61.任官
王国騎士団本部は、王城よりも音がある。
石床を打つ靴音、書類を運ぶ気配、金具の触れ合う乾いた音。
それらは意図的に消されてはいないが、自然に整えられている。
訓練と業務が同時に進む場所の音だ。
広間に通される。
天井は高く、柱の間隔が広い。
視線が横に流れやすい作りで、誰か一人に注目が集まりすぎない。
正面に、通達官が立っている。
名は名乗らない。必要がないからだ。
「――叙勲に続き、任官の通達を行う」
声は淡々としている。
叙勲式のそれと、ほとんど変わらない。
「エルディオ・アルヴェイン」
呼ばれた名に、周囲の視線が一瞬だけ集まる。
集まって、すぐに散る。
散るのが早いのは、確認が目的だからだ。
「王国騎士団 特任分隊長(白銀位)に任ずる」
言葉が落ちる。
余白は作られない。
「階級は通常分隊長と同格。
特任枠につき、所属・指揮権は個別に指定される」
“特任”。
その二文字が、空気をわずかに揺らす。
「分隊は持たない場合もある。
だが、任務においては分隊長権限を行使できる」
部下、という言葉は出てこない。
上官、という言葉も出てこない。
同格。
その位置に、置かれる。
通達官は一拍置いて、続けた。
「以上だ」
それだけで終わる。
拍手も、言葉もない。
僕は一歩前に出て、短く礼をする。
それ以上はない。
反応を求められていないからだ。
♢
任官通達が終わっても、場の空気は切り替わらない。
終わったという合図が、まだ出ていない。
誰も動かない。
動かないこと自体が、次の段取りを待っているという意思表示になる。
騎士団本部では、待つという行為にも型がある。
視線を泳がせない。
背中を壁に預けない。
足を組まない。
僕はその型を、自然に守っている。
教えられた記憶はない。
戦場で身についたものだ。
戦場では、動かない時間が一番危険だ。
だが、動いてはいけない時間もある。
その境界を間違えないことが、生き延びる条件になる。
ここは安全だ。
安全だからこそ、動かない。
通達官が書類を一枚閉じる。
紙が重なる、乾いた音。
それが、切り替えの合図だった。
周囲の騎士たちが、わずかに呼吸を変える。
肩の力が抜ける者もいれば、逆に力が入る者もいる。
僕は変わらない。
変わらないことが、いちばん目立たない。
目立たないことが、今は正解だ。
♢
視線が、改めてこちらに向けられる。
今度は確認ではない。
測る視線だ。
立ち姿。
視線の位置。
呼吸の速さ。
「特任」という肩書きが、どう扱われるべきか。
その判断が、言葉を使わずに進められていく。
測られることに、抵抗はない。
抵抗すべき段階ではない。
ただ、その視線を受け止める。
♢
周囲の気配が、少し変わる。
露骨ではない。
だが、さっきとは違う。
「伯爵家のコネだろ」
「英雄枠の飾りだ」
声は小さい。
しかし、聞こえる。
聞こえるように言っているからだ。
僕は何も返さない。
受け入れもしないし、否定もしない。
否定すれば、言葉が要る。
受け入れれば、立場が固まる。
どちらも、今は余計だ。
ここでは、すでに流れが走り出している。
それだけで十分だった。
♢
制度というものは、便利だ。
誰かの感情を切り捨てるためではなく、
全員の判断を揃えるために使われる。
任官は、評価ではなく配置だ。
どこに置けば、何が起きるか。
それだけが見られている。
だから、声が出ない。
声が出れば、個人の思惑が混じる。
思惑は、流れを歪める。
僕が特任である理由を、ここで説明する者はいない。
説明が必要な配置は、失敗だからだ。
必要なのは結果だけ。
配置して、どう動くか。
動けば、正しさが示される。
♢
誰かが、わずかに距離を詰める。
詰めすぎない。
話しかけるには近く、
無視するには遠い距離。
その距離で交わされるのは、言葉ではない。
「見る価値があるかどうか」
それだけだ。
僕は視線を返さない。
返せば、その判断に参加することになる。
判断は、される側でいい。
♢
同格、と言われた位置は、居心地が悪い。
上下がないからではない。
上下がないことを、周囲がどう扱うかで、場の輪郭が決まるからだ。
誰も僕に敬礼しない。
しないのが正しいのか、迷っているのが分かる。
迷いが見えるのに、誰も正しさを決めない。
決めれば責任が生まれる。
責任は、ここでは常に余計な音を立てる。
僕は敬礼を求めない。
求める立場でもない。
求めれば、言葉を要する。
言葉を要する時点で、余分だ。
靴音が一つ、近づいて、止まる。
止まったまま、また遠ざかる。
近づいてきたのは、話しかけるためではない。
距離を測り、撤収するためだ。
人は、相手が“扱えるもの”かどうかを、まず距離で判断する。
扱えない距離なら、言葉を置かない。
言葉を置かなければ、失点はない。
僕の周囲には、失点を避けた空白が残る。
それは拒絶ではなく、保留に近い。
保留は、冷たい。
冷たいものは、均一で、長持ちする。
♢
視線の種類が、少しずつ変わっていく。
軽い興味。
わずかな侮り。
そして、確認のし直し。
さっきまでの「特任」という札が、
今は「白銀位」という材質で読み替えられていく。
読み替えは、声では起きない。
姿勢と間合いだけで進む。
僕はその読み替えに、乗らない。
乗らないことで、読み替えの速度だけが勝手に揃っていく。
揃った速度は、秩序になる。
秩序になれば、誰も説明しなくて済む。
この場所が欲しいのは、説明のない秩序だ。
それは人を守るためではなく、場を守るための秩序でもある。
♢
訓練場は、本部の奥にある。
屋外。
広く、遮るものがない。
地面は踏み固められ、武器の痕が残っている。
新しい痕と、古い痕が混ざっている。
古参が多い。
立ち方で分かる。
背筋は伸びているが、力は入りすぎていない。
視線は散らしているが、要所を外さない。
囁きがある。
「模擬戦をやらせてみるか」
「特任だ。断る理由はないだろう」
誰かが、声を張り上げる。
「模擬戦の提案が出ています。受けますか?」
正式な言い方だ。
拒否も選べる形。
「受ける」
短く答える。
断らない。
断る段ではない。
♢
人が集まる速度が、少しだけ早まる。
命令が出たわけではない。
だが、空気がそうさせている。
模擬戦は日常だ。
それでも、人が集まる。
理由は単純だ。
“特任”が、どの程度なのかを見るためだ。
誰も言葉にしない。
言葉にしなくても、同じことを考えている。
対戦相手が前に出る。
歩き方で、経験が分かる。
戦場を知っている歩き方だ。
ただし、生き残り続けた者のそれとは、少し違う。
♢
武器を持つと、視界が狭まる。
狭まることを、僕は歓迎しない。
戦場では、視界が狭い者から死ぬ。
だから、意識的に広く取る。
敵だけを見るな。
空気を見る。
風の流れ。
足元の土の締まり。
周囲の視線の揺れ。
それらが、間合いを教えてくれる。
♢
対戦相手は、分隊長経験者だった。
体格は良い。
動きに無駄がない。
武器を構える。
周囲が静まる。
♢
静まったのは、期待のせいではない。
記録を取る沈黙だ。
誰が、どこで躓くか。
誰が、どの線を越えるか。
それを見逃さないための静けさ。
砂利を踏む音が、ひとつだけ鳴る。
誰かが重心を直した音だ。
古参は、前のめりにならない。
前のめりになれば、負ける側に賭けたように見える。
賭けは、組織に残る。
若い騎士は、息を止める。
止めるのは、強さを見たいからではない。
音を立てたくないからだ。
音を立てれば、自分が“観客”だと露呈する。
観客は、騎士団では弱い立場になる。
だから皆、観客にならない形で見ようとする。
見ようとする努力が、空気を硬くする。
相手は剣先を揺らさない。
揺らさないのは、落ち着いているからではない。
揺らさない型を身につけているからだ。
型は強い。
ただ、型は戦場では折れる。
折れる瞬間を知っている者だけが、表情を変えない。
そして、表情を変えない者ほど、目だけで見ている。
♢
合図。
一歩目で、違いが出る。
速さではない。
力でもない。
呼吸だ。
相手は、吸ってから踏み込む。
僕は、吐きながら入る。
間合いが、半拍ずれる。
剣が触れる前に、位置が変わる。
相手の踏み込みが、空を切る。
「……?」
声にならない疑問。
二歩目。
間合いがさらに崩れる。
剣を打ち合っていない。
打ち合う前に、終わっている。
相手の視界から、僕が消える。
消えたように見えるだけだ。
背後。
肘が、軽く触れる。
「――止め」
監督役の声。
勝負は、成立していない。
だが、結果は明白だ。
相手が動けない。
体勢ではない。呼吸が、合っていない。
沈黙。
♢
沈黙は、理解した者から広がる。
最初に黙ったのは、古参だった。
理由を知っているからだ。
技術で勝ったのではない。
経験でもない。
“場”を制した。
場を制する者は、命令を出さなくても勝つ。
戦場では、それがいちばん危険だ。
だから、誰も口を開かない。
口を開けば、理解していないことが露呈する。
露呈すれば、自分の中の恐れに触れる。
恐れは、騎士団では弱さになる。
弱さは、ここでは置き場所がない。
♢
僕は一歩下がり、礼をする。
それだけだ。
勝った実感も、負けさせた感覚もない。
一つの工程が、静かに終わっただけだ。
視線が変わる。
今度は、完全に。
誰も何も言わない。
言えない。
黙るしかない。
♢
沈黙は、勝者への敬意ではない。
敗者への遠慮でもない。
処理のための沈黙だ。
誰かが口を開けば、理由が必要になる。
理由が出れば、反論が生まれる。
反論が生まれれば、模擬戦は“案件”になる。
案件になれば、報告が要る。
報告が要れば、書類が増える。
増えた書類は、誰かの机に乗る。
机に乗った瞬間、個人が責任を持つ。
責任を持てば、次の判断も押しつけられる。
誰もそれを欲しがらない。
だから、沈黙がいちばん安い。
安い沈黙は、全員が買える。
買えるものは、広く使われる。
広く使われた沈黙の中で、勝敗だけが残る。
説明は残らない。
説明が残らないから、次に繰り越せる。
騎士団は、繰り越せる形を好む。
今日の勝ち負けが、明日の配置に直結する。
直結するからこそ、余計なものを挟まない。
僕は礼をする。
礼は、言葉の代わりになる。
礼をした瞬間、周囲が息を戻す。
息を戻せば、日常が続く。
続く日常の中で、さっきの沈黙だけが、少し遅れて意味を帯びる。
意味を帯びても、誰も口にはしない。
口にしないものが、いちばん長く残る。
♢
勝者の礼ではない。
区切りの礼だ。
それ以上の意味を持たせない。
意味を持たせた瞬間、物語になる。
物語は、後で歪む。
ここでは、歪ませない。
♢
黙ったままの時間が、少しだけ長い。
誰かが言葉を探している。
だが、見つからない。
見つからない理由は単純だ。
言うべきことが、何もない。
評価は終わった。
証明も終わった。
残っているのは、配置だけだ。
そして配置は、いつも、言葉より先に決まっていく。
♢
廊下に出る。
音が戻る。
騎士団の日常だ。
向こうから、人が来る。
金髪。
同じ分隊長章。
シャルロットだった。
目が合う。
何も言わない。
けれど、立場は一目で分かる。
並列。
上下はない。
彼女の表情に、わずかな揺れがある。
誇らしさ。
そして、不安。
置いていかれるかもしれない、という感情。
僕は何も言わない。
彼女も、何も言わない。
それでいい。
任官は、終わった。
証明も、終わった。
次の工程が、始まる。
始まる、というより――すでに始まっている。
ここで描きたかったのは、称賛でも反発でもなく、配置が人を孤立させる瞬間です。
同格であることは、近づけるという意味ではなく、扱い方を誰も決めないという冷たさになる。
そして模擬戦は、勝つための見せ場ではなく、沈黙に変わるための確認として置きました。
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