60. 白銀騎士勲章
式典の朝は、静かだった。
静かというより、余分な音が最初から排除されている。
王城の奥、儀礼区画へ向かう回廊には、足音が響かない。
敷かれた布が音を飲み込み、壁が反響を拒む。
光も同じだ。
高窓から落ちる朝の光は、角度まで計算されている。
眩しすぎず、陰りすぎず、誰の顔も際立たせない。
僕は、その中を歩く。
歩幅は指定どおり。
立ち止まる場所も、決められている。
視線を向ける先まで、自然に誘導される。
ここでは、人は“動く部品”になる。
それが嫌だとは思わない。
思わないようにしている、でもない。
ただ、そういう場所だと理解している。
♢
式典の直前には、待つ時間がある。
待つといっても、自由に動けるわけではない。
決められた位置に立ち、決められた方向を見る。
手を組む角度まで、自然と定まる。
周囲には、同じように待つ者がいる。
だが、視線は交わらない。
交わる必要がない。
ここで交わされるのは、言葉ではなく、確認だ。
――予定どおりか。
――問題はないか。
それだけが、空気の中を行き来している。
僕は壁の装飾を見る。
装飾は、意味を主張しない。
均等で、繰り返しがあり、個性がない。
個性がないということは、誰の視線も引き留めないということだ。
そういうものに囲まれていると、
自分もまた、同じ性質のものになった気がする。
ここでは、名前よりも位置が優先される。
位置が正しければ、存在は正しい。
それ以上は求められない。
求められないことは、楽だ。
楽であるはずなのに、胸の奥で、わずかに息が詰まる。
詰まる理由を探さない。
探せば、余計な輪郭が生まれる。
輪郭は、ここでは邪魔だ。
♢
玉座の間は、思っていたよりも広かった。
広さは威圧ではなく、距離を生むために使われている。
王と受勲者。
貴族と騎士。
列席者と観覧者。
すべてが、近づきすぎないように配置されている。
♢
広い、というより、余白が多い。
余白は贅沢ではなく、手順のために確保されている。
誰がどこで頭を下げ、どこで止まり、どこで言葉が区切られるか。
その線を乱さないための距離。
列席者の衣装は、色が揃っていない。
揃っていないのに、目立つものがない。
目立たないように選ばれている。
装飾は豪奢だが、豪奢さで人を奪わない。
目が奪われると、工程が遅れる。
工程が遅れると、誰かが言葉を発しなければならない。
言葉は余分だ。
僕の前方に立つ者の背中が見える。
肩の線が硬い。
硬さは緊張ではなく、姿勢の規定だ。
規定があるから、個人の緊張は見えなくなる。
視線が上から落ちてくる。
貴族の視線。
騎士団の視線。
王の側にいる者の視線。
どれも同じ角度で、同じ温度だ。
同じ温度ということは、個人ではない。
個人でない視線は、攻撃ではない。
けれど、受け止める場所もない。
受け止める場所がない視線は、通り過ぎるだけだ。
通り過ぎるのに、身体は勝手に反応する。
喉の奥が少しだけ乾く。
呼吸が浅くなる。
浅くなったことを、意識しない。
意識すれば、それは“自分の反応”になる。
自分の反応は、式の中では邪魔だ。
♢
布の擦れる音がする。
衣装が動く音。
鎧の留め具が、わずかに鳴る音。
人が多いのに、声はない。
布の擦れる音は、近くで聞くと薄い。
薄い音が重なって、波のように聞こえる。
人が多いのに、声がない理由が分かる。
声は、個人を持ち込む。
個人は、工程を乱す。
ここでは、声の代わりに布が動く。
衣装が動き、鎧が鳴り、靴が揃って止まる。
人間が人間であることを消して、儀礼だけが残る。
僕はその中にいる。
それだけで、十分だ。
♢
王がいる。
貴族がいる。
騎士団上層が並んでいる。
誰も、こちらを“見る”というより、確認している。
規定どおりの人物か。
間違いなく、この工程に配置される存在か。
それだけだ。
名前が呼ばれる。
僕の名だ。
音としては、はっきりしている。
だが、感情は含まれていない。
名を呼ぶ行為が、称賛ではなく、手順だからだ。
戦功が読み上げられる。
♢
読み上げられる言葉は、すべて正しい。
地名も、日付も、結果も。
記録として、何ひとつ間違っていない。
だからこそ、違和感が際立つ。
そこには、判断の重さがない。
迷った時間がない。
選ばなかった可能性も、切り捨てた選択も、含まれていない。
戦功とは、結果の集合体だ。
過程は、式典には不要とされる。
不要だと切り捨てられた部分に、
僕が生き延びた理由があった。
名前を呼ばれた瞬間、
視線が一斉にこちらへ向く。
だが、その視線に、温度はない。
誰も僕を知らない。
知ろうとしていない。
彼らが見ているのは、
「白銀騎士勲章を授与されるに足る存在」かどうかだけだ。
それが確認できれば、十分だ。
僕は瞬きを一度だけする。
回数も、間も、意識していない。
意識すると、ここに“個人”が立っていることになる。
個人は、式の流れを乱す。
乱さないことが、求められている。
だから、ただ立つ。
♢
「――以上の功績をもって」
言葉が区切られる。
区切りは、余白を作らない。
「白銀騎士勲章を授与する」
一歩、前に出る。
決められた位置。
決められた角度。
跪く。
その動作すら、個人の意志ではない。
♢
跪いた瞬間、床の冷たさが膝を通って伝わる。
布越しの冷たさだ。
直接ではないのに、冷たい。
冷たいものは、長く触れていると感覚が薄くなる。
薄くなる前に、手順は次へ進む。
前方で、誰かが一歩動く気配がする。
足音はしない。
足音がしない動きは、訓練の結果だ。
沈黙が、いっそう濃くなる。
濃くなった沈黙の中で、僕の呼吸だけが余計に目立ちそうで、
息を止めるわけにもいかず、
止めない程度に浅くする。
浅い呼吸は、落ち着いて見える。
落ち着いて見えることが正解だ。
正解であることに、意味はない。
ただ、そう決まっている。
胸元に視線が集まっているのが分かる。
そこに勲章が置かれる。
置かれれば、この工程が完了する。
完了のために必要なのは、感想ではない。
感想は余計だ。
余計なものはここには置かれない。
僕の名前が、僕から離れていく感覚がある。
名前は僕のものなのに、ここでは手順の一部になる。
それは悪いことではない。
悪いとも、良いとも、考えない。
考えないことで、工程は滑らかになる。
♢
何かが近づく気配がする。
その気配は、重い。
重いのに、音がない。
音がない重さが、儀礼の中心だ。
次の瞬間、胸元に触れる前の“間”が来る。
その間だけが、やけに長い。
長いのは錯覚だ。
工程は正確で、間も測られている。
測られているはずの間が長く感じるのは、
僕がそこに余計なものを入れようとしているからだ。
入れない。
入れないと決める。
決めた瞬間、間が短くなる。
世界は、そういうふうに出来ている。
♢
勲章が視界に入る。
銀色。
磨かれすぎていない。
光を反射しすぎない。
飾りではない、という意思表示だ。
白銀騎士勲章。
英雄の証ではなく、
“戦力として機能した”という印だ。
胸元に触れる感触がある。
軽い。
思ったより、ずっと軽い。
拍手が起こる。
♢
拍手は、音としては大きい。
だが、耳に届く前に、意味が削ぎ落とされている。
喜びの拍手ではない。
祝福の拍手でもない。
工程が正しく完了したことを示す、合図だ。
音が揃っている。
長さも、強さも、ほぼ同じだ。
誰か一人が強く叩くこともない。
誰か一人が遅れることもない。
揃っているという事実が、
拍手を“個人の行為”から切り離している。
胸元の勲章が、わずかに揺れる。
揺れはすぐに収まる。
軽い。
あまりに軽いので、
落としたとしても、気づかないかもしれないと思った。
その考えが浮かび、
すぐに消える。
落とす、という発想自体が、
ここでは許されない。
許されないことを考えたことだけが、
自分の中に、微かに残る。
♢
拍手が終わる。
終わり方も、揃っている。
次の工程へ。
祝福の言葉はない。
握手もない。
立ち止まる余地もない。
♢
拍手が終わると、空気が切り替わる。
切り替わりは音ではなく、配置で分かる。
列席者の視線が、次の対象へ移る。
僕への確認が終わった、という合図だ。
終わったものは、残らない。
残らないようにするのが儀礼だ。
僕は立つ。
立ち上がる速度も、決められている気がした。
決められていないのに、決められているように動く。
動けば、余計な間が生まれない。
間が生まれなければ、誰も声を出さずに済む。
声を出さずに済むことが、この場所の正しさだ。
♢
群衆の気配が遠くで揺れる。
揺れるのに、近づいてこない。
近づかないように、最初から線が引かれている。
線は目に見えない。
見えない線に、人は従う。
従うのは恐れではない。
手順に慣れているからだ。
手順に慣れている都市は強い。
強い都市の中で、英雄は一人になる。
それは悲劇ではない。
ただの配置だ。
配置である以上、抗う場所がない。
抗う場所がないなら、抗う理由もない。
その理屈が正しいことだけが、静かに残る。
♢
導線が、僕を横へ流す。
♢
歩き出すと、もう振り返れない。
振り返る導線が、最初から存在しない。
存在しないものは、選べない。
群衆の気配は、確かに背後にある。
だが、距離が保たれている。
保たれている距離は、安全だ。
安全であるがゆえに、誰も踏み込めない。
英雄は、近づきすぎると扱いに困る。
だから、こうして流される。
流されることに、抵抗はない。
抵抗する理由がない。
ただ、足音だけが、やけにはっきり残る。
さっきまで、布が音を消していた。
今は、床が音を返す。
返ってくる音は、僕のものだ。
誰の拍手とも混ざらない。
誰の声にも溶けない。
それが、式が終わった証拠だった。
♢
控室へ向かう回廊は、さらに静かだった。
先ほどよりも、人の気配が薄い。
英雄は、式の外では用済みになる。
その事実が、奇妙に納得できた。
♢
控室の前で、足が止まる。
止まるよう指示されたわけではない。
自然に、止まった。
控室の前は、空気が違った。
式典の空気でもなく、
控室の空気でもない。
工程と工程の、隙間だ。
ここでは、誰も役割を持たない。
役割を持たない時間は、短い。
短いからこそ、気づいてしまう。
胸元の重さ。
足の裏の感触。
呼吸の浅さ。
どれも、式の最中には意識しなかったものだ。
終わったのだ、と身体が先に理解している。
理解したあとで、
何をすればいいのかは、まだ来ない。
その“何もない時間”に、
足音が一つ、混じった。
♢
背後から、人の気配が一つ近づく。
足音が違う。
布の音が、わずかに柔らかい。
「……おめでとう」
シャルロットだった。
短い言葉。
式典用ではない。
祝辞でもない。
ただの、一言。
その一言が、ここまででいちばん余計だった。
余計で、だからこそ、はっきり届いた。
僕は振り返らない。
振り返れば、何かを求められる気がした。
「……ありがとう」
返す言葉も、短い。
それ以上は、出てこなかった。
けれど、その二語だけは、工程ではない。
誰に言わされたわけでもなく、
言う必要もなかった言葉だ。
沈黙が落ちる。
式典の沈黙とは違う。
揃っていない沈黙。
彼女は、何も続けない。
何も足さない。
それが、ありがたかった。
扉が開く。
次の工程が始まる。
僕は前を向き、歩き出す。
彼女は、並ばない。
だが、離れもしない。
白銀騎士勲章は、胸にある。
軽いままだ。
けれど、その軽さを、
誰かが“おめでとう”という言葉で、一度だけ触れた。
それだけで、今日は十分だった。
叙勲は祝福ではなく、工程でした。
拍手も称号も、誰の体温も運ばないまま、ただ正しく終わる。
その冷たさの中で、唯一届いたのが「おめでとう」と「ありがとう」でした。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
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