55. 最初からいなかった
朝は、何事もなかったように始まった。
屋敷の中で最初に動くのは、人ではない。
音だ。
水を汲む音、器を置く音、布を払う音。
それらが一定の順序で重なり、朝という工程が立ち上がる。
廊下に響く足音は少なく、必要以上に早まることもない。
扉は静かに開き、窓が一つずつ外へ向けて押し出される。
冷えた空気が入り込み、カーテンが揺れる。
「おはようございます」
声は小さく、均一だ。
誰に向けたわけでもない。
けれど、その声が落ちることで、屋敷は“朝になった”と判断する。
返事がなくても、工程は止まらない。
食堂では、当番の侍女が卓を整える。
皿の位置、布の長さ、銀器の向き。
どれも昨日と同じだ。
確認の視線は交わされない。
必要がないからだ。
卓の端に、ほんの一瞬だけ視線が向く。
若い侍女は、何かを置き忘れたような気がして、手を止める。
けれど、そこには何も置くべきものがない。
そう判断した瞬間、彼女は作業を再開した。
朝食の準備は、滞りなく完了する。
湯気が、薄く棚の内側に残る。
湯は熱く、器は温まり、触れれば指先が少しだけ驚く温度だ。
それでも誰も、温度について言葉にしない。
台所の端で、火の始末がされる。
蓋が閉められ、布が掛けられ、次の工程に備えて並べ替えられる。
順番がある。
順番が守られている限り、この屋敷は揺れない。
若い侍女が、水差しの位置を半歩だけ直す。
直したあとで、首を傾げるような動きが一瞬だけ生まれる。
何かが、ここにあった気がしたのだ。
けれど、その“何か”が何だったのかを確かめる術はない。
確かめる必要がない、と教えられてきたからだ。
彼女は何事もなかったように手を引く。
手を引いた瞬間、布が擦れる音が小さく鳴る。
音はすぐに沈む。
沈んでしまえば、なかったことになる。
食堂の扉が閉まる。
鍵は掛けられない。
掛ける必要がない。
ここにあるものは管理され、ここにいる者も管理される。
管理が完了しているから、閉めるだけで足りる。
廊下を通る風が、香りを一つ運びかけて、運びきれずに消える。
香草でも、洗剤でも、灯油でもない。
人の肌に残る種類のものだ。
それが、途中で切れる。
切れたことに気づいた若い侍女が、息を止めかける。
けれどすぐに呼吸を戻し、布を握り直す。
彼女の手は、仕事を覚えている。
覚えている手は、余計な感情を許さない。
屋敷の朝は、そうやって完成する。
♢
掃除の時間になると、屋敷はさらに静かになる。
廊下の床は丁寧に磨かれ、窓枠に埃は残らない。
使用されていない部屋の扉も開かれ、風が通される。
一つの部屋が、念入りに整えられていく。
寝具はない。
衣もない。
私物もない。
引き出しを開けても、布が擦れる音だけがする。
中には、空気しか入っていない。
若い侍女は、その部屋の中央で一瞬だけ立ち止まる。
理由は分からない。
ただ、視線が宙を彷徨い、すぐに床へ落ちる。
床は磨かれていて、痕跡を拒否している。
忘れ物は一つもない。
髪留めも、糸くずも、香りも残っていない。
最初から、何もなかった部屋のようだ。
侍女は何かを言いかけて、口を閉じる。
代わりに、布で床をもう一度撫でた。
それ以上の行動は必要ない。
工程は完了している。
部屋を出るとき、若い侍女は一度だけ振り返りそうになる。
振り返れば、空であることをもう一度確認してしまう。
確認してしまえば、それは“空になった”という物語になる。
だから、振り返らない。
扉を閉める音は丁寧で、乱れがない。
丁寧であるほど、そこに意図があるように見える。
けれど意図は語られない。
語られない意図は、意図として存在しない。
廊下の角で、侍女長が待っている。
彼女は待っているというより、そこに“配置されている”。
「終わった?」
「……はい」
「次は、東側の廊下」
それだけで、会話は途切れる。
途切れたことに違和感がないように、侍女たちは動く。
違和感を抱いた者がいたとしても、それは工程の外側に置かれる。
東側の廊下は、日が差しやすい。
窓の位置がよく、床の艶が出やすい。
艶が出れば、屋敷は“整っている”ように見える。
整って見えることが、この屋敷の強さだ。
若い侍女は布を濡らし直し、床を拭く。
拭くたびに、床は光を返す。
光を返すたびに、足跡が消える。
足跡が消えるたびに、“ここを誰が歩いたか”が分からなくなる。
床は、よくできている。
人間の都合に合わせて、痕跡を受け入れず、残さず、忘れさせる。
廊下の先で、別の侍女が言いかける。
「……あの、今日の――」
声はそこで止まる。
言葉を続ければ、何かが形になる。
形になった瞬間、それは誰かの責任になる。
侍女長は視線を向けないまま、淡々と言う。
「余計なことは言わなくていい」
理由はない。
理由は、必要がない。
命令があるから黙るのではない。
この屋敷では、黙ることが最初から“正しい振る舞い”になっている。
若い侍女は布を握り、床を拭き続ける。
拭き続ければ、考えなくて済む。
考えなければ、何も失わなくて済む。
けれど――
床があまりにも綺麗であることが、逆に怖い。
落ちているべきものが、何一つ落ちていない。
乱れているべきものが、どこにも乱れていない。
そういう朝は、屋敷が「最初からこうだった」と言い張っているように見える。
若い侍女は、喉の奥が乾くのを感じる。
水を飲めばいい。
けれど飲むという動作すら、今は余計に見える気がした。
だから彼女は、ただ床を拭く。
艶が増す。
艶が増すほど、何かが消えていく。
消えたものの名前を、誰も言わない。
♢
廊下では、短い会話が交わされる。
「当番は……」
言葉が止まり、別の侍女が視線を落とす。
「次の工程に移って」
侍女長の声は淡々としている。
理由は言われない。
理由を問う声も上がらない。
当番表が壁に掛けられている。
札は整然と並び、その中に一箇所だけ空白がある。
空白は目立たない位置にある。
意識しなければ、気づかない程度だ。
誰も、その空白を指ささない。
誰も、埋めようとしない。
工程は次へ進む。
♢
その頃、エルは目を覚ました。
天井を見つめ、呼吸を整える。
身体に異変はない。
眠りは浅くも深くもなかった。
起き上がり、衣を整える。
動作は、いつも通りだ。
扉を開けると、廊下は静かだった。
足音は吸い込まれるように消え、遠くで誰かが動く気配だけがある。
エルは歩き出す。
侍女が先回りして動いている。
視線が合っても、すぐに伏せられる。
「おはようございます」
形式通りの挨拶。
エルは軽く頷いた。
何かが足りない。
そう思ったが、その正体を探そうとはしなかった。
言葉にすれば、形を持ってしまう気がしたからだ。
食堂へ向かう途中、当番表が視界に入る。
札は整っている。
その中に、一つだけ空白がある。
エルは足を止めなかった。
ただ、その場所を一瞬だけ見てから、視線を外した。
♢
朝食は、いつもと同じだった。
味も、量も、音も変わらない。
侍女たちは必要な動きだけを繰り返し、余計な言葉を交わさない。
誰かの名が呼ばれそうになって、呼ばれない。
視線が一瞬宙を彷徨い、すぐに別の場所へ向けられる。
説明はない。
だから、疑問も生まれない。
エルは食事を終え、席を立つ。
その背中に、視線が集まることはなかった。
♢
エルは廊下へ出て、窓の外を一度だけ見た。
庭は整っている。
芝は刈られ、枝は払われ、石畳に雑草はない。
整っているものは、何も言わない。
何も言わないから、気づきにくい。
エルは歩く。
歩き方は変わらない。
歩幅も、速度も、息も。
ただ、角を曲がるときだけ、ほんのわずかに間が空く。
そこに、以前は“何か”があった。
そう体が覚えている。
扉の前を通り過ぎる。
閉まっている。
当たり前のように閉まっている。
誰かがその扉を開けて、出入りする気配はない。
けれどエルは、それを“異常”だと判断しない。
判断してしまえば、理由が必要になる。
理由を必要とすることが、この屋敷では余計だ。
侍女が前方から来て、道を譲る。
視線は上がらない。
口元だけが動く。
「失礼いたします」
形式が、すべてを代替する。
形式がある限り、個人は必要ない。
すれ違いざま、空気が一瞬だけ変わる。
香りのようなものが、触れかけて触れない。
その薄さが、かえって輪郭を作る。
エルの足が、止まりそうになる。
止まらない。
止まれば、何かを確かめてしまう。
確かめれば、問いが生まれる。
問いが生まれれば、答えが必要になる。
答えが必要になる瞬間、この屋敷は“事情”を抱えることになる。
事情は、屋敷の秩序にとって余分だ。
エルは歩く。
歩けるから。
廊下の端にある小さな窓から、光が差し込む。
光は床に落ち、艶を強調する。
艶が強調されるほど、足跡は見えなくなる。
ここを誰が歩いてきたのか。
誰がここにいたのか。
そういうことを、床は教えない。
床は、ただ整っているだけだ。
エルは階段を降り、庭へ出る。
外気は冷たい。
冷たいのに、頭は冴えない。
冴えないままでも、世界は進む。
進むから、止まれない。
屋敷の外でさえ、この屋敷の工程から抜け出せない。
そういう感覚が、薄くまとわりつく。
エルは空を見ない。
見上げれば、空の広さに理由を求めてしまいそうだった。
だから、歩く。
行き先を決める前に、足が先に動く。
呼び出しが来たのは、その直後だった。
♢
午前のうちに、アインから呼び出しがあった。
執務室は整然としている。
余分なものは置かれていない。
アインは書類から顔を上げ、簡潔に切り出した。
「王都へ行ってもらう」
命令でも、相談でもない。
決定事項を伝える声だった。
「魔物、魔族討伐の功績に対する叙勲式が控えている。出席が必要だ」
日程が告げられる。
変更の余地はない。
「その後、王都の騎士団へ入団させる。準備はすでに進めている」
説明はそれだけだった。
一拍、沈黙が落ちる。
何かが言いかけられて、言われない。
空気が一瞬だけ揺れ、すぐに整う。
エルは視線を上げない。
「……そうか」
それ以上の言葉はなかった。
アインは書類を一枚、指先で揃える。
紙の端が揃う音は小さく、乾いている。
その乾きが、決定を決定のままに固定する。
「叙勲式まで日がない。移動の準備は今日中に整える」
「……」
返事は求められていない。
求められるのは、従うことだ。
アインは視線を上げないまま続ける。
「王都では、お前の立場が変わる。ここでの“役割”とは別のものになる」
役割。
その言葉は、説明に近いはずなのに、説明ではない。
内容が語られないからだ。
「騎士団は、お前を必要としている。――それだけだ」
必要。
必要という言葉は、この家で最も強い。
必要とされるものは残る。
必要とされないものは消える。
それは罰でも、褒美でもない。
ただの分類だ。
アインの言葉はそこで止まる。
止まることで、余白が生まれる。
余白には、本来なら名前が浮かぶ。
けれど、浮かんだものは口にされない。
口にされないことで、余白は余白のままになる。
アインは椅子から立ち上がらない。
見送る動作もない。
見送らないことが、この屋敷の整い方だ。
エルは席を立つ。
扉に向かう。
足音は一定で、乱れない。
扉に手をかける直前、空気がもう一度だけ揺れる。
呼び止める声が来そうで来ない。
来ないまま、揺れだけが沈む。
その揺れが、逆に“言われなかったこと”を固定する。
エルは振り返らず、執務室を出る。
廊下は静かで、整っている。
工程は次へ進む。
♢
午後、荷造りが始まる。
必要最低限の装備。
剣。
書類。
量は少ない。
侍女が手伝おうとするが、エルは首を振る。
彼女は一礼し、部屋を出た。
布が擦れる音だけが残る。
作業は早い。
迷いはない。
振り返ることもない。
♢
屋敷は、いつも通りだった。
人が一人消えても、工程は止まらない。
説明されない不在は、波紋を作らない。
誰も、それを口にしない。
その日、屋敷から一人が消え、
説明されないまま、屋敷は次の工程へ進んだ。
説明されない不在は、
いつの間にか日常になっていた。
この章で描いたのは、
誰かが去った「理由」ではありません。
理由は語られず、
説明も与えられず、
ただ“いない状態”だけが残りました。
メイリスは、自分で選んで去りました。
けれど、その選択が正しかったのか、
避けられなかったのか、
別の未来があったのか――
その答えは、この物語の中では示されません。
なぜなら、
説明されない不在こそが、問いになるからです。
もし理由が語られていれば、
この別れは理解され、整理され、
やがて「終わった出来事」になっていたでしょう。
けれど語られなかったことで、
不在は感情ではなく、思考として残りました。
エルの中に。
そして、読者の中に。
この章は、
悲しみを描くための章ではありません。
「正しかったのか分からない選択」を、
分からないまま抱えて前に進むための章です。
メイリス編は、ここで終わります。
けれど彼女が残した空白は、
これからの物語の中で、
何度も静かに問いを投げかけ続けます。
その問いを抱えたまま、
物語は次の場所へ進みます。
もしよければ――
ここまで読んで感じたことを、ひと言でも残してもらえたら嬉しいです。
「好きだった一文」でも、「刺さった場面」でも、「苦しかった」でも。
あなたの感想が、この物語の続きを書く力になります。
【お知らせ】
次話より21:30の投稿になります。
よろしくお願いいたします。




