46.夜の役割-3
【お知らせ】
本日より、投稿時間を 22:30 に固定いたします。
今後は 毎日1話ずつ の更新を予定しています。
物語の進行はこれまでよりゆっくりになりますが、
その分、丁寧に描いていきたいと思っています。
これからも本作を、どうぞよろしくお願いいたします。
あの日から、エルディオ様が戦場へ向かう頻度は、少しずつ減っていった。
完全に行かなくなったわけではない。
必要とあらば剣を取り、魔法を使い、前線に立つ。
けれど、以前のように「そこにしか居場所がない」かのような足取りではなくなった。
戻ってくる時間が、早くなった。
あるいは、行かない日が、ぽつりと増えた。
その変化に最初に気づいたのは、アイン様だった。
「……最近、少し顔色がいいな」
それは独り言のような呟きだったが、
ミレイユ様もまた、同じことを感じていた。
「ええ……完全に元に戻ったわけじゃない。
でも……何かが、ほんの少しだけ、ほどけている気がするの」
二人は、喜びと不安を同時に抱えていた。
戦場に立たない息子を見ることは、嬉しい。
それでも、また戦場に身を置くたび、
その背中が、以前よりも薄く見えてしまう。
壊れきった心が、
ようやく癒え始めているのではないかという期待と、
それでもまだ、脆いままであるという恐怖。
その狭間で、二人は何も言えずにいた。
――それでいい、と。
今はただ、戻ってくる息子を迎えられればいい、と。
食後の食卓で、ミレイユ様は何度もカップに口をつけながら、ほとんど飲めていなかった。
湯気はすでに消え、紅茶はぬるくなっている。
「……最近のエル」
ぽつりと漏れた声に、アイン様は顔を上げる。
「どうした?」
「前より……静かでしょう」
それは、責めるような言葉ではなかった。
むしろ、怯えに近い。
「戦場へ行かない日が増えた。
戻る時間も早い。
……本来なら、喜ぶべきことなのに」
ミレイユ様は、指先を組んだ。
「怖いの」
アイン様は、すぐには答えなかった。
喜びと恐怖が、同時に胸にあることを、彼自身も理解していたからだ。
「……壊れきったものが、元に戻る途中ほど脆い」
ようやく、そう口にする。
「期待してしまう分、折れたときが……」
言葉を切る。
ミレイユ様は、小さく息を吸った。
「私たちは、何もしてあげられなかった」
それは、自責だった。
「戦わせて。
守らせて。
……あの子の“役割”を、奪わなかった」
アイン様は、目を閉じる。
「奪えなかった、の間違いだ」
重い沈黙。
「今は……戻ってくるだけでいい」
ミレイユ様は、そう言って微笑んだ。
「それ以上を望んだら、
また壊してしまいそうだから」
♢
エルディオ様が戦場へ向かう朝、
私は必ず、同じ距離でその背中を見送る。
近すぎず、遠すぎず。
侍女として許される、ぎりぎりの位置。
剣を携えた背中は、いつも静かだ。
覚悟を示す言葉も、別れを惜しむ仕草もない。
ただ、行く。
以前なら、その無言の背中に、
私は“安心”すら覚えていた。
――あの人は、戦場で生きている。
――そこが、居場所なのだと。
けれど、今は違う。
歩みのわずかな遅れ。
振り返らないはずの一瞬の迷い。
視線が、ほんの一拍、屋敷に残ること。
それらすべてが、
この人の心が、まだここに繋がっている証に見えてしまう。
だから私は、祈るように思う。
どうか、無事に戻ってきてください、と。
そして同時に、
――どうか、行かなくてもいい理由を、
見つけてしまいませんように、と。
そんな矛盾を抱えたまま、
私は今日も、扉の閉まる音を聞く。
♢
夜が来る。
主の部屋に灯りがない夜は、
屋敷全体が、少しだけ冷える。
音の少ない廊下。
規則正しい足音。
変わらない業務。
何一つ、欠けていない。
それでも、
確かに“足りない”。
私は、自室に戻り、
灯りを落とす。
寝台に腰を下ろし、
指先を見つめる。
何もしていないのに、
そこには、まだ温度が残っている気がする。
思い出すのは、
名前を呼ばれた時の声。
肩に触れた重み。
何も言わず、受け入れられた沈黙。
それらを思い出すたび、
胸の奥が、じくりと痛む。
――私は、何を求めているのだろう。
救い?
赦し?
それとも、ただの執着?
答えは、いつも出ない。
ただ、息が詰まる。
♢
翌朝。
私は、完璧な侍女として振る舞う。
笑顔。
所作。
言葉遣い。
どれも、少しも狂わない。
けれど、エルディオ様がいない日は、
どうしても、時間の進みが遅い。
朝が長く、
昼が重く、
夜が、深すぎる。
その違和感に、
気づいているのは、きっと一人だけ。
クリストフ様は、
私が仕事を終えたあと、
ほんの一瞬だけ、こちらを見る。
何も言わない。
けれど、目が語っている。
――気づいている、と。
私は、視線を伏せる。
言い訳もしない。
否定もしない。
それが、今の私にできる、
唯一の誠実だった。
♢
エルディオ様が屋敷に戻らない夜、
私は、自分の部屋で一人きりになる。
静かな部屋。
灯りを落とし、寝台に腰を下ろす。
誰にも見せない顔で、
誰にも触れられないまま。
私は、目を閉じる。
思い出すのは、
指先の温度。
呼ばれた名前。
近すぎる距離。
胸の奥に溜まっていく、言葉にならない熱を、
私はただ、静かにやり過ごす。
それは慰めではない。
欲望でもない。
ただ、埋まらない空白を、
自分でなぞるような行為だった。
夜が深まるほど、
私は自分の身体の存在を、はっきりと意識するようになった。
呼吸を整えようとしても、胸の奥が落ち着かない。
何もしていないのに、熱だけが溜まっていく。
私は寝台に横になり、天井を見つめる。
目を閉じれば、思い出してしまうからだ。
名を呼ばれた声。
背中に回された腕の重み。
拒まれなかった沈黙。
――あれは、錯覚だったのだろうか。
そう思おうとしても、身体が否定する。
私は、布の上から胸元に手を当てる。
それ以上は、触れない。
触れれば、壊れると分かっているから。
ただ、確かめるように、そこに在る熱を感じ取る。
それだけで、息が浅くなる。
「……だめ」
小さく、声に出す。
誰に向けた言葉かは、分からない。
主にか。
それとも、自分にか。
私は、身体を丸める。
慰めているわけではない。
欲しているわけでもない。
ただ、耐えている。
何かを失わないために。
――けれど。
耐えるたび、
“耐えなくていい場所”を、
私ははっきりと思い描いてしまう。
その場所にいる自分を。
その人の傍にいる自分を。
それが、何よりも恐ろしかった。
♢
エルディオが戦場へ行かない日、
アインは無意識に、屋敷の外を眺めてしまう。
剣を持たない息子。
本来なら、祝福すべき光景だった。
だが――
「……戻ってきた、のではない」
独り言が、喉から落ちる。
戻ったのではない。
留まっているだけだ。
壊れた心が、どこにも行けず、
ここに“置かれている”だけ。
「……エル」
呼んでも、届かない名。
アインは知っている。
剣を持つ息子の背中も、
剣を持たない息子の背中も。
どちらも、危うい。
「父親として、
何一つ、教えられなかったな……」
守り方も、
生き方も。
ただ、戦わせただけだ。
だから今、
息子が“戦わなくなった理由”を、
問いかける資格すら、自分にはない。
♢
一週間という時間は、
思っていた以上に、長かった。
最初の数日は、
まだ耐えられた。
仕事があり、
考える余地があった。
けれど、日が経つにつれて、
胸の奥に、重たいものが溜まっていく。
呼吸が、浅い。
夜、眠れない。
夢を見る。
呼ばれる。
触れられる。
目が覚めるたび、
現実との落差に、眩暈がする。
私は、鏡の前に立ち、
自分の顔を見る。
頬が、わずかに紅い。
目が、熱を帯びている。
――あぁ。
私は、はっきりと理解した。
これは、もう、
“耐える段階”ではない。
欲している。
求めている。
それも、主を。
侍女として、
越えてはならない線を。
私は、何度も自分に言い聞かせた。
――これは、間違っている。
――これは、依存だ。
――これは、逃げだ。
それでも。
それでも、身体が先に反応してしまう。
名前を呼ばれたい。
触れてほしい。
ここにいると、確かめてほしい。
その感情が、
私を、支配し始めていた。
♢
エルディオ様が戻ると知らされた朝、
私は奇妙なほど静かだった。
胸が高鳴らない。
息も乱れない。
代わりに、身体の奥が、ひどく冷えている。
――あぁ。
これは、安心ではない。
覚悟だ。
逃げ場がなくなったことを、
身体が先に受け入れている。
これまで私は、
「いない夜」に耐えることで、
「来てはいけない夜」を先延ばしにしてきた。
だが、もう違う。
戻ってくると分かった瞬間、
私の中で、何かが静かに決まってしまった。
選ばない、という選択肢が、消えた。
私は鏡を見る。
そこに映るのは、
侍女として整えられた顔。
けれど、その奥にある目は、
はっきりと“欲している”。
私は、視線を逸らす。
「……今夜だわ」
声に出して、確認する。
止めてくれる人はいない。
止めてほしいとも、思っていない。
これは、
堕ちる夜ではない。
私が、自分で選んで、
引き受ける夜だ。
♢
夜。
私は、主の部屋の前に立つ。
いつもと同じ廊下。
同じ扉。
けれど、
今日だけは、違う。
この扉を開ければ、
もう、戻れない。
侍女としての距離も、
言い訳も、
後戻りも。
すべて、失う。
分かっている。
分かっていて、
それでも、私はここにいる。
手を伸ばし、
ノックをする前に、
一度だけ、目を閉じる。
――私は、何を守りたいのか。
答えは、ずっと同じだった。
この人だ。
この人の、壊れかけた心だ。
ならば。
私は、壊れる。
その覚悟だけを、
胸に押し込めて。
私は、扉を叩いた。
♢
私は、薄いネグリジェの上に寝巻きを重ね、
主の部屋の前に立った。
指先が、震えている。
それでも、ノックをする。
「……どうぞ」
中から聞こえた声は、疲れていた。
「エル様、失礼します」
部屋に入ると、
エルディオ様は椅子に腰掛け、剣を壁に立てかけていた。
血の匂いは、もう落ちている。
けれど、魂の削れた気配だけが、残っている。
「……今日も、沢山殺したよ」
ぽつりと、独白のように。
「メイリス。この戦争は……いつ終わるのかな」
私は、答えられなかった。
彼は、続ける。
静かに。
誰に聞かせるでもなく。
「最初はね……リィナのためだった。
彼女が眠るこの地を、荒らされたくなかった」
視線が、遠くを見る。
「静かに眠らせてあげたかった。
それだけだった」
拳が、きゅっと握られる。
「でも……失った悲しみは、消えてくれない。
前に進めなくて……だから戦った」
声が、わずかに震える。
「考えないようにするために。
戦って、戦って、考える暇をなくすために」
私は、黙って聞いていた。
「……今は、分からない」
彼は、目を伏せた。
「リィナを忘れたいとは、思わない。
忘れられるはずがない。
大切な人だから。
初めて、愛を教えてくれた人だから」
沈黙。
それから、彼は私を見る。
「でも……君が、僕の中に入ってきた」
息を呑む。
「心が、少し軽くなった。
それが、怖い」
彼は、苦笑した。
「この地は、もう小競り合いしか起きていない。
リィナは、静かに眠れている」
だから、と。
「分からなくなった。
今、僕は何のために戦っているんだろうって」
地位でも、名誉でもない。
褒賞でもない。
「……僕は、これから、どうしたらいいんだろう」
私は、涙をこぼしていた。
「エル……もういい」
彼の肩を、抱きしめる。
「もういいの。
戦わなくても、ここにいたらいい」
声が、震える。
「あなたの心が、すり減っていくのを……
もう、見たくない」
彼は、しばらく何も言わなかった。
ただ、私の肩に、額を預ける。
その重みが、
どれほど彼が疲れているかを、雄弁に語っていた。
♢
私は、そっと寝巻きに手をかけた。
音を立てず、
静かに。
薄い布が、床に落ちる。
「……メイリス?」
困惑した声。
私は、首を振る。
「今は……何も考えないで」
それだけ言って、彼の胸に頬を寄せた。
心臓の音が、近い。
彼の腕が、迷いながら、私の背に回る。
それが、
この夜が取り返しのつかないものになった、
たった一つの合図だった。
♢
廊下の奥で、クリストフは立ち止まっていた。
クリストフは、この屋敷で起きている変化を、
誰よりも早く、誰よりも正確に理解していた。
主君の足取り。
侍女の呼吸。
廊下に残る、わずかな温度。
すべてが、
「戻れない夜」に向かって、揃っている。
止めることは、容易だった。
忠告。
命令。
規律。
だが――
「それで救われたなら、
私は、何度でも止めてきただろう」
正しさは、
この家を守ってきた。
だが同時に、
多くの心を、切り捨ててもきた。
クリストフは知っている。
夜を引き受ける者がいなければ、
昼は、保てない。
「……メイリス」
名を呼ぶことはしない。
ただ、理解する。
彼女が選んだのは、
“主を守るために壊れる道”だ。
それを、
誰が裁けるだろうか。
クリストフは、廊下を静かに歩き去る。
見なかったことにするためではない。
見届けるために。
この屋敷で、
最も重い沈黙を、
また一つ背負うために。
扉の向こうから、かすかな声が漏れる。
嬌声と呼ぶには、あまりにも切実な、
縋るような音。
彼は、目を閉じた。
止めることは、できた。
命令一つで、扉を叩くこともできた。
だが――
それは、正しい。
そして、正しさは、
あの若い主君を救ってこなかった。
「……夜の役割、か」
誰にも聞かせない独白。
屋敷が続いていくために、
誰かが背負わねばならない役割がある。
汚れ役。
沈黙。
黙認。
クリストフは、それを知っている。
今夜、
何かが決定的に壊れた。
同時に、
何かが、かろうじて保たれた。
それが救いなのか、
破滅への猶予なのかは、まだ分からない。
彼は、踵を返す。
誰にも気づかれないように。
この屋敷で、
最も重い判断を、
また一つ、胸に積み上げながら。
夜は、静かに更けていった。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
今回の「夜の役割 ―3」は、救いのようでいて、同時に取り返しのつかない一線を越える回でもありました。
正しさでは守れなかったものを、耐えられなさで守ろうとしてしまう――。
メイリスの選択は優しさであり、罪でもあり、そして“役割”でした。
エルディオが少しだけ生きる方へ戻り始めたからこそ、彼女は踏み込んでしまった。そこがいちばん残酷で、切ないところだと思っています。
そして、クリストフの沈黙。
止められるのに止めない、正しいのに選ばない。
あの屋敷が保ってきたものの正体を、今回いちばん静かに語っているのは彼かもしれません。
ここから先は、戻れない日常が始まります。
救いは“ある”のか、“ない”のか。
その曖昧さごと、丁寧に描いていきます。
もし少しでも刺さったら、感想・評価・レビュー・ブクマで応援してもらえると嬉しいです。




