45. 夜の役割-2
その日、エルディオ様は戦場へ向かわなかった。
朝、執務室の扉は開かれなかった。
外套も整えられず、転移の気配もない。
代わりに聞こえたのは、食器の触れ合う音と、紙を捲る静かな気配。
剣が振られる乾いた音。
魔力が収束する、ほとんど耳を澄まさなければ分からないほどの震え。
屋敷の中に、久しぶりに「生活」の気配が戻っていた。
それは、リィナ様が亡くなってから、初めてのことだった。
♢
「……本当に、行かないの?」
ミレイユ様は、何度目かの問いを、今度は声を落として口にした。
朝の食卓。
エルディオ様は、湯気の立つ紅茶を一口含み、穏やかに頷いた。
「うん。今日は、行かない」
それだけだった。
理由も、説明もない。
アイン様は、驚いたまま箸を止めている。
「エル……体調は?」
「問題ないよ。よく眠れたし」
その言葉に、ミレイユ様が息を呑んだ。
よく眠れた。
それは、もう何ヶ月も聞いていない言葉だった。
「……訓練は?」
「するよ。剣も、魔法も。今日は、基礎だけ」
基礎。
前線で死線を越え続けてきた人間の口から出る言葉ではない。
アイン様とミレイユ様は、視線を交わした。
期待と、恐怖と、祈りが入り混じった眼差し。
「……何か、きっかけが?」
ミレイユ様が、慎重に尋ねる。
エルディオ様は、少しだけ考えるように視線を落とし、それから言った。
「……気分、かな」
それだけ。
拍子抜けするほど、軽い言葉。
けれど、その軽さが、逆に二人を黙らせた。
“気分”で戦場に立たないことを選べるほど、
この人の心は、どこかで戻り始めているのかもしれない。
そんな希望が、二人の胸に、ほんの一瞬だけ灯った。
「……そう」
ミレイユ様は、泣きそうなほどやわらかく微笑んだ。
「今日は、ゆっくりなさい」
「うん」
エルディオ様は、それに応えるように、ほんのわずかに笑った。
私は、その一部始終を、侍女として、ただ見ていた。
何も知らない顔で。
何も知らないふりをして。
♢
食卓が片づけられたあとも、ミレイユ様はしばらく席を立てずにいた。
湯気の消えたカップを両手で包み、視線だけが宙を漂っている。
「……アイン」
名を呼ばれ、アイン様はゆっくりと顔を上げた。
「どうした?」
「……今日の、エルの様子」
言葉を選ぶように、間が置かれる。
「……久しぶりに、“生きている”顔をしていたわ」
アイン様は、一瞬だけ息を詰めた。
「同じことを思っていた」
苦笑まじりに、彼は言う。
「まるで……昔に戻ったみたいだったな。リィナがいた頃の」
その名が出た瞬間、空気が張りつめた。
ミレイユ様の指先が、わずかに震える。
「……戻る、かしら」
それは問いというより、祈りだった。
「戦場に行かず、本を読み、訓練も基礎だけ……
こんな日が、また続くなら……」
言葉の途中で、声が細くなる。
「続いてほしい、と思ってしまうの」
アイン様は、答えなかった。
答えられなかった。
希望を肯定するには、これまで見てきたものが、あまりにも多すぎた。
「……エルは、壊れやすい」
アイン様が、静かに言う。
「君が思っている以上に」
ミレイユ様は、視線を落とす。
「……分かっているわ」
分かっている。
だからこそ、今日の穏やかさが、怖い。
「期待してしまうのが……いちばん、怖いのよ」
アイン様は、無言で拳を握った。
「……何があったんだろうな」
その問いは、自然と私の方へ向けられた。
私は一歩下がり、頭を垂れる。
「申し訳ございません。
本日は特に、変わったことは……」
嘘ではない。
ただ、すべてを語っていないだけだ。
ミレイユ様は、私を見つめた。
探るような目ではなかった。
縋るような目だった。
「……そう」
それ以上、追及はなかった。
追及してしまえば、
この小さな希望が、壊れてしまう気がしたから。
♢
その日は、静かに過ぎていった。
本を読み、訓練をし、食事をとる。
どこにでもある、平凡な一日。
アイン様とミレイユ様は、何度も視線を交わしていた。
まるで、壊れかけた宝物を、そっと扱うように。
何があったのか、とは聞かれなかった。
聞きたい気持ちは、確かにあったはずなのに。
私は、知らぬ存ぜぬを通した。
侍女としての顔で。
それが、唯一残された防波堤だったから。
ただ一人、クリストフ様だけが、すべてを見ていた。
♢
クリストフ様は、何も言わなかった。
廊下の端。
執事として、いつも通りの位置。
けれど、その視線は、私の動線を正確になぞっていた。
朝食の配膳。
エルディオ様の一挙一動。
私が視線を落とす、その一瞬。
――すべて、把握している。
屋敷が長く続くということは、
人の変化を見逃さないということだ。
特に、
「変わらないふり」をしている者ほど、よく見える。
彼の視線は、責めていなかった。
止めようともしていなかった。
ただ、確認している。
この屋敷で、
誰が壊れ、
誰がそれを支え、
誰が沈黙を選んだのかを。
私が選んだ沈黙は、
すでに、彼の中で記録されている。
それでも私は、引き返さない。
彼は、もう理解している。
何かが始まったことを。
何かが壊れ始めたことを。
♢
私は、止めることができた。
――否。
止めることは、容易だった。
規律を持ち出せばいい。
侍女の職務を盾にすればいい。
主君の名誉を理由にすればいい。
だが、それは「正しい」。
そして、正しさは、
これまで一度も、あの御方を救わなかった。
私は、エルディオ様が壊れていく過程を、すべて見てきた。
戦場へ向かう足取り。
帰還時の静けさ。
眠れぬ夜の気配。
誰よりも近くで、
誰よりも手を出さずに。
それが、執事という役割だ。
だが、メイリスは違う。
彼女は、観測者ではない。
選択者だ。
自分が壊れることを理解した上で、
それでも踏み込む覚悟をしている。
その覚悟を、私は否定できない。
否定すれば、
あの夜、彼女が差し出したものは、
すべて「無意味」になる。
私は、正しさを守るために、
人を壊す選択を、もうしない。
この屋敷は、
正しさだけで保たれてきたわけではない。
黙認と、沈黙と、
見逃されてきた感情の上に、立っている。
だから私は、今日も何も言わない。
それが、
この屋敷で、最も重い判断だと知りながら。
♢
夜。
私は、分かっている。
これが正しくないことを。
侍女として、越えてはいけない線だということを。
主に寄り添うことと、
主に依存させることは、紙一重だ。
私がここに立つことで、
エルディオ様は“戻る理由”を一つ失うかもしれない。
それでも。
それでも私は、
何もしないで壊れていく姿を、もう見られなかった。
正しさは、
この人を救ってくれなかった。
祈りも、
命令も、
忠誠も。
すべてが、戦場へと彼を押し出した。
だったら私は、
正しさを選ばない。
耐えられない方を、選ぶ。
――私が壊れることで、
この人が壊れずに済むなら。
それでいい。
首が飛ぶなら、
私ひとりでいい。
私は、主人を壊さないために、壊れる。
それが、私に残された、唯一の役割だから。
♢
屋敷が完全に眠りに落ちた頃、私は主の部屋の前に立った。
灯りは、点いている。
――今日も。
胸の奥で、何かがきしむ。
私は、深く息を吸い、扉をノックした。
「……どうぞ」
短い返事。
「エル様、失礼します」
扉を開けると、エルディオ様は椅子に腰掛け、本を閉じたところだった。
「メイリス。大丈夫。ここには、誰もいないよ」
その言葉に、足が止まる。
「いえ、今日は……昨日の謝罪に」
「謝ることなんてないよ」
彼は、首を振った。
「君のおかげで、久しぶりによく眠れた」
それに、と言葉を継ぐ。
「ここは屋敷の中だけど、今は僕と君だけだ。だから……昨日みたいに話して」
私は、唇を噛んだ。
「……ですが」
「いいから」
柔らかい声。
拒絶しない声。
「ここでは、君は君のままでいてほしい。メイリス」
「……わかった」
それだけで、何かが崩れた。
私は、侍女としての立ち位置を、そっと降りた。
♢
「……どうして、今日は戦場に行かなかったの?」
私の問いに、エルディオ様は少し困ったように笑った。
「気分じゃなかったんだ」
「それだけ?」
「それだけ」
彼は、少し間を置いてから続ける。
「……行こうと思えば、行けた。でも、今日は……行かなくてもいい気がした」
「そっか」
それ以上、言葉は要らなかった。
「……メイリスは」
彼が、こちらを見る。
「どうして、今日も来てくれたの?」
「……昨日、言ったこと、忘れた?」
「覚えてるよ」
即答だった。
「愛してるって言ってくれたことも。
……壊れるくらいなら、君が埋めるって言ったことも」
胸が、痛む。
「私は……何もしないで、あなたが壊れていくのを見ていられなかった」
言葉を選ばない。
「あなたの空っぽを、埋めたいと思った」
声が、震える。
「何かあった時、飛ぶのは……私の首ひとつで済む」
「……そんなこと、言わないで」
彼の声が、少しだけ強くなる。
「メイリス」
「……昔ね」
私は、視線を落としたまま話し始めた。
「あなたが生まれてすぐの頃、私は……可愛い弟みたいに思ってた」
まだ、何も壊れていなかった頃。
「でも、その気持ちは押し込めてた。私は侍女だから」
顔を上げる。
「あなたがリィナさんを選んだ時……私、おかしくなりそうなくらい苦しかった」
正直な言葉。
「その時にはもう、弟じゃなくて……男の人として見てたから」
エルディオ様は、何も言わない。
ただ、聞いている。
「リィナさんが亡くなってから……壊れていくあなたを、見ていられなかった」
戦場。
死ぬための居場所。
「あなた、言ったでしょう。戦場が居場所だって」
胸が、締めつけられる。
「……すごく、すごく辛かった」
沈黙。
それを破ったのは、私だった。
「だから、思ったの」
顔を上げる。
「あなたの居場所が、死ぬための場所なら……
生きるための場所を、私が作ればいいって」
彼の目が、揺れた。
「……ね、エル」
「なに?」
私は、一歩近づいた。
そして、軽く唇を合わせる。
一瞬。
逃げ場のある距離。
「……愛してる」
その言葉が、彼にとって残酷だということは、分かっていた。
リィナ様が、愛したまま逝ってしまったことを、
この人は、今も抱えている。
それでも。
私は、伝えたかった。
愛は、痛いだけのものじゃない。
苦しいだけのものじゃない。
――あたたかいものだと。
♢
唇が離れたあとも、距離は近いままだった。
吐息が、まだ混ざっている。
どちらのものか分からない熱が、間に残る。
エルディオ様は、何も言わなかった。
拒むことも、求めることもせず、ただ私を見ていた。
その瞳に、いつもの空白がないことに、私は気づいてしまう。
――今だけは。
戦場でも、執務室でも、家族の前でもない。
「生きる役割」を演じていない目。
私は、胸の奥がきしむのを感じながら、彼の額にそっと触れた。
「……大丈夫」
何が、とは言わなかった。
言えば、嘘になる。
それでも、その言葉を選んだ。
大丈夫じゃないと知っているからこそ、
今は、その言葉が必要だった。
エルディオ様は、目を伏せた。
「……メイリス」
名前を呼ぶ声が、少しだけ低い。
「君は……こういうことを、後悔しないの?」
胸を突かれた。
後悔しないわけがない。
今この瞬間から、きっと私は後悔し続ける。
それでも。
「……しますよ」
私は、正直に答えた。
「きっと、たくさん」
彼は、小さく息を吐いた。
笑ったのかは、分からない。
「それでも?」
「それでもです」
私は、一歩引いた。
近づきすぎないために。
「後悔する未来より、
何もしなかった後悔のほうが……私は耐えられない」
沈黙。
その中で、エルディオ様の肩から、力が抜けていくのが分かった。
張りつめていた何かが、ゆっくりとほどけていく。
「……今日は」
彼が言った。
「今日は……少し、楽だった」
それだけ。
たった一言。
でもそれは、彼にとって、
戦果報告よりも、称賛よりも、ずっと重い言葉だった。
私は、それ以上、何も言えなかった。
言えば、壊れてしまう気がしたから。
代わりに、そっと、彼の手に自分の手を重ねた。
指先が、絡まる。
握り返される。
それだけで、十分だった。
「……メイリス」
「エル……エル……」
名前を呼びながら、唇を重ねる。
今度は、深く。
舌が絡み、呼吸が近づく。
欲と、愛と、救済が、区別できなくなる。
それでも、踏み込まない。
ここで越えてしまえば、
私はただの“壊した人間”になる。
だから、キスだけで、壊れる。
♢
気づけば、エルディオ様は眠っていた。
穏やかな寝息。
久しぶりに見る、安らかな顔。
私は、そっと彼から離れる。
布団を整え、灯りを落とす。
そして、部屋を出た。
♢
早朝。
誰よりも早く起き、自分の部屋に戻る。
鏡の前で、深呼吸をする。
表情を整える。
感情を仕舞う。
私は、また侍女になる。
彼の前でだけ、感情を隠さなくていい。
甘い言葉を、囁いていい。
それ以外の場所では、何もなかった顔で。
――私は、主人を壊さないために、壊れる。
それが、私の選んだ夜の役割だから。
今日も、誰にも気づかれないまま。
朝は、何事もなかったように来る。
♢
翌朝。
ミレイユは、朝の光の中で、違和感を覚えていた。
理由は、はっきりしない。
けれど、確かに何かが違う。
食卓に現れたエルディオは、いつも通りの表情だった。
姿勢も、所作も、言葉遣いも。
――なのに。
「……よく眠れた?」
問いかけた声が、思ったより柔らかくなったことに、
自分で驚く。
「うん」
短い返事。
けれど、そこに嘘の響きはなかった。
ミレイユは、カップを持つ手を止めた。
眠れた、という言葉。
それ自体は珍しくない。
だが――
「眠れた顔」をしていることが、あまりにも久しぶりだった。
目の奥の緊張が、ほんのわずか、薄れている。
まるで、
一晩だけ、誰かに守られていたかのような。
「……何か、いい夢でも見たの?」
探るつもりはなかった。
ただ、口から零れただけだ。
エルディオは、少し考えるようにしてから答えた。
「……夢は、覚えてない」
それから、続ける。
「でも……嫌な夢じゃなかったと思う」
ミレイユは、胸がざわつくのを感じた。
嫌な夢じゃなかった。
それだけで、胸が締めつけられる。
――この子は、いつから、
夢が嫌なものだと知っているのだろう。
アインは気づいていない。
食事の話題を続けている。
ミレイユは、視線を落とした。
そして、ふと気づく。
エルディオの背後。
少し離れた位置に立つ、メイリス。
いつもと同じ、完璧な侍女の姿。
なのに――
ほんの一瞬、視線が合ったとき。
そこにあったのは、
「何かを抱えた者」の目だった。
問いただすことは、できなかった。
問いただしてしまえば、
この穏やかさが、壊れてしまう気がしたから。
ミレイリスは、笑顔を作る。
母として。
辺境伯夫人として。
そして、心の奥でだけ、思う。
――誰かが、この子の夜を、引き受けている。
その誰かが、誰なのか。
考えないようにしながら。
「正しさ」は、必ずしも人を救ってはくれない。
この章では、そのどうしようもなさを描きました。
メイリスが選んだ道は、間違いです。
侍女として越えてはいけない線を、自覚したまま踏み越えています。
それでも彼女は、正しさより「耐えられなさ」を選んだ。
主人を壊さないために、自分が壊れるという選択を。
その破綻は夜の中だけで完結し、朝になれば屋敷は何事もなかったように動き続けます。
誰も止めず、誰も責めず、ただ静かに“慣れていく”。
それが、この章でいちばん恐ろしいことでした。
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ここまで読んでくださり、ありがとうございました。




