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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
メイリス編

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50/87

50.夜の役割-6

 夜は、変わらず訪れる。


 一年という時間が過ぎたことを、私は数えてはいなかった。記念日に印をつけるような出来事はなく、誰かに告げられたわけでもない。

 ただ、庭の隅に植えられた花が、去年と同じ色で、同じ高さに咲いているのを見て、気づいた。


 ああ、また春が来たのだ、と。


 それだけのことだった。


 私は朝の支度を、迷いなく終える。

 以前より手が早くなった。

 鏡の前で立ち尽くす時間も、衣を選び直す回数も減った。

 感情が削げ落ちたわけではない。

 ただ、揺らさない方法を覚えただけだ。


 壊れてはいない。

 そう思う。


 むしろ、穏やかだ。

 夜ごと眠り、朝を迎え、役目を果たす。

 私は、うまくやれている。


 ――それに。


 私は、エルといられることが、嬉しい。


 私は、その「嬉しい」を、疑わないようにしている。

 疑えば、形が変わってしまうからだ。


 この一年で、私は何度も自分に問いかけた。

 これは依存ではないのか。

 逃げではないのか。

 間違いではないのか。


 けれど、その問いはいつも、最後まで辿り着かない。


 答えを出す前に、夜が来る。

 そして夜は、私を否定しない。


 拒まれない。

 追い返されない。

「そこにいていい」と、言葉にしないまま、許される。


 それは、正しさよりも強い。


 正解かどうかよりも、

 生きていけるかどうかの方が、私には重要だった。


 だから私は、

「嬉しい」という感情を、ただ事実として抱える。


 それが何を削り、何を置き去りにしているのかを、

 考えないまま。


 その事実を否定する理由は、どこにもなかった。


 ♢


 昼の屋敷は静かだ。

 領主であるアイン様の采配で、街の整備は着実に進んでいる。

 石畳はならされ、倉は増え、人の流れは以前よりも確かに太くなった。


 発展は、目に見える形で積み重なっていた。

 新しい屋根瓦の匂い。塗り直された壁の白さ。木材を運ぶ車輪の音。

 春の市に合わせて増えた屋台は、去年よりも多い。

 蜜を煮詰めた菓子の甘さが風に乗り、香草の束が陽に透け、干し肉を焼く煙が夕方の空に薄くのびる。


 ――一年。


 口に出せば短いのに、街はその一年を裏切るように変わる。

 アイン様の采配は早く、厳密で、迷いがない。

 優しい変化ではなく、必要な変化だけが選ばれている。

 だから、街は進む。


 私は、その進み方を眺めていると、ときどき眩暈がした。


 街は前に行く。

 人々も前に行く。

 季節も、仕事も、祭りも、収穫も、同じように巡りながら、確かに前へ流れていく。


 なのに、私だけが。


 夜と昼のあいだを、行き来している。


 夜の時間は、積み重なるほど薄くなる。

 忘れるのではない。慣れるのでもない。

 ただ、同じ形に畳まれて、同じ引き出しにしまわれていく。


 昼の時間は、積み重なるほど鮮明になる。

 街が変わり、人の顔が変わり、季節が確かに移ろうほど、私は“今”に置いていかれる。


 私は、ここにいるのに。

 誰より近くにいるのに。

 それでも、私の「ここ」は、昼に存在しない。


 胸の奥で、何かがきしむ。

 きしむ音は小さい。

 けれど一年という時間は、その小さな音を、無視できない大きさに育ててしまう。


 エルは、剣を振るう時間が減った。

 代わりに、報告書を読む時間や、街を歩く時間が増えた。


 彼は領主ではない。

 それでも、アイン様の背中を追い、補佐として働く姿は落ち着いている。

 以前の張り詰めた気配は薄れ、歩幅は一定で、声は低く安定している。


 その変化を、私は誇らしく思っていた。


 私が支えている、という自覚ではない。

 もっと控えめで、静かな感覚だ。

 この人が穏やかでいられる場所に、私がいる。その場所が、夜にしか存在しないとしても。


 昼のエルは、夜のエルと似ていて、違う。


 昼のエルは、私に優しい。

 夜ほど近くはなく、必要以上に触れもしない。

 けれど、目は逸らさず、声は穏やかで、私を「そこにいる人間」として扱う。


 その距離が、正しいのだと分かっている。


 昼の彼は、役割を生きている。

 息子として。

 補佐として。

 街の一部として。


 そこに、私の居場所は含まれていない。


 それを、悲しいとは思わなかった。

 そうでなければならない、と理解してしまった。


 夜にすべてを委ねているからこそ、

 昼に何も求めないでいられる。


 それは、諦めではない。

 選択だ。


 昼に期待しなければ、

 夜を失わずに済む。


 私は、その計算ができるようになってしまった。


 昼の彼は、私を必要としていない。

 だからこそ、責める気持ちは湧かなかった。

 嫉妬もしない。

 私は、その違いを、静かに理解してしまっている。


 納得しているのだと思う。


 ♢


 家族は、何も言わない。


 それは、許しではない。

 否定でもない。

 沈黙だ。


 アイン様とミレイユ様は、気づいている。

 屋敷の空気が穏やかなことも、エルが荒れていないことも、私が泣いていないことも。

 問題は起きていない。


 だから、止める理由がない。


 ミレイユ様の視線が、時折、私に留まる。


 ミレイユ様は、私を問い詰めない。

 理由を尋ねることも、感情を暴くこともしない。


 ただ、見ている。


 その視線には、母としての心配と、

 女としての“分かってしまう感じ”が、同時に含まれているように見えた。


 それが、何よりも苦しい。


 哀れまれるより、責められるより、

「分かってしまう」視線は、逃げ場を与えない。


 彼女がどこまで知っているのか、私は確かめたことがない。

 けれど――拒まれない関係が、どれほど人を救い、同時にどれほど人を縛るか。

 それを、彼女は知っているように見えた。


 もし自分が、もっと若く、

 守るべきものを持たない立場だったなら。

 同じ選択をしなかったと、言い切れるだろうか。


 そんな問いが彼女の中にあるのだとしたら、

 それが彼女を沈黙させるのだと思う。


 だから彼女は、私を止めない。

 止められない。


 それは、許しではなく、共犯に近い。


 ミレイユ様が私を止めない理由は、理解だけではない。

 もっと、現実的なものが混ざっている。


 例えば、朝。


 廊下の角で鉢合わせても、彼女は決して私の目を覗きこまない。

 視線を合わせれば、問いが生まれてしまうからだ。


「昨夜は眠れた?」

「痛くはない?」

「あなたは、望んでいるの?」


 そんな問いは、どれも優しすぎて、残酷すぎる。

 答えた瞬間、私が“何か”になってしまう。


 被害者か。

 恋人か。

 罪人か。

 救いか。


 そのどれにしても、彼女は選べない。

 選んだ時点で、彼女は母として、女として、何かを壊さなければならなくなる。


 だから彼女は、黙って私に道を譲る。

 ただ一歩、わずかに避ける。

 私が通れるだけの隙間を作る。


 その仕草が、時折、夜よりも胸に刺さった。


 ――通っていい。


 そう言われた気がしてしまうからだ。


 そして彼女は、私の身なりを見ている。

 乱れていないか。

 痣がないか。

 唇が乾いていないか。

 足取りがふらついていないか。


 何もなければ、彼女は安堵した顔をする。

 そして、その安堵が彼女自身を苦しめるのだと、私は勝手に感じてしまう。


「問題が起きていない」ことが、

「続けてもいい」理由になってしまう。


 そうして沈黙は、毎朝、更新される。


 彼女は優しい。

 だからこそ、残酷だ。


 私が壊れていない限り、彼女は止められない。

 私が笑える限り、彼女は介入できない。


 ――そして私は、笑えてしまう。


 夜を失いたくないから。

 拒まれない場所を、守りたいから。


 そのことに、彼女も気づいているように見える。

 だから彼女は、言わない。

 言えない。


 沈黙だけが、彼女に許された選択だった。


 女としての複雑さが、そこにあるのを、私は感じていた。

 拒まれない関係の甘さ。

 選ばれなくても、そこにいられる安堵。

 被害者に見えない私の姿が、彼女を黙らせている。


 もし立場が違えば、自分も同じ場所に立っていたかもしれない――

 その可能性が、彼女の口を閉ざす。


 ♢


 アイン様は、あの日以来、露骨な怒りを見せなくなった。

 怒りが消えたのかどうかは、私には分からない。

 ただ、表に出さなくなった。


 一年という時間が、衝動ではないことを示してしまったからだ。

 息子は逃げている。

 しかし、逃げ続けている。

 それを力で止めても、何かが解決するわけではない――

 アイン様は、そう理解しているように見えた。


 だから、選ばない。

 黙認という形で、時間を流す。


 時間は、何も決着をつけないまま、積み重なる。


 一年という長さは、

 短すぎて破壊できず、

 長すぎて見なかったことにもできない。


 この関係は、もはや「過ち」ではない。

 しかし、「未来」でもない。


 その中間に、私たちは留まっている。


 止めれば、均衡が崩れる。

 続ければ、何かが減っていく。


 どちらも分かっているから、

 誰も選ばない。


 選ばないという選択だけが、

 この屋敷を穏やかに保っている。


 沈黙は、最も穏便で、

 最も残酷な判断だった。


 アイン様が怒りを表に出さなくなったのは、諦めたからではない。

 ――そうではないのだと、私は思いたかった。


 怒るべき相手が、定まらなくなったのだとしたら。

 あるいは、怒りを向けた瞬間に「守るべきもの」を壊してしまうと分かっているからだとしたら。

 そのほうが、まだ理解できる。


 最初に怒りを向けるなら、息子に。

 それは当然だった。

 越えてはいけない線を、越えたことへの怒り。

 自分の傷を癒すために、誰かの夜を受け取ったことへの怒り。


 けれど。


 息子は、その件について、何も語らない。

 弁解もしない。

 正当化もしない。

 ただ、穏やかになっていく。


 荒れているなら、叱れる。

 乱れているなら、正せる。

 だが、穏やかであることを叱る理由は、どこにもない。


 それが、父を追い詰める。


 怒りの矛先を変えるなら、私に。

 けれど私は、命令されたわけではない。

 強いられたわけでもない。

 ――自分で選んでいる。


 自分で選んで、夜に行く。

 その選択を、領主が力で奪えば、

 それは「保護」ではなく「支配」になる。


 アイン様は、その線を越えない。


 そして、最後に残る矛先は――

「止めなかった自分」だ。


 領主として屋敷を守り、家族を守り、侍女たちを守る立場でありながら、

 何もできない自分。


 怒りは、やがて形を変える。

 大きな音を立てる炎ではなく、

 ずっと消えない熾火になる。


 アイン様は、ある夜、書斎で灯りを落としていた。

 扉の向こうを見ないように、書類を手に取っていた。

 それでも、廊下の足音は聞こえる。

 私の足音ではない。

 屋敷に住む者なら誰でも分かる、規則的な歩幅。


 そのとき、彼は気づいてしまったのだと思う。

 ――そういう顔をしていた、と私は記憶している。


 止めることは、解決ではない。

 止めることは、ただ“別の形で壊す”だけだ。


 だから彼は、怒りを飲み込んだ。

 飲み込んで、選ばなかった。

 選ばないことで、屋敷の均衡を守った。


 均衡を守った代わりに、

 誰の人生も、前に進ませないまま。


 ――黙認とは、そういう重さだ。


 ♢


 クリストフ様は、現実を語る。


 道徳は語らない。

 事実だけを知っている。

 私が自分で行くこと。

 エルが拒まないこと。

 二人とも壊れていないこと。

 ただ、前に進んでいないこと。


 幸せが形にならない関係。

 名前を持たない関係。

 終わりを持たない関係は、いつか歪む――

 そんな気配を、彼は言葉にしないまま抱えているように見えた。

 それでも止めない。止める理由が、まだないからだ。


 クリストフ様は、時折、考え込む顔をする。


 それは、予測でも警告でもない。

 ただ、夜が続いた先にある“形”を、知っている人の顔だ、と私は思った。


 名前を持たない関係は、終わりも持たない。

 終わりを持たない関係は、節目を持たない。

 節目を持たない時間は、いつか、必ず歪む。


 ――そういうものを、彼は見てきたのかもしれない。


 愛ではない。

 だが、情はある。

 約束はない。

 だが、拒絶もない。


 その曖昧さは、最初は人を救う。

 だが、ある日突然、居場所を奪う。


 誰かが選ばれたとき。

 誰かが未来を決めたとき。

 あるいは、ただ季節が、もう一巡したとき。


 その瞬間、

「なかったこと」にされる側は、声を上げる権利すら持たない。


 ――だから、歪む。


 クリストフ様は、それを止められる立場にいる。

 けれど、止める資格はない。

 少なくとも、彼はそう振る舞っている。


 彼が確かに知っているのは、

 メイリスが自分で行っているという事実。

 エルが拒んでいないという事実。

 二人とも、今は壊れていないという事実。


 そしてもう一つ。

 もし、これを止めた場合に起きる“別の歪み”も、

 同じくらい現実的だと、彼が分かっているのだろうということ。


 だから彼は、記録する。

 覚えている。

 いつから始まり、どれくらい続いているかを。

 そういう正確さが、彼にはある。


 止めるためではない。

 裁くためでもない。


 ――歪んだときに、

「誰も気づいていなかった」ことにしないために。


 それが、彼に許された唯一の責任なのだとしたら。

 そう思ってしまうのは、私の勝手な想像だ。


 ♢


 夜の入口に、私は迷わず立つ。


 夜の扉の前で、私は一度だけ、呼吸を整える。


 それは緊張ではない。

 確認だ。


 今日も、拒まれないか。

 今日も、追い返されないか。

 今日も、ここに入っていいのか。


 答えは、いつも同じだ。

 扉は閉じていない。

 鍵もかかっていない。


 だから私は、入る。


 夜の中で、エルは昼よりも静かだ。

 言葉が少なく、視線が近い。

 触れ方も、一定している。


 変わるのは、名前だけだ。


 呼ばれる夜と、呼ばれない夜がある。


 理由は分からない。

 分からないから、数えない。


 名前を呼ばれた夜、

 私は少しだけ深く息をする。


 それだけで、胸の奥がほどける。

 ここにいるのは、役割ではない。

 そう錯覚できる。


 呼ばれない夜、

 私は、それでも何も言わない。


 呼ばれなくても、拒まれてはいない。

 触れられている。

 離されていない。


 ――それで十分だと、思ってしまう。


 その事実が、私を少しずつ静かにする。


 名前を呼ばれない夜が続いても、

 私は扉の前に立つだろう。


 呼ばれる可能性が、ゼロではない限り。


 そして、呼ばれた瞬間、

 すべてが報われたような気がしてしまう。


 その仕組みを、私は理解している。

 理解した上で、身を委ねている。


 愚かだとは思わない。

 弱いとも思わない。


 これは、私が選んだ“夜との付き合い方”だ。


 名前は、夜の中でだけ、意味を持つ。

 昼に持ち出せば、壊れる。


 だから私は、

 夜に呼ばれた名前を、

 朝まで持ち越さない。


 持ち越してしまえば、

 きっと私は、何かを求めてしまう。


 そしてそれは、

 この関係が許していない感情だ。


 だから私は、

 呼ばれても、呼ばれなくても、

 同じように目を閉じる。


 それができるようになったことを、

 私は、成長とも劣化とも呼ばない。


 ただ――

 一年が、そうさせた。


 行くかどうかは考えない。

 それはもう、生活の一部になっている。

 今日も部屋に入れる。

 今日も拒まれない。今日も、名前を呼ばれるかもしれない。


 それらは、確かな幸福だ。


 同時に、私は知っている。

 これは昼には存在しない幸せだ。

 誰にも説明できず、誰とも共有できない。

 けれど、私はそれで満足してしまう自分を、否定しない。


 触れられる。

 呼吸が近い。

 名を呼ばれることがある。

 行為の細部を、私は覚えていない。思い出さないようにしている。

 ただ、体温と静けさだけが残る。


 私は、幸せだ。


 この幸せに、名前はない。


 恋でも、愛でも、約束でもない。

 説明しようとした瞬間、崩れてしまう。


 だから私は、説明しない。


 夜に得た温もりを、

 昼の言葉に翻訳しない。


 翻訳した途端、

 それは嘘になるからだ。


 私は、選ばれなかった。

 それでも、拒まれなかった。


 その事実が、

 私の一日を、今日も成立させている。


 未来が見えなくても、

 今が続くなら、それでいい。


 そう思えてしまう自分を、

 私は、もう裁かない。


 けれど、この幸せは、どこにも続いていない。


 それでも、私はここにいる。


 ♢


 夜は、静かに更けていく。


 家族は何も言わない。

 許しでも否定でもない沈黙が、屋敷に満ちている。

 私は明日も支度をし、同じ廊下を歩き、同じ扉の前に立つだろう。


 それを不幸とは呼ばない。

 幸せとも呼ばない。


 私は、選ばれなかった。

 けれど、拒まれなかった。


 その事実とともに、夜は続く。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


この章で描きたかったのは、「壊れていく関係」ではなく、

壊れないために続いてしまう関係でした。

誰も泣かず、誰も荒れず、街も屋敷も穏やかで、問題が起きていない。

だからこそ、誰も止められないし、正解も見えない。

その静かな均衡を、私は「黙認」と呼んでいます。


メイリスの「嬉しい」は嘘ではありません。

エルといられることは、確かに救いで、確かに幸福です。

ただ、その幸福が昼に名前を持てない形だからこそ、

同じ場所で、言葉にならない欠けたものも育っていく。

幸せか、不幸か――そのどちらにも振り切れないところに、

この章の痛みがあると思っています。


もし読み終えて、

「甘いのに苦しい」

「誰も間違っていないのに、救われない」

そんな感触が残ったなら、狙い通りです。


感想・評価・レビューなど、率直な声をいただけたらとても励みになります。

どんな一言でも構いません。


ここまで読んでくれて、本当にありがとうございました。

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