54.『夜の外へ』
廊下に出た時点で、もう決まっていた。
理由は分からない。
けれど、足の裏が妙に冷たく感じた。
磨かれた床の感触が、いつもよりはっきりと伝わってくる。
私は立ち止まらなかった。
立ち止まれば、何かを考えてしまう気がしたからだ。
考え始めれば、言葉が増える。言葉が増えれば、どこかに逃げ道が生まれる。
逃げ道が生まれた瞬間、私はきっとそこへ縋りついてしまう。
少し先に、クリストフ様がいる。
振り返らない。
呼びかけもしない。
ただ、そこにいる。
その背中が示しているのは、
「ついて来るか」ではなく、
「もう戻らない」という前提だった。
私は、その距離を保ったまま歩く。
追いつこうともしない。
離れようともしない。
屋敷はいつも通りだ。
静かで、整っていて、無関心だ。
無関心であることが、この屋敷の強さであり、弱さだとも、今なら分かる。
途中、侍女と視線が合った。
彼女は何か言いかけて、すぐに口を閉じる。
言葉が不要な場面だと、
彼女も分かってしまったのだと思う。
あるいは――言葉が許されない場面だと、身体が先に理解したのかもしれない。
私は軽く会釈をした。
それ以上の動作をすると、
自分が「まだここに属している」ような錯覚をしてしまいそうだった。
錯覚に甘えたら、私はきっと足を止める。止めた瞬間、決定は私の中で“抵抗”になる。
抵抗になれば、誰かが私を説得しなければならない。
説得が生まれれば、誰かの優しさが必要になる。
――私はもう、誰かの優しさに借りを作りたくなかった。
歩きながら、胸の奥がひどく落ち着いていることに気づく。
動悸はない。
めまいもない。
それが逆に、不安だった。
私は、いつも異変を伴って何かを失ってきた。
今日は違う。
身体が、妙に協力的だ。
――歩ける。
その事実が、
今日起きることの性質を、雄弁に語っていた。
“歩けるもの”は運べる。
“泣かないもの”は扱える。
“倒れないもの”は片づけられる。
扉の前で、クリストフ様が足を止める。
合図はない。
視線も向けられない。
それでも私は理解する。
ここから先は、
自分の意思で「入る」場所ではない。
入ること自体が意思の表明になるわけではない。
入らないことだけが、意思になる。
そして、私にはもう――入らないという選択が残っていない。
取っ手に触れる前に、
一瞬だけ、呼吸が浅くなる。
逃げたいわけではない。
拒みたいわけでもない。
ただ、
この扉の向こうにあるものが、
私を「元の位置」には戻さないと分かっている。
だから、確認はしない。
私は何も言わず、扉を開けた。
その瞬間、
背後で、低い声が落ちる。
「……こちらです」
案内ではない。
選択肢でもない。
それは、
処理の開始を告げる音だった。
そして私は、その音に合わせて歩幅を変えないことだけを、自分に課した。
♢
小さな執務室――と呼ぶには、少しだけ私的な空間だった。
書類棚があり、机があり、椅子が二つ。
窓は閉められていないのに、風が入ってこない。
入ってきてもいいはずのものほど、今日は入ってこない。
外気の匂いも、遠い鳥の声も、わざと遮られているみたいに薄い。
クリストフ様は先に座らない。
私が腰を落ち着けるのを待ち、それから向かいではなく斜めの位置に立った。
対峙ではなく、確認の距離。
私が逃げない距離。
逃げたくても逃げられない距離。
その位置取りが、彼の役割を正確に示している。
「お身体の件で、すでに医師の確認は済んでいますね」
「……はい」
「生活の見直しが必要だと」
「……はい」
彼は一つずつ、事実だけを置いていく。
怒りはない。
慰めもない。
言葉が、どちらの温度も帯びない。
だから、余計に刺さる。
温度のない言葉は、受け取る側にだけ熱を生む。
その熱を私は、表に出せない。
「結論から申し上げます。メイリス殿は――屋敷を離れていただきます」
一瞬、音が消えた気がした。
呼吸も、心臓も、窓の外の鳥の声も。
すべてが遠くなる。
それでも私は、驚かなかった。
驚く余白がない。
私はずっと、これを予感し続けていた。
予感の正体は恐怖ではなく、整合だった。
ここまで来たなら、次はそうなる――ただその順番を、私の身体が知っていた。
「理由は、身分と秩序です」
彼は続ける。
“理由”という言葉の後ろに、評価がない。
正しさだけがある。
「これは処罰ではありません。追放でもない」
追放ではない。
その言葉が、なぜか胸を少しだけ痛くした。
追放であれば、まだ分かりやすかったからだ。
悪者がいる。
罰がある。
因果がある。
けれど現実は、いつもそうではない。
「ここに置けない、という判断です」
出ていけではない。
置けない。
主体が消える言い方。
誰も追い出していないのに、私は出ていくしかなくなる。
誰も責めない形に整えられた言葉ほど、逃げ道を奪う。
「アルヴェイン家が、生活と身分を保証します」
保証。
冷たい言葉のはずだった。
なのに喉が熱くなる。
生きる場所は与えられる。
だが、居場所は与えられない。
保証は“生存”の約束で、帰属の約束ではない。
「行き先は領内です。ですが――領内の、誰も知らない場所になります」
誰も知らない。
その言葉は、優しさにも見えるし、処理にも見える。
守るための秘匿なのか。
消すための秘匿なのか。
どちらでもあるから、より残酷だった。
“誰も知らない”という条件は、守りであると同時に、孤立の完成でもある。
「当面、外部との接触は最小限に。人の出入りも制限されます」
私は、理解した。
これは“罰”ではない。
けれど“自由”でもない。
保護と管理の境界は、思っているより薄い。
守られるほど、動けなくなることがある。
動けなくなることが、静かさの代償だ。
「……エルディオ様には」
私は、口にした瞬間に自分で分かった。
この問いは、希望ではない。
ただの確認だ。
私の中で最後に残った、たった一つの“揺れ”を確かめるための。
揺れを確かめておかなければ、私はこの先、別の場所で壊れる。
クリストフ様は、ほんのわずかに間を置いて、答えた。
「告げません」
短い。
迷いがない。
決められたことを、決められた形で運ぶ声だ。
「徹底します。メイリス殿の件は、エルディオ様に伝えない。――その方が、静かです」
「静かです」
その言葉は、許可のようでいて、決別だった。
“静か”という音のない布で、私という存在を包み、包んだまま運び出して、見えない場所に置く。
私はずっと、その布の中で息をしてきた。
声を荒げない。泣き叫ばない。理由を問わない。
そうすれば、世界は私を拒まない。拒まれないというだけで、居場所になる。
私はそれを“救い”だと勘違いできた。
けれど今、同じ布が私を締める。
「……静かに、ですね」
私の声は自分でも驚くほど淡かった。
笑いもしない。震えもしない。
ただ、言葉の表面だけが滑る。
クリストフ様は肯く。
「余計な摩擦は避けます。屋敷の内側に残すべきものと、外へ出すべきものを、混ぜないために」
混ぜない。
その言い方が、あまりに正しい。
正しいから、私は反論ができない。
「外へ出すべきもの」
そこに私が含まれていると理解するだけで、胸の奥が静かに冷える。
冷えるのに、痛みはない。
痛みがないから、涙も出ない。
涙が出ないほど、私の現実は整っている。
「……噂、ですね」
私が言うと、クリストフ様は一拍置く。
肯定でも否定でもなく、ただ“状況”としての沈黙。
「噂は、誰にも責任がありません」
淡々とした言葉。
それは慰めではなく、宣告だ。
責任がないものほど、止められない。
「侍女の口は塞げません。目撃も防げません。推測も止まりません。――それは、屋敷の強さではなく弱さです」
強さでも弱さでもいい。
どちらでも、私はこの屋敷の“内側”には置けない。
「……エルディオ様を守るため、ということですか」
私が確認すると、クリストフ様は否定しない。
否定しない、という事実が答えになる。
「守る、という言葉は便利です」
彼は静かに言う。
「守ると言えば、誰も悪者にならない。ですが、実際に行われるのは――整理です」
整理。
その言葉が、私の中で硬く形を持つ。
罰ではない。追放でもない。
ただ、分類される。
必要なものと、不要なもの。
公にできるものと、できないもの。
置けるものと、置けないもの。
私はその“置けない”側に回っただけだ。
それだけなのに、私の世界は外へ押し出される。
「メイリス殿」
クリストフ様が私の名を呼ぶ。
「あなたがここを離れることは、あなたの価値を否定することではありません」
価値。
その言葉は、私には遠い。
私は価値で生きてきたのではなく、“拒まれない場所”で息をしてきただけだ。
拒まれないことだけが私の基準だった。
だから、価値の話をされるほど、私は自分が場違いに感じる。
「……私は、価値が欲しかったわけではありません」
ぽつりとこぼれた声は、意外と真っ直ぐだった。
「ただ、居場所が……」
言い切れなかった。
居場所、と言った瞬間、その居場所が崩れる音がする気がしたからだ。
言い切れば、私は自分でそれを認めてしまう。
認めた瞬間、戻る理由が永遠に消える。
クリストフ様は目を伏せない。
同情もしない。
けれど、冷たくもしない。
「居場所は、作るものではなく、許可されるものです。この屋敷では特に」
――許可。
その単語が、私の喉を塞いだ。
私はずっと、許可されない側の人間だった。
夜だけが、許可を必要としなかった。
だから夜に行った。
だから夜が居場所になった。
けれど今は、夜すら条件を要求する。
守れ。休め。隠すな。説明しろ。
そのすべてが正しくて、正しいからこそ夜を壊す。
夜が壊れたら、私の居場所は消える。
「……分かりました」
私は言う。
分かった、と言うしかない。
分かった、と言った瞬間から、現実は速度を上げるから。
現実は、理解した者から先に進む。理解してしまった者には、戻る余地がない。
「エルディオ様は王都へ向かいます」
淡々とした声が続く。
「魔物、魔族討伐の功績に対する叙勲式が控えています。表向きはその出席。加えて、王都の騎士団に入団させる方針です」
叙勲。
騎士団。
王都。
光の当たる場所。
前へ進む名目。
整った未来。
その言葉の列は、私の中の“夜”とあまりにも相性が悪かった。
夜に慣れた私には、眩しさは痛みと同じだ。
「彼にとって必要な道筋です」
クリストフ様は、評価を乗せずに言う。
必要。
必要という言葉はいつも正しい。
正しいから、誰も反対できない。
正しい言葉に反対する者は、必ず“悪者”になる。
「……私は」
私は言いかけて、やめた。
「行きたくない」と言いたいわけではない。
「残りたい」と言いたいわけでもない。
ただ、口を開けば、言い訳が混ざる。
言い訳が混ざれば、今日の意味が薄くなる。
薄くなった意味は、後から必ず私を襲う。
クリストフ様は、私が止まったことに反応しない。
反応しないという反応で、先を塞ぐ。
塞がれることに、私はどこか安堵してしまう。
自分で決める責任を、持たなくて済むからだ。
「準備は、今夜のうちに」
「……今夜」
「夜明け前に屋敷を出ます」
夜明け前。
夜と昼の境目。
曖昧さが最も濃い時間。
私にふさわしい、とでも言うように。
昼になってしまえば、私はここにいられない。だから夜明け前が選ばれる。
夜の終わりと一緒に、私も終わる。
「侍女には、必要最低限の者にのみ伝えます。屋敷内の混乱を避けるためです」
混乱。
避ける。
私がずっとしてきたことと同じだ。
混乱を避けるという名目で、感情を避けてきた。
感情を避けた結果、今の私は“整ったまま”切り離される。
「メイリス殿」
クリストフ様が私の名を呼ぶ。
その呼び方は、慰めでも叱責でもなく、確認のための音だった。
「これは、あなたを責める決定ではありません」
責めない。
責めないことで、救わない。
私は、その構造を知ってしまっている。
責められた方がまだ、存在を認められる。
責められないのは、正しさの中で消えるということだ。
「……はい」
私は言った。
驚かない。反論しない。
ただ「はい」と答える。
彼女はすでにこの結論に辿り着いている――
その通りだ。
私はずっと、私の中でこの扉を何度も閉めてきた。
閉める練習だけは上手になった。
開ける練習は、誰も教えてくれなかった。
「必要なものは手配します。医師も常に」
「……ありがとうございます」
礼を言うのが正しいと分かるから、礼を言った。
正しい言葉ほど、今日の私には空虚だった。
空虚なのに、言わなければならない。
空虚でも形だけ整えることが、私の役割だったからだ。
「最後に確認します」
クリストフ様が言う。
その言葉で、私は理解した。
私の意思がどうであれ、ここは確認の場だ。
「この決定に異議はありますか」
私は、息を吸う。
異議はない。
異議を唱えたところで、誰かが悪者になるだけだ。
私は悪者を作りたくない。
それは優しさではなく、今までの習慣だ。
悪者が必要な場面で生きてこなかった者の、卑怯な生存術だ。
「……ありません」
口に出した瞬間、何かが胸の中で確定した。
私が“夜の存在”ではいられなくなったこと。
私が“屋敷の内側”から切り離されること。
そして、それが罰ではないことが、最も残酷だということ。
その理解は、痛みを伴わなかった。
それが、いちばん怖かった。
痛みがないということは、もう抵抗できないということだ。
拒絶も、混乱も、怒りも起きない。
ただ、現実だけが静かに定着していく。
私はこれまで、何かを失うときには必ず身体が先に反応していた。
息が詰まり、視界が揺れ、膝が笑う。
そうやって、心よりも先に「嫌だ」と訴えてくれていた。
今日は、それがない。
胸は静かで、思考も澄んでいる。
自分が今、どこに立っていて、何を引き受けようとしているのかが、はっきり分かる。
――だから、逃げられない。
私はもう、この決定を「分かってしまった側」なのだ。
罰であれば、誰かを恨めた。
追放であれば、怒りを持てた。
けれどこれは、誰かが正しく判断した結果で、誰も間違っていない。
間違っていないからこそ、修正もできない。
私は、黙ってそれを受け取る。
「……承知しました」
声に出した自分の言葉が、思った以上に平坦で、少しだけ驚いた。
感情が乗っていない。
それが、ここまで来てしまった自分の現在地だった。
クリストフ様は頷くだけで、それ以上は言わない。
彼にとって、私の感情は確認事項ではない。
確認すべきなのは、決定が滞りなく運ばれるかどうか、それだけだ。
その距離感が、今はありがたかった。
もしここで、同情や慰めが差し出されていたら、私はきっと崩れていた。
崩れたら、何かを求めてしまう。
求めてしまえば、また誰かを縛る。
私はもう、縛りを作りたくなかった。
縛りは優しさの形をして、最後に必ず重石になる。
♢
部屋を出たあと、私は自室に戻った。
扉を閉め、背中を預ける。
足が、ほんの少しだけ震えた。
泣きはしない。
泣けば、何かを求めてしまう。
誰かが応えてしまう。
応えたら、また均衡が揺れる。
私は、泣かないことに慣れている。
夜の中では、泣く必要がなかった。
拒まれない場所に身を置けば、感情は必要ない。
必要なのは、静かに息をすることだけだった。
けれど今は、昼が迫っている。
昼は、名前を問う。立場を問う。未来を問う。
私はずっと、その問いを夜に沈めてきた。
――私がそばにいる限り、この人は「生きる方向」を向かない。
その認識が、喉の奥に刺さる。
私はずっと分かっていた。
自分は救いではない。
選ばれていない。
見られていない。
名前を呼ばれても、それは代替の音だ。
それでも夜は、拒まなかった。
拒まれないという事実が、私の居場所になっていた。
居場所という言葉の本来の意味を、私は知らないまま、それを居場所と呼んでいた。
妊娠が分かった瞬間、すべてが確定した。
私がここにいる限り、エルは何も選ばなくていい。
何も終わらせなくていい。
立ち上がらなくていい。
それは優しさではない。
停滞だ。
麻酔だ。
延命だ。
そして、子どもが生まれたら――
私は、未来を想像する。
小さな手。
小さな呼吸。
泣き声。
それを見たエルの顔を想像しようとして、できなかった。
父になる姿が思い描けない。
父という言葉は、責任という名の重石だ。
彼は、それを望んでいない。
望んでいないことを、両親は見抜いている。
私も、見抜いてしまっている。
見抜いてしまった者は、知らなかったふりができない。
このままでは、彼は折れる。
責任の重さで。
説明の重さで。
正しさの重さで。
だから引く。
犠牲ではない。
自己否定でもない。
ただ、自分にできる唯一の“選択”として。
私がいなくなることが、この人にできる唯一の前進だと分かってしまった。
その理解が、静かに私を動かす。
動くことでしか、私は自分の正気を保てない。
私は椅子から立ち上がる。
動作は自然で、ぎこちなさはない。
足は震えていない。
床は冷たいが、感覚は確かだ。
確かであることが、私をさらに追い込む。
曖昧であれば、私はまだ夜に逃げられた。
「本日は、これで」
クリストフ様がそう言う。
終わりを告げる言葉なのに、区切りの響きはない。
処理の工程が一つ進んだ、というだけの音だ。
私は一礼する。
深くも浅くもない、ちょうどいい角度。
ここで感情を見せないことが、私に課された最後の役割だと分かっている。
役割を果たせば、私は最後まで“整ったまま”いられる。
整っていれば、誰も私を止めない。
扉に向かう背中に、声はかからない。
引き止められない。
確認もされない。
それが、この決定の完成形だった。
私は“止められないように”決められたのだ、と今になって分かる。
廊下に出ると、空気が少しだけ緩んだ。
屋敷の中は、何事もなかったように整っている。
その整い方が、胸に刺さる。
私はここで、何年も同じように歩いてきた。
同じ床、同じ壁、同じ灯り。
違うのは、私の立場だけだ。
立場が変わっただけで、私はここにいられなくなる。
それが秩序だ。
「夜の役割」は、もう終わった。
そう自覚した瞬間、
不思議なことに、喪失感よりも先に安堵が来た。
――これ以上、間違えなくていい。
その安堵が、少し遅れて自分を責める。
救われてしまったような気がして。
でも、これは救いではない。
ただ、終わりだ。
終わりが救いに見えるほど、私は長く夜にいた。
♢
深夜。
屋敷の音が消える時間。
廊下の灯りは最小限になり、床は磨かれたまま冷たい。
私は私物をまとめた。
最小限。
布を畳むたび、音がする。
乾いた、薄い音。
それが妙に大きく聞こえる。
夜の屋敷は静かだ。
静かだから、私の作る音だけが“存在”になる。
存在になるのが怖い。
誰かに見つかるのが怖いのではない。
“存在していた”ことが、形になるのが怖い。
形になれば、誰かがそれを処理しなければならないからだ。
私は、畳み方をいつもより丁寧にした。
丁寧にすれば、正しいことをしている気になれる。
正しさは、私を落ち着かせる薬だ。
薬が必要な時点で、私はもう安定していないのに、安定しているふりができる。
机の引き出しを開ける。
そこには小さな箱が一つ入っていた。
私はそれを見て、閉じた。
持っていけない。
持っていけば、それは思い出になる。
思い出になれば、私はいつか振り返る。
振り返れば、戻りたくなる。
戻りたくなれば、私はまた夜を欲しがる。
私はもう、夜を欲しがる自分を抱えたままではいられない。
守るべきものがあるからではない。
守らなければならない、と言われたからだ。
その違いが、残酷だ。
誰かの命令は、私の選択の形を奪う。
衣を畳み、薬包を確認し、書類を整える。
“未来を生きるための道具”だけを選び取る作業は、奇妙に冷静だ。
冷静だからこそ、現実味がある。
現実味があるからこそ、胸の奥がじわじわと沈む。
ふと、指先が腹部のあたりに触れそうになって止まる。
触れれば、意味が増える。
意味が増えれば、責任が増える。
責任が増えれば、私はますます“昼”へ押し出される。
私はまだ、昼の言葉に耐える準備ができていない。
“母”という言葉も、“家族”という言葉も、私には重すぎる。
その重さを引き受けることを、私は怖がっている。
怖がっていることを認めたくないから、触れない。
鏡を見る。
顔色は悪くない。
目も赤くない。
唇の色も落ちていない。
「……いつも通りだわ」
声に出してみる。
声は揺れない。
揺れないことが、怖い。
私はいつも通りでいられる。
いつも通りでいられるからこそ、消えることができる。
消えることができるからこそ、誰も止めない。
――歩ける。
――泣いていない。
――倒れていない。
その三つが揃った瞬間、私は“処理可能”になる。
処理可能という言葉が、私の背中を冷やす。
私は人ではなく、案件になった。
案件は、感情で扱えない。
私は髪をまとめ、襟元を整え直す。
その動作は、侍女として身についた癖だ。
整えることで、心も整うと信じてきた。
けれど今日は違う。
整えるほど、私が“屋敷の一部”として完成してしまう。
完成してしまえば、ここに残っていたくなる。
残りたくなれば、私はまた何かを壊す。
だから私は、最後に一つだけ、整えないものを残した。
手袋をつけない。
指先を隠さない。
この手で触れた夜の記憶を、布で消したくなかった。
手袋をつければ、私はすべてを“仕事”に戻してしまえる。
戻せば、ここに残りたくなってしまう。
残りたくなることこそ、今夜もっとも危険だ。
荷をまとめ、紐を結ぶ。
紐が締まる音が、乾いて響く。
締めるのは荷ではない。
私の過去だ。
ほどけないようにきつく結ぶのは、ほどきたくなる未来があるからだ。
部屋の端に置かれた椅子に目が止まる。
何度もそこで待った。
何度もそこで呼ばれるのを待った。
呼ばれなくても待った。
待つことが、私の役割だった。
私は椅子に触れない。
触れれば、感謝を覚えてしまう。
感謝を覚えれば、泣いてしまう。
泣けば、何かを願ってしまう。
私はもう、願いを持ちたくない。
願いは、届かなかったときに私を壊すから。
届いたとしても、今の私にはそれを受け止める腕がない。
扉の前に立つ。
取っ手に手を伸ばす。
その瞬間だけ、心臓が一拍遅れる。
――ここから先は、戻れない。
分かっている。
分かっているから、確認はしない。
私は何も言わず、ただ扉を開ける準備をする。
“さようなら”は言わない。
“ありがとう”も言わない。
言葉は、ここに私の痕跡を残す。
残した痕跡が、誰かの責任になる。
責任になれば、誰かが壊れる。
壊れるのは、私で十分だ。
私は静かに息を吸って、吐いた。
そして、夜に置いてきたはずの自分を、最後にもう一度だけ抱きしめるように、指先を握りしめた。
握りしめた指先は冷たくて、それが現実だった。
必要な布。
必要な薬。
必要な書類。
必要な金。
必要な――未来を生きるための道具だけ。
思い出になるものは持たない。
残すものも選ばない。
選べば、意味が生まれる。
意味が生まれれば、責任が生まれる。
責任は、誰かの言葉を呼ぶ。
私はもう、言葉を増やしたくない。
増えた言葉は、必ず誰かを巻き込む。
箱の中が空なのを見て、私は自分が何も持っていないことに気づく。
持っていなかったのではない。
持たないようにしてきたのだ。
夜の中では、持たない方が楽だった。
失うものが増えれば、痛みも増えるから。
けれど今、失う。
持っていようが持っていまいが。
私は、この屋敷の内側から切り離される。
切り離されることが決まった瞬間、私の過去は“置いていくもの”になる。
誰にも見られない。
侍女にも告げない。
名前を呼ばれない。
不在が自然に成立するための準備。
自然に成立するように整えることが、最後まで私の仕事になる。
私は、梳かした髪をまとめ、襟を整える。
鏡の中の私は、いつも通りに見えた。
だから、いつも通りだと決める。
いつも通りという仮面がなければ、私はここで崩れる。
扉の取っ手に触れたとき、胸がひゅっと狭くなる。
息が浅い。
それを緊張と呼べば簡単だ。
けれど今夜のそれは、もっと曖昧だ。
緊張ではなく、境界に触れた感覚。
内側から外側へ移るときの、皮膚の薄さ。
私は“さようなら”を言わない。
言えば、それは別れになる。
別れになれば、相手も何かを返さなければならない。
返される言葉が、救いになるとは限らない。
むしろ、縛りになる。
私は縛りを残したくない。
彼を縛りたくない。
私自身も縛られたくない。
だから、言葉は持たない。
私は不在として別れを完成させる。
完成させるためには、未完成のまま置いていく勇気が要る。
♢
私は一度、足を止めた。
ここまで来て、初めて迷いが顔を出す。
この扉の向こうに入ってしまえば、私はもう「不在」になる準備を終えてしまう。
入らなければいい、という選択肢もある。
何も告げず、触れず、思い出を増やさないまま去ることもできる。
それは、もっと簡単で、もっと安全な別れだ。
安全な別れは、痛みを残さない。
けれど痛みが残らない別れは、私の中でずっと腐る。
腐った痛みは、いつか取り返しのつかない形で噴き出す。
けれど私は、それを選ばなかった。
理由は明確だ。
私は、自分が確かにここにいたことを、自分自身が否定したくなかった。
誰の記憶にも残らなくていい。
彼の人生に痕跡を残さなくていい。
ただ、私だけは知っていたい。
ここに来て、ここに触れて、
それでも去ることを選んだのだと。
それは未練ではない。
確認だ。
私の人生が“誰かの夜”だけで終わらないための、最後の証明。
私はもう一度、呼吸を整えてから、取っ手に手をかけた。
取っ手は冷たい。冷たいものに触れると、なぜか安心する。
熱いものは、私の感情を呼び起こしてしまうからだ。
エルの部屋の前に立つ。
鍵はかかっていない。
それだけで、私は救われる。
拒まれていないという事実が、最後にもう一度だけ私を呼吸させる。
拒まれていないからこそ、去るのが残酷になる。
扉を開ける音を最小限にする。
足音を消す。
床板の癖を知っている。
鳴る場所と鳴らない場所。
夜の中で覚えた知識だ。
この知識は、私がここで過ごした時間の証でもある。
室内は暗い。
窓から入る月明かりが、輪郭だけを作っている。
輪郭だけで十分だ、と私は思う。
細部を見てしまえば、私は戻りたくなる。
彼は寝ている。
無防備だ。
何も知らない。
起こさない。
寝息は規則正しい。
それが、今日だけは痛い。
規則正しいものは、私を否定する。
私の中の乱れを浮き彷りにする。
乱れがあるのに、私はそれを整えたふりをしている。
私は、ゆっくりと近づく。
ベッドの縁に膝をつき、彼の髪に指を触れた。
――髪を撫でる。
指先が触れた瞬間、胸の奥が静かに崩れそうになる。
けれど崩れない。
崩れれば、音が出る。
音が出れば、彼が目を覚ます。
目を覚ませば、言葉が生まれる。
言葉が生まれれば、別れが“拘束”になる。
私は、崩れない。
崩れないことで、私の愛情は形を持てない。
形を持てない愛情は、誰にも見えない。
誰にも見えないものは、誰も責任を取らない。
――だから、私が全部引き受ける。
――額に触れる。
熱い。
生きている熱。
私はその熱に、何度も救われた。
救われたくせに、救えていない。
「……」
名前を呼びそうになる。
呼べば、ここに自分がいたことが刻まれる。
刻まれれば、彼は問いを持つ。
問いは、彼を壊す可能性がある。
壊す可能性があるものを、私は与えられない。
私は、呼ばない。
――一度だけ、キスをする。
軽い。
起こさない。
所有でも別れでもない。
ただ、今この瞬間に私が存在したという証を、私だけが持つための行為。
彼の記憶に残らなくていい。
残らない方が、彼は前へ行ける。
前へ行けることが、彼の救いであるなら、私の不在は必要になる。
私は唇を離し、呼吸を整える。
泣かない。
さようならも言わない。
唇を離した瞬間、胸の奥に熱が広がる。
それは悲しみでも、愛しさでも、後悔でもない。
言葉を与えなかったことへの、静かな痛みだ。
与えないことは、逃げではない。
与えないことは、私の覚悟だ。
もし彼が目を覚ましたら。
もし私の名を呼んだら。
もし、ここにいろと言ったら。
私は、そのすべてを拒めない。
拒めない自分を知っているから、
私は何も起こらない形を選ぶ。
何も起こらない形は、彼を守る。
同時に、私を一番残酷に壊す。
愛しているからこそ、
説明しない。
欲しかったのは、選ばれることではない。
引き留められることでもない。
ただ、
彼が「生きる方向」を見失わないこと。
そのためなら、
私は不在になる。
それが、私にできる最大の誠実だ。
私の別れは、言葉ではなく、不在で完成する。
完成した別れは、誰の目にも触れない。
誰の目にも触れないから、誰も救わない。
それでも――私は、これを選ぶ。
♢
去る瞬間は、驚くほど静かだった。
扉を閉める音を立てない。
振り返らない。
泣かない。
廊下の灯りは淡い。
屋敷は眠っている。
眠っていることが、残酷だ。
私が消えていくのに、世界は眠ったままだ。
眠りは、日常の継続を保証する。私の不在を、明日の当然に変えてしまう。
玄関を抜ける。
門へ向かう。
冷たい夜気が頬に触れる。
門は静かだった。
誰も追ってこない。
誰も気づかない。
それが、処理であり整理だということを、私は理解する。
罰ではない。
追放でもない。
ただ、ここに置けない現実があり、誰も引き受けられないから、私が引き受ける。
誰も悪くない。
誰も優しくない。
だから、誰も救わない。
救いがないことが、秩序の完成なのだと、今は分かる。
門へ向かう足取りは、驚くほど安定していた。
これから先、どこで生きるのか。
どんな朝を迎えるのか。
子どもを抱いた未来が、どんな重さを持つのか。
考えるべきことは、山ほどある。
けれど今は、考えない。
私はもう、選んだ。
選んでしまった。
だから歩く。
夜が終わることを、
自分の足で引き受けるために。
私は、夜の外に出る。
夜が終わる。
逃げ場が終わる。
物語が昼に向かう。
昼に向かうことが、私にとって救いになるかどうかは分からない。
分からないまま進むことだけが、今の私の現実だ。
足元の土は冷たく、けれど確かだ。
屋敷の床のように磨かれていない。
滑らない。
その粗さが、今は救いだった。
磨かれていないものは、落ちても痛い。痛いから、生きていると分かる。
私は一度だけ、呼吸を深くする。
胸の奥のざわめきは消えない。
けれど、歩ける。
歩けるから、進む。
振り返らない。
振り返っても、扉はもう開かないのだと分かっているから。
開かない扉を見てしまえば、私は自分の決定を疑ってしまう。
夜は、もう私のものではない。
そして、この家も、もう私のものではない。
私のものではない場所で、私は長い間、自分の呼吸だけを守ってきた。
それを手放す。
♢
――メイリスは追い出されたのではない。
残ることが、誰の救いにもならないと分かってしまったから、出ていった。
そしてその“分かってしまった”ことこそが、彼女に残された最後の選択だった。
メイリスは、最後まで「言葉」ではなく「形」で生きた人でした。
何かを訴えるより先に、自分の感情を整え、誰も悪者を作らないように、音を消していく。
優しさに見えるそれは、同時に、彼女が身につけた生存の技でもあります。
追い出されたわけではない。
けれど、残ることもできない。
その中間に置かれたまま、彼女は“夜の外”を選びました。
この回で描きたかったのは、「別れ」の劇的さではなく、
劇的にならないまま進んでしまう現実の残酷さです。
そして――何も起きないように見える瞬間ほど、心の中では最も大きな何かが終わっている、ということ。
ここから先、彼女の不在は、静かに誰かを揺らしていきます。
夜は終わります。
でも、夜にいた人の影が消えるわけではありません。
読んでくれて、ありがとうございました。




