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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
メイリス編

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53.夜の外へ-2

 呼び出しは、静かだった。


 扉を叩く音はなく、呼び鈴も鳴らない。

 ただ、私室の外に立つ気配があり、名を呼ばれた。


「……メイリス殿」


 低く、抑えた声。

 聞き慣れた声だった。


 扉を開ける前から、分かっていた。

 これは確認ではない。

 相談でもない。


 報告だ。


 拒否する余地のない種類の呼び出しだった。


「少し、お時間をいただけますか」


 命令ではない。

 けれど、断るという発想が最初から存在しない言い方だった。


 私は頷き、上着を取ることもなく、扉を出た。

 廊下は静かで、足音が必要以上に響く。


 夜ではない。

 けれど、昼でもなかった。


 その曖昧な時間帯が、今日に限っては残酷だった。


 クリストフは歩き出さない。

 私が先に動くのを待っている。


「……今で、よろしいのですか」


 私は自分の声が震えないように、ゆっくり言った。

 確認の形を取って、時間を稼ごうとしているだけだと、自分でも分かる。


「今です」


 即答だった。

 否定できない短さ。


「……少し、身支度を」


「不要です。歩けますね」


「歩けます」


 口にした瞬間、胸の奥が冷えた。

 “歩けるかどうか”が判断基準になっていることが、私には怖い。


 廊下を進みながら、侍女が一人、柱の陰から姿を見せた。

 私とクリストフの間に言葉がないことを見て、言葉を飲み込んだ顔。


「メイリス様……」


 呼び止める声ではない。

 ただ、名を確かめるような小さな声。


 私は頷く。

 何を伝えればいいのか分からないから、頷くしかない。


 侍女は、視線を落とした。

 その動きが、祈りのように見えた。


 クリストフは振り返らない。

 代わりに、足音だけが一定の間隔で続く。

 一歩ごとに、逃げ道が減っていく。


 私は気づく。

 この呼び出しは、私を“守る”ためではない。

 私が作ってきた曖昧さを、ここで終わらせるためのものだ。


「……クリストフ様」


「はい」


 返事だけはする。

 続きを促すための返事ではなく、ただ音としての返事。


「私は……」


 言いかけて、止める。

 言葉を作れば、言い訳が混ざる。

 言い訳が混ざれば、今日の意味が薄くなる。


 クリストフは、私が止まったことに反応しない。

 反応しないという反応で、先を塞ぐ。


 応接室の前に立ったとき、私は息を吸って、吐いた。

 扉の取っ手は冷たい。


「入ります」


 誰に言ったのか分からない言葉が、口から落ちた。


「どうぞ」


 クリストフの声は、開ける許可ではなく、

 “もう戻れない”という合図だった。


 ♢


 応接室は、前に入ったときと同じだった。


 窓。

 椅子。

 机。

 壁に掛けられた装飾。


 何一つ変わっていない。

 けれど、意味だけが違っていた。


 扉が閉まる音が、静かに鳴る。


 鍵はかからない。

 だが、それが逃げ道を意味しないことを、私は知っていた。


 中にいたのは三人。


 アイン様。

 ミレイユ様。

 そして、壁際に立つクリストフ。


 全員が、すでに「知る側」に立っている。


 私は立ったままではいられなかった。

 自然に、椅子を勧められる。


 座らされた、という感覚に近い。


 正面にはアイン様。

 背筋を伸ばし、表情は読めない。


 斜めにミレイユ様。

 視線は机の縁に落とされ、私と合わない位置。


 クリストフは壁側。

 発言者の位置。

 感情を置かない場所。


 配置だけで、役割が分かる。


 ここは、家族の場ではない。

 裁く場でもない。


 確定の場だ。


 椅子に腰を下ろすと、座面がわずかに軋んだ。

 その小さな音が、部屋の静けさを測る基準みたいに残る。


 アイン様が、机の上の紙束を整える。

 何も書かれていない紙に見えるのに、指先の動きは“整えるべきもの”を扱う動きだった。


 ミレイユ様は、手袋を外していない。

 指先まで隠していることが、今日の距離を示しているようだった。


 私は背筋を伸ばそうとして、やめる。

 姿勢を正せば、嘘が増える。


「……体調は」


 アイン様が言った。

 質問の形だが、心配の響きは薄い。


「……少し、崩しておりました」


「いつからだ」


「……はっきりとは」


「はっきりしない、というのは」


 言葉が続く。

 責めてはいない。

 ただ、逃げ道を潰すように、言葉の輪郭だけを太くしていく。


「……私が、数えなかっただけです」


 自分の言葉が、思ったより率直に聞こえて、胸が詰まった。


 ミレイユ様が、机の縁をなぞる。

 爪が布に触れて、かすかな音がする。

 それが、彼女の言葉の代わりみたいだった。


 私は、息を整える前に頭を下げた。


「……申し訳ございません」


 それだけを言った。


 何に対しての謝罪かは言わない。

 言えなかったのではない。

 定義しなかった。


 罪を言語化した瞬間、逃げ道が一つ増えるからだ。


 部屋が静まる。


 誰も、すぐに否定しない。

 誰も、理由を尋ねない。


 沈黙が、床に落ちる。


 ミレイユ様は、顔を上げない。

「何を謝っているの?」とも聞かない。


 アイン様は、ほんの少しだけ眉を動かした。

 それでも怒りではない。

 “謝罪という形式”を受け取っただけの顔。


「謝罪は後でいい」


 その言い方が、私を楽にしない。

 後で、という言葉が、何かの処分を想像させるからだ。


「……はい」


 私の返事は小さかった。

 小さいほど、この部屋で私は軽くなる。


 アイン様が一呼吸置いてから口を開いた。


「……体調の件だと聞いた」


 事務的な声だった。

 責める調子ではない。

 気遣いでもない。


 ただ、話を始めるための一文。


 ♢


「報告いたします」


 クリストフが一歩前に出る。


 声は低く、均一で、揺れがない。


「数日前より、メイリス殿の体調不良が顕著となり、医師を手配しました」


 評価は入らない。

 判断も、感想も。


「診察の結果――」


 一拍。


「懐妊が確認されました」


 空気が、わずかに沈む。


 誰も声を上げない。

 誰も息を呑まない。


 驚きがない、というより、

 想定の中にあった沈黙だった。


 ミレイユ様の指先が、ほんの一瞬だけ動く。

 それだけ。


 アイン様は、視線を逸らさない。


「……医師は、何と」


 アイン様が言う。


 クリストフが答える。


「初期です。安静と、生活の見直しが必要だと」


「見直し……」


 私の口から、勝手に出た。

 言った瞬間、取り返しがつかない気がする。


「夜の生活のことを含みます」


 クリストフは言い換えない。

 婉曲にしない。

 私が使ってきた曖昧さを、ここで終わらせる声。


 ミレイユ様が、息を吐いた。

 それはため息ではなく、耐えるための呼吸だった。


「……メイリス」


 彼女が私の名を呼ぶ。

 母のように優しい呼び方ではない。

 女のように鋭い呼び方でもない。


 “屋敷の人間が屋敷の人間を呼ぶ”音。


 私は顔を上げる。

 視線は合わない。

 合わないまま、呼ばれたという事実だけが残る。


「……はい」


 それ以上、彼女は何も言わない。

 言えないのではなく、言わない。

 その選択が、今日の部屋の空気を作っている。


 ♢


 沈黙が一拍、落ちた。


 その沈黙の中で、私は分かる。

 次の言葉は、避けられない。

 避けられないことを、全員が分かっている。

 だから、誰も止めない。


 アイン様の声が、静かに続く。


「……ここで聞くのは、残酷だということも分かっている」


 前置きがある。

 前置きがあるのに、優しさではない。

 前置きは、これから刺す刃を“正当化”するための布だ。


「だが、確認が要る」


 確認。

 記録。

 屋敷の管理。

 そのどれも、間違っていない。

 間違っていないから、逃げられない。


「……父親は、誰だ」


 怒りはない。

 咎める響きもない。


 確認。

 記録。

 それだけ。


 私は唇を開き、閉じた。

 声が出ないわけではない。

 出せばいいだけの答えがある。


 けれど、その答えを出した瞬間、

 この部屋の沈黙が、別の形になる。


 “知っている沈黙”から、

 “裁定の沈黙”へ。


 私は一度、クリストフを見る。

 助けを求める目ではない。

 ただ、確認する。

 彼が、ここで私を救わないことを。


 クリストフは視線を逸らさない。

 逸らさないまま、何も言わない。

 その無言が、私の最後の逃げ道を塞ぐ。


「……言えません」


 そう言いたくなる。

 そう言えば、時間が稼げる。

 保留が延びる。


 でも、それは嘘になる。

 言えないのではない。

 言いたくないだけだ。


 ミレイユ様が、小さく首を振った。

 否定ではない。

 お願いでもない。

 ただ、“これ以上引き延ばさないで”という動き。


 私は息を吸う。

 吸った息が胸を刺す。


「……エルディオ様です」


 声は、思ったより落ち着いていた。


 言葉が、空間に落ちる。


 その瞬間、何も起きない。


 怒号はない。

 叱責もない。

 誰かが立ち上がることもない。


 代わりに起きたのは――

 完全な沈黙だった。


 誰も、私を見ない。


 アイン様は視線を机に落とす。

 ミレイユ様は、指を組み直す。

 クリストフは、壁を見たまま動かない。


 肯定でも、否定でもない。


 ただ、

 変更不能な事実として、場に定着する。


 ♢


 アイン様が、短く言う。


「……そうか」


 それだけ。


 正論もない。

 怒りもない。

 失望すら、見えない。


 私は、その一言の“軽さ”に息が詰まる。


 怒号の方が、まだ理解できた。

 叱責なら、まだ意味があった。

 ここには、意味がない。


 ただ、事実が落ちて、

 誰も拾わないだけ。


「……申し訳ございません」


 私は言う。

 もう一度。

 今度は、何に対しての謝罪か自分でも分からない。


 ミレイユ様が、やっと口を開く。


「謝らないで」


 短い。

 やわらかい。

 けれど救いではない。


「……でも」


「謝らないで。……それは、あなたの言葉じゃない」


 私は、その言葉の意味がすぐには分からなかった。

 “あなたの言葉じゃない”。

 では、誰の言葉なのか。


 屋敷の言葉。

 秩序の言葉。

 黙認の言葉。


 そう理解した瞬間、背中が冷える。


 ミレイユ様は続けない。

 続けたら、感情になる。

 感情になったら、誰かが壊れる。


 だから、止める。

 止めることで、何も救わない。


 アイン様が、机の上の紙を一枚、指先で押さえる。

 その動作が、裁定の印みたいに見えた。


「今後の扱いは、こちらで決める」


 命令でも宣言でもない。

 ただの事務のような言い方。


 私は頷くしかない。

 頷くことで、自分が“処理される側”になったことを認めてしまう。


「……何も、言わないのですね」


 自分でも驚くほど、静かな声が出た。


 アイン様が、私を見る。


「何を言えという」


 責めではない。

 正論だ。

 正論だから、私の喉が塞がる。


 ミレイユ様が、視線を落とす。

 落としたまま、言う。


「言葉は……刃になるわ」


 それが、この部屋で唯一の“感情”だった。

 けれど、その感情は誰かを庇うためのものではない。

 “これ以上傷を増やさないため”の技術だった。


 私は理解する。

 誰も怒らないことで、誰も救われない。

 沈黙が、すべてを決める。


 それが、この家のやり方だ。

 そして、私もそのやり方で生き延びてきた。


 だから今、

 そのやり方に、私が殺される。


 ♢


 今後の話は出ない。


 どうするか。

 どうなるか。

 誰が責任を取るのか。


 誰も言わない。


 なぜなら、これは処理ではない。

 裁定でもない。


 確定だからだ。


 クリストフが、最後に言う。


「当面、この件は我々三人のみが把握します」


 隠蔽ではない。

 保護でもない。


 保留だ。


 時間稼ぎという名の、何もしない選択。


「……誰にも、知らせないのですね」


 私の声は、思ったより平らだった。


 アイン様が答える。


「知らせて何が変わる」


 それも正論だった。

 正論は、私の居場所を削る。


 ミレイユ様が、短く言う。


「今は……増やさないで」


 増やさないで。

 何を。

 誰の痛みを。

 誰の責任を。

 誰の言葉を。


 私は聞けない。

 聞けば、刃が増えるから。


 クリストフが言葉を継ぐ。


「必要な時期が来たら、必要な形で決めます」


 必要な時期。

 必要な形。

 そのどれもが、私の意思を含まない言い方だった。


 私は、その意味を理解した。


 誰も怒らなかった。

 誰も責任を取らなかった。

 誰も「大丈夫」と言わなかった。


 ――だから。


 この子も、私も、

 誰の救済対象にもなっていない。


 夜は、完全に終わった。


 外に出たのではない。

 締め出されたのだ。


 誰も責めなかった。

 だから私は、どこにも居場所を持てなかった。


 ♢


 扉が開く音がする。


 私は立ち上がり、頭を下げる。


「失礼いたします」


 誰も、引き留めない。


 廊下に出た瞬間、空気が変わる。

 屋敷は、いつも通りだった。


 それが、何よりも残酷だった。


 夜は、もう私のものではない。


 私は歩く。

 歩けるから、誰も止めない。

 倒れないから、誰も抱えない。

 泣かないから、誰も救わない。


 背後で扉が閉まる音がした。

 静かで、丁寧な音。

 まるで、何もなかった日のように。


 ♢


 ――扉の向こう。


 私はもう聞く必要はないはずだった。

 けれど、廊下を曲がりきれずに、足が止まった。


 声は大きくない。

 壁越しに、言葉の輪郭だけが届く。


「……あの子には」


 ミレイユ様の声だった。

 “あの子”が誰を指すのか、私は考えない。

 考えた瞬間、胸が割れる。


 アイン様が、短く返す。


「知らせない」


 即答。

 私が聞いた中で、今日いちばん迷いのない言葉だった。


「……エルディオ様にも、ですか」


 クリストフの声。


「知らせない」


 同じ言葉が、もう一度落ちる。

 繰り返しは決定になる。


 ミレイユ様が、少しだけ間を置いて言う。


「知らされなければ、怒れないわ」


 怒れない。

 責められない。

 救えない。


 だから、沈黙だけが残る。


 アイン様の声が続く。


「屋敷の秩序を守る。領主の家としてな」


 領主。

 家。

 秩序。

 私の名前はそこにない。


 クリストフが、淡々と確認する。


「メイリス殿の身の上は」


 アイン様が答える。


「アルヴェイン家が保証する」


 保証。

 その言葉は冷たいはずなのに、私の喉が熱くなった。

 生きる場所は与えられる。

 だが、居場所は与えられない。


「屋敷には置かない」


 アイン様の声が、続いた。

 淡々とした言い方で、決定だけが落ちる。


「……では、どちらへ」


 クリストフが尋ねる。

 尋ね方は丁寧だ。

 だが選択肢を並べる問いではなく、決まった答えを口にするための確認だった。


「領内だ」


 アイン様が言う。


「アルヴェイン領の中で、誰も知らぬ場所に移す」


 誰も知らぬ場所。

 その言葉は、保護よりも先に隔離を思わせた。


 ミレイユ様の息が、わずかに乱れる。


「……本当に、誰にも?」


「侍女にも。家臣にも。近隣にも」


 アイン様は区切りながら言う。

 一つずつ、可能性を消していく言い方だった。


「名は変える。書類も整える。往来の口も閉じる」


「閉じる……」


 ミレイユ様が、ほとんど声にならない音で繰り返す。

 責めではない。

 それが必要だと分かってしまっている者の、薄い抵抗だった。


 クリストフが、静かに補う。


「人目を避けられる屋敷を手配できます。療養の名目で」


 療養。

 また、その言葉。

 “整う”という響きで、私の存在が処理されていく。


 アイン様が短く頷く気配がする。


「そうしろ。必要な者だけが出入りする。医師も、こちらで選ぶ」


 選ぶ。

 決める。

 管理する。


 救うための言葉ではなく、

 秩序を保つための言葉が積み上がっていく。


 ミレイユ様が、かすかに言う。


「……メイリスには、何と」


「淡々と伝えろ」


 アイン様は即答する。

 迷いがない。


「泣かせるな。だが、期待もさせるな」


 淡々と。

 それは最も残酷な形式だった。

 冷たさではなく、手続きの温度で人を追い出す。


 クリストフが、少しだけ声を落とす。


「……承知しました。生活の保証は」


「当然だ」


 アイン様が遮る。

 当然、という言葉が、慈悲ではなく義務の音になる。


「アルヴェイン家が責任を持つ。金も、衣も、住まいも。医療もだ」


「……はい」


 クリストフの返事は短い。

 短いほど、決定に近い。


 ミレイユ様が、ようやく言葉を探す。


「それでも……彼女は、ひとりになるわ」


 その声は、責めではない。

 抗議でもない。

 ただ事実を並べているだけだった。


 アイン様は、しばらく答えない。

 答えないことが、答えだった。


「……そして、エルディオは」


 ミレイユ様が言う。

 言葉の端が揺れている。

 彼女の中で“母”が顔を出しかけて、それでも“屋敷”が押さえ込む揺れだ。


 アイン様が、低く断言した。


「王都へ行かせる」


 その瞬間、部屋の空気が確定するのが分かった。


「……王都へ?」


 クリストフが確認する。


「魔物、魔族討伐の功績の叙勲が控えている」


 アイン様の言葉は、淡々としている。

 けれど“控えている”という語だけが、やけに現実味を帯びて響く。

 祝いの予定。

 未来の予定。

 彼の人生が、ここから外へ伸びていく予定。


「叙勲式に出し、王都の騎士団へ入団させる」


「騎士団に……」


 ミレイユ様が息を吸う。

 驚きではない。

 覚悟を飲む音だった。


「表向きは栄転だ。名誉だ。誰も疑わん」


 アイン様の声は、計算だった。

 最も穏便で、最も静かな道を選び取る計算。


「屋敷から出せば、噂の芽も散る。彼の視線も、こちらから離れる」


 ミレイユ様が、低く言う。


「……何も知らないまま、ね」


「知らせない」


 アイン様は、同じ言葉を繰り返した。

 繰り返しが決定になる。

 さっきと同じように。


 クリストフが、言いにくそうに言葉を選ぶ。


「エルディオ様には……本当に、一切?」


「一切だ」


 迷いのない刃。

 その刃は、誰かを傷つけるためではなく、

 “静けさ”を維持するために振るわれる。


「知れば戻る。戻れば屋敷が割れる。割れれば、守れぬものが増える」


 守る。

 増える。

 また、秩序の言葉。


 ミレイユ様が、小さく言った。


「知らされなければ……怒れないわ」


 怒れない。

 責められない。

 救えない。


 だから、沈黙だけが残る。


 アイン様の声が続く。


「怒らせる必要がない。救わせる必要もない」


 その言葉は、ひどく正しい響きをしていた。

 正しさの形をしたものほど、逃げ場を消す。


「必要なのは、静かに終わらせることだ」


 終わらせる。

 何を?

 誰を?

 答えを言わないまま、言葉だけが落ちる。


 クリストフが、最後に確認する。


「当面は……この件は我々三人のみが把握し、屋敷の外にも出さない」


「そうだ」


 アイン様が答える。


「外へ出るのは、エルディオだけでいい」


 ミレイユ様が、かすかに呟く。


「……誰も救わないのね」


 アイン様は答えない。

 答えないことが、答えになる。


 クリストフが言う。


「メイリス殿には、移る先を伝えます。……淡々と」


「淡々と」


 アイン様が重ねる。


「泣かせるな。だが、期待もさせるな」


 淡々と。

 最も残酷な形式。


 私は、そこでようやく動けた。

 足を一歩出す。


 床は冷たく、磨かれている。

 屋敷はいつも通りだ。


 ――私のいない未来のために、いつも通りでいられる。


 それを理解した瞬間、胸の奥が静かに沈んだ。


 夜は、もう私のものではない。

 そして、この家も、もう私のものではない。


 王都へ。

 そうなるのは、私ではない。

 “彼”が行く。

 叙勲式という名誉と、騎士団という未来へ。


 私は、領内の誰も知らない場所へ。

 名を薄くされ、気配を消され、

 保証という形で生かされる。


 そして、徹底的に――

 エルディオは、私を知らないまま歩く。


 名前をつけないまま終わっていた夜が、

 名前を持った現実になって、私を外へ押し出す。


 私は廊下の先へ歩く。

 振り返らない。

 振り返っても、扉はもう開かないのだと、分かっているから。


 屋敷はいつも通りで、

 それが、最後まで残酷だった。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


「夜」は、逃げ場でした。

正しさも未来も問われない場所で、拒まれないという事実だけにすがって生き延びる――その仕組みは、甘くて、静かで、そして残酷でした。けれど、身体は嘘をつけません。言葉で覆い隠してきたものを、ある日突然「現実」として確定させてしまう。今回の章は、その瞬間を描くために書きました。


第53話では、怒号も断罪もありません。

代わりにあるのは、事務のように淡々と進む“決定”と、誰も責めないことで成立する地獄です。責められないのは優しさではなく、動かないための最短距離で、沈黙は慰めではなく裁定になる。――その冷たさの中で、メイリスは「夜の人間」でいられなくなっていきます。


この先、王都へ向かう者と、領内の誰も知らない場所へ移される者。

同じ屋敷にいたはずの二人が、徹底的に別の線へ分けられていくのが「夜の外へ」編の核になります。救いが生まれるには、まず“救えない構造”を一度、最後まで描かなければならない。そう信じて、刃物みたいな言葉を並べました。


もしよければ、ここまでの感想や「刺さった台詞」「一番苦しかった場面」など、短くてもいいので聞かせてください。次の回で、どこをさらに残酷にするか、どこに息継ぎを置くかの調整に使いたいです。

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