59. 用意された部屋
王都で用意された宿は、宿というより屋敷に近かった。
門をくぐると、敷地が一段下がり、石畳が敷かれている。
建物は三階建て。外壁は淡い色で整えられ、装飾は控えめだが、安くはない。
控えめであること自体が、価値を示している。
玄関前には人がいた。
二人。
年齢も立場も違うが、動きは揃っている。
使用人だ。
僕が足を止める前に、扉が開く。
開く速度も、音も、ちょうどいい。
ここでは、すべてが“ちょうどよく”整えられている。
「アルヴェイン辺境伯家の御方ですね」
確認の声。
名は聞かれない。
名を聞く工程は、すでに終わっている。
「部屋はすでに整えております。お荷物を――」
「要らない」
言葉は短く出た。
遮るつもりはなかったが、遮る形になった。
使用人の一人が、わずかに瞬きをする。
戸惑いというより、想定外だ。
「……お一人で、よろしいでしょうか」
確認。
確認は手順だ。
手順なら、答えは決まっている。
「一人でいい」
理由は言わない。
理由は求められていない。
ここで理由を言えば、調整が始まる。
調整は、余計だ。
使用人は一拍だけ間を取り、それから頷いた。
頷き方が訓練されている。
拒否されることに慣れていないが、拒否を受け取る手順は知っている。
「承知しました。必要な際は、鐘を」
鐘の位置を示される。
示されるだけだ。
使う前提ではない。
廊下は静かだった。
足音が響かない。
響かないように作られている。
部屋は広い。
寝台があり、机があり、椅子があり、窓がある。
余計な物はない。
不足もない。
ここは、住むための場所ではない。
滞在するために処理された空間だ。
♢
扉が閉まる。
音は小さい。
確実に閉まったことだけが分かる。
それで、この部屋にある音はほとんどなくなった。
外の街の音も、ここまでは届かない。
人の気配もない。
床も、壁も、空気も、動かない。
広い。
広さは、安心を生むこともあるが、今はそうならない。
広いという事実だけが、そこにある。
♢
扉が閉まった瞬間、部屋の輪郭が少しだけ濃くなった。
外と切り分けられた、というより、外が遠のいた。
遠のくと、耳が余計なものまで拾い始める。
木がわずかに軋む音。
布が落ち着く音。
どこかの部屋で水が動いた気配。
それでも、音は少ない。
少ない音は、空白を目立たせる。
目立つ空白は、勝手に形を作る。
僕は鞄を床に置かない。
机の上にも置かない。
椅子の背にも掛けない。
壁際に立てかける。
倒れない角度を選ぶ。
それは警戒でも慎重でもなく、癖だ。
手順にしておけば、考えなくて済む。
考えなくて済むことが、今は大事だった。
外套の留め具に指が触れる。
外すこともできる。
外さないこともできる。
僕は外さない方を選ぶ。
選ぶというほどの意思はない。
ただ、外す動作が余計に感じられた。
外すと、部屋が「ここで休め」と言ってくる。
休め、と言われると、休めなかったときの理由が必要になる。
理由は増やしたくない。
寝台までの距離は短い。
短いのに、歩くと足音がはっきり残る。
床が新しいわけではない。
響かせる作り方をしている。
屋敷の床は、音を飲み込んだ。
ここは違う。
歩けば、歩いたことが残る。
残ることが、少しだけ嫌だった。
嫌だ、と言葉にするほどではない。
ただ、身体がわずかに速度を落とす。
速度を落とした自覚はない。
落としたと認めると、そこに理由が生まれるからだ。
寝台の側で立ち止まる。
立ち止まってしまったことに、少し遅れて気づく。
いつもなら、止まらずに腰を下ろしていた。
止まったのは、寝台が整いすぎているからだ。
整いすぎた寝台は、受け入れる準備ができている。
受け入れられる側になったことがないわけではない。
けれど、受け入れられることに慣れるつもりもなかった。
僕は息を吸う。
吐く。
深くしない。
深くすると、胸の中に余計なものが入る。
僕は腰を下ろし、手を膝の上に置く。
指先が、何かを探すように動く。
何を探しているのか分からない。
分からないものは、触れないほうがいい。
だから、指先の動きを止める。
止めたあとで、掌が少し冷えていることに気づく。
冷えているのは部屋のせいではない。
部屋は快適な温度だ。
掌だけが冷えている。
それを確認した瞬間、胸の奥がわずかに沈む。
沈んだことを、僕は追わない。
追えば、沈んだ理由を掘ることになる。
掘れば、答えが出る。
答えは、今は要らない。
♢
僕は外套を脱がない。
脱ぐ必要がない。
寝台に腰掛ける。
沈み込みは均一だ。
柔らかすぎず、硬すぎない。
――整いすぎている。
整いすぎた寝台は、人の体温を想定していない。
誰かが横にいた前提がない。
比較が浮かぶ。
それが何と比べているのか、考えない。
考えれば、名前が出る。
名前が出れば、過去が形になる。
今は、形にしない。
僕は横になる。
眠れるかどうか、確かめない。
確かめるという行為は、期待を含む。
期待は、裏切られたときに形を持つ。
だから、横になるだけだ。
♢
寝台に背を預けると、布がわずかに沈んだ。
沈み方が均一で、抵抗がない。
抵抗がないと、身体が重さを探す。
肩。
背中。
腰。
重さが分散していく。
分散していくのに、どこか一箇所だけ落ち着かない。
落ち着かない場所が、胸の内側にある。
そこは触れない方がいいと、分かっている。
分かっているのに、意識がそこへ戻ってくる。
夜は、そういう時間だ。
仕事も、移動も、用事もない。
手順が切れると、空白が前に出る。
空白は、埋めようとしなければ埋まらない。
埋めないと決めればいい。
僕はそうしてきた。
けれど、埋めないと決める行為自体が、埋めたがっている証拠になることがある。
布団の端が指に触れる。
柔らかい。
柔らかいものは、記憶を連れてくる。
温度。
重さ。
近さ。
名前は出ない。
言葉にならない。
ただ、身体が一瞬だけ「知っている」と反応する。
その反応が、少し遅れて濁りに変わる。
濁りがあると、息が浅くなる。
僕は息を整えようとしない。
整えようとすると、整わない理由を意識してしまう。
だから、浅いままにする。
浅い呼吸のまま、ただ横たわる。
ここは、誰にも見られていない。
誰にも見られていないのに、身体だけが勝手に姿勢を正そうとする。
誰かの視線がなくても、視線の癖が残っている。
それが、屋敷で覚えた生き方だった。
僕は片手を腹の上に置く。
置いたことで、手が空かなくなる。
空かなくなれば、余計なことをしない。
余計なことをしない。
それだけで、夜はやり過ごせる。
♢
天井を見る。
天井は高い。
高い天井は、屋敷に似ている。
似ているが、同じではない。
屋敷には、常に誰かの気配があった。
ここにはない。
その違いだけが、身体に残る。
目を閉じる。
開けても、閉じても、変わらない。
眠ったかどうかは、分からない。
時間が過ぎたことだけは、分かる。
♢
翌朝、王城への召集が来た。
宿を出るときも、工程は滑らかだった。
声をかけられ、道を示され、馬車に乗る。
感想を求められない。
それが、ここでの正解だ。
王城は近い。
近いが、遠い。
城壁の内側にあるのに、別の都市のように切り分けられている。
導線がある。
ここを通れ、という線ではない。
通るしかない線だ。
控室は白い。
装飾はない。
椅子が並び、衣装が掛けられている。
「叙勲式の衣装規定は、こちらになります」
担当官が言う。
名は名乗らない。
名乗る必要がない。
「立ち位置はこちら。動線は、この順で。発言は求められません」
発言は求められない。
それでいい。
叙勲は、個人の感情を入れる場所ではない。
功績は数えられ、称号に変換される。
変換されたものだけが、残る。
説明は短く、正確だ。
質問の余地はない。
質問が不要なほど、整えられている。
♢
担当官の声が止まると、控室の空気が少し乾いた。
説明が終わった、というより、
“済ませた”という感触が残る。
済ませる。
処理する。
工程として完了する。
そういう言葉は、屋敷にも王城にも似合う。
ただ、王城の処理は、感情を排除するためではなく、
儀礼を崩さないためのものだ。
崩さないために、個人は薄くなる。
薄くなった個人の中に、
僕の輪郭も含まれている。
輪郭が薄いのは楽だ。
薄ければ、求められる形がない。
形がなければ、期待もない。
期待がなければ、裏切ることもない。
僕はそういう場所を選ぶ。
選んできた。
選んだつもりはなくても、結果として。
机の上に置かれた衣装の布を見る。
触れない。
触れれば、布の質で価値が分かる。
価値が分かれば、受け取る側の姿勢が問われる。
問われれば、また理由が必要になる。
理由は、ここでも要らない。
僕は椅子の背に視線を落とす。
座ってもいい。
座らなくてもいい。
座らない方を選ぶ。
立っていると、身体が勝手に整う。
整えば、余計なことを考えない。
余計なことを考えないために、
僕はこうして立っている。
そう自分に言い聞かせる必要はない。
言い聞かせた時点で、余計なことを考えている。
だから、ただ立つ。
扉の外で、靴音が遠く動く。
近づく靴音と、遠ざかる靴音。
その中に混じる、少しだけ軽い音がある。
覚えのある音だ。
その音が、控室の空白に刺さって、
刺さったまま抜けない。
♢
控室の扉が、再び開く。
今度は、足音が違った。
知っている音だ。
「……また、会えたね」
シャルロットがいた。
騎士団の制服。
鎧は着けていない。
昨日と同じだが、ここでは意味が違う。
王城の中で、彼女は役割を持たない立場で立っている。
それでも姿勢だけで、場の輪郭が変わる。
「……ああ」
それだけ返す。
それだけで、十分だと分かっている。
彼女は、それ以上踏み込まない。
近づきすぎず、離れすぎず、同じ空間にいる。
理由は言わない。
前日だから、という説明もしない。
ただ、同席している。
担当官が出ていく。
扉が閉まる。
控室には、二人だけが残る。
沈黙は重くない。
昨日より、少し軽い。
♢
軽いのは、沈黙そのものではない。
沈黙に、逃げ道があるからだ。
昨日の沈黙は、部屋が作っていた。
壁と床と距離が、沈黙を固定していた。
ここは違う。
沈黙の形が、彼女の呼吸で少しずつ変わる。
変わるということは、固定されていないということだ。
固定されていないなら、息が詰まりにくい。
僕は彼女の方を見ない。
見なくても分かる距離にいる。
視線を合わせれば、意味が生まれる。
意味が生まれれば、言葉が要る。
言葉が要るのは、今は避けたい。
避けたいのに、
彼女がここにいること自体は、拒まない。
拒まない、という事実が、
自分の中で小さく音を立てる。
音を立てたことを、僕は無視する。
無視すれば、音は消える。
消えるはずなのに、消えない。
消えないのは、
無視していることを、どこかで自覚しているからだ。
♢
彼女は椅子に座らない。
立ったまま、壁際にいる。
僕も座らない。
「緊張は……しない?」
聞き方が、柔らかい。
答えを期待していない聞き方だ。
「しない」
短く答える。
嘘ではない。
彼女は頷く。
理解した、というより、受け取ったという頷きだ。
「そっか」
それだけ言って、黙る。
沈黙が続く。
だが、この沈黙は、宿の沈黙とは違う。
誰かが、同じ空間で呼吸している。
それだけで、空気の密度が変わる。
安心、と言うほどのものではない。
ただ、空白ではない。
空白ではないだけで、呼吸が少しだけ深くなる。
深くなったことに気づくと、すぐ浅く戻したくなる。
戻さないままにしておく。
それが、僕の中での小さな変化だった。
♢
退出の時間が近づく。
扉の前で、シャルロットが一歩先に立つ。
立ち位置を確認する動きだ。
そのとき、彼女の指が、僕の袖に触れかける。
触れない。
ほんの数センチ。
けれど、その距離が、意図的だと分かる。
触れれば、意味が生まれる。
触れなければ、何も生まれない。
彼女は、触れないことを選んだ。
「……明日」
言いかけて、止める。
言葉を置けば、約束になる。
約束は、負担になる。
彼女は何も言わず、扉を開ける。
廊下に出る。
人の気配が戻る。
工程が再開する。
王城は、今日も正確だ。
僕は歩き出す。
彼女も歩き出す。
並んでいるが、揃えてはいない。
それが、今の距離だ。
明日は、叙勲式だ。
それは、勝手にやってくる。
僕はそれを待たない。
待たないまま、進む。
王城の床は硬い。
足音が、はっきり残る。
残る音は、嫌ではない。
嫌だと感じないこと自体が、少しだけ不思議だった。
それでいい。
王都編、ここから本格的に動き出します。
この回は出来事よりも「整えられた場所」と「埋まらない空白」を優先しました。
次は、その空白が少しずつ形を持ち始めます。
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