47. 夜の役割-4
目を覚ましたとき、最初に感じたのは、体の重さだった。
深く沈み込むような倦怠と、微かな多幸感。
指先まで、力が抜けている。
――ああ。
私は、すぐに理解した。
昨夜、眠るまでの記憶が、まだ曖昧だ。
けれど、身体が覚えている。
ゆっくりと瞬きをして、視界がはっきりしていく。
暗い。
けれど、完全な闇ではない。
窓の外が、うっすらと白み始めている。
夜明け前。
そして――違和感。
私は、自分の身体が、いつもより高い位置にあることに気づいた。
背中に、確かな温もりがある。
腕。
抱き寄せられている。
私は、息を止める。
視線を上げると、すぐそこに、エルディオ様の顔があった。
眠っていない。
目が、開いている。
「……おはよう、メイリス」
囁くような声。
「……エル?」
寝起きの声は、ひどく掠れていた。
彼は、少しだけ目を細める。
「完全に寝坊だね」
責めるでもなく、からかうでもない。
ただ、事実を述べるように。
「……ごめんなさい」
「いいよ」
彼は、私の髪に触れた。
撫でる、というより、確かめるように。
「みんなには、少し体調が悪いみたいだって伝えておく
その間に、自分の部屋に戻るといい」
――優しい。
とても。
私は、胸が締めつけられるのを感じながら、ゆっくりと身を起こす。
「……ありがとうございます」
そう言うと、私は、彼の頬にそっと口づけた。
軽く。
朝の挨拶のように。
彼は、何も言わなかった。
ただ、受け入れる。
それが、今の関係だった。
私は、静かに身を離し、落ちていた寝巻きを拾い上げる。
身支度を整え、音を立てないように部屋を出る。
扉を閉める前に、振り返ることはしなかった。
――振り返れば、きっと、期待してしまうから。
♢
廊下を歩きながら、私は自分の足音がやけに大きく感じられることに気づいていた。
一歩。
また一歩。
床板の軋みが、やけに耳に残る。
――誰にも、見られていないはずなのに。
心臓が、まだ落ち着かない。
エルディオ様の体温が、背中に残っている。
腕枕の感触。
寝起きの低い声。
「おはよう」と言われただけで、胸の奥が、じん、と痺れた。
それが、恋なのか、依存なのか、それともただの錯覚なのか。
考えないようにする。
考えれば、きっと壊れる。
私は、侍女だ。
そう、何度も心の中で唱える。
侍女は、主の寝室で目覚めるべき存在ではない。
――分かっている。
分かっていて、それでも、足は前に進む。
それが、もう「選んでしまった」という証だった。
自室に戻り、着替えを済ませる。
鏡の前で、深く息を吸う。
目の下に、わずかな疲れ。
けれど、頬はほんのりと色づいている。
――幸せそうだ。
そう見えるだろう。
私は、いつもの侍女の顔を作り、廊下へ出た。
他の侍女たちと合流すると、すぐに声をかけられる。
「メイリス、大丈夫?」
「顔色、あんまり良くないわよ」
「少し、寝不足なだけです」
私は微笑む。
「すみません、ご心配をかけて」
「無理しないでね」
「最近、忙しかったでしょう?」
心配する声。
優しい視線。
私は、頷くだけでやり過ごす。
――嘘は、言っていない。
全部は、言っていないだけだ。
仕事に戻ると、身体は自然と動いた。
掃除。
配膳。
報告。
何一つ、滞りはない。
けれど、ふとした瞬間に、思考が抜け落ちる。
指先が止まり、視線が宙を彷徨う。
「メイリス?」
名を呼ばれて、はっとする。
「……はい、すみません」
私は、慌てて頭を下げる。
誰も、深くは追及しない。
それが、ありがたい。
――追及されれば、きっと、うまく嘘がつけない。
私は、誰かに問い詰められることよりも、「大丈夫そう」と判断されることのほうが、今は怖かった。
平気そうに見える、ということは、壊れていることに気づかれない、ということだから。
廊下の端に、クリストフ様の姿があった。
彼は、こちらを一瞥し、何も言わずに視線を外す。
それだけ。
それが、彼なりの距離だった。
♢
明け方。
従者たちの簡単な朝の打ち合わせが行われる。
今日の業務。
警備の配置。
来客の予定。
淡々とした報告の中で、私は、侍女として必要な返答をする。
誰も、私の内側を見ない。
見せない。
それでいい。
――そう、思っている。
♢
打ち合わせが終わり、人が散っていく。
私は、書類をまとめながら、自然と深呼吸をしていた。
「メイリス」
低い声。
顔を上げると、クリストフ様が立っていた。
「はい」
「……体調は?」
短い問い。
それ以上も、それ以下もない。
「問題ありません」
即答する。
沈黙。
彼は、私の顔を一瞬だけ見て、それから視線を外した。
「なら、いい」
それだけ言って、背を向ける。
――それ以上、何も言わない。
問い詰めない。
確かめない。
助けもしない。
けれど。
私は、その背中に、責められていない安堵と、見抜かれている恐怖を、同時に感じていた。
♢
執務室。
エルディオ様は、アイン様と向かい合っていた。
ミレイユ様は、横で書類に目を通している。
私は、壁際に控えた。
「魔族の動き自体は、大きく変わっていない」
アイン様が言う。
「だが……最近、魔獣の活動が活発化している…
特に、大型の個体が多い」
ミレイユ様が顔を上げる。
「ギルドの冒険者では、対応しきれない、と?」
「小型や中型なら問題ない
……だが、ドラゴンが出た」
一瞬、空気が張り詰める。
「討伐隊を組んだが……返り討ちだ」
アイン様は、視線を伏せた。
「……エル」
躊躇いがあった。
だが、言わなければならない。
「すまないが……頼めるか」
私は、無意識に拳を握った。
エルディオ様は、少しだけ考える素振りを見せ、それから頷いた。
「分かりました」
即答。
迷いは、見えない。
「魔獣討伐なら、対応できます」
その声は、穏やかだった。
エルディオ様が頷いた瞬間、胸の奥が、ひどく冷えた。
――ああ。
やっぱり。
魔獣討伐。
魔族討伐ほど、消耗はしない。
戻りも早い。
それでも、「戦う」という行為に変わりはない。
アイン様とミレイユ様は、少しだけ安堵した表情を浮かべている。
――大丈夫だ、と。
そう信じたいのだ。
私は、何も言わない。
言えない。
「無理をしないでください」
「今日は、休んだほうが」
そんな言葉をかける立場ではない。
侍女だから。
そして――夜に、あの部屋を訪れる存在だから。
その事実が、私の言葉を、すべて奪っていく。
♢
その日から、エルディオ様は、魔獣討伐に向かうようになった。
魔族討伐より、戻りは早い。
魔獣は、魔石や魔核を持つ。
品質と大きさで価値が変わり、高品質なものは、非常に高値で取引される。
エルディオ様は、ほぼ毎日のように、大きな魔核を持ち帰ってきた。
数日が過ぎる。
エルディオ様は、本当に、早く帰ってくるようになった。
日が落ちきる前。
時には、まだ空が赤い頃。
鎧を外し、剣を預け、いつも通りの顔で廊下を歩く。
「おかえりなさいませ」
私がそう言うと、彼は、少しだけ頷く。
「ただいま」
それだけ。
それ以上の言葉は、ない。
ある日、夕食の準備中に、ミレイユ様がふと口にした。
「エル、最近……顔色がいいわね」
「そうでしょうか」
「ええ。前より、少しだけ」
アイン様も頷く。
「無理をしていない証拠だ」
エルディオ様は、曖昧に微笑んだ。
「そう見えるなら、よかったです」
――“そう見える”。
その言葉が、私の胸に、静かに沈んだ。
「今日は、どんな魔獣だったの?」
ミレイユ様が、食卓で尋ねる。
「渓谷に棲みついていた個体です。
少し手間取りましたが……問題ありません」
「怪我は?」
「ありません」
取り繕った笑顔。
けれど、会話は成立している。
アイン様とミレイユ様は、少しずつ、家族の時間を取り戻そうとしていた。
一緒に食事をし、他愛ない話をする。
「今日は、どうだった?」
「何を倒してきた?」
エルディオ様は、当たり障りのない話を返す。
その様子に、二人は、どこか安心したように微笑む。
――戻ってきている。
そう、思いたいのだ。
けれど、私は知っている。
それが、「戻ってきている“ように見えるだけ”」だということを。
食卓は、穏やかだった。
笑顔があり、会話があり、温かい料理が並ぶ。
――理想的な光景。
ミレイユ様は、エルディオ様の言葉一つ一つに、小さく頷いている。
アイン様も、表情を和らげている。
「戻ってきている」
そう思いたくなる気持ちは、痛いほど分かる。
けれど私は、エルディオ様の目が、誰も見ていない瞬間を知っている。
言葉を話しているのに、そこに感情が伴っていないことを。
笑っているのに、内側が空洞なことを。
――それでも、拒まない。
それが、一番、残酷だった。
♢
アルヴェイン家には、高品質な魔核が、次々と蓄積されていった。
使い道に困り、それらは売却され、領内の整備に回される。
城壁の建造。
街道の整備。
都市化の促進。
クリストフ様の進言もあり、辺境伯領は、目に見えて豊かになっていった。
時間が、進んでいる。
世界は、前に進んでいる。
――私たちだけが、どこかに取り残されているように。
♢
夜が来る前、私は、一度だけ、ためらう。
扉の前で、ほんの一瞬、立ち止まる。
「……今日も、行くの?」
誰に向けた問いでもない。
自分自身への、確認だ。
答えは、分かっている。
行く。
行かない理由が、もうない。
――行かなくなったら、私は、何者でもなくなる。
侍女であることと、夜に主のもとへ向かうこと。
その境界が、もう、私の中では曖昧だった。
♢
夜になると、私は自然と、支度を始める。
特別な服ではない。
特別な香りも、つけない。
――日常の延長であることが、大切だから。
誘うのは、いつも私。
その事実を、私は、数えるように意識している。
もし、ある日、誘わなかったら。
もし、ある日、私が行かなかったら。
この関係は、簡単に終わるのではないか。
そんな予感が、ずっと、胸の底にある。
だから私は、今日も扉を叩く。
――見られていなくてもいい。
――名前を呼ばれなくてもいい。
拒まれない限り、私は、そこに居場所を作り続ける。
それが、自分で選んだ役割だから。
♢
夜。
私は、今日もエルディオ様の部屋を訪れる。
誘うのは、いつも私から。
断られたことは、一度もない。
その夜、珍しく、エルディオ様が口を開いた。
「……メイリス」
「はい」
名を呼ばれるだけで、胸が、僅かに高鳴る。
「君は……」
言いかけて、止まる。
私は、続きを待つ。
「……いや」
彼は、首を振った。
「何でもないよ…」
私は、微笑んだ。
「そうですか」
本当は、続きを、聞きたかった。
けれど。
聞いてしまえば、壊れてしまう気がした。
彼は、私を抱き寄せる。
けれど、私を見ることはない。
視線は、いつも、少しだけ遠い。
私は、それを受け入れる。
拒まれないことが、今の私にとっての、唯一の救いだから。
抱き寄せられ、眠りに落ちる前に口づけを交わし、朝には、短い挨拶を交わす。
それが、日常になっていく。
♢
不思議なことに。
エルディオ様は、私を抱くときだけ、ほんの少しだけ、饒舌になる。
言葉を重ねるわけではない。
感情を語るわけでもない。
ただ――呼吸が、浅くなる。
腕に、力が入る。
私を離すまでの時間が、以前より、長くなっている。
私は、それに気づいている。
触れられるたび、彼の身体が、確かに反応していることを。
迷いではない。
義務でもない。
欲求だ。
必要とされているのは、心ではなく、この身体だと、はっきり分かる。
それでも。
それでも私は、その事実に、ほっとしてしまう。
――選ばれていなくてもいい。
――愛されなくてもいい。
欲されているなら、そこに、居場所がある。
エルディオ様は、私を見ていない。
けれど、私を、求めている。
その矛盾が、私の中で、静かに折り合っていく。
彼は、触れることでしか、休めない人だ。
考えることをやめるために、悲しみから目を逸らすために、誰かの体温が、必要なのだ。
そして今、その役割を担っているのが、私だ。
――それでいい。
私は、そう言い聞かせながら、彼の腕に、身を預け続ける。
私は、分かっている。
エルディオ様は、私を“見ていない”。
視線は、どこか遠い。
けれど、拒まない。
それで、十分だと、私は自分に言い聞かせる。
――今は、これでいい。
――夢のような時間が、続くなら。
救われていないことも、分かっている。
それでも。
私は、今日も、その腕の中に身を預ける。
不穏な静けさを、胸の奥に抱えたまま。
最近、エルディオ様は、私が部屋を出ようとすると、何も言わずに、手を伸ばすようになった。
引き止めるわけでもない。
声をかけるわけでもない。
ただ、指先が、布を掴む。
それだけ。
私は、その仕草を見るたびに、胸の奥が、きゅっと縮む。
――無意識だ。
彼は、それが何を意味するか、考えていない。
けれど、私がいなくなることを、身体が拒んでいる。
夜が終わり、静けさが戻るとき、エルディオ様の呼吸は、少しだけ、穏やかになる。
眠りも、深い。
――私がいるときだけ。
その事実を、私は、何度も確認している。
彼は、私に溺れているのかもしれない。
けれどそれは、私自身ではなく、「私が与えるもの」に、だ。
触れ合うことで得られる、一時的な安堵。
思考が止まる感覚。
心を空白にできる時間。
私は、彼の“休息”になっている。
愛ではない。
救いでもない。
けれど、確かに、必要とされている。
その事実が、私を、ここに縫い止める。
――彼が、目を逸らしている間は。
――彼が、立ち上がれない間は。
私は、この夜の役割を、手放さない。
♢
ある夜。
眠りにつく前、エルディオ様が、ぽつりと呟いた。
「……リィナ」
寝言に近い声。
私は、息を止める。
名前を呼ばれたのは、私ではない。
分かっていた。
分かっていたはずなのに。
胸の奥が、静かに、ひび割れる。
それでも私は、何も言わない。
ただ、彼の眠りを妨げないように、静かに、呼吸を合わせる。
――それでもいい。
そう、自分に言い聞かせる。
何度でも。
救われていない。
その事実を、私は、ちゃんと分かっている。
エルディオ様の中で、私は「代わり」でも、「上書き」でもない。
ただ、空白に触れているだけだ。
それでも。
それでも私は、この静かな夜を、自分から手放すことができない。
――明日も、行く。
――その次の日も。
夢だと分かっていて、夢に、しがみついている。
それが、どんな結末に繋がるとしても。
夜は、静かに、確実に、積み重なっていった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
「夜の役割」という言葉が、少しずつ別の意味を帯びていく回でした。
救いのように見える時間が、実は救いきれていない――それでも、人はそこにしがみついてしまう。
メイリスは“選ばれていない”ことを理解したまま、自分の居場所を自分で作り続けます。
それは献身であり、同時に、静かな自己破壊でもあります。
エルディオもまた、戻ってきているようで、戻りきってはいません。
笑って会話ができるのに、心は遠い。
そして、その遠さを埋める手段として“夜”が日常化していく――その歪みを丁寧に積み上げました。
次回は、この「穏やかに見える日常」が、どこまで保つのか。
保ってしまうこと自体が、何を壊していくのか。
そんなところに踏み込んでいきます。
引き続き、見守っていただけたら嬉しいです。




