58. すごいね、のあと
城門の内側は、外より音が多い。
石畳の上を車輪が擦る音がある。
鉄の輪が石を叩き、一定の間隔で跳ねる。
荷車を引く獣の蹄が、そこに別のリズムを重ねる。
人の声は、遠くで混ざり、近くでほどける。
呼び込み、
交渉、
笑い、
叱る声。
どれも長くは続かず、次の音に押し流される。
僕は歩く。歩幅は変えない。
隣で、シャルロットが同じ速度を保っている。
彼女は僕より半歩前に出ない。
遅れもしない。人が割り込むときだけ、自然に肩の角度を変えて導線を作る。
ぶつからないように、でも守っているようにも見えないように。
「ここは、朝と昼で顔が変わります」
彼女が言う。
声は大きくない。
騎士団の敬礼の硬さが抜けた分、生活の音に溶ける。
「朝は荷が多い。昼は人が多い。——夕方は、戻る人が増えます」
観光の言葉ではない。
工程の区分けだ。
僕は頷く。
頷くことで、話は進む。
噴水が見える。
広場の中心にあり、石の器に水が落ちている。
水は冷たそうに見えるが、触れなくても分かる温度はある。
落ちる音は一定で、周囲の喧騒と混ざっても消えない。
水は、都市の中心に置かれている理由を説明しない。
ただ、ある。
噴水の縁に子どもが腰掛け、手を伸ばし、すぐに引っ込める。
母親らしき女が短く叱り、子どもは笑う。
笑いは長く続かず、また別の音に吸い込まれる。
衛兵がいる。
制服は揃っているが、皆同じ顔ではない。
鎧の擦れ具合も、靴の汚れも、肩の力の入り方も違う。
違うのに、立ち位置だけが同じだ。都市の“整い方”は、個人を消さずに動きを揃える。
シャルロットは、その衛兵に軽く目配せをした。
敬礼はしない。
ここでは必要ない、という判断だ。
彼女が騎士であることは、この街では珍しくない。
珍しくないことが、都市の強さになる。
「騎士団本部は、あちらです」
彼女が視線で示した先に、石造りの建物がある。
装飾は少ない。
窓が多く、出入り口が複数ある。
人の出入りが途切れず、門の前には掲示板があり、紙が貼られている。
紙は風で捲れないように角が留められている。
「訓練場は裏側。魔法師団の方は、もう少し内側の区画に」
彼女は言いながら、僕の反応を確認しない。
確認すると、会話が“説明”になる。
彼女は説明をしにきていない。
同行を成立させるために必要な情報だけを、置いていく。
「王城は、あの区画です。高い塔が見えるでしょう」
遠くに、塔が見える。
空に刺さるような輪郭。
城壁とは別の圧がある。
城壁は囲うための線だが、王城は、中心であることを隠さない。
「叙勲式の導線は……」
彼女は一拍だけ間を取って、続ける。
「式そのものは、城内の儀礼区画。外から見えるのは、行列の入り口くらいです。——あそこ」
彼女の指先が、遠景の一角を示す。
門があり、道がある。
道の左右は整えられている。
整えられているから、そこを通る人間も整えられる。
僕は見ただけで、それ以上考えない。
考えれば、理由が増える。
石畳の継ぎ目に目を落とす。
摩耗している部分と、そうでない部分。
踏まれてきた線がある。
都市は、人間の足で削られて輪郭を作る。
削られた輪郭は、誰のものでもない。
♢
踏まれ続けた場所には、迷いがない。
足は、何度も同じ選択を重ねることで、選ばなくても進める線を作る。
それは、意思ではなく習慣だ。
誰かが「ここを通れ」と命じたわけではない。
けれど、気づけば皆がそこを通る。
理由を考える前に、身体が理解している。
僕は、そういう線の上を歩いてきた。
屋敷の中にも、同じものがあった。
床のきしみが少ない場所。
扉を開ける音が小さく済む角度。
視線を受けにくい立ち位置。
誰かに教えられたわけではない。
生きるために、自然と身についた。
王都の石畳は、それを隠さない。
踏まれた分だけ、削れている。
削れた分だけ、歩きやすい。
都市は正直だ。
残ったものだけが、使われ続ける。
僕は一瞬だけ、自分の靴底を見る。
減り方は均一ではない。
右と左で、わずかに違う。
癖だ。
矯正しようと思ったことはない。
戦場では、癖を消すより、癖を理解した方が生き残れる。
この街は、そういう人間の癖を受け入れるだけの広さがある。
それが、王都なのだろう。
♢
シャルロットが、また僕を見る気配がする。
視線は音がない。
けれど、近い距離で何度も戻ってくる視線は、空気の密度を少し変える。
僕は気づいても、言わない。
言えば、理由が必要になる。
「エルディオ様は……王都は、初めて“歩く”んですよね」
彼女が言う。
「歩く」を強調しないまま、そこだけを選ぶ。
前に来たことがある、という事実を否定しない言い方だ。
「……そうだ」
「よかった」
彼女は小さく笑う。
よかった、という言葉は本来、相手の状態を喜ぶ言葉だ。
けれど彼女のそれは、どこか自分を落ち着かせるための音に近い。
自分に言い聞かせるような。
僕は歩く。
シャルロットも歩く。
人の流れを避け、必要なときだけ速度を調整する。
慣れている者の歩き方だ。
彼女は王都に馴染んでいる。
馴染んでいる、ということが、僕の中で羨ましさにならない。
羨ましさという感情は、目的を持った人間にしか発生しない。
今の僕には、目的はある。叙勲式に出る。
それだけだ。
それ以上の欲がない。
道を曲がると、街の匂いが変わる。
焼き菓子の甘さ。
肉の脂。
香辛料。
汗。
革。
金属。
香りは説明をしないが、生活の工程を見せる。
人はここで食べ、働き、暮らす。
「ここからは、少し上ります」
シャルロットが言う。
高台へ向かう道は、広場の賑わいから少し外れる。
石段が続き、段差の高さが一定になる。
一定であることが、登る者の呼吸を揃える。
街は、こういうところでも人間を整える。
登りきるころ、風が変わる。
都市の匂いが薄まり、空気が乾く。
視界が開ける。
城壁の内側が、一枚の地図のように広がっている。
♢
高い場所に立つと、距離が生まれる。
距離は、感情を薄める。
近くで聞けば、怒鳴り声も泣き声も、等しく重たい。
遠くから見れば、それらはただの点になる。
点になれば、意味は消える。
意味が消えれば、判断は要らない。
僕は、こういう場所を選んでしまう。
選んでいるという自覚はない。
気づけば、いつも視界の開けた位置に立っている。
戦場でもそうだった。
全体が見える場所。
音が整理される場所。
血の匂いが、少しだけ薄くなる場所。
ここは戦場ではない。
けれど、似ている。
人の流れが見える。
滞る場所と、流れる場所。
溜まるところには理由があり、流れるところには理由がない。
理由のない流れは、止められない。
城の影が、街に落ちている。
影は、誰かを守っているようにも、押さえつけているようにも見える。
どちらかを選ぶ必要はない。
影は影として、そこにあるだけだ。
♢
王城の塔が見える。
屋根が連なる。
煙突から薄い煙が上がる。
人の道が線になり、荷車が点になる。
さっきまでの音は遠くなり、代わりに風の音が耳の奥に残る。
シャルロットが立ち止まる。
僕も止まる。止まったことで、沈黙が成立する。
彼女は手すりに触れない。
触れれば、気持ちが出るからだろうか。
出す気持ちがあることを、彼女は自覚しているのかもしれない。
風が髪を揺らす。
金色の波が、夕方に向かう光で薄く透ける。
彼女は横顔のまま街を見ている。
けれど視線は、街と僕のあいだを何度も往復している。
僕は、空を見る。
空は広い。
広さは、理由を要求する。
だから長く見ない。
「……ここ、好きなんです」
彼女が言う。
好き、という言葉は私的だ。
私的な言葉を、彼女は短く置く。
長く引きずらないように。
「見下ろすと、全部が“動いてる”って分かるから」
動いている。
そうだ。
街は動いている。
止まらない。
誰かが止めようとしても、全体としては止まらない。
屋敷と似ている。
違うのは、屋敷は沈黙で動くが、街は音で動く。
僕は返事をしない。
返事をしないことが、拒否にならない空気が、ここにはある。
シャルロットがそれを作っている。
彼女が、少しだけこちらを向く。
視線が正面から来る。
さっきまでの横顔の距離感とは違う。
「叙勲なんて……すごいね」
その言葉は、軽い祝福の形をしている。
祝福は重くすると相手を縛る。
軽く言えば、相手に逃げ道を渡せる。
彼女は逃げ道を渡すつもりで言ったのだと思う。
けれど、その軽さの底に、別の重さがある。
“すごい”という言葉に、期待が混ざっている。
すごい人であってほしい。
すごい人として、こちらを見てほしい。
救われた側の自然な欲だ。
欲は、悪ではない。
ただ、持ち方によっては刃になる。
♢
称賛は、刃になりうる。
褒められるという行為は、
「あなたは、そうあるべきだ」と輪郭を与えることに近い。
一度輪郭を与えられれば、
次からは、その形から外れるたびに説明が必要になる。
説明は、疲れる。
疲れは、判断を鈍らせる。
戦場で、判断が鈍ることは致命的だ。
だから僕は、称賛を避ける。
避けるというより、受け取らない。
誰かが言葉を投げる前に、
言葉が届かない位置に立つ。
それは冷たさではない。
防護だ。
彼女の言葉が軽かったのは、分かっている。
縛るつもりがなかったのも、分かっている。
それでも、言葉は言葉として残る。
残った言葉は、時間が経つほど重くなる。
だから、今は沈黙を選ぶ。
沈黙は、何も要求しない。
何も約束しない。
その代わり、何も与えない。
それが、今の僕にできる最大の誠実だった。
♢
僕は返答を用意しない。
用意した瞬間に、言葉は目的を持ってしまう。
準備しようとしても、言葉が見つからない。
すごい、という言葉の意味を、僕は受け取れない。
受け取れば、そこに価値が生まれる。
価値が生まれれば、責任が生まれる。
責任が生まれれば、僕はまた何かを選ばなければならなくなる。
今は、選びたくない。
沈黙が落ちる。
落ちた沈黙は、風に攫われない。
風は音を運ぶが、沈黙は運ばない。
シャルロットは、沈黙を怖がらない顔をしている。
怖がらないのではなく、怖がることを表に出さない。
そういう訓練の痕がある。
騎士団の訓練なのか、伯爵家の訓練なのか。
たぶん両方だ。
「……あの時も」
彼女が言う。
言い出した瞬間に、踏み込む音がする。
踏み込むときの言葉の速度は変わる。
軽い祝福の速度ではない。
少しだけ遅く、確かめるような。
「あなたは、あの時もそうだった」
そうだった、という言葉の後ろに、彼女は何かを置こうとしている。
「自分のこと、何も……」
言い切らず、彼女は笑う。
笑いは明るい。
明るいほど、内側の不安が透ける。
明るさは、暗さを隠す布になる。
布が薄いと、暗さは余計に濃く見える。
「……ごめんなさい。変なこと言った」
変、という言葉で自分の踏み込みを軽くする。
軽くして、相手の負担を減らす。
そういう配慮の形だ。
僕は、短く息を吐く。
息を吐くことが返事になる場面がある。
彼女はそれを読んでくれる。
「……ありがとう」
僕が言えるのは、それだけだった。
称賛に応える言葉ではない。
彼女の話に対する礼でもない。
ただ、ここまで案内したことに対する、形式に近い礼だ。
形式の礼は、相手を傷つけにくい。
シャルロットは一度だけ瞬きをして、微笑む。
「ううん」
否定する。
礼はいらない、と言うより、礼の形をここで固定したくないように聞こえる。
「……また、会えるよね」
彼女は最後に、その一言だけを落とす。
約束ではない。
確認でもない。
相手に答えを要求しない形をしている。
けれど、置かれた言葉は残る。
残った言葉は、あとで効く。
僕は返答を用意しない。
用意しないまま、沈黙が続く。
沈黙が続くことを、彼女は“失敗”にしない。
沈黙は拒否ではない。
拒否ではないから、彼女は笑みを崩さない。
崩さないまま、彼女は視線を街へ戻す。
逃げるのではなく、整えるための動作だ。
夕方の風が、城と街の輪郭を冷やす。
僕は、そこに立っている。
立っているだけで、次の予定は近づく。
叙勲式は、勝手にやってくる。
王都は、勝手に動いている。
シャルロットの横顔は、そこにある。
恩は、そこにある。
忘却も、そこにある。
それでも、同じ景色を見ていられる間だけは、歩かなくていい。
僕は何も言わず、風の音だけを聞いた。
王都レオネスの日常と、シャルロットとの距離感を描いた回です。
称賛が届かない主人公と、それでも寄り添おうとする側の温度差を、言葉よりも風景と沈黙で置きました。
次話から、王都での時間が少しずつ動き始めます。
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