50.夜の役割-6
夜は、変わらず訪れる。
一年という時間が過ぎたことを、私は数えてはいなかった。記念日に印をつけるような出来事はなく、誰かに告げられたわけでもない。
ただ、庭の隅に植えられた花が、去年と同じ色で、同じ高さに咲いているのを見て、気づいた。
ああ、また春が来たのだ、と。
それだけのことだった。
私は朝の支度を、迷いなく終える。
以前より手が早くなった。
鏡の前で立ち尽くす時間も、衣を選び直す回数も減った。
感情が削げ落ちたわけではない。
ただ、揺らさない方法を覚えただけだ。
壊れてはいない。
そう思う。
むしろ、穏やかだ。
夜ごと眠り、朝を迎え、役目を果たす。
私は、うまくやれている。
――それに。
私は、エルといられることが、嬉しい。
私は、その「嬉しい」を、疑わないようにしている。
疑えば、形が変わってしまうからだ。
この一年で、私は何度も自分に問いかけた。
これは依存ではないのか。
逃げではないのか。
間違いではないのか。
けれど、その問いはいつも、最後まで辿り着かない。
答えを出す前に、夜が来る。
そして夜は、私を否定しない。
拒まれない。
追い返されない。
「そこにいていい」と、言葉にしないまま、許される。
それは、正しさよりも強い。
正解かどうかよりも、
生きていけるかどうかの方が、私には重要だった。
だから私は、
「嬉しい」という感情を、ただ事実として抱える。
それが何を削り、何を置き去りにしているのかを、
考えないまま。
その事実を否定する理由は、どこにもなかった。
♢
昼の屋敷は静かだ。
領主であるアイン様の采配で、街の整備は着実に進んでいる。
石畳はならされ、倉は増え、人の流れは以前よりも確かに太くなった。
発展は、目に見える形で積み重なっていた。
新しい屋根瓦の匂い。塗り直された壁の白さ。木材を運ぶ車輪の音。
春の市に合わせて増えた屋台は、去年よりも多い。
蜜を煮詰めた菓子の甘さが風に乗り、香草の束が陽に透け、干し肉を焼く煙が夕方の空に薄くのびる。
――一年。
口に出せば短いのに、街はその一年を裏切るように変わる。
アイン様の采配は早く、厳密で、迷いがない。
優しい変化ではなく、必要な変化だけが選ばれている。
だから、街は進む。
私は、その進み方を眺めていると、ときどき眩暈がした。
街は前に行く。
人々も前に行く。
季節も、仕事も、祭りも、収穫も、同じように巡りながら、確かに前へ流れていく。
なのに、私だけが。
夜と昼のあいだを、行き来している。
夜の時間は、積み重なるほど薄くなる。
忘れるのではない。慣れるのでもない。
ただ、同じ形に畳まれて、同じ引き出しにしまわれていく。
昼の時間は、積み重なるほど鮮明になる。
街が変わり、人の顔が変わり、季節が確かに移ろうほど、私は“今”に置いていかれる。
私は、ここにいるのに。
誰より近くにいるのに。
それでも、私の「ここ」は、昼に存在しない。
胸の奥で、何かがきしむ。
きしむ音は小さい。
けれど一年という時間は、その小さな音を、無視できない大きさに育ててしまう。
エルは、剣を振るう時間が減った。
代わりに、報告書を読む時間や、街を歩く時間が増えた。
彼は領主ではない。
それでも、アイン様の背中を追い、補佐として働く姿は落ち着いている。
以前の張り詰めた気配は薄れ、歩幅は一定で、声は低く安定している。
その変化を、私は誇らしく思っていた。
私が支えている、という自覚ではない。
もっと控えめで、静かな感覚だ。
この人が穏やかでいられる場所に、私がいる。その場所が、夜にしか存在しないとしても。
昼のエルは、夜のエルと似ていて、違う。
昼のエルは、私に優しい。
夜ほど近くはなく、必要以上に触れもしない。
けれど、目は逸らさず、声は穏やかで、私を「そこにいる人間」として扱う。
その距離が、正しいのだと分かっている。
昼の彼は、役割を生きている。
息子として。
補佐として。
街の一部として。
そこに、私の居場所は含まれていない。
それを、悲しいとは思わなかった。
そうでなければならない、と理解してしまった。
夜にすべてを委ねているからこそ、
昼に何も求めないでいられる。
それは、諦めではない。
選択だ。
昼に期待しなければ、
夜を失わずに済む。
私は、その計算ができるようになってしまった。
昼の彼は、私を必要としていない。
だからこそ、責める気持ちは湧かなかった。
嫉妬もしない。
私は、その違いを、静かに理解してしまっている。
納得しているのだと思う。
♢
家族は、何も言わない。
それは、許しではない。
否定でもない。
沈黙だ。
アイン様とミレイユ様は、気づいている。
屋敷の空気が穏やかなことも、エルが荒れていないことも、私が泣いていないことも。
問題は起きていない。
だから、止める理由がない。
ミレイユ様の視線が、時折、私に留まる。
ミレイユ様は、私を問い詰めない。
理由を尋ねることも、感情を暴くこともしない。
ただ、見ている。
その視線には、母としての心配と、
女としての“分かってしまう感じ”が、同時に含まれているように見えた。
それが、何よりも苦しい。
哀れまれるより、責められるより、
「分かってしまう」視線は、逃げ場を与えない。
彼女がどこまで知っているのか、私は確かめたことがない。
けれど――拒まれない関係が、どれほど人を救い、同時にどれほど人を縛るか。
それを、彼女は知っているように見えた。
もし自分が、もっと若く、
守るべきものを持たない立場だったなら。
同じ選択をしなかったと、言い切れるだろうか。
そんな問いが彼女の中にあるのだとしたら、
それが彼女を沈黙させるのだと思う。
だから彼女は、私を止めない。
止められない。
それは、許しではなく、共犯に近い。
ミレイユ様が私を止めない理由は、理解だけではない。
もっと、現実的なものが混ざっている。
例えば、朝。
廊下の角で鉢合わせても、彼女は決して私の目を覗きこまない。
視線を合わせれば、問いが生まれてしまうからだ。
「昨夜は眠れた?」
「痛くはない?」
「あなたは、望んでいるの?」
そんな問いは、どれも優しすぎて、残酷すぎる。
答えた瞬間、私が“何か”になってしまう。
被害者か。
恋人か。
罪人か。
救いか。
そのどれにしても、彼女は選べない。
選んだ時点で、彼女は母として、女として、何かを壊さなければならなくなる。
だから彼女は、黙って私に道を譲る。
ただ一歩、わずかに避ける。
私が通れるだけの隙間を作る。
その仕草が、時折、夜よりも胸に刺さった。
――通っていい。
そう言われた気がしてしまうからだ。
そして彼女は、私の身なりを見ている。
乱れていないか。
痣がないか。
唇が乾いていないか。
足取りがふらついていないか。
何もなければ、彼女は安堵した顔をする。
そして、その安堵が彼女自身を苦しめるのだと、私は勝手に感じてしまう。
「問題が起きていない」ことが、
「続けてもいい」理由になってしまう。
そうして沈黙は、毎朝、更新される。
彼女は優しい。
だからこそ、残酷だ。
私が壊れていない限り、彼女は止められない。
私が笑える限り、彼女は介入できない。
――そして私は、笑えてしまう。
夜を失いたくないから。
拒まれない場所を、守りたいから。
そのことに、彼女も気づいているように見える。
だから彼女は、言わない。
言えない。
沈黙だけが、彼女に許された選択だった。
女としての複雑さが、そこにあるのを、私は感じていた。
拒まれない関係の甘さ。
選ばれなくても、そこにいられる安堵。
被害者に見えない私の姿が、彼女を黙らせている。
もし立場が違えば、自分も同じ場所に立っていたかもしれない――
その可能性が、彼女の口を閉ざす。
♢
アイン様は、あの日以来、露骨な怒りを見せなくなった。
怒りが消えたのかどうかは、私には分からない。
ただ、表に出さなくなった。
一年という時間が、衝動ではないことを示してしまったからだ。
息子は逃げている。
しかし、逃げ続けている。
それを力で止めても、何かが解決するわけではない――
アイン様は、そう理解しているように見えた。
だから、選ばない。
黙認という形で、時間を流す。
時間は、何も決着をつけないまま、積み重なる。
一年という長さは、
短すぎて破壊できず、
長すぎて見なかったことにもできない。
この関係は、もはや「過ち」ではない。
しかし、「未来」でもない。
その中間に、私たちは留まっている。
止めれば、均衡が崩れる。
続ければ、何かが減っていく。
どちらも分かっているから、
誰も選ばない。
選ばないという選択だけが、
この屋敷を穏やかに保っている。
沈黙は、最も穏便で、
最も残酷な判断だった。
アイン様が怒りを表に出さなくなったのは、諦めたからではない。
――そうではないのだと、私は思いたかった。
怒るべき相手が、定まらなくなったのだとしたら。
あるいは、怒りを向けた瞬間に「守るべきもの」を壊してしまうと分かっているからだとしたら。
そのほうが、まだ理解できる。
最初に怒りを向けるなら、息子に。
それは当然だった。
越えてはいけない線を、越えたことへの怒り。
自分の傷を癒すために、誰かの夜を受け取ったことへの怒り。
けれど。
息子は、その件について、何も語らない。
弁解もしない。
正当化もしない。
ただ、穏やかになっていく。
荒れているなら、叱れる。
乱れているなら、正せる。
だが、穏やかであることを叱る理由は、どこにもない。
それが、父を追い詰める。
怒りの矛先を変えるなら、私に。
けれど私は、命令されたわけではない。
強いられたわけでもない。
――自分で選んでいる。
自分で選んで、夜に行く。
その選択を、領主が力で奪えば、
それは「保護」ではなく「支配」になる。
アイン様は、その線を越えない。
そして、最後に残る矛先は――
「止めなかった自分」だ。
領主として屋敷を守り、家族を守り、侍女たちを守る立場でありながら、
何もできない自分。
怒りは、やがて形を変える。
大きな音を立てる炎ではなく、
ずっと消えない熾火になる。
アイン様は、ある夜、書斎で灯りを落としていた。
扉の向こうを見ないように、書類を手に取っていた。
それでも、廊下の足音は聞こえる。
私の足音ではない。
屋敷に住む者なら誰でも分かる、規則的な歩幅。
そのとき、彼は気づいてしまったのだと思う。
――そういう顔をしていた、と私は記憶している。
止めることは、解決ではない。
止めることは、ただ“別の形で壊す”だけだ。
だから彼は、怒りを飲み込んだ。
飲み込んで、選ばなかった。
選ばないことで、屋敷の均衡を守った。
均衡を守った代わりに、
誰の人生も、前に進ませないまま。
――黙認とは、そういう重さだ。
♢
クリストフ様は、現実を語る。
道徳は語らない。
事実だけを知っている。
私が自分で行くこと。
エルが拒まないこと。
二人とも壊れていないこと。
ただ、前に進んでいないこと。
幸せが形にならない関係。
名前を持たない関係。
終わりを持たない関係は、いつか歪む――
そんな気配を、彼は言葉にしないまま抱えているように見えた。
それでも止めない。止める理由が、まだないからだ。
クリストフ様は、時折、考え込む顔をする。
それは、予測でも警告でもない。
ただ、夜が続いた先にある“形”を、知っている人の顔だ、と私は思った。
名前を持たない関係は、終わりも持たない。
終わりを持たない関係は、節目を持たない。
節目を持たない時間は、いつか、必ず歪む。
――そういうものを、彼は見てきたのかもしれない。
愛ではない。
だが、情はある。
約束はない。
だが、拒絶もない。
その曖昧さは、最初は人を救う。
だが、ある日突然、居場所を奪う。
誰かが選ばれたとき。
誰かが未来を決めたとき。
あるいは、ただ季節が、もう一巡したとき。
その瞬間、
「なかったこと」にされる側は、声を上げる権利すら持たない。
――だから、歪む。
クリストフ様は、それを止められる立場にいる。
けれど、止める資格はない。
少なくとも、彼はそう振る舞っている。
彼が確かに知っているのは、
メイリスが自分で行っているという事実。
エルが拒んでいないという事実。
二人とも、今は壊れていないという事実。
そしてもう一つ。
もし、これを止めた場合に起きる“別の歪み”も、
同じくらい現実的だと、彼が分かっているのだろうということ。
だから彼は、記録する。
覚えている。
いつから始まり、どれくらい続いているかを。
そういう正確さが、彼にはある。
止めるためではない。
裁くためでもない。
――歪んだときに、
「誰も気づいていなかった」ことにしないために。
それが、彼に許された唯一の責任なのだとしたら。
そう思ってしまうのは、私の勝手な想像だ。
♢
夜の入口に、私は迷わず立つ。
夜の扉の前で、私は一度だけ、呼吸を整える。
それは緊張ではない。
確認だ。
今日も、拒まれないか。
今日も、追い返されないか。
今日も、ここに入っていいのか。
答えは、いつも同じだ。
扉は閉じていない。
鍵もかかっていない。
だから私は、入る。
夜の中で、エルは昼よりも静かだ。
言葉が少なく、視線が近い。
触れ方も、一定している。
変わるのは、名前だけだ。
呼ばれる夜と、呼ばれない夜がある。
理由は分からない。
分からないから、数えない。
名前を呼ばれた夜、
私は少しだけ深く息をする。
それだけで、胸の奥がほどける。
ここにいるのは、役割ではない。
そう錯覚できる。
呼ばれない夜、
私は、それでも何も言わない。
呼ばれなくても、拒まれてはいない。
触れられている。
離されていない。
――それで十分だと、思ってしまう。
その事実が、私を少しずつ静かにする。
名前を呼ばれない夜が続いても、
私は扉の前に立つだろう。
呼ばれる可能性が、ゼロではない限り。
そして、呼ばれた瞬間、
すべてが報われたような気がしてしまう。
その仕組みを、私は理解している。
理解した上で、身を委ねている。
愚かだとは思わない。
弱いとも思わない。
これは、私が選んだ“夜との付き合い方”だ。
名前は、夜の中でだけ、意味を持つ。
昼に持ち出せば、壊れる。
だから私は、
夜に呼ばれた名前を、
朝まで持ち越さない。
持ち越してしまえば、
きっと私は、何かを求めてしまう。
そしてそれは、
この関係が許していない感情だ。
だから私は、
呼ばれても、呼ばれなくても、
同じように目を閉じる。
それができるようになったことを、
私は、成長とも劣化とも呼ばない。
ただ――
一年が、そうさせた。
行くかどうかは考えない。
それはもう、生活の一部になっている。
今日も部屋に入れる。
今日も拒まれない。今日も、名前を呼ばれるかもしれない。
それらは、確かな幸福だ。
同時に、私は知っている。
これは昼には存在しない幸せだ。
誰にも説明できず、誰とも共有できない。
けれど、私はそれで満足してしまう自分を、否定しない。
触れられる。
呼吸が近い。
名を呼ばれることがある。
行為の細部を、私は覚えていない。思い出さないようにしている。
ただ、体温と静けさだけが残る。
私は、幸せだ。
この幸せに、名前はない。
恋でも、愛でも、約束でもない。
説明しようとした瞬間、崩れてしまう。
だから私は、説明しない。
夜に得た温もりを、
昼の言葉に翻訳しない。
翻訳した途端、
それは嘘になるからだ。
私は、選ばれなかった。
それでも、拒まれなかった。
その事実が、
私の一日を、今日も成立させている。
未来が見えなくても、
今が続くなら、それでいい。
そう思えてしまう自分を、
私は、もう裁かない。
けれど、この幸せは、どこにも続いていない。
それでも、私はここにいる。
♢
夜は、静かに更けていく。
家族は何も言わない。
許しでも否定でもない沈黙が、屋敷に満ちている。
私は明日も支度をし、同じ廊下を歩き、同じ扉の前に立つだろう。
それを不幸とは呼ばない。
幸せとも呼ばない。
私は、選ばれなかった。
けれど、拒まれなかった。
その事実とともに、夜は続く。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
この章で描きたかったのは、「壊れていく関係」ではなく、
壊れないために続いてしまう関係でした。
誰も泣かず、誰も荒れず、街も屋敷も穏やかで、問題が起きていない。
だからこそ、誰も止められないし、正解も見えない。
その静かな均衡を、私は「黙認」と呼んでいます。
メイリスの「嬉しい」は嘘ではありません。
エルといられることは、確かに救いで、確かに幸福です。
ただ、その幸福が昼に名前を持てない形だからこそ、
同じ場所で、言葉にならない欠けたものも育っていく。
幸せか、不幸か――そのどちらにも振り切れないところに、
この章の痛みがあると思っています。
もし読み終えて、
「甘いのに苦しい」
「誰も間違っていないのに、救われない」
そんな感触が残ったなら、狙い通りです。
感想・評価・レビューなど、率直な声をいただけたらとても励みになります。
どんな一言でも構いません。
ここまで読んでくれて、本当にありがとうございました。




