56.境界
明け方は、音が少ない。
夜が終わりきる前で、朝が始まりきる前。
どちらにも属しきらない時間帯に、屋敷は息を潜めている。
眠っているというより、静止している。
長く続いてきた動きが、ほんの一瞬だけ止められているような、そんな感覚だ。
僕は部屋の中央に立ち、持っていく物を床に並べた。
剣。
外套。
替えの衣を一組。
書類を収めた、薄い鞄。
それだけで足りる。
多くは要らない。
必要ないというより、増やしたくなかった。
物が増えれば、手間が増える。
手間が増えれば、確認が生まれる。
確認が生まれれば、理由を問われる。
今は、理由を持ちたくなかった。
部屋を見回す。
壁も、床も、窓も、昨日と変わらない。
変わらないという事実が、ここがすでに僕の場所ではないことを、かえって明確にしている。
鍵を手に取る。
金属の冷たさを確かめるように、一度だけ指先で弄び、扉を閉めた。
音は小さく、確実だった。
誰にも告げていない。
見送られる予定もない。
それでいい。
この屋敷に残る流れと、僕が向かう流れは、もう交わらない。
足を止める理由はなかった。
振り返る必要もない。
部屋の隅に立ち、魔力を流す。
詠唱はしない。
意識を、遠い一点に合わせる。
以前、確かに立った場所。
空気の重さ、地面の感触、周囲の輪郭。
座標として、記憶している場所。
世界が、音もなく裏返った。
世界が切り替わる瞬間に、違和感はない。
音も、衝撃も、眩しさもない。
ただ、次の瞬間に「ここにいる」。
それだけだ。
転移は、いつもそうだ。
だからこそ、慣れない者は混乱する。
空間が移動したという実感が、意識に追いつかない。
僕は足元を見る。
地面は湿っている。
昨日、雨が降ったのだろう。
靴底に、薄く土が付着する。
この感触を、身体は覚えている。
以前、ここに立ったときも、同じような湿り気があった。
同じ森で、同じ風向きで、同じ温度だったかどうかまでは分からない。
けれど、違わないということだけは分かる。
転移先が「変わっていない」という事実は、
不思議なほど、安心にも不安にもならなかった。
戻る場所がある、という意味でもない。
戻らなくていい、という意味でもない。
ただ、世界は世界として、連続している。
それだけだ。
僕は一度だけ、地面に指先を触れる。
湿った土が、わずかに爪の裏に入る。
それを払わず、立ち上がる。
痕跡を残すつもりはないが、
消す必要もない。
ここは、僕の場所ではない。
けれど、拒まれてもいない。
♢
足裏に伝わる感触が、まったく違った。
均された床の硬さはなく、
湿り気を含んだ土と、枯葉を踏みしめる感触がある。
森だ。
空気が冷たい。
屋敷の冷え方とは異なる、生き物の気配を含んだ冷たさ。
土の匂い。
湿った樹皮。
遠くで鳴く鳥の声。
ここに来るのは、二度目になる。
魔族との戦争の最中、王都へ向かうために一度だけ使った転移先。
あのときは、周囲を見る余裕もなかった。
今は、違う。
僕はその場に立ち、感覚が完全に定着するのを待つ。
転移の残滓が消え、世界が一つに重なるのを確認する。
転移直後の空気は、ほんのわずかに薄い。
薄いというのは呼吸が苦しいという意味ではない。
世界が“こちら側”に揃いきるまでの、微細なズレだ。
僕は瞬きを一度だけする。
瞳に映る森は、最初からそこにあったように落ち着いているのに、身体だけが少し遅れて追いつく。
耳が拾う音が変わる。
遠くの鳥の声が一段高く聞こえ、葉が触れ合う擦過音が、屋敷の布の擦れる音とは別の厚みを持つ。
屋敷の静けさは、管理された静けさだった。
音がないのではなく、音が出ないように整えられている。
こちらの静けさは、ただ存在が重なっているだけだ。
木も、土も、虫も、呼吸をしている。
僕は鞄の革紐に指をかけ、締め具合を確かめる。
緩いわけではない。
けれど、手がそういう確認を欲しがる。
“今ここにいる”と身体に言い聞かせるための、小さな作業。
胸の内側が静かすぎる。
静かだから、何でも入ってしまいそうになる。
だから僕は、入らないようにする。
地面の湿り気。
土の温度。
風向き。
それだけでいい。
それ以上の情報はいらない。
森の匂いが、喉の奥に引っかかる。
青い匂いではなく、腐葉土の匂いだ。
生き物が死んで、それでも土に戻っていく匂い。
この匂いは、戦場でも嗅いだことがある。
だからこそ、思い出しそうになる。
思い出す前に、息を浅くして、深くしない。
深呼吸をすると、匂いが胸の奥まで入ってしまうからだ。
僕はただ、そこに立ち、世界の重さが定まるのを待つ。
待つというより、余計な動きをしない。
そうしていれば、世界は勝手に“いつも通り”になる。
戻れないわけじゃない。
ただ、戻る理由がない。
♢
森へ足を踏み出す。
森を歩いていると、時間の感覚が薄くなる。
屋敷では、時間は区切られていた。
朝、昼、夜。
食事、執務、休息。
順番があり、始まりと終わりが明確だった。
森には、それがない。
光が差し、影が伸び、風が動く。
それだけで、何時かは分からない。
僕は歩きながら、靴底の減り具合を意識する。
左右のバランス。
足裏への負担。
こういうことを考えているとき、
思考は自然と、余計な方向へ行かない。
何かを思い出すこともない。
何かを忘れようとする必要もない。
ただ、今の身体に必要な情報だけを拾っていく。
それが、生き残るということだった。
遠くで、枝が折れる音がする。
獣だろう。
警戒するほどではない。
魔物の気配はない。
それでも、視線は自然と音の方向をなぞる。
敵意がないことを確認してから、元の進行方向へ戻す。
無意識の動作だ。
こういう動きは、王都では不要になる。
城壁の内側では、誰かが代わりに警戒する。
それが、守られているということだ。
守られている、という感覚が、
僕の中に何かを残すことはなかった。
歩き出した瞬間、身体が勝手に整い始める。
呼吸。
歩幅。
視線の高さ。
考えようとする前に、身体が動く。
それは、何度も生き延びてきた結果だ。
枝を避け、ぬかるみを踏まない。
音を抑えすぎず、立てすぎず。
隠れる必要はない。
王都に近いこの森は、手が入っている。
魔物も少なく、道も分かりやすい。
♢
しばらく歩くと、木々の隙間に、灰色の輪郭が見え始める。
城壁だ。
城壁を見上げると、首が自然と後ろへ倒れる。
高い。
単に高さだけの話ではない。
積み上げられた時間の重さが、そこにある。
この壁が立つまでに、どれだけの労力が費やされたのか。
どれだけの人が関わり、どれだけの判断が重ねられたのか。
考える必要はない。
城壁は、そういう問いを受け付けない。
ただ、そこにある。
守るものがあるから、ある。
それ以上でも、それ以下でもない。
僕は一瞬だけ、屋敷の壁を思い出す。
同じ石造りでも、意味はまるで違う。
屋敷の壁は、人を分ける。
城壁は、人を囲う。
どちらが優しいかは、分からない。
どちらも、選ばなければならない側にとっては、
同じように冷たい。
アルセリア王国王都、レオネス。
遠目でも、その規模は分かる。
高く、厚く、長い。
守るために築かれたものは、いつも無言で、圧がある。
僕は歩調を一定に保つ。
速くも、遅くもならない。
急ぐ理由も、躊躇する理由もない。
ただ、進む。
森の音が次第に遠のき、人の気配が増えていく。
街道に出る。
荷馬車の轍。
商人の声。
巡回兵の視線。
日常が、ここにはある。
王都に来るのは久しぶりだ。
だが、初めてではない。
それが、少しだけ厄介だった。
知らなければ、ただの景色として流せたものが、
知っているからこそ、意味を帯びてしまう。
僕は、それを意識から外す。
城門が見える。
門はすでに開いており、朝の入城が始まっている。
列に並ぶ人々の横で、騎士向けの導線が用意されている。
僕はそちらへ向かう。
騎士向けの導線は、ほんの少しだけ脇に逸れている。
列に並ぶ者たちの視線が、そこに流れてくるのが分かる。
露骨ではない。
けれど、視線というものは、集まれば重さになる。
僕は外套の襟を直さない。
直せば、視線を意識したことになる。
意識したことが動作になると、動作は理由を持つ。
理由は増やさない。
門の前には、朝の規律がある。
荷馬車の車輪は決められた幅で通り、兵士の立ち位置は無駄なく整っている。
声は必要な分だけ発せられ、必要でない言葉は落ちない。
屋敷の整い方と似ている。
けれど、こちらは“権力の整い方”だ。
屋敷は内側へ向けて人を整える。
王都は外側へ向けて人を整える。
門番の鎧が、朝の光を拾っている。
金属の反射は冷たい。
それでも、そこに傷が少ないのは、この門が戦場ではないからだ。
僕は一瞬だけ、門の厚みを見る。
木の板だけではない。
鉄の補強があり、横木があり、蝶番の位置が完璧に計算されている。
閉じるための構造は、強い。
開くための構造も、同じくらい強い。
ここは、開いている。
開いているから、入れる。
入れるからといって、迎えられているわけではない。
迎えられる必要もない。
僕は足を止めず、一定の距離を保ったまま門へ近づく。
門の前には、境界がある。
境界は線ではなく、習慣で作られている。
僕はその習慣に合わせる。
合わせることは従属ではなく、手順だ。
手順に従えば、余計な会話をしなくて済む。
その瞬間、門番の一人が、こちらを視線で捉えた。
目の動きは小さい。
けれど、職務としての小ささだ。
「身分と、目的を」
声は淡々としている。
職務としての確認だ。
身分を告げるとき、
相手の反応が変わるのを、何度も見てきた。
恐れ。
警戒。
期待。
そのどれでもない、今の視線は、
純粋に「処理」に近い。
アルヴェイン辺境伯家。
それは個人ではなく、枠だ。
枠に属しているかどうか。
それだけが確認される。
僕自身がどういう人間かは、
この場では関係がない。
それでいい。
むしろ、その方が楽だった。
「アルヴェイン辺境伯家の者だ」
それだけで、視線の温度がわずかに変わる。
変わるのは敬意ではない。
警戒でもない。
“手順が決まっている類”の人間だと判断された、というだけだ。
「目的は?」
「叙勲式への出席だ」
門番は短く頷き、別の兵に合図を送る。
確認は手早く済み、必要以上の言葉は交わされない。
視線の端で、列の人間が一瞬こちらを見る。
すぐに逸らされる。
逸らされる速度が速いほど、興味ではなく距離が含まれているのが分かる。
「通行を許可する」
門が開く。
王都の内側へ、一歩踏み出す。
王都の中は、情報が多い。
声。
匂い。
色。
動き。
屋敷では、情報は整理されていた。
必要なものだけが、必要な順番で現れる。
ここでは違う。
必要かどうかに関係なく、すべてが同時に存在している。
商人の呼び声。
子どもの笑い声。
金属が触れ合う音。
それらが混ざり合い、
一つの「都市」という塊になっている。
僕は、無意識に視線を少し下げる。
人の顔を見すぎないためだ。
顔を見ると、情報が増える。
情報が増えると、判断が必要になる。
今は、判断する必要がない。
ただ、ここに来た。
それだけで十分だ。
門の内側の空気は、少し乾いている。
湿った森の匂いが、服の表面から剥がれていく感じがする。
剥がれていくものを追わない。
追えば、それは“持ってきたもの”になってしまう。
歩調は変わらない。
城門を抜けた、そのときだった。
視線を感じる。
はっきりと、こちらを見ている視線。
無意識に目を向けると、騎士団の制服を着た女性がいた。
鎧は身につけていない。
整えられた制服。
金色の髪が、朝の光を受けて揺れている。
彼女は迷わない。
あの歩き方は、覚えがある。
戦場で、負傷者を運ぶときの動きに近い。
迷いがないが、焦りもない。
自分の進路を疑わず、
相手がそこにいることを前提にしている。
僕は、彼女を知らない。
それなのに、
彼女は僕を知っている前提で動いている。
その齟齬が、
妙に印象に残る。
名乗らないという選択も、
偶然ではないのだろう。
ここでは、まだ必要ない。
そう判断している。
理由は分からない。
分からなくても、困らない。
僕を見つけた瞬間から、一直線にこちらへ向かってくる。
確認も、躊躇もない。
知っている前提の歩き方だ。
距離が縮まる。
まだ、名乗らない。
それでも、近づいてくる。
僕は立ち止まらない。
向こうも歩調を変えない。
城門前の人の流れの中で、
二つの導線が、静かに交わろうとしていた。
彼女は、もう目の前だ。
足取りに迷いはない。
呼び止める声もない。
それでも、こちらを見ていると分かる。
理由は分からない。
分からないままでも、足は止まらない。
王都の朝は、すでに動いている。
門の内側では、人も、秩序も、予定も、先へ進む準備を終えている。
僕は、その流れの中に入る。
振り返らない。
立ち止まらない。
ただ、進む。
ここから王都編が始まります。
第56話は、何かが起きる話ではありません。
場所が変わり、立場が変わり、エルがその中へ静かに入っていく――
ただそれだけの回です。
説明されなかった不在を抱えたまま、
王都という新しい場所で、物語は動き出します。
この先、叙勲式、騎士団、そして新しい出会いが待っています。
王都編も、最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。
感想や評価も、もしよければお願いします。




