52.夜の外へ-1
夜は、来なかった。
正確には、来てはいたのだと思う。
屋敷は静まり、廊下の灯りは落とされ、時間は確かに夜の色をしていた。
けれど――
私の身体が、それを「夜」と認識しなかった。
目を覚ました瞬間から、胸の奥がざわついている。
めまいでも、吐き気でもない。
痛みでも、熱でもない。
ただ、はっきりとした違和感。
それは、これまでの異変とは質が違っていた。
「調子が悪い」という言葉では、覆えない。
起き上がろうとして、身体が一拍遅れる。
床に足を下ろした瞬間、視界が揺れ、思わず壁に手をついた。
「……大丈夫」
いつもの言葉。
けれど、今日はその言葉が、空中でほどけた。
言葉が、身体に届かない。
♢
朝食の用意が整っても、私は席につかなかった。
「メイリス様……?」
呼びかけられて、振り向く。
その動作だけで、胸が詰まる。
「少し、気分が……」
そこまで言って、言葉が続かない。
侍女の顔色が変わる。
「横になられた方が……」
「いえ」
反射的に否定しかけて、止まる。
否定する力が、残っていなかった。
そのときだった。
「――メイリス殿」
低く、静かな声。
振り向くと、廊下の奥にクリストフ様が立っていた。
いつもの距離。
いつもの位置。
だが、その立ち方が、違った。
迷いがない。
様子を見る者の姿勢ではない。
「……少し、よろしいですか」
問いではあったが、選択肢ではなかった。
♢
応接室は、昼の光が差し込んでいた。
窓は開けられ、風が通っている。
清潔で、穏やかで、逃げ場のない空間。
私は、その部屋に入った瞬間に理解していた。
ここは「休ませる場所」ではない。
「判断するための場所」だ。
窓が開いているのに、空気は逃げない。
風が通るのに、閉じられている。
それは、選択肢が用意されていない場所の空気だった。
私は椅子に腰を下ろしながら、無意識に背筋を伸ばそうとして、やめた。
姿勢を保つことが、今日はひどく難しい。
――逃げられない。
そう思ったのは、言葉を交わす前だった。
クリストフ様は、私を追い詰めるために呼んだのではない。
けれど、逃がすつもりもない。
その中間の立ち方を、私はよく知っている。
これまで彼が、何度も屋敷の均衡を守るために取ってきた姿勢だ。
問いたださない。
慰めない。
代わりに、「今、ここで決めるべき現実」だけを差し出す。
それは、叱責よりも残酷で、
優しさよりも逃げ場がなかった。
私は椅子に座り、背もたれに深く身体を預けた。
そうしなければ、姿勢を保てなかった。
クリストフ様は、向かいには座らない。
斜め、少し距離を取った位置。
対峙ではなく、確認の距離。
「……最近、体調が優れないようですね」
事実だけをなぞる声。
「……はい」
「食事量が減っています」
「……はい」
「立ちくらみ、めまい、吐き気」
一つずつ、淡々と。
「夜になると、和らぐ」
その一言で、胸が強く打たれた。
私は、何も言えなかった。
否定も、言い訳も、もう浮かばない。
「……医師を呼びましょう」
その言葉は、強くも、優しくもなかった。
叱責ではない。
慰めでもない。
判断だった。
「必要ありません」
反射的に口をついたが、声は弱かった。
「必要です」
即答。
「これは、様子を見る段階ではありません」
「……大げさです」
「大げさで済めば、それでいい」
クリストフ様は、初めて私を見る。
責める視線ではない。
哀れむ視線でもない。
逃げ道を塞ぐ視線だった。
「ですが、もし――」
言葉を切る。
「もし“そうでなかった”場合、取り返しがつきません」
胸の奥が、冷える。
「あなたが耐えられても、身体は耐えられない」
♢
医師は、その日のうちに呼ばれた。
屋敷の医務室。
消毒の匂い。
白い布。
私は椅子に座り、質問に答えた。
いつから。
どれくらい。
食事は。
睡眠は。
答えながら、自分がどれほど多くを隠してきたかを知る。
「……脈、測りますね」
医師の指が手首に触れる。
その感触が、妙に現実的だった。
「……少し、横になりましょう」
天井を見る。
白い。
何も書かれていない。
それが、怖い。
♢
沈黙が続く。
医師とクリストフ様が、低い声で何かを話している。
私は、内容を聞こうとしなかった。
聞いてしまえば、戻れない。
「……メイリス殿」
医師が呼ぶ。
私は、ゆっくりと上体を起こした。
「驚かせてしまうかもしれませんが……」
その前置きだけで、全身が硬くなる。
「お腹に、子どもがいます」
一瞬、意味が分からなかった。
「……え?」
言葉が、頭の中で転がる。
子ども。
いる。
私の。
「妊娠、初期です」
説明は続く。
週数。
状態。
注意点。
けれど、音としてしか入ってこない。
喜びは、なかった。
胸が高鳴ることも、
涙が出ることもない。
ただ、足元が崩れる感覚。
「……それは」
声が、ひどく遠い。
「……間違いでは、ありませんか」
医師は、首を横に振る。
「確かです」
確定。
取り返しのつかなさが、そこで形を持った。
私は、腹部に触れられなかった。
触れなかったのではなく、触れられなかった。
触れたら、そこに意味を与えてしまう気がした。
子ども。
命。
未来。
どの言葉も、今の私には重すぎる。
それより先に浮かんだのは、もっと現実的なことだった。
――もう、夜に逃げ込めない。
身体が、そう告げている。
昼の不調ではなく、
この事実そのものが、夜を拒絶している。
夜は、選択だった。
拒まれない場所に身を置く、という選択。
けれど今は、
夜の方が、私を拒む。
それが、いちばん残酷だった。
私は、母になる実感より先に、
「役割を失う恐怖」を抱いていた。
そのことを、誰にも言えないまま。
♢
「……おめでとうございます」
医師は、そう言うべき立場だったのだと思う。
だが、その言葉は、どこか宙に浮いていた。
私は、何も返せない。
おめでたいと感じる余白が、どこにもない。
頭に浮かぶのは、一つだけ。
――夜は、外に出てしまった。
逃げ場だったはずの夜が、
もう私だけのものではなくなった。
身体の問題ではない。
感情の問題でもない。
現実だ。
「……どう、なりますか」
私の声は、ひどく落ち着いていた。
それが、かえって異様だった。
「今後のことは……」
医師が言葉を選ぶ。
「慎重に、考える必要があります」
慎重。
考える。
「……隠すことは」
「おすすめしません」
即答。
「母体にも、子にも、危険です」
母体。
子。
言葉が、私を分断する。
♢
医師が退室したあと、部屋には私とクリストフ様だけが残った。
沈黙の質が、これまでと違っていた。
今までは、
「言わないことで守られている沈黙」だった。
けれど今は、
「言わなければ始まらない沈黙」だ。
クリストフ様は、私に決断を迫らない。
だが、時間が私を追い越すことを、隠しもしない。
それが、彼の選んだ誠実さだと分かってしまう。
彼は、私の味方ではない。
同時に、敵でもない。
ただ、現実の側に立っている。
その立場が、こんなにも心細いものだとは、
私は今日、初めて知った。
しばらく、誰も話さない。
「……夜には、行けませんね」
私が、ぽつりと言う。
確認ではなく、事実として。
クリストフ様は、否定しなかった。
「……ええ」
それだけ。
沈黙の中で、私は自分の呼吸を数えていた。
一つ。
二つ。
吸うたびに、胸の奥がわずかに引きつる。
吐くたびに、身体が重くなる。
これまで、私は身体の声を「都合のいいところだけ」聞いてきた。
夜に静かになるなら、それで良い。
昼に揺らぐなら、見なかったことにする。
そうやって、身体を“逃げ場”の一部にしてきた。
けれど今は違う。
身体は、私の味方をやめたわけではない。
ただ、もう嘘をつくのをやめただけだ。
――逃げる場所は、もうない。
それを、責めるでもなく、急かすでもなく、
淡々と突きつけてくる。
私は、椅子の肘掛けに指を置いた。
力を入れていないのに、白くなるほど、指が張りついている。
夜は、選べた。
行くか、行かないか。
立つか、引き返すか。
拒まれないという事実が、選択を可能にしていた。
けれど今は違う。
選ばない、という選択肢が消えている。
夜に行かない、という選択は、
夜に行くこと以上に、はっきりと「何かを壊す」。
それが分かってしまうから、
私はまだ、「終わり」という言葉を口にできない。
終わりにすれば、意味が生まれる。
意味が生まれれば、責任が生まれる。
そして責任は、
これまで私が逃げ続けてきた場所に、私を引き戻す。
――昼。
名前を持ち、立場を持ち、
誰かの視線の中で、生きなければならない場所。
夜の中では、
私は、選ばれなかった存在でいられた。
拒まれなかったという事実に、身を預けられた。
だがこれからは、
拒まれるか、選ばれるか、
どちらかに名前を与えられる。
そのどちらにも、私はまだ、耐えられる気がしなかった。
だから私は、問う前に、
一度だけ、目を閉じた。
現実を受け取る準備をするために。
私は、腹部に置いた手を、ゆっくりと離した。
――いつの間に置いたのか。
気づけば指先が、そこに触れていた。
触れられなかったはずの場所に、触れてしまっていた。
そこに“ある”と言われても、実感はない。
温もりも、重さも、違和感も。
それでも、触れない方が怖かった。
触れてしまえば、
それが「私の身体の一部」ではなく、
「私の選択の結果」になってしまう気がしたからだ。
これまで私は、
選ばなかったことで、責任を曖昧にしてきた。
夜に行くことは、選択だった。
けれど同時に、
拒まれない場所に身を置くという、
“選ばないための選択”でもあった。
だから私は、
自分が何かを壊しているとは思わずに済んだ。
壊しているのは、関係なのか、未来なのか、
それとも、ただの均衡なのか。
答えを出さないまま、
夜は、いつも私を包んでくれた。
だが今は違う。
身体が、答えを先に出してしまった。
選ばなかったはずの結果が、
形を持って、ここにある。
私は、それを“夜の延長”だとは思えなかった。
これは、昼の出来事だ。
名前を持ち、診断され、
誰かに説明される現実だ。
夜の中で、
私は“特別でなくても許される存在”だった。
だが、この現実は、
特別であることを、否定してくれない。
否定してくれないまま、責任だけを置いていく。
母体。
子。
今後。
どれも、
私が避け続けてきた言葉ばかりだ。
避けてきたのに、
今は、避けないふりをすることすらできない。
私は、深く息を吸った。
逃げたいのではない。
否定したいのでもない。
ただ――
この現実を、
どこに置けばいいのかが分からなかった。
夜に置けない。
昼に置けば、崩れる。
だから私は、
言葉を選ぶ前に、
一度だけ、声にならない息を吐いた。
そして、ようやく――
問いを、口にする準備が整った。
「……終わり、ですか」
問いだった。
けれど、答えを期待していない。
「終わりではありません」
クリストフ様は言う。
「外に出る、ということです」
夜の役割から。
均衡の内側から。
「……怖いです」
ようやく、感情が言葉になる。
「何も、喜べない」
「それでいい」
即答。
「喜びを強要されることではありません」
「……逃げられませんね」
「はい」
逃げ場は、もうない。
「……覚悟、が」
「今すぐ持たなくていい」
クリストフ様は、初めて少しだけ声を低くする。
「ですが、現実は待ちません」
その言葉が、静かに刺さる。
♢
私は、腹部に手を当てた。
何も、感じない。
動きも、温もりも。
それでも、そこに“いる”。
「……まだ、実感がありません」
「当然です」
「……夜の方が、現実だった」
その言葉に、クリストフ様は何も言わなかった。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、事実として受け取った。
「……これで、全部、壊れますか」
「いいえ」
彼は、首を横に振る。
「形が変わるだけです」
「……残酷ですね」
「はい」
否定しない。
♢
窓の外では、昼の光が満ちている。
夜は、来る。
けれどもう、同じ形では来ない。
逃げ場としての夜は、消えた。
私の身体が、それを確定させた。
恐怖と、
覚悟と、
名前のつかない何かを抱えたまま。
私は、これから何を失うのか、まだ分からない。
夜か。
役割か。
あるいは、自分自身か。
ただ一つ確かなのは、
もう「気づかないふり」は許されないということだ。
身体が先に決めてしまった。
この先を、生きるかどうかではなく、
どう生きるかを。
私は、選ばれなかった女ではなくなる。
拒まれなかった存在でもなくなる。
これからは、
選ばざるを得ない場所に立たされる。
私は、夜の外に立たされている。
――取り返しのつかなさだけを、はっきりと手にしたまま。
夜は、外に出てしまった。
その言葉が、胸の奥で反響する。
さっき言ったはずの言葉が、もう一度、戻ってくる。
戻ってきて、今度は逃げ場にならない。
外に出た、という表現は正しくないのかもしれない。
夜が逃げたわけではない。
奪われたわけでもない。
私が、夜の内側にいられなくなっただけだ。
それまで夜は、条件を持たなかった。
正しさも、未来も、意味も問わなかった。
ただ――
拒まれない、という事実だけがあった。
それだけで、私は呼吸ができた。
選ばれなかったことも、
昼に名前を持たないことも、
すべて夜の中に沈めてしまえた。
夜は、私にとって「何者にもならなくていい場所」だった。
けれど今、その前提が壊れた。
身体が、夜に条件を突きつけてきた。
守らなければならないものがある。
無理をしてはいけない理由がある。
隠してはいけない事情がある。
それらはすべて、
夜が成立するために、存在してはいけなかったものだ。
夜は、
無責任でいられるからこそ、成立していた。
私はそれを、
ずっと分かっていて、利用していた。
だから今、
夜が「使えなくなった」ことが、
これほどまでに怖い。
母になる恐怖ではない。
命を抱える重さでもない。
それより先に、
私には、失うものがある。
――居場所だ。
私は、夜の中では居場所を持っていた。
昼ではなく、夜に。
役割としてではなく、
存在として。
けれどこれからは、
その居場所が、条件付きになる。
守れるか。
耐えられるか。
説明できるか。
できなければ、
そこにいる資格はない。
夜は、そういう場所ではなかったはずなのに。
私は、無意識のうちに腹部から視線を逸らしていた。
そこに何かがある、と理解するよりも先に、
そこに“制限”があることを感じてしまったからだ。
行ってはいけない。
無理をしてはいけない。
選ばないふりをしてはいけない。
それはすべて、正しい。
正しいからこそ、
私の居場所を削っていく。
私は、これまで
「正しくない場所」に身を置くことで、生きてきた。
だから今、
正しさだけが残る世界に放り出されて、
足場を失っている。
逃げ場だった夜は、
逃げる必要のない人間のものだ。
守るものを持った人間は、
もう、夜の内側にはいられない。
それが、
この診断の、本当の意味だ。
私は、ようやく理解した。
これは祝福ではない。
罰でもない。
――確定だ。
均衡の終わり。
曖昧さの終了。
逃げ場の消失。
夜が終わったのではない。
私が、
夜にいられる存在ではなくなった。
それだけのことだ。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
この章で描きたかったのは、「不幸」でも「悲劇」でもありません。
ましてや、救済や祝福でもない。
ただ、逃げ場が消える瞬間です。
夜は、壊れたから終わったわけではありません。
誰かに奪われたから消えたわけでもありません。
メイリス自身の身体が、先に答えを出してしまった。
それだけのことです。
彼女はこれまで、「選ばれなかった」ことで生き延びてきました。
拒まれなかった、という曖昧な肯定の中で、
名前を持たず、正しさを問われず、夜の内側に居場所を作ってきた。
けれど現実は、いつも身体から始まります。
感情よりも、意志よりも、言葉よりも早く。
この章で確定したのは、妊娠という事実以上に、
曖昧でいられる時間が終わったということでした。
ここから先は、選ばないという選択が許されない世界です。
それは前進でも、成長でもなく、
ただ「外に出るしかなくなった」という状態。
この物語は、
強くなる話でも、正しくなる話でもありません。
「逃げられなくなった人が、どう生きるか」
その過程を、淡々と、残酷に、そしてできるだけ誠実に描いていけたらと思います。
ここまで見届けてくれて、本当にありがとうございます。




