05.息苦しくない場所
村の外れに、
誰も使わなくなった小さな庭があった。
手入れはされていないが、
雑草の間から薬草が顔を出している。
僕は、そこに一人でいることが多かった。
ここに来ると、僕は僕でいなくていい。
アルヴェイン家、エルディオ、全てから解放される気がした。
僕は一人でその庭の掃除をしている。
指先に、土の冷たさが残る。
爪の間に土が入り込んでも、気にならなかった。
毎日少しずつ雑草をとり、そこに薬草を植える。
ただそれだけ。
勉強に、魔法、アインからの剣の訓練が加わり、忙しくしているが
それでもこの庭に来ることだけはやめなかった。
暑い日も、雨の日も、寒い雪の降る日も、毎日欠かさずこの場所に来た。
何をしたかった、というわけでもない。
特段薬草に興味があるわけでもない。
ただ、ここは息苦しくなかったんだ。
♢
僕の秘密の場所は、僕が手を入れるたび、
その庭は少しずつ“僕の場所”に変わっていった。
手入れをし、整え、植えて、水を撒く。
それだけが僕の楽しみになりつつあった。
そんなある日のことだった。
「その草、踏まないで。」
背中から声がかかった。
振り向くと、そこには僕とそう変わらない背丈の女の子が立っていた。
「その草、薬になるの。もらっていい?」
「いい、けど。君は?」
色褪せた僕の視界でも分かる。
腰まで長く伸びた髪の色素は抜け落ち、綺麗な白色。
肌も白い。
その姿を見て、どこか胸の奥がざわついた。
それが彼女との最初の出会いだった。
♢
それからというもの、彼女は度々この畑にやってくるようになった。
会話もなく、ただ畑の世話を手伝ってくれる。
そして、自分で育てた薬草を少しだけ持ち帰る。
彼女の家族で体調が悪い人が居るのだろうか。
そんなことを考えてもしょうがなかった。
僕と彼女は、まともに話したこともないただの他人なのだから。
ある日、いつものように畑の世話をしていると、隣で作業する彼女から声をかけられた。
「あなた、名前…なんていうの?」
僕は名前を名乗ることをためらった。
名乗ってしまうと、身分を隠していることがバレてしまう。
ずっと黙っているのも変だと思って、短く返事をした。
「…エル」
「……エル」
一瞬だけ、彼女は考えるように視線を落とした。
それから、頷いた。
「そっか、私はリィナ」
「リィナ…」
たったそれだけ。それだけの会話だったが、エルと呼ばれたことが少し僕の心を落ち着かせた。
”坊ちゃま”でも”エルディオ様”でもない。
ただの”エル”。
呼ばれてもいい名前が、僕にもまだ残っていた。
♢
名前を呼ばれたあの日から、リィナとは少しずつ言葉を交わす日が増えた。
「それ、何の草?」
僕が聞くと、リィナは少し考えてから答えた。
「苦い」
「……薬の名前じゃないよね」
「うん。でも、苦い」
それだけだった。
でも、彼女は少しだけ口の端を緩めた。
リィナはこの辺境伯領に住む平民。
家名はない。
両親はいるが姉弟はいない。
リィナはいつも一人で過ごしている。
友達も話す子もいないと言っていた。
ここに来るのは週に三日ほど。
言葉数は少ないけれど、リィナと話すのは苦しくなかった。
いつも別れ際、「またね」と彼女は言う。
僕も「またね」と言って別れる。
リィナが来る日は、朝から少しだけ落ち着かなかった。
時計を見るようなことはしない。
それでも、畑に出る時間がいつもより早くなる。
彼女が来ない日は、土を触る時間が長くなる。
雑草を抜き終えても、意味もなく畑に残った。
帰る理由が、見つからなかったからだ。
彼女が来ない日は少し寂しかった。
彼女が来る日は、ここに来る理由を考えなくて済んだ。
♢
ある日、畑に出ていると、空が急に暗くなった。
さっきまで晴れていたはずなのに、風が冷たくなる。
「雨、降るかも」
リィナがぽつりと言った。
その声は、いつもより少しだけ小さかった。
やがて、ぽつぽつと雨粒が落ちてきた。
土の匂いが強くなる。
逃げるほどの雨ではない。
でも、長くいれば濡れてしまう程度には。
「……帰る?」
僕が聞くと、リィナは首を振った。
「…ここ、好き」
「……私も」
そう言ってから、少しだけ間があった。
“私も”という言葉が、胸の奥で何度も反響する。
雨はすぐに本降りになった。
逃げ場はない。
僕は上着を脱いで、二人の頭の上に広げた。
近い。
思っていたより、ずっと。
リィナは何も言わなかった。
ただ、少しだけ身を縮めて、雨音を聞いていた。
肩が触れそうで、触れない距離。
それが、なぜか心地よかった。
「……ねえ」
しばらくして、彼女が言った。
「ここでのこと、誰にも言わないで」
「……うん」
理由は聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
雨が弱まるまで、二人とも黙っていた。
会話がなくても、沈黙が苦しくなかった。
やがて雲が流れ、空が少し明るくなる。
「またね」
いつもの言葉。
でも今日は、少しだけ名残惜しかった。
「またね」
彼女は歩いて帰っていった。
走ることなく、一定の歩幅で。
一人になった畑で、僕はしばらく動けなかった。
ここは、秘密の場所だ。
誰の期待も、役割も、届かない。
でも今は、
“二人で守る場所”になってしまった気がした。
それが、少しだけ怖くて、
それ以上に、手放したくなかった。
♢
僕はリィナが走っているところを見たことがない。
足が悪いのだろうか、そう思って聞いてみたことがある。
「走れないの」
たった一言、それだけの答えが返ってきた。
彼女はそれ以降口を開かなかった。
聞くな、と暗に言われているのだろう。
リィナに関しては分からないことが多い。
どうして薬草に詳しいのか、どうして走れないのか、どうしていつも一人なのか。
聞いてもおそらくは答えてくれない。
リィナも、僕が何者かを聞いてこない。
剣のことも、魔法のことも。
僕ができることに、興味がない。
それが、少しだけ怖かった。
何も求められないということは、
何も失わないということでもある。
でも同時に、
ここにいていい理由も、ないということだから。
それでも、僕はこの場所に来続けた。
理由は考えなかった。
考えてしまえば、
きっと、失うのが怖くなる。
だから僕は、
この時間が続くことだけを、
何も願わずに受け取っていた。
この時間が、いつか終わるものだとは、
まだ考えないようにしていた。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
今回は、何も起きないけれど、
確かに“生きやすかった時間”の話でした。
次話から、その日常に少しずつ影が差していきます。
まだ物語は続いていきます。
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