51.『夜の役割』
最初に変わったのは、朝だった。
目を覚ました瞬間、身体が重い。
眠れていないわけではない。
熱も、痛みも、はっきりとした異常はない。
それでも、起き上がろうとした瞬間に、視界が一瞬だけ白くなる。
「……大丈夫」
誰に聞かせるでもなく、私はそう呟いた。
そう言えば、立てる。
言葉にしてしまえば、身体は従ってくれる。
そのことに、私は少し安心した。
その安心は、薄い膜のようなものだった。
息を吸えば張り、吐けばたるむ。指で触れれば破れてしまいそうで、私は自分の身体を確かめるのをやめた。
洗面台の水は冷たい。頬に当てても、眠気は引かない。
布で水滴を拭う指先だけが、少し遅れて動く。
髪を結び、襟を整え、袖口を揃える。
鏡の中の私は、いつも通りに見えた。
――だから、いつも通りだと決める。
廊下に出る前、扉の取っ手に触れた瞬間、胸がひゅっと狭くなる。
息が浅い。
それを「緊張」と呼んでしまえば簡単なのに、今朝のそれは、もっと曖昧だった。
「……大丈夫」
もう一度だけ、言葉で自分を押し立てる。
言葉は便利だ。
言葉にした途端、私は“そういう人間”になれる。
平気な顔をして歩く人間。
役目を果たす人間。
心配される必要のない人間。
――そうでなければならない。
私は、その条件を、いつの間にか自分に課していた。
♢
朝食の席で、箸が止まった。
香りは分かる。
湯気も立っている。
食べられない理由は、ない。
けれど、口に運ぶ前に、胸の奥が詰まる。
「……後で、いただきます」
そう言って、皿を下げようとすると、侍女の一人が慌てて声をかけた。
「メイリス様、ほとんど召し上がっていませんよ」
「少し……胃が重くて」
「昨日は?」
「昨日も……少しだけ」
言葉にした瞬間、周囲の空気が、ほんのわずかに張りつめた。
「お医者様を――」
「いえ」
私は、即座に首を振った。
「大したことではありません。季節の変わり目ですし」
自分で言いながら、その言い訳が、ずいぶん使い慣れたものになっていることに気づく。
侍女は、皿を下げる手を止めたまま、視線を落とした。
「はい」とも「分かりました」とも言わない。
その沈黙は、承諾ではなく、留保に近い。
別の侍女が、遠回しに話題を変えようとする。
「今朝、市場から苺が届いております。香りがとても――」
「……後で」
私が短く返すと、言葉は途切れた。
誰も責めない。誰も強く勧めない。
ただ、互いに“失敗しない距離”を探っている。
皿の縁に、私の指が触れているのに気づいた侍女が、そっと布を差し出す。
「手が冷えていらっしゃいます」
「平気です」
「……温かい茶を、お持ちしますか」
「……お願いします」
そう言った瞬間、侍女の肩が、わずかに下がった。
安堵だ。
――飲める。なら大丈夫。
そう自分に言い聞かせるための、安堵。
私も同じだ。
茶を飲めたなら、今日も“いつも通り”ができる。
その一点だけで、今日という一日が成立してしまう。
だから、怖い。
♢
廊下を歩くとき、足音が遠くなる。
床が揺れているわけではない。
私が、少しだけ、地面から浮いているような感覚。
壁に手をつけば、戻る。
立ち止まれば、治まる。
「……大丈夫」
また、同じ言葉。
侍女たちは、何も言わない。
ただ、歩幅を合わせ、少しだけ距離を詰めてくる。
「最近、お顔の色が……」
「気のせいです」
「でも、今朝も……」
「本当に、大丈夫ですから」
声を強めると、彼女たちはそれ以上、踏み込まない。
その沈黙が、ありがたくて、少しだけ怖い。
廊下の窓から射し込む光が、床に帯を作っている。
その帯をまたぐたび、視界が少し遅れてついてくる。
侍女の一人が、私の左後ろに付いた。
距離が近い。
手を伸ばせば、支えられる距離。
支えられたら終わる気がして、私は歩幅をほんの少し速めた。
「メイリス様、急がれずとも――」
「大丈夫です」
答えた声が、思ったより硬かった。
侍女はそれ以上言わず、けれど距離だけは戻さない。
階段の手すりに指を滑らせる。
触れていれば転ばない。
触れていれば平気だと、誰にも言わずに証明できる。
通りすがりの若い侍女が、私を見る。
目が合った瞬間、彼女は慌てて視線を落とし、礼をした。
――見られている。
私の顔色。歩き方。呼吸。
それを「心配」と呼ぶのは優しすぎる。
今この屋敷で、心配はいつも、問いになる。
何が起きているのか。
いつからなのか。
誰のせいなのか。
答えの出ない問いを、皆が避けている。
だから、沈黙は続く。
続くことが、いつの間にか正しさになっていく。
♢
昼過ぎ、軽いめまいで、書類を取り落とした。
紙が床に散らばる。
拾おうとして、しゃがみ込み――立ち上がれなくなる。
「メイリス様!」
侍女が駆け寄る。
「立てます。少し、眩んだだけです」
「椅子を……!」
「いいんです。すぐに……」
言いかけて、言葉が途切れる。
視界が、ゆっくりと暗くなる。
「……水を」
その一言で、空気が一変した。
「水」という言葉には、引き金がある。
椅子や毛布よりも先に、誰もがそれを求める。
倒れる前に。吐く前に。失う前に。
誰かが走る足音。
盆が揺れる音。
水差しの蓋が鳴る乾いた音。
私は椅子に座らされ、背にクッションを当てられる。
そこまでされて初めて、自分が“座らせられている”ことに気づく。
「……本当に、少し眩んだだけです」
言い訳が、習慣みたいに口を出た。
侍女は「はい」と言わず、ただ頷いた。
頷き方が、上手すぎる。
――納得していない頷き。
水を渡され、私は両手で受け取る。
コップの縁が唇に触れた瞬間、胃がきゅっと縮む。
でも飲む。飲んでみせる。
「……飲めます」
私のその一言に、侍女たちの顔が、ほんの少しだけ緩む。
飲めるなら大丈夫。
その基準が、どれほど危ういものかを知っていても、彼女たちはそれに縋るしかない。
机の上には散らばった書類。
誰も拾おうとしない。
今は紙より、私の顔を見る。
その視線が、胸の奥を冷やした。
♢
水を飲み、椅子に座ると、症状は引いていく。
いつものことだ。
「最近、よくこうなりますね……」
「……そう、ですね」
侍女の声は、慎重だった。
問いではなく、確認に近い。
「お医者様に、診ていただいた方が……」
「必要ありません」
即答だった。
「ただの疲れです」
「ですが、食事も――」
「無理に食べる方が、よくないでしょう」
自分でも驚くほど、言葉が鋭くなった。
♢
その様子を、少し離れた場所から見ていた人物がいる。
クリストフだった。
彼は、何も言わない。
近づかない。
ただ、視線を外さず、状況だけを見ている。
侍女が彼に目配せする。
助けを求めるような、責めるような。
だが、彼は首を横に振る。
「……下がっていい」
低い声で、短く告げる。
「ですが……」
「今は、様子を見る」
その言葉の裏に、何があるのか。
侍女たちは、それ以上、聞かない。
侍女が去った後も、クリストフはその場に残った。
距離は遠いまま。
声をかけるには遠く、見守るには近い。
私は水を置き、膝の上で指を重ねた。
震えが止まっていることを確認するために、指を組む。
組んでしまえば、震えは見えない。
クリストフは、机の上の散らばった書類を拾い始めた。
一枚ずつ、丁寧に。
角を揃え、順番を戻し、皺を伸ばす。
まるで、紙の乱れだけを整えれば済む、とでも言うように。
「……メイリス殿」
呼ばれたのは、一度だけ。
問いの形ではなかった。
「本日は、無理をなさらず」
それだけだった。
“医者を呼べ”でも、“報告しろ”でもない。
ただの言葉。
けれど、その言葉が、妙に重い。
「……はい」
私が答えると、彼は頷き、もう何も言わない。
沈黙が落ちる。
私は、その沈黙の中に、“知っている”気配を感じた。
何を、とは言えない。
誰も言葉にしていないことを、彼だけが、言葉にしないまま握っている。
それが、私を少しだけ安心させ、同時に、怖がらせた。
♢
夕方、再び食事が用意された。
湯気の立つ皿を前に、私はしばらく動けずにいた。
「少しでも……」
「……後で」
また、同じやり取り。
匙を持つ手が、わずかに震える。
それを見て、侍女が息を呑んだ。
「メイリス様」
「大丈夫です」
言い切る。
そうしなければ、何かが崩れてしまいそうだった。
匙を持ち上げる。
震えは目立たない。
目立たないように、肘を体に寄せる。
「……少しだけ」
口に運ぶ前に、喉が拒む。
吐き気というほど強くない。
ただ、“入れてはいけない”という身体の命令が先に来る。
私は一度、息を吸い直す。
侍女の視線が、皿と私の口元を行ったり来たりしている。
まるで計測するように。
食べたか。飲んだか。飲み込めたか。
私は口に入れる。
嚙む。
飲み込む。
成功した瞬間、侍女が、ほっと息を吐く。
「……よかった」
小さな声だった。
私が聞こえるかどうかの境目で、彼女はそう言った。
私は、その言葉が胸に刺さる。
よかった、とは何が。
“食べられた”ことが。
“倒れていない”ことが。
“問題が起きていない”ことが。
つまり――今日も、黙認を続けられることが。
その構造が見えてしまって、私は視線を落とした。
見えてしまうと、戻れない気がした。
♢
夜が近づくにつれ、身体は静かになる。
不思議なことに、夜になると、症状は和らぐ。
吐き気も、めまいも、遠ざかる。
「……やっぱり、気のせい」
私は、そう結論づける。
夜は、私を否定しない。
だから、昼の異変は、見なかったことにできる。
夜になると静かになるのは、救いだ。
救いだからこそ、私はそれを疑わない。
夜だけが正常なのだと、決めてしまえばいい。
昼のめまいは、光のせい。
食欲のなさは、季節のせい。
震えは、疲れのせい。
原因を外に置けば、私はまだ選べる。
まだ、明日も同じように歩ける。
けれど、本当は分かっている。
原因は外にない。
外に置いた言葉は、夜が来ると剥がれる。
そして私は、その剥がれた場所に、何も貼り直さない。
貼り直したら、現実になる。
現実になったら、誰かが動かなければならない。
動けば、均衡が崩れる。
だから私は、夜の静けさに縋る。
静けさが、症状を隠してくれるからではない。
静けさが、“考える時間”を奪ってくれるからだ。
♢
クリストフは、書斎で記録を取っていた。
日付。
時刻。
様子。
書くのは、事実だけ。
――顔色不良
――食事量低下
――立ちくらみ、反復
感想は、添えない。
推測も、書かない。
だが、彼の手は、わずかに止まる。
「……まだだ」
ペン先が紙を滑る音は、静かで規則正しい。
それは、屋敷の足音に似ていた。
彼はページをめくり、別の紙を引き寄せる。
古い記録だ。
日付が並び、同じ言葉が繰り返されている。
――安定
――睡眠
――穏やか
そこに、今日の言葉が混ざる。
――食事量低下
――眩暈
――蒼白
混ざった途端、紙面は別物になる。
今まで“均衡”と呼ばれていたものが、別の輪郭を持ちはじめる。
彼は、しばらくペンを止めた。
指先で紙の端を押さえ、癖のように角を揃える。
「……まだだ」
繰り返す声は、落ち着いていた。
だが、その落ち着きは、祈りではなく計算に近い。
――まだ言うべきではない。
――まだ動かすべきではない。
――まだ、証拠が足りない。
彼は口にしない。
口にしないまま、次の行に、淡々と線を引いた。
線は、境界を作る。
境界は、後戻りを許さない。
♢
侍女たちは、夜の準備をしながら、囁き合う。
「やっぱり、変よね」
「でも、本人は……」
「言えば、嫌がられる」
「言わなければ、悪化する」
答えは、どこにもない。
囁きは、厨房の片隅で続いた。
火を落とした鍋が、まだ熱を残している。
湯気のない台所は、声がよく通る。
「このままにしていいの?」
「クリストフ様が“様子を見る”って……」
「様子を見るって、いつまで?」
「言ったら、嫌がるよ。あの方、笑って誤魔化すもの」
「笑えるうちは大丈夫、って思いたいだけよね」
一人がぽつりと言うと、場が静かになる。
「……夜、行ってるんでしょ」
誰も否定しない。
否定できない。
この屋敷で“夜”を知らない者はいない。
「でも、言えない」
「言ったら……何かが壊れる気がする」
「壊れるのは、メイリス様? エルディオ様?」
「……どっちも、だよ」
最後の言葉が落ちて、誰も続けられなくなる。
答えがないからではない。
答えがあるとしたら、どれも残酷だからだ。
♢
夜の前、私は鏡を見る。
顔色は、悪くない。
目の下の影も、気のせい。
「……平気」
そう言い聞かせる。
胸の奥に、かすかな違和感がある。
だが、それに名前をつける気はなかった。
名前をつけた瞬間、
それは「現実」になってしまうから。
私は鏡から視線を外し、窓を見る。
夕闇が落ちて、庭の花が輪郭だけになっている。
一年前、同じ花を見た。
去年と同じ色で、同じ高さ。
――それが、今日の私を騙した。
同じなら大丈夫。
巡るなら大丈夫。
けれど、身体は巡らない。
身体は、積み重なる。
昨日の疲れは今日に残り、今日の無理は明日に残る。
私は、その単純な理屈を、考えないふりをしてきた。
鏡の前で、唇に指を当てる。
乾いているかどうかを確かめるふり。
本当は、震えがあるかどうかを確かめている。
震えていない。
――今は。
今なら、扉の前に立てる。
そう判断してしまう自分がいる。
私は、身体の調子で夜を決めるようになった。
夜が生活の一部になったのではない。
生活が夜のために調整されていく。
その変化が、いちばん不穏だ。
♢
扉の前に立つ。
身体は、静かだ。
昼の異変が、嘘のように。
「……大丈夫」
最後に、もう一度だけ。
扉の前で、私は一度だけ耳を澄ませた。
中の気配を探るのではない。
自分の鼓動を探す。
鼓動が早いなら、引き返す理由になる。
鼓動が遅いなら、入っていい理由になる。
どちらでも、私は理由が欲しい。
理由がないまま入れば、これは“選んだ”ことになってしまう。
選んだのなら、責任が生まれる。
責任が生まれたら、いつか、誰かに問われる。
だから私は、今日も理由を作る。
――身体が静かだから。
――夜になったから。
――拒まれないから。
私はノックをしない。
ノックをしないことが、いつから“当たり前”になったのか、思い出せない。
鍵がかかっていない。
それだけで、私は救われる。
♢
廊下の奥で、クリストフが立ち止まる。
彼は、こちらを見ない。
ただ、足音を聞いている。
規則正しい歩幅。
乱れのない呼吸。
「……まだ、だ」
そう繰り返しながら。
♢
夜は、いつも通り、訪れる。
だが、身体は、先に知ってしまった。
言葉よりも早く。
選択よりも確かに。
この均衡が、いつまでも同じ形では続かないことを。
♢
廊下のどこかで、木が軋む音がした。
夜の屋敷は、音が少ない。
少ないから、わずかな音が大きく聞こえる。
私は一歩進み、次の一歩がわずかに遅れた。
足首ではない。膝でもない。
身体の中心が、ほんの少しだけ、重い。
理由を考えない。
考えなければ、進める。
背後で、誰かが息を吸う気配がする。
振り返らなくても分かる。
クリストフだ。
彼は見ない。
見ないまま、確かめている。
今日の歩幅。
今日の呼吸。
今日の――静けさ。
「……まだ、だ」
その声は祈りの形をしていなかった。
祈りは、願う。
彼の声は、数える。
そして私の身体もまた、数え始めている。
何を?
――限界を。
翌朝のことは、誰も、まだ知らない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
「夜の役割」は、誰かが声を上げれば壊れてしまう均衡と、
誰も声を上げないことで続いてしまう時間を描いた章でした。
そして最終話では、言葉や選択よりも先に、
身体が現実を告げてしまう瞬間を静かに置いています。
この物語に明確な善悪や正解はありません。
登場人物たちは誰一人、間違えようとして行動していないからです。
それでも、何かは確実にずれていく――
その感覚を、少しでも共有してもらえていたら嬉しいです。
私自身も、
「大丈夫だと言い続けること」
「問題が起きていないから見ないふりをすること」
その両方を、現実で経験してきました。
だからこそ、この章はとても静かで、苦しくて、
でも書かずにはいられないものでした。
もしよければ、
感想・評価・レビューなどいただけると、とても励みになります。
短くても、一言でも大丈夫です。
あなたがどこで立ち止まったのか、何を感じたのか、知りたいです。
ここまで付き合ってくださって、本当にありがとうございました。




