこを、
何度も反芻する。
彼の中の「省く/省かない」の境界に、
自分の言葉が引っかかった。
引っかかって、落ちずに残った。
残った、というだけで
特別だと思ってしまう。
本当に、残っただけなのに。
♢
――もし、明日。
廊下ですれ違ったら。
訓練前に、顔を見たら。
どんな言葉なら、
生活の温度のまま、彼のそばに置けるだろう。
「おはよう」だと、重いかもしれない。
彼は朝を祝う人ではない。
「今日、予定は?」だと、制度側に寄る。
それは彼の世界だ。そこに入り込むのは違う。
「昨日、眠れた?」
それは近い。近すぎる。
「……手、もう大丈夫?」
それなら、昨日の続きとして自然だ。
生活側の言葉なのに、
制度の範囲に引っかからない。
シャルは、
そんなことを真剣に考えてしまう。
考えてしまった時点で、
もう遅いのかもしれない。
♢
彼女は、布団を引き上げる。
胸の辺りが、少しだけ熱い。
熱いのに、落ち着く。
落ち着くこと自体が、
また危ない。
落ち着きは、
“ここが居場所だ”と錯覚させる。
彼のそばが、
自分の居場所だと思ってしまう。
思ってしまえば、
次は“失う恐れ”が生まれる。
恐れが生まれた瞬間、
地雷は爆発の準備を始める。
♢
「……様子を見るだけ」
シャルは自分に言い聞かせる。
様子を見るだけ。
それ以上は望まない。
望まない、と言いながら、
“それ以上”が何かを、
彼女はもう知ってしまっている。
知ってしまったから、
言い聞かせが必要になる。
必要になる時点で、
もうただの提案ではない。
♢
エルは別の部屋で、
同じ夜を過ごしている。
彼はまだ、
その地雷が
ほんの少しだけ動いたことを、
知らない。
この回は「推薦」ではなく「制度」で通して、エルがどこへ行っても人が近づけない理由をはっきりさせました。
魔法師団の評価は上がるのに距離が縮まらない――再現できないものは共有できず、共有できないものは“人”になれないからです。
一方で、生活側だけが例外になる。
「痛くない?」は制度の言葉じゃない。だからこそ、エルの判断が一拍遅れて、シャルの中で“拒否されなかった”が甘く膨らみます。
拒否の不在を許可と取り違える――ここからが、静かな地雷の始まりです。




