表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
メイリス編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

49/91

49.夜の役割-5

 

 夜は、規則正しく訪れる。


 私は、毎夜、同じ時間に支度をして、

 同じ廊下を歩き、

 同じ扉の前に立つ。


 迷いはない。

 もう、ほとんどない。


 行為の詳細を、私は覚えていない。

 正確には、思い出さないようにしている。


 記憶に残るのは、

 触れられたときの体温と、

 呼吸が近づいた瞬間の静けさだけだ。


 身体は、確かに満たされる。

 疲れ切った心が、ほんのひととき、緩む。


 けれど、その満足感の奥には、

 いつも、同じ感覚が横たわっている。


 ――特別である、という錯覚。

 ――空っぽである、という現実。


 私は、その二つを、同時に抱えたまま、

 夜を重ねている。


 呼ばれているわけではない。

 求められているわけでもない。


 それでも、拒まれない。


 その事実だけが、

 私をここに立たせている。


 ♢


 翌朝。


 珍しく、エルディオ様が、

「街を見て回ろう」と言った。


 魔獣討伐の成果で、

 領内の整備が進んでいる。


 視察――

 そう言われれば、それだけのことだ。


 けれど。


 私の胸は、

 小さく、確かに揺れた。


 ♢


 私は、朝から、クローゼットの前で立ち尽くしていた。


 メイド服では、違う。

 今日は「仕事」ではない。


 けれど、

 飾りすぎる勇気も、ない。


 何度も服を取り出しては、戻す。


 落ち着いた色合いのワンピース。

 装飾は控えめで、

 柔らかな布地が、身体に沿うもの。


 派手ではない。

 でも、「侍女」ではない。


 それが、私なりの選択だった。


 鏡の前で、髪を整える。


 昔は、もっと長かった。

 腰に届くほどあった髪を、

 今は、肩にかかる程度で切り揃えている。


 理由を聞かれたら、

 きっと、うまく答えられない。


 ただ――

 長い髪を維持する余裕が、

 いつの間にか、なくなっていた。


 ♢


 街は、私の記憶よりも、ずっと賑やかだった。


 石畳は整えられ、

 建物は増え、

 屋台が並び、

 人々の声が、途切れることなく流れている。


 子どもたちの笑い声。

 呼び込みの声。

 金属の触れ合う音。


 ――生きている街。


 エルディオ様は、

 少しだけ足を止め、

 周囲を見渡した。


「……うちの屋敷が城だったら、

 王都と遜色ないくらいに発展したな」


 興味がなかったから、見えていなかった。


 今さら、気づいた。

 そんな声音だった。


 歩きながら、

 私は、隣にいることを意識してしまう。


 視察。

 ただ、それだけ。


 そう分かっているのに、

 人混みの中で、

 距離が近いことが、

 どうしようもなく、胸を騒がせる。


「メイリス」


 呼ばれて、振り返る。


「髪、随分変わったね」


 一瞬、言葉を失った。


 ――見て、いたのだ。


「長い髪も好きだったけど……

 そっちの方が可愛いよ。メイリス」


 心臓が、大きく跳ねる。


「と、とんでもございません……」


 否定の言葉が、

 反射的に口をつく。


 けれど、

 頬が熱くなるのを、止められない。


「メイリス、ほら。屋台が出てる。行こう」


 そう言って、

 エルディオ様は、自然に、私の手を取った。


 拒む暇もなかった。


 指先が絡む。

 体温が、伝わる。


 ただ、それだけで、

 胸が、うるさくなる。


 歩幅を合わせて、

 並んで歩く。


 視察。

 ただの、視察。


 分かっている。


 これは、

 私に向けられた特別ではない。


 エルディオ様は、

 街を見ている。


 この時間がもたらす、

 穏やかさを、感じている。


 ――私を、見ているわけではない。


 それでも。


 手を握られている間だけは、

 私は、

「特別な存在」であるかのような錯覚に、

 身を委ねてしまう。


 甘くて、

 苦しくて、

 分かっているからこそ、残酷な錯覚に。


 それでも、

 私は、手を離さなかった。


 離す理由が、

 もう、どこにも見つからなかったから。


 ♢


 手を離さなかったことを、私は後悔していない。

 後悔する資格が、自分にあるとも思えなかった。


 あの手は、優しかった。

 力は強くなく、引き寄せるでもなく、

 ただ――そこにあった。


 だから私は、勝手に意味を与えてしまった。


 隣に並んで歩くこと。

 同じ景色を見ること。

 同じ時間を、同じ速度で進むこと。


 それだけで、

 胸の奥に、言葉にならない感情が溜まっていく。


 これは、特別なのだと。

 私だけが、ここにいるのだと。


 ――分かっている。


 それが、私の側だけで完結している錯覚だということくらい。


 ♢


 街の人々は、私たちを見ていた。


 正確には、エルディオ様を。


 敬意のこもった視線。

 感謝を滲ませた表情。

 安堵と期待が入り混じった眼差し。


 私は、その隣に立つ影にすぎない。


 それでも。


「ご領主様達のおかげで、助かっています」


 そう声をかけられるたび、

 私は、なぜか胸を張ってしまった。


 あなたの成果です。

 あなたが守った街です。


 そう分かっているのに、

 その場に「一緒に立っている」だけで、

 自分まで肯定されたような気がしてしまう。


 ――卑怯だ。


 そんな感情を抱く自分が、何よりも。


 ♢


 歩いている間、

 エルディオ様は、何度か立ち止まった。


 新しく整備された道。

 拡張された水路。

 増築された倉庫。


 以前なら、通り過ぎていたであろう場所で。


「……こんなところまで、整っていたのか」


 ぽつりと零された声には、

 驚きが混じっていた。


 興味がなかったから、見えていなかった。

 それに、今さら気づいた。


 そんな調子だった。


 私は、その横顔を盗み見る。


 穏やかで、静かで、

 夜とは違う表情。


 ――昼のエルディオ様。


 私の知らない時間を、生きている人。


 それでも、ふとした瞬間に、距離が近づく。


 人を避けるために、肩が触れる。

 歩幅を合わせるために、速度が揃う。


 そのたびに、胸がざわつく。


 夜に触れている身体なのに、

 昼に触れられるほうが、どうしようもなく緊張する。


 おかしい。

 順番が、完全に逆だ。


 ――分かっている。


 私は、見られていない。


 髪を切った理由も、

 服を選んだ理由も、

 今、ここに立っている理由も。


 すべて、私の中にしか存在しない。


 それでも。


「可愛い」と言われた言葉が、

 胸の奥で、何度も反芻される。


 長い髪も好きだった。

 でも、今のほうが可愛い。


 それは、評価ではなく、

 感想に近い響きだった。


 だからこそ、心に刺さる。


 夜は、私を役割として扱う。

 けれど、昼の言葉は、

 私を「一人の存在」として錯覚させる。


 その二つが、胸の中で噛み合わない。


 噛み合わないからこそ、

 私は、そのどちらにも、縋ってしまう。


 この街は、前に進んでいる。

 人も、建物も、時間も。


 なのに、私は。


 夜と昼のあいだで、

 同じ場所を、行き来しているだけだ。


 進んでいるようで、

 何一つ、前に進めていない。


 それでも、今日の手の温度を、

 私は、忘れないだろう。


 忘れてしまったら、

 自分が、ここにいた証まで、

 消えてしまう気がしたから。


 ♢


「……最近、あの子、穏やかになったわよね」


 ミレイユは、窓の外を眺めながら静かに言った。

 春の陽光が差し込む執務室は穏やかで、だからこそ、その言葉は重かった。


 アインは机に置いた手を組み、ゆっくりと頷く。


「ああ。剣を振るわない時間が増えた。

 以前のような……張り詰めた気配がない」


 それは確かに、喜ばしい変化だった。

 だが同時に、二人の胸には同じ違和感があった。


 ――理由が分からない。


 理由の分からない安定は、崩れるときが一番危うい。


 ミレイユは、無意識に胸元に手を当てていた。


 穏やかになった息子の背中を思い浮かべ、

 安堵より先に、冷たいものが指先を撫でたからだ。


「……穏やかすぎるのよ」


 ぽつりと、独り言のように零す。


 以前のエルディオは、

 苛立ちや焦燥を隠そうともしなかった。


 眠れない夜を抱え、

 剣を振ることでしか均衡を保てなかった。


 それが今は。


 眠っている。

 笑っている。

 怒りも、焦りも、表に出さない。


 ――まるで、どこかに預けてきたように。


「アイン……」


 呼びかける声は、母であると同時に、

 一人の女のそれだった。


「この落ち着き、何かを代価にしている気がするの」


 アインは、すぐには答えなかった。


 父として、

 領主として、

 そして男として。


 いくつもの視点が、胸の中でせめぎ合っていた。


「……ああ」


 短く、しかし重い肯定。


「手放したのではない。預けたんだ」


「誰かに?」


「そうだ」


 ミレイユは、その“誰か”の名を、

 口にする前から分かっていた。


 だが、言葉にした瞬間、

 取り返しがつかなくなる気がして、しばらく黙り込む。


 ――侍女。

 ――若い女。

 ――夜。


 それらが繋がったとき、

 胸の奥に、女としての感情が疼いた。


 怒りでも、嫉妬でもない。


 もっと、曖昧で、

 もっと、受け入れがたい感情。


 ミレイユは、無意識のうちに目を伏せていた。

 その感情に、名前をつけたくなかったからだ。


 母としてなら、もっと単純に怒れただろう。

 息子を傷つけた存在を責め、遠ざけ、終わらせればいい。


 けれど――

 女としての感覚が、それを許さなかった。


 選ばれていない。

 求められていない。

 それでも、拒まれていない。


 その立場が、どれほど人の心をすり減らすかを、

 ミレイユは知っていた。


 愛されたいわけではない。

 名を与えられたいわけでもない。

 ただ、そこにいていいと許されたいだけ。


 その願いが、どれほど静かに、確実に人を壊していくかを。


 ――もし、あの侍女が。

 ――もし、あの夜が。


 ほんの少し条件が違っていたら。

 自分が、同じ場所に立っていた可能性を、否定できなかった。


 だからこれは、

「若い女が息子に近づいた」という話ではない。


 “拒まれない関係”に、

 自ら身を差し出してしまった女の話だ。


 それを理解してしまう自分が、

 ミレイユは、ひどく、苦しかった。


「……それが、愛なら」


 ミレイユは、ようやく言葉を絞り出した。


「まだ、よかったのかもしれないわ」


「だが、違うな」


 アインは、即座に否定した。


「これは愛ではない。依存だ」


 その言葉に、ミレイユは目を伏せる。


 女として、それを理解できてしまう自分が、

 ひどく嫌だった。


 愛されたいわけではない。

 選ばれたいわけでもない。


 ただ、拒まれない場所に身を置く。


 それが、どれほど人を壊すかを、

 彼女は知っていたからだ。


「……だからこそ、危ういのね」


 ミレイユは、静かに言った。


「愛なら、壊れる理由が分かる」

「でも依存は、壊れるまで、誰も止められない」


 アインは、深く息を吐いた。


「だから、調べる」


「責めるためではない」

「裁くためでもない」


「……見届けるためだ」


 その言葉は、

 父としての覚悟であり、

 同時に――


 何もできないことを悟った、

 男の諦観でもあった。


 ♢


 調査は、密やかに始まった。


 一人目の侍女は、戸惑いながらも答えた。


「エルディオ様は……夜、よく眠られているようです。

 以前は、明け方まで灯りが消えないことも多かったのですが」


 二人目。


「最近、表情が柔らかくて……。

 話しかけると、きちんとこちらを見てくださいます」


 三人目。


「廊下を歩かれる足音が、軽くなりました……あと」


 言いよどみ、視線を伏せる。


「……メイリス様と、ご一緒のことが多いです」


 四人目。


「エルディオ様、よく笑われます。

 特に……メイリス様がそばにいらっしゃると」


 五人目。


「最近、夜の見回りで、

 メイリス様が廊下を歩いていく姿をよく見かけます」


「……どの時間帯?」


 ミレイユが問い返すと、侍女は小さく息を吸った。


「深夜です」


 証言は増えるほど、散らばっているようで、

 ただ一つの点に収束していった。


 睡眠。

 安定。

 穏やかさ。


 そして――必ず出てくる名前。


「……全部、メイリス」


 ミレイユは、はっきりとそう口にした。


 アインの表情が、硬くなる。


「偶然ではないな」


 ♢


 最後に呼ばれたのは、クリストフだった。


 入室した彼の表情を見た瞬間、

 二人は悟った。


 ――この男は、最初から知っている。


「座れ」


 アインの声は低く、逃げ場を与えなかった。


 クリストフは一礼し、静かに腰を下ろす。


「いつからだ」


 問いは短かった。


「正確には、七か月と十二日前からです」


 即答だった。


 ミレイユが息を呑む。


「……そんなに前から?」


「はい」


「エルが、招いていたのか」


「いいえ」


「……どういうことだ?」


「夜、エルディオ様の部屋を訪れているのは、

 常にメイリス殿です」


 それも、とクリストフは続ける。


「自ら、です」


 沈黙。


 その言葉の重さを、二人は即座に理解した。


「……待って」


 ミレイユの声が、わずかに震える。


「それは……」


「最初の夜も、

 扉を叩いたのは、メイリス殿でした」


「エルディオ様は……拒んでいません。

 ですが、求めてもいません」


「……初めては?」


「お二人とも、互いが初めてです」


「メイリス殿は、エルディオ様で純潔を散らし。

 エルディオ様もまた、彼女が初めてでした」


 アインは、一瞬だけ目を閉じた。


 初めて。

 その言葉が意味するものを、

 彼は、嫌というほど知っている。


 それは、誓いではない。

 愛の証明でもない。


 だが――

「軽く扱っていいもの」でも、決してない。


 心が壊れかけているときに。

 責任を引き受ける覚悟もなく。

 相手の未来に目を向ける余裕もないまま。


 ただ、自分が壊れないためだけに、

 誰かの“最初”を受け取る。


 それは、弱さだ。

 そして、許されてはいけない逃げ方だ。


 息子が、そんな形で夜を越えていたことが、

 アインには耐えられなかった。


 父として。

 領主として。

 そして、一人の男として。


 ――越えてはいけない線を、

 エルは、自覚のないまま越えてしまった。


 だからこそ。


 アインが、机を叩いた。


「なぜ止めなかった!」


「止める権利が、私にはありませんでした」


 クリストフの声は、低く、静かだった。


「彼女は、自分の意思で行っています。

 強制も、命令も、ありません

 そして……

 エルディオ様は、彼女と過ごす夜だけ、深く眠れる。

 彼女が来ない夜は、ほとんど眠れていません」


 ミレイユは、唇を噛みしめた。


「……それは、救いなの?」


「いいえ」


「救いではありません、均衡です。

 壊れきらないための、最低限の支えです。

 メイリス殿は、選ばれていません。

 ですが、拒まれてもいません。

 エルディオ様は、彼女を見てはいません。

 ですが、彼女の存在がなければ、夜を越えられない」


「……残酷ね」


「承知しております」


 クリストフは、深く頭を下げた。


「申し訳ございません」


 だが、すぐに続ける。


「ですが……もし私が止めていれば。

 エルディオ様は、今より早く壊れていたでしょう。

 代わりに用意する“救い”が、

 より健全である保証はありません」


 沈黙が落ちた。


 長く、重い沈黙だった。


 アインは、ゆっくりと息を吐く。


「……どうしようもない、ということか」


「はい。私からは、以上です」


 二人は、何も言えなかった。


 理解してしまったからだ。


 ――これは、止められない。

 ――止めれば、壊れる。

 ――続ければ、誰も救われない。


 それでも、均衡だけは保たれている。

 その事実を。


 ♢


 街から戻る馬車の中、私は膝の上で指を組んだまま、何度も同じ景色を見つめていた。

 夕暮れに染まる街並み。

 昼間の喧騒が嘘のように、穏やかな色に包まれている。


 今日一日が、夢のようだったからだ。


 エルと並んで歩いた。

 笑った。

 屋台の匂いに足を止めて、同じものを口にした。


 ――デート、だったのだと思う。


 そう言葉にしてしまえば、胸が少し痛む。

 きっとエルにとっては「視察」でしかなかったから。


 分かっている。

 分かっているはずなのに。


 それでも、私は一日中、胸の奥が熱かった。


 あの手の温度が、まだ指に残っている気がする。

 握られたのはほんの少しの時間なのに、私の中では、何度も握り直されてしまう。

 離せば現実に戻ってしまうから、勝手に、記憶の中で握り続ける。


 ♢


 屋敷に戻り、それぞれの部屋へと別れる。


 夕食は外で済ませているから、あとは湯を使い、眠るだけ。

 ――眠るだけ。

 それだけのはずなのに、私の一日は、ここから先も続いている気がした。


 湯に身を沈めながら、私は今日のことを反芻していた。


 エルが私の手を取ったこと。

 人混みの中で、自然に指を絡めてくれたこと。

 呼吸が近くなった瞬間、何も言わずに歩調を合わせてくれたこと。


 それらすべてが、胸に積もっていく。


 ――でも。


 それが「私だから」なのか、

「そこにいたのが私だっただけ」なのか。


 その答えを、私は聞かない。


 聞いてしまえば、

 昼の幸福が、夜の現実に吸い込まれてしまう気がした。

 そして私は、それに耐えられない。


 ♢


 湯から上がり、寝支度を整える。


 鏡に映る自分は、少しだけ上気した顔をしていた。

 昼間の服ではなく、夜用の簡素な部屋着。


 胸の奥で、何かがざわつく。


 ――今日も、行っていいのだろうか。


 自分から尋ねることに、慣れてしまった自分がいる。

 慣れたのではない。

 慣れさせたのだ、とも思う。


 断られないことを前提にしてしまえば、

 断られたときに、私は簡単に壊れる。

 だから、壊れないために、毎回、“許可”を取りに行く。

 そうして自分を納得させる。


 ♢


 私は廊下に出て、エルの部屋の前に立った。


 ノックをする前、ほんの一瞬だけ、呼吸を整える。


 拒まれたことは、ない。

 それでも毎回、怖い。


 扉の向こうにいる彼が、

 今日も「いいよ」と言ってくれるかどうか。


 ……言ってくれなかったら?

 私は何を失うのだろう。

 たぶん、“夜”を失うのではない。

 私が私である感覚を失うのだ。


 ♢


「エル……」


 声が、少し震えた。


「今日も、……いいの?」


 沈黙は短かった。


「いいよ。おいで、メイリス」


 その一言で、胸の奥がほどける。


「……嬉しい」


 思わず、そう零していた。


 “嬉しい”の中身を、私は数えない。

 安心と、解放と、期待と、そして――恥。

 全部を混ぜてしまえば、言葉は簡単になる。


 ♢


 部屋に入ると、私は無意識に彼の腕に縋りついていた。


 エルは何も言わず、私を受け止める。

 拒まれない、それだけで安心してしまう。


 長い口付け。

 深く、息が混ざるほどの。


 それ以上は、書く必要はない。


 私の中で、“夜”はいつも同じ形に折り畳まれる。

 細部を思い出せば、私はたぶん、自分を嫌いになる。

 だから、思い出す代わりに、感じたことだけを抱える。


 ♢


 ただ、途中で。


 ふいに、エルが私の名前を呼んだ。


「……メイリス」


 それだけだった。


 それだけなのに。


 胸の奥で、何かが弾けた。


 見られている。

 私が、ここにいると。


 私が「私」として、呼ばれた気がした。


 涙が止まらなくなった。


 理由なんて、分からない。


 ただ、幸せで。

 苦しくて。

 満たされているのに、どこか空虚で。


 相反する感情が、すべて一緒に押し寄せてくる。


 ――特別だ。


 そう思ってしまった。


 エルにとって、私は特別なのだと。


 でも同時に、

 それが錯覚だということも、私は分かっている。


 彼は、私を見ているわけではない。

 私を通して、夜を見ているだけ。


 それでも。


 名前を呼ばれた瞬間、

 すべてがどうでもよくなった。


 誤解だと知っていても、

 誤解のまま抱きしめてしまえば、現実より温かい。

 私は、その温かさを選んだ。


 ♢


 その後のことは、曖昧だ。


 気づけば、私は彼の腕の中にいた。


 腕枕。

 規則正しい呼吸。

 安心できる体温。


 天井を見つめながら、私は考える。


 この時間が、いつまで続くのだろう。


 続いてほしい。

 終わらないでほしい。


 それが、彼のためでなく、

 私自身のためだと分かっていても。


 “彼のため”と口にするほど、私は綺麗じゃない。

 けれど、“私のため”と言い切れるほど、私は強くもない。

 だから、曖昧な願いの形のまま、胸に押し込む。


 エルの腕に、そっと額を寄せる。


 名前を呼ばれた余韻が、まだ胸に残っている。


 たとえそれが、

「私」ではなく

「役割」に向けられたものだとしても。


 今は、それでいい。


 そう思ってしまう自分が、

 一番、残酷なのだと知りながら。


 夜は、静かに更けていく。


 特別と空虚を抱えたまま、

 私は今日も、エルの腕の中で目を閉じた。



ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


この話は、誰かを愛する物語ではありません。

誰かに「必要とされている」という感覚に、静かに溺れていく過程を書きました。

救いも正解も用意せず、ただ“均衡が保たれてしまっている状態”を、そのまま置いています。


メイリスは不幸なだけの被害者ではなく、

エルも冷酷な加害者として描ききってはいません。

どちらも、自分が壊れきらないために、最も楽な位置を選び続けているだけです。

だからこそ、優しく見える場面ほど、残酷さが滲むように書きました。


作者自身、

「拒まれないこと」を拠り所にしてしまった経験があります。

その楽さと、そのあとに残る空白を、知っています。

だからこれは、説教でも断罪でもなく、

ただの記録に近いものかもしれません。


もし読んでいて、胸のどこかがざらついたなら、

それはきっと、物語があなたに触れた証です。


感想・評価・レビュー・ブックマーク、すべて励みになります。

よければ、あなたが何を感じたのか、教えてもらえると嬉しいです。


ここまで、本当にありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ