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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
メイリス編

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54.『夜の外へ』

 

 廊下に出た時点で、もう決まっていた。


 理由は分からない。

 けれど、足の裏が妙に冷たく感じた。

 磨かれた床の感触が、いつもよりはっきりと伝わってくる。


 私は立ち止まらなかった。

 立ち止まれば、何かを考えてしまう気がしたからだ。

 考え始めれば、言葉が増える。言葉が増えれば、どこかに逃げ道が生まれる。

 逃げ道が生まれた瞬間、私はきっとそこへ縋りついてしまう。


 少し先に、クリストフ様がいる。

 振り返らない。

 呼びかけもしない。


 ただ、そこにいる。


 その背中が示しているのは、

「ついて来るか」ではなく、

「もう戻らない」という前提だった。


 私は、その距離を保ったまま歩く。

 追いつこうともしない。

 離れようともしない。


 屋敷はいつも通りだ。

 静かで、整っていて、無関心だ。

 無関心であることが、この屋敷の強さであり、弱さだとも、今なら分かる。


 途中、侍女と視線が合った。

 彼女は何か言いかけて、すぐに口を閉じる。


 言葉が不要な場面だと、

 彼女も分かってしまったのだと思う。

 あるいは――言葉が許されない場面だと、身体が先に理解したのかもしれない。


 私は軽く会釈をした。

 それ以上の動作をすると、

 自分が「まだここに属している」ような錯覚をしてしまいそうだった。

 錯覚に甘えたら、私はきっと足を止める。止めた瞬間、決定は私の中で“抵抗”になる。

 抵抗になれば、誰かが私を説得しなければならない。

 説得が生まれれば、誰かの優しさが必要になる。

 ――私はもう、誰かの優しさに借りを作りたくなかった。


 歩きながら、胸の奥がひどく落ち着いていることに気づく。

 動悸はない。

 めまいもない。


 それが逆に、不安だった。


 私は、いつも異変を伴って何かを失ってきた。

 今日は違う。

 身体が、妙に協力的だ。


 ――歩ける。


 その事実が、

 今日起きることの性質を、雄弁に語っていた。

 “歩けるもの”は運べる。

 “泣かないもの”は扱える。

 “倒れないもの”は片づけられる。


 扉の前で、クリストフ様が足を止める。

 合図はない。

 視線も向けられない。


 それでも私は理解する。

 ここから先は、

 自分の意思で「入る」場所ではない。

 入ること自体が意思の表明になるわけではない。

 入らないことだけが、意思になる。

 そして、私にはもう――入らないという選択が残っていない。


 取っ手に触れる前に、

 一瞬だけ、呼吸が浅くなる。


 逃げたいわけではない。

 拒みたいわけでもない。


 ただ、

 この扉の向こうにあるものが、

 私を「元の位置」には戻さないと分かっている。


 だから、確認はしない。


 私は何も言わず、扉を開けた。


 その瞬間、

 背後で、低い声が落ちる。


「……こちらです」


 案内ではない。

 選択肢でもない。


 それは、

 処理の開始を告げる音だった。

 そして私は、その音に合わせて歩幅を変えないことだけを、自分に課した。


 ♢


 小さな執務室――と呼ぶには、少しだけ私的な空間だった。

 書類棚があり、机があり、椅子が二つ。

 窓は閉められていないのに、風が入ってこない。

 入ってきてもいいはずのものほど、今日は入ってこない。

 外気の匂いも、遠い鳥の声も、わざと遮られているみたいに薄い。


 クリストフ様は先に座らない。

 私が腰を落ち着けるのを待ち、それから向かいではなく斜めの位置に立った。

 対峙ではなく、確認の距離。

 私が逃げない距離。

 逃げたくても逃げられない距離。

 その位置取りが、彼の役割を正確に示している。


「お身体の件で、すでに医師の確認は済んでいますね」


「……はい」


「生活の見直しが必要だと」


「……はい」


 彼は一つずつ、事実だけを置いていく。

 怒りはない。

 慰めもない。

 言葉が、どちらの温度も帯びない。


 だから、余計に刺さる。

 温度のない言葉は、受け取る側にだけ熱を生む。

 その熱を私は、表に出せない。


「結論から申し上げます。メイリス殿は――屋敷を離れていただきます」


 一瞬、音が消えた気がした。

 呼吸も、心臓も、窓の外の鳥の声も。

 すべてが遠くなる。


 それでも私は、驚かなかった。

 驚く余白がない。

 私はずっと、これを予感し続けていた。

 予感の正体は恐怖ではなく、整合だった。

 ここまで来たなら、次はそうなる――ただその順番を、私の身体が知っていた。


「理由は、身分と秩序です」


 彼は続ける。

 “理由”という言葉の後ろに、評価がない。

 正しさだけがある。


「これは処罰ではありません。追放でもない」


 追放ではない。

 その言葉が、なぜか胸を少しだけ痛くした。

 追放であれば、まだ分かりやすかったからだ。

 悪者がいる。

 罰がある。

 因果がある。

 けれど現実は、いつもそうではない。


「ここに置けない、という判断です」


 出ていけではない。

 置けない。

 主体が消える言い方。

 誰も追い出していないのに、私は出ていくしかなくなる。

 誰も責めない形に整えられた言葉ほど、逃げ道を奪う。


「アルヴェイン家が、生活と身分を保証します」


 保証。

 冷たい言葉のはずだった。

 なのに喉が熱くなる。

 生きる場所は与えられる。

 だが、居場所は与えられない。

 保証は“生存”の約束で、帰属の約束ではない。


「行き先は領内です。ですが――領内の、誰も知らない場所になります」


 誰も知らない。

 その言葉は、優しさにも見えるし、処理にも見える。

 守るための秘匿なのか。

 消すための秘匿なのか。

 どちらでもあるから、より残酷だった。

 “誰も知らない”という条件は、守りであると同時に、孤立の完成でもある。


「当面、外部との接触は最小限に。人の出入りも制限されます」


 私は、理解した。

 これは“罰”ではない。

 けれど“自由”でもない。

 保護と管理の境界は、思っているより薄い。

 守られるほど、動けなくなることがある。

 動けなくなることが、静かさの代償だ。


「……エルディオ様には」


 私は、口にした瞬間に自分で分かった。

 この問いは、希望ではない。

 ただの確認だ。

 私の中で最後に残った、たった一つの“揺れ”を確かめるための。

 揺れを確かめておかなければ、私はこの先、別の場所で壊れる。


 クリストフ様は、ほんのわずかに間を置いて、答えた。


「告げません」


 短い。

 迷いがない。

 決められたことを、決められた形で運ぶ声だ。


「徹底します。メイリス殿の件は、エルディオ様に伝えない。――その方が、静かです」


「静かです」


 その言葉は、許可のようでいて、決別だった。

 “静か”という音のない布で、私という存在を包み、包んだまま運び出して、見えない場所に置く。


 私はずっと、その布の中で息をしてきた。

 声を荒げない。泣き叫ばない。理由を問わない。

 そうすれば、世界は私を拒まない。拒まれないというだけで、居場所になる。

 私はそれを“救い”だと勘違いできた。


 けれど今、同じ布が私を締める。


「……静かに、ですね」


 私の声は自分でも驚くほど淡かった。

 笑いもしない。震えもしない。

 ただ、言葉の表面だけが滑る。


 クリストフ様は肯く。


「余計な摩擦は避けます。屋敷の内側に残すべきものと、外へ出すべきものを、混ぜないために」


 混ぜない。

 その言い方が、あまりに正しい。

 正しいから、私は反論ができない。


「外へ出すべきもの」

 そこに私が含まれていると理解するだけで、胸の奥が静かに冷える。

 冷えるのに、痛みはない。

 痛みがないから、涙も出ない。

 涙が出ないほど、私の現実は整っている。


「……噂、ですね」


 私が言うと、クリストフ様は一拍置く。

 肯定でも否定でもなく、ただ“状況”としての沈黙。


「噂は、誰にも責任がありません」


 淡々とした言葉。

 それは慰めではなく、宣告だ。

 責任がないものほど、止められない。


「侍女の口は塞げません。目撃も防げません。推測も止まりません。――それは、屋敷の強さではなく弱さです」


 強さでも弱さでもいい。

 どちらでも、私はこの屋敷の“内側”には置けない。


「……エルディオ様を守るため、ということですか」


 私が確認すると、クリストフ様は否定しない。

 否定しない、という事実が答えになる。


「守る、という言葉は便利です」


 彼は静かに言う。


「守ると言えば、誰も悪者にならない。ですが、実際に行われるのは――整理です」


 整理。

 その言葉が、私の中で硬く形を持つ。


 罰ではない。追放でもない。

 ただ、分類される。

 必要なものと、不要なもの。

 公にできるものと、できないもの。

 置けるものと、置けないもの。


 私はその“置けない”側に回っただけだ。

 それだけなのに、私の世界は外へ押し出される。


「メイリス殿」


 クリストフ様が私の名を呼ぶ。


「あなたがここを離れることは、あなたの価値を否定することではありません」


 価値。

 その言葉は、私には遠い。

 私は価値で生きてきたのではなく、“拒まれない場所”で息をしてきただけだ。

 拒まれないことだけが私の基準だった。

 だから、価値の話をされるほど、私は自分が場違いに感じる。


「……私は、価値が欲しかったわけではありません」


 ぽつりとこぼれた声は、意外と真っ直ぐだった。


「ただ、居場所が……」


 言い切れなかった。

 居場所、と言った瞬間、その居場所が崩れる音がする気がしたからだ。

 言い切れば、私は自分でそれを認めてしまう。

 認めた瞬間、戻る理由が永遠に消える。


 クリストフ様は目を伏せない。

 同情もしない。

 けれど、冷たくもしない。


「居場所は、作るものではなく、許可されるものです。この屋敷では特に」


 ――許可。

 その単語が、私の喉を塞いだ。


 私はずっと、許可されない側の人間だった。

 夜だけが、許可を必要としなかった。

 だから夜に行った。

 だから夜が居場所になった。


 けれど今は、夜すら条件を要求する。

 守れ。休め。隠すな。説明しろ。

 そのすべてが正しくて、正しいからこそ夜を壊す。

 夜が壊れたら、私の居場所は消える。


「……分かりました」


 私は言う。

 分かった、と言うしかない。

 分かった、と言った瞬間から、現実は速度を上げるから。

 現実は、理解した者から先に進む。理解してしまった者には、戻る余地がない。


「エルディオ様は王都へ向かいます」


 淡々とした声が続く。


「魔物、魔族討伐の功績に対する叙勲式が控えています。表向きはその出席。加えて、王都の騎士団に入団させる方針です」


 叙勲。

 騎士団。

 王都。

 光の当たる場所。

 前へ進む名目。

 整った未来。

 その言葉の列は、私の中の“夜”とあまりにも相性が悪かった。

 夜に慣れた私には、眩しさは痛みと同じだ。


「彼にとって必要な道筋です」


 クリストフ様は、評価を乗せずに言う。

 必要。

 必要という言葉はいつも正しい。

 正しいから、誰も反対できない。

 正しい言葉に反対する者は、必ず“悪者”になる。


「……私は」


 私は言いかけて、やめた。

「行きたくない」と言いたいわけではない。

「残りたい」と言いたいわけでもない。

 ただ、口を開けば、言い訳が混ざる。

 言い訳が混ざれば、今日の意味が薄くなる。

 薄くなった意味は、後から必ず私を襲う。


 クリストフ様は、私が止まったことに反応しない。

 反応しないという反応で、先を塞ぐ。

 塞がれることに、私はどこか安堵してしまう。

 自分で決める責任を、持たなくて済むからだ。


「準備は、今夜のうちに」


「……今夜」


「夜明け前に屋敷を出ます」


 夜明け前。

 夜と昼の境目。

 曖昧さが最も濃い時間。

 私にふさわしい、とでも言うように。

 昼になってしまえば、私はここにいられない。だから夜明け前が選ばれる。

 夜の終わりと一緒に、私も終わる。


「侍女には、必要最低限の者にのみ伝えます。屋敷内の混乱を避けるためです」


 混乱。

 避ける。

 私がずっとしてきたことと同じだ。

 混乱を避けるという名目で、感情を避けてきた。

 感情を避けた結果、今の私は“整ったまま”切り離される。


「メイリス殿」


 クリストフ様が私の名を呼ぶ。

 その呼び方は、慰めでも叱責でもなく、確認のための音だった。


「これは、あなたを責める決定ではありません」


 責めない。

 責めないことで、救わない。

 私は、その構造を知ってしまっている。

 責められた方がまだ、存在を認められる。

 責められないのは、正しさの中で消えるということだ。


「……はい」


 私は言った。

 驚かない。反論しない。

 ただ「はい」と答える。


 彼女はすでにこの結論に辿り着いている――

 その通りだ。

 私はずっと、私の中でこの扉を何度も閉めてきた。

 閉める練習だけは上手になった。

 開ける練習は、誰も教えてくれなかった。


「必要なものは手配します。医師も常に」


「……ありがとうございます」


 礼を言うのが正しいと分かるから、礼を言った。

 正しい言葉ほど、今日の私には空虚だった。

 空虚なのに、言わなければならない。

 空虚でも形だけ整えることが、私の役割だったからだ。


「最後に確認します」


 クリストフ様が言う。

 その言葉で、私は理解した。

 私の意思がどうであれ、ここは確認の場だ。


「この決定に異議はありますか」


 私は、息を吸う。

 異議はない。

 異議を唱えたところで、誰かが悪者になるだけだ。

 私は悪者を作りたくない。

 それは優しさではなく、今までの習慣だ。

 悪者が必要な場面で生きてこなかった者の、卑怯な生存術だ。


「……ありません」


 口に出した瞬間、何かが胸の中で確定した。

 私が“夜の存在”ではいられなくなったこと。

 私が“屋敷の内側”から切り離されること。

 そして、それが罰ではないことが、最も残酷だということ。


 その理解は、痛みを伴わなかった。

 それが、いちばん怖かった。


 痛みがないということは、もう抵抗できないということだ。

 拒絶も、混乱も、怒りも起きない。

 ただ、現実だけが静かに定着していく。


 私はこれまで、何かを失うときには必ず身体が先に反応していた。

 息が詰まり、視界が揺れ、膝が笑う。

 そうやって、心よりも先に「嫌だ」と訴えてくれていた。


 今日は、それがない。


 胸は静かで、思考も澄んでいる。

 自分が今、どこに立っていて、何を引き受けようとしているのかが、はっきり分かる。


 ――だから、逃げられない。


 私はもう、この決定を「分かってしまった側」なのだ。


 罰であれば、誰かを恨めた。

 追放であれば、怒りを持てた。

 けれどこれは、誰かが正しく判断した結果で、誰も間違っていない。


 間違っていないからこそ、修正もできない。


 私は、黙ってそれを受け取る。


「……承知しました」


 声に出した自分の言葉が、思った以上に平坦で、少しだけ驚いた。

 感情が乗っていない。

 それが、ここまで来てしまった自分の現在地だった。


 クリストフ様は頷くだけで、それ以上は言わない。

 彼にとって、私の感情は確認事項ではない。

 確認すべきなのは、決定が滞りなく運ばれるかどうか、それだけだ。


 その距離感が、今はありがたかった。


 もしここで、同情や慰めが差し出されていたら、私はきっと崩れていた。

 崩れたら、何かを求めてしまう。

 求めてしまえば、また誰かを縛る。


 私はもう、縛りを作りたくなかった。

 縛りは優しさの形をして、最後に必ず重石になる。


 ♢


 部屋を出たあと、私は自室に戻った。

 扉を閉め、背中を預ける。

 足が、ほんの少しだけ震えた。


 泣きはしない。

 泣けば、何かを求めてしまう。

 誰かが応えてしまう。

 応えたら、また均衡が揺れる。


 私は、泣かないことに慣れている。

 夜の中では、泣く必要がなかった。

 拒まれない場所に身を置けば、感情は必要ない。

 必要なのは、静かに息をすることだけだった。


 けれど今は、昼が迫っている。

 昼は、名前を問う。立場を問う。未来を問う。

 私はずっと、その問いを夜に沈めてきた。


 ――私がそばにいる限り、この人は「生きる方向」を向かない。


 その認識が、喉の奥に刺さる。

 私はずっと分かっていた。

 自分は救いではない。

 選ばれていない。

 見られていない。

 名前を呼ばれても、それは代替の音だ。


 それでも夜は、拒まなかった。

 拒まれないという事実が、私の居場所になっていた。

 居場所という言葉の本来の意味を、私は知らないまま、それを居場所と呼んでいた。


 妊娠が分かった瞬間、すべてが確定した。

 私がここにいる限り、エルは何も選ばなくていい。

 何も終わらせなくていい。

 立ち上がらなくていい。


 それは優しさではない。

 停滞だ。

 麻酔だ。

 延命だ。

 そして、子どもが生まれたら――


 私は、未来を想像する。

 小さな手。

 小さな呼吸。

 泣き声。

 それを見たエルの顔を想像しようとして、できなかった。


 父になる姿が思い描けない。

 父という言葉は、責任という名の重石だ。

 彼は、それを望んでいない。

 望んでいないことを、両親は見抜いている。

 私も、見抜いてしまっている。

 見抜いてしまった者は、知らなかったふりができない。


 このままでは、彼は折れる。

 責任の重さで。

 説明の重さで。

 正しさの重さで。


 だから引く。

 犠牲ではない。

 自己否定でもない。

 ただ、自分にできる唯一の“選択”として。


 私がいなくなることが、この人にできる唯一の前進だと分かってしまった。


 その理解が、静かに私を動かす。

 動くことでしか、私は自分の正気を保てない。


 私は椅子から立ち上がる。

 動作は自然で、ぎこちなさはない。


 足は震えていない。

 床は冷たいが、感覚は確かだ。

 確かであることが、私をさらに追い込む。

 曖昧であれば、私はまだ夜に逃げられた。


「本日は、これで」


 クリストフ様がそう言う。

 終わりを告げる言葉なのに、区切りの響きはない。

 処理の工程が一つ進んだ、というだけの音だ。


 私は一礼する。

 深くも浅くもない、ちょうどいい角度。

 ここで感情を見せないことが、私に課された最後の役割だと分かっている。

 役割を果たせば、私は最後まで“整ったまま”いられる。

 整っていれば、誰も私を止めない。


 扉に向かう背中に、声はかからない。

 引き止められない。

 確認もされない。


 それが、この決定の完成形だった。

 私は“止められないように”決められたのだ、と今になって分かる。


 廊下に出ると、空気が少しだけ緩んだ。

 屋敷の中は、何事もなかったように整っている。

 その整い方が、胸に刺さる。


 私はここで、何年も同じように歩いてきた。

 同じ床、同じ壁、同じ灯り。

 違うのは、私の立場だけだ。

 立場が変わっただけで、私はここにいられなくなる。

 それが秩序だ。


「夜の役割」は、もう終わった。


 そう自覚した瞬間、

 不思議なことに、喪失感よりも先に安堵が来た。


 ――これ以上、間違えなくていい。


 その安堵が、少し遅れて自分を責める。

 救われてしまったような気がして。


 でも、これは救いではない。

 ただ、終わりだ。

 終わりが救いに見えるほど、私は長く夜にいた。


 ♢


 深夜。

 屋敷の音が消える時間。

 廊下の灯りは最小限になり、床は磨かれたまま冷たい。


 私は私物をまとめた。

 最小限。


 布を畳むたび、音がする。

 乾いた、薄い音。

 それが妙に大きく聞こえる。


 夜の屋敷は静かだ。

 静かだから、私の作る音だけが“存在”になる。

 存在になるのが怖い。

 誰かに見つかるのが怖いのではない。

 “存在していた”ことが、形になるのが怖い。

 形になれば、誰かがそれを処理しなければならないからだ。


 私は、畳み方をいつもより丁寧にした。

 丁寧にすれば、正しいことをしている気になれる。

 正しさは、私を落ち着かせる薬だ。

 薬が必要な時点で、私はもう安定していないのに、安定しているふりができる。


 机の引き出しを開ける。

 そこには小さな箱が一つ入っていた。

 私はそれを見て、閉じた。

 持っていけない。

 持っていけば、それは思い出になる。

 思い出になれば、私はいつか振り返る。

 振り返れば、戻りたくなる。

 戻りたくなれば、私はまた夜を欲しがる。


 私はもう、夜を欲しがる自分を抱えたままではいられない。

 守るべきものがあるからではない。

 守らなければならない、と言われたからだ。

 その違いが、残酷だ。

 誰かの命令は、私の選択の形を奪う。


 衣を畳み、薬包を確認し、書類を整える。

 “未来を生きるための道具”だけを選び取る作業は、奇妙に冷静だ。

 冷静だからこそ、現実味がある。

 現実味があるからこそ、胸の奥がじわじわと沈む。


 ふと、指先が腹部のあたりに触れそうになって止まる。

 触れれば、意味が増える。

 意味が増えれば、責任が増える。

 責任が増えれば、私はますます“昼”へ押し出される。


 私はまだ、昼の言葉に耐える準備ができていない。

 “母”という言葉も、“家族”という言葉も、私には重すぎる。

 その重さを引き受けることを、私は怖がっている。

 怖がっていることを認めたくないから、触れない。


 鏡を見る。

 顔色は悪くない。

 目も赤くない。

 唇の色も落ちていない。


「……いつも通りだわ」


 声に出してみる。

 声は揺れない。

 揺れないことが、怖い。


 私はいつも通りでいられる。

 いつも通りでいられるからこそ、消えることができる。

 消えることができるからこそ、誰も止めない。


 ――歩ける。

 ――泣いていない。

 ――倒れていない。


 その三つが揃った瞬間、私は“処理可能”になる。

 処理可能という言葉が、私の背中を冷やす。

 私は人ではなく、案件になった。

 案件は、感情で扱えない。


 私は髪をまとめ、襟元を整え直す。

 その動作は、侍女として身についた癖だ。

 整えることで、心も整うと信じてきた。


 けれど今日は違う。

 整えるほど、私が“屋敷の一部”として完成してしまう。

 完成してしまえば、ここに残っていたくなる。

 残りたくなれば、私はまた何かを壊す。


 だから私は、最後に一つだけ、整えないものを残した。

 手袋をつけない。

 指先を隠さない。

 この手で触れた夜の記憶を、布で消したくなかった。

 手袋をつければ、私はすべてを“仕事”に戻してしまえる。

 戻せば、ここに残りたくなってしまう。

 残りたくなることこそ、今夜もっとも危険だ。


 荷をまとめ、紐を結ぶ。

 紐が締まる音が、乾いて響く。

 締めるのは荷ではない。

 私の過去だ。

 ほどけないようにきつく結ぶのは、ほどきたくなる未来があるからだ。


 部屋の端に置かれた椅子に目が止まる。

 何度もそこで待った。

 何度もそこで呼ばれるのを待った。

 呼ばれなくても待った。

 待つことが、私の役割だった。


 私は椅子に触れない。

 触れれば、感謝を覚えてしまう。

 感謝を覚えれば、泣いてしまう。

 泣けば、何かを願ってしまう。


 私はもう、願いを持ちたくない。

 願いは、届かなかったときに私を壊すから。

 届いたとしても、今の私にはそれを受け止める腕がない。


 扉の前に立つ。

 取っ手に手を伸ばす。

 その瞬間だけ、心臓が一拍遅れる。


 ――ここから先は、戻れない。


 分かっている。

 分かっているから、確認はしない。

 私は何も言わず、ただ扉を開ける準備をする。


 “さようなら”は言わない。

 “ありがとう”も言わない。

 言葉は、ここに私の痕跡を残す。

 残した痕跡が、誰かの責任になる。

 責任になれば、誰かが壊れる。


 壊れるのは、私で十分だ。


 私は静かに息を吸って、吐いた。

 そして、夜に置いてきたはずの自分を、最後にもう一度だけ抱きしめるように、指先を握りしめた。

 握りしめた指先は冷たくて、それが現実だった。


 必要な布。

 必要な薬。

 必要な書類。

 必要な金。

 必要な――未来を生きるための道具だけ。


 思い出になるものは持たない。

 残すものも選ばない。


 選べば、意味が生まれる。

 意味が生まれれば、責任が生まれる。

 責任は、誰かの言葉を呼ぶ。

 私はもう、言葉を増やしたくない。

 増えた言葉は、必ず誰かを巻き込む。


 箱の中が空なのを見て、私は自分が何も持っていないことに気づく。

 持っていなかったのではない。

 持たないようにしてきたのだ。

 夜の中では、持たない方が楽だった。

 失うものが増えれば、痛みも増えるから。


 けれど今、失う。

 持っていようが持っていまいが。

 私は、この屋敷の内側から切り離される。

 切り離されることが決まった瞬間、私の過去は“置いていくもの”になる。


 誰にも見られない。

 侍女にも告げない。

 名前を呼ばれない。

 不在が自然に成立するための準備。

 自然に成立するように整えることが、最後まで私の仕事になる。


 私は、梳かした髪をまとめ、襟を整える。

 鏡の中の私は、いつも通りに見えた。

 だから、いつも通りだと決める。

 いつも通りという仮面がなければ、私はここで崩れる。


 扉の取っ手に触れたとき、胸がひゅっと狭くなる。

 息が浅い。

 それを緊張と呼べば簡単だ。

 けれど今夜のそれは、もっと曖昧だ。

 緊張ではなく、境界に触れた感覚。

 内側から外側へ移るときの、皮膚の薄さ。


 私は“さようなら”を言わない。

 言えば、それは別れになる。

 別れになれば、相手も何かを返さなければならない。

 返される言葉が、救いになるとは限らない。

 むしろ、縛りになる。


 私は縛りを残したくない。

 彼を縛りたくない。

 私自身も縛られたくない。


 だから、言葉は持たない。

 私は不在として別れを完成させる。

 完成させるためには、未完成のまま置いていく勇気が要る。


 ♢


 私は一度、足を止めた。


 ここまで来て、初めて迷いが顔を出す。

 この扉の向こうに入ってしまえば、私はもう「不在」になる準備を終えてしまう。


 入らなければいい、という選択肢もある。

 何も告げず、触れず、思い出を増やさないまま去ることもできる。


 それは、もっと簡単で、もっと安全な別れだ。

 安全な別れは、痛みを残さない。

 けれど痛みが残らない別れは、私の中でずっと腐る。

 腐った痛みは、いつか取り返しのつかない形で噴き出す。


 けれど私は、それを選ばなかった。


 理由は明確だ。

 私は、自分が確かにここにいたことを、自分自身が否定したくなかった。


 誰の記憶にも残らなくていい。

 彼の人生に痕跡を残さなくていい。


 ただ、私だけは知っていたい。


 ここに来て、ここに触れて、

 それでも去ることを選んだのだと。


 それは未練ではない。

 確認だ。

 私の人生が“誰かの夜”だけで終わらないための、最後の証明。


 私はもう一度、呼吸を整えてから、取っ手に手をかけた。

 取っ手は冷たい。冷たいものに触れると、なぜか安心する。

 熱いものは、私の感情を呼び起こしてしまうからだ。


 エルの部屋の前に立つ。

 鍵はかかっていない。

 それだけで、私は救われる。

 拒まれていないという事実が、最後にもう一度だけ私を呼吸させる。

 拒まれていないからこそ、去るのが残酷になる。


 扉を開ける音を最小限にする。

 足音を消す。

 床板の癖を知っている。

 鳴る場所と鳴らない場所。

 夜の中で覚えた知識だ。

 この知識は、私がここで過ごした時間の証でもある。


 室内は暗い。

 窓から入る月明かりが、輪郭だけを作っている。

 輪郭だけで十分だ、と私は思う。

 細部を見てしまえば、私は戻りたくなる。


 彼は寝ている。

 無防備だ。

 何も知らない。

 起こさない。


 寝息は規則正しい。

 それが、今日だけは痛い。

 規則正しいものは、私を否定する。

 私の中の乱れを浮き彷りにする。

 乱れがあるのに、私はそれを整えたふりをしている。


 私は、ゆっくりと近づく。

 ベッドの縁に膝をつき、彼の髪に指を触れた。


 ――髪を撫でる。


 指先が触れた瞬間、胸の奥が静かに崩れそうになる。

 けれど崩れない。

 崩れれば、音が出る。

 音が出れば、彼が目を覚ます。

 目を覚ませば、言葉が生まれる。

 言葉が生まれれば、別れが“拘束”になる。


 私は、崩れない。

 崩れないことで、私の愛情は形を持てない。

 形を持てない愛情は、誰にも見えない。

 誰にも見えないものは、誰も責任を取らない。

 ――だから、私が全部引き受ける。


 ――額に触れる。


 熱い。

 生きている熱。

 私はその熱に、何度も救われた。

 救われたくせに、救えていない。


「……」


 名前を呼びそうになる。

 呼べば、ここに自分がいたことが刻まれる。

 刻まれれば、彼は問いを持つ。

 問いは、彼を壊す可能性がある。

 壊す可能性があるものを、私は与えられない。


 私は、呼ばない。


 ――一度だけ、キスをする。


 軽い。

 起こさない。

 所有でも別れでもない。


 ただ、今この瞬間に私が存在したという証を、私だけが持つための行為。

 彼の記憶に残らなくていい。

 残らない方が、彼は前へ行ける。

 前へ行けることが、彼の救いであるなら、私の不在は必要になる。


 私は唇を離し、呼吸を整える。

 泣かない。

 さようならも言わない。


 唇を離した瞬間、胸の奥に熱が広がる。


 それは悲しみでも、愛しさでも、後悔でもない。

 言葉を与えなかったことへの、静かな痛みだ。

 与えないことは、逃げではない。

 与えないことは、私の覚悟だ。


 もし彼が目を覚ましたら。

 もし私の名を呼んだら。

 もし、ここにいろと言ったら。


 私は、そのすべてを拒めない。


 拒めない自分を知っているから、

 私は何も起こらない形を選ぶ。

 何も起こらない形は、彼を守る。

 同時に、私を一番残酷に壊す。


 愛しているからこそ、

 説明しない。


 欲しかったのは、選ばれることではない。

 引き留められることでもない。


 ただ、

 彼が「生きる方向」を見失わないこと。


 そのためなら、

 私は不在になる。


 それが、私にできる最大の誠実だ。


 私の別れは、言葉ではなく、不在で完成する。

 完成した別れは、誰の目にも触れない。

 誰の目にも触れないから、誰も救わない。

 それでも――私は、これを選ぶ。


 ♢


 去る瞬間は、驚くほど静かだった。


 扉を閉める音を立てない。

 振り返らない。

 泣かない。


 廊下の灯りは淡い。

 屋敷は眠っている。

 眠っていることが、残酷だ。

 私が消えていくのに、世界は眠ったままだ。

 眠りは、日常の継続を保証する。私の不在を、明日の当然に変えてしまう。


 玄関を抜ける。

 門へ向かう。

 冷たい夜気が頬に触れる。


 門は静かだった。

 誰も追ってこない。

 誰も気づかない。


 それが、処理であり整理だということを、私は理解する。

 罰ではない。

 追放でもない。

 ただ、ここに置けない現実があり、誰も引き受けられないから、私が引き受ける。


 誰も悪くない。

 誰も優しくない。

 だから、誰も救わない。

 救いがないことが、秩序の完成なのだと、今は分かる。


 門へ向かう足取りは、驚くほど安定していた。


 これから先、どこで生きるのか。

 どんな朝を迎えるのか。

 子どもを抱いた未来が、どんな重さを持つのか。


 考えるべきことは、山ほどある。


 けれど今は、考えない。


 私はもう、選んだ。

 選んでしまった。


 だから歩く。


 夜が終わることを、

 自分の足で引き受けるために。


 私は、夜の外に出る。

 夜が終わる。

 逃げ場が終わる。

 物語が昼に向かう。

 昼に向かうことが、私にとって救いになるかどうかは分からない。

 分からないまま進むことだけが、今の私の現実だ。


 足元の土は冷たく、けれど確かだ。

 屋敷の床のように磨かれていない。

 滑らない。

 その粗さが、今は救いだった。

 磨かれていないものは、落ちても痛い。痛いから、生きていると分かる。


 私は一度だけ、呼吸を深くする。

 胸の奥のざわめきは消えない。

 けれど、歩ける。

 歩けるから、進む。


 振り返らない。

 振り返っても、扉はもう開かないのだと分かっているから。

 開かない扉を見てしまえば、私は自分の決定を疑ってしまう。


 夜は、もう私のものではない。

 そして、この家も、もう私のものではない。

 私のものではない場所で、私は長い間、自分の呼吸だけを守ってきた。

 それを手放す。


 ♢


 ――メイリスは追い出されたのではない。

 残ることが、誰の救いにもならないと分かってしまったから、出ていった。

 そしてその“分かってしまった”ことこそが、彼女に残された最後の選択だった。


メイリスは、最後まで「言葉」ではなく「形」で生きた人でした。

何かを訴えるより先に、自分の感情を整え、誰も悪者を作らないように、音を消していく。

優しさに見えるそれは、同時に、彼女が身につけた生存の技でもあります。


追い出されたわけではない。

けれど、残ることもできない。

その中間に置かれたまま、彼女は“夜の外”を選びました。


この回で描きたかったのは、「別れ」の劇的さではなく、

劇的にならないまま進んでしまう現実の残酷さです。

そして――何も起きないように見える瞬間ほど、心の中では最も大きな何かが終わっている、ということ。


ここから先、彼女の不在は、静かに誰かを揺らしていきます。

夜は終わります。

でも、夜にいた人の影が消えるわけではありません。


読んでくれて、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
最新話追いつきました!!  暗い。相変わらず救いがない。  メイリスが夜伽をし始めたあたりで、この結末を迎える気はしていました。異世界である上に避妊具もないでしょうから。 結局エルは生前と変わらない…
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