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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
メイリス編

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44/92

44.夜の役割-1

 

 この人を、このままにしてはいけない。


 その思いだけが、胸の奥に沈んだまま、消えずに残っている。


 強い言葉ではない。

 叫びでも、誓いでもない。


 ただ、逃げ場のない理解だった。


 エルディオ様は壊れている。

 それはもう、感情ではなく、事実だった。


 壊れているのに、崩れていない。

 崩れていないから、誰も「異常」と呼べない。

 呼べないまま、日常が続いている。


 戦場から戻り、報告を受け、また出ていく。

 血の匂いを落とし、外套を掛け、同じ声で「行ってくる」と言う。


 感情を挟まない完璧な動作。

 壊れていないふりをするための、精密な手順。


 私は、そのすべてを見てきた。

 見てきて、見ないふりをしてきた。


 侍女だから。

 それが、私の立場だから。


 でも――


 その立場が、この人を守っていないことにも、もう気づいていた。


 リィナ様が亡くなってから。

 いえ、それ以前から。


 エルディオ様は、何かを選び続けている。

 戦場を。

 最前線を。

 戻らなくてもいい場所を。


 そして私は、選ばれなかった側に残った。


 リィナ様は「選ばれた人」だった。

 私は「残った人」だ。


 その違いを、何度も直視した。

 直視するたび、胸の奥が少しずつ削れていった。


 それでも、離れられなかった。


 選ばれなかった、という事実は、ある日突然突きつけられるものではなかった。


 少しずつ、少しずつ。

 言葉の端で。

 視線の向きで。

 呼ばれない名前で。


 私は、何度も思い知らされてきた。


 戦場から戻ったエルディオ様が、報告書より先に思い浮かべる顔。

 眠れない夜に、無意識に探す気配。


 そこに、私はいない。


 それでも私は、傍にいた。

 傍にいることだけは、許されていた。


 それがどれほど残酷な優しさかを、理解するまでに、長い時間がかかった。


 選ばれない、ということは、拒絶されることよりも、ずっと静かだ。


 拒絶なら、傷つける側の意思がある。

 でも「選ばれない」には、誰の意思も必要ない。


 ただ、そうなっただけ。


 私は、その「ただ」を、毎日のように飲み込んできた。


 この人を、このままにしてはいけない。


 その衝動が、救済なのか、欲望なのか。

 もう、自分でも区別がつかない。


 ――二番目でもいい。


 その言葉が、いつからか心の底に沈んでいた。


 ――二番目でもいい。


 それは、謙遜でも妥協でもなかった。

 願いにすらなりきれない、位置の確認だった。


 一番になれないことは、最初から分かっていた。

 私がどれほど長く傍にいても、どれほど多くの夜を整えても、

 その場所には辿り着けない。


 リィナ様は、選ばれた人だった。


 選ばれた、という言葉は残酷だ。

 そこには理由が要らない。

 優劣も、努力も、時間も関係ない。


 ただ――そこにいた。


 エルディオ様の世界が壊れる前に。

 彼がまだ「戻る場所」を信じていた頃に。


 私は、その世界の外側に立っていた。

 中を覗くことはできても、入ることは許されない位置で。


 それでも、私は傍にいた。

 傍にいられる立場を、手放さなかった。


 それが、侍女だからなのか。

 女だからなのか。

 あるいは、その両方なのか。


 分からないまま、ここまで来てしまった。


 ――二番目でもいい。


 それは、選ばれない自分を肯定するための言葉だ。

 同時に、選ばれないまま居続けることを自分に許可する呪文でもあった。


 この人が壊れていくのを、見届ける役割。

 支えるふりをして、見逃す役割。


 その役割に、私は自分を押し込めた。


 一番になれないことは分かっている。

 選ばれないことも、受け入れている。


 それでも。

 それでも、傍にいられるなら。


 この人の夜を、ほんの少しでも軽くできるなら。


 ――軽くできる、なんて。


 そんな言い方をする自分が、卑怯だと思う。

 本当は、軽くしたいのではない。


 抱え込みたいのだ。


 この人の痛みを。

 この人の空白を。

 誰にも見せない、夜の底を。


 分け合うのではなく、奪うように。


 私が抱えてしまえば、エルディオ様は少しだけ楽になるかもしれない。


 それが間違いだと分かっている。

 人の痛みは、他人が引き受けていいものではない。


 それでも。


 それでも私は、

「何もしない正しさ」よりも、

「壊れてでも触れる選択」を欲しがってしまった。


 二番目でもいい。


 その言葉は、私を守る盾であり、同時に、私を切り裂く刃でもあった。


 一番になれないから、傷つかないわけじゃない。

 選ばれないから、期待しないわけでもない。


 期待してしまう自分を、何度も、何度も、殺してきた。


 それでも、死にきらなかった感情が、今も、ここにある。


 ♢


 その日も、エルディオ様は戦場から戻られた。


 転移の気配。

 廊下に残る、世界が裏返ったあとの匂い。


「おかえりなさいませ」


 私は、いつも通りの声で言った。

 いつも通りの距離で、いつも通りの表情で。


 夕食は部屋へ運んだ。

 それも、変わらない日常の一部として。


「今日は、いかがでしたか?」


 天候の話。

 補給の遅れ。

 砦の様子。


 意味のない雑談を、意味があるふりで繋ぐ。

 沈黙が深くならないように。


 エルディオ様は、淡々と応じる。

 必要な分だけ、言葉を返す。


 食事が終わるまで、私は話し続けた。

 夜が深くなりすぎないように。

 考え事が戻ってこないように。


「……エル様、最近、戻るのが遅いですね」


 口にしてから、しまったと思った。

 責めているように聞こえたかもしれない。


「そう?」


 彼は、匙を動かしたまま言った。


「砦が増えたからね。呼ばれる場所が多いだけだよ」


 それだけ。


 説明でも、言い訳でもない。

 事実を並べただけの声。


「……無理は、なさらないでください」


「無理?」


 彼は一瞬、考えるような顔をした。


「無理、なのかな」


 その言葉が、胸に刺さる。


 無理をしている自覚がない。

 限界を、もう通り過ぎている証拠だった。


「ミレイユ様も……心配していらっしゃいました」


 少しだけ、賭けに出る。


「最近、あまり眠れていないんじゃないか、って」


「そう?」


 また、それだけ。


 関心がないのではない。

 関心を向ける余白が、もうない。


「……僕は大丈夫だよ」


 その言葉が、誰のためのものでもない音をしていた。


 私は、笑顔を作る。


「そうでしたか」


 そう言うしかない自分が、どれほど無力かを噛みしめながら。


 そのあと、部屋には沈黙が落ちた。


 音がないわけではない。

 食器が触れ合う微かな音。

 布が擦れる音。


 でも、それらはすべて、「誰かが生きている音」ではなかった。

 ただ、時間が流れている音だった。


 エルディオ様は、窓の外を見ていた。

 何を見ているのかは、分からない。


 私は、その横顔を見ないようにした。

 見てしまえば、また言葉を探してしまう。


 言葉を探すこと自体が、もう、役割を越え始めていると分かっていたから。


 ――この沈黙が、続いてしまえば。


 そう思った瞬間、胸の奥で、はっきりとした恐怖が生まれた。


 この人は、沈黙の中で、どこへでも行ってしまう。


 私は、その背中を追いかける資格を持たないまま。


 食器を下げ、扉を閉める。


 ――ここまでは、役割。


 役割。


 その言葉は、便利だった。

 便利だから、私は何度もそれに逃げ込んだ。


 役割だから、言わない。

 役割だから、触れない。

 役割だから、踏み込まない。


 そうやって、踏みとどまってきた。


 でも、いつからだろう。

 その「踏みとどまり」が、この人を守っていないと気づいてしまったのは。


 夜になると、エルディオ様の部屋には灯りが点く。

 それは、眠れない証拠だ。

 考えないために、起きている証拠だ。


 私は、その灯りを見ないようにしてきた。

 見てしまえば、役割が揺らぐから。

 揺らいだ役割の隙間から、感情が零れ落ちてしまうから。


 ――でも。


 今夜は、見てしまった。


 見てしまった瞬間、胸の奥で何かが静かに折れた。


 役割は、ここまでだった。


 これ以上、役割に隠れたままでは、私はこの人を「見殺しにする側」になる。


 そう理解してしまった。


 それが正しいかどうかは、分からない。

 正しさなんて、もう測れない。


 ただ一つ確かなのは、

 このまま何もしなければ、私は自分を許せなくなる、ということだけだった。


 ♢


 深夜。


 廊下は静まり返っていた。

 主の部屋から、灯りが漏れている。


 まだ、起きている。


 その扉の前で、私は一度だけ立ち止まった。


 ここを開けてしまえば、もう戻れない。


 侍女として守ってきた距離。

 触れないことで成立していた関係。


 それらが、すべて崩れる。


 頭では分かっていた。

 ここで引き返すことが、正しい選択なのだと。


 でも、その正しさは、あまりにも冷たかった。


 正しさは、この人を抱きしめてはくれない。

 正しさは、この人の夜に灯りをともしてはくれない。


 私は深く息を吸った。


 ――もし、嫌われたら。

 ――もし、軽蔑されたら。

 ――もし、この人の世界から完全に排除されたら。


 そのすべてを想像したうえで、それでも、私は思ってしまった。


 それでもいい、と。

 それでも、何もしなかった自分よりは。


 扉に、手をかける。


 逃げ道は、もう考えない。


 私は寝巻き姿のまま、その前に立った。

 初めてのことだった。


 それなのに、迷いはなかった。


 ノックはしない。

 許可も取らない。


 今さら、正しさを確認する気はなかった。


 扉を開けると、エルディオ様はベッドに腰掛けていた。

 布団に足を突っ込み、上半身だけを起こした姿。


 いつも通りの、無防備な背中。


「……メイリス?」


 淡々とした声。

 驚きはない。


「今日はどうしたの?

 いつも雑談なんかしないのにさ。

 それに……寝巻きのまま僕の部屋に来るなんて、初めてじゃないか」


 少しだけ、乾いた笑い。


 私は、一歩、部屋に入った。


「エル様は……今、壊れていらっしゃいます」


「壊れてる?」


 彼は首を傾げる。


「変なことを言うね、メイリス」


 私は息を吸った。

 逃げないための呼吸だった。


「アイン様も、ミレイユ様も……気づいています。

 でも、どうすればいいか分からないんです」


「アイン様は……ご自分が止められなかったことを、ずっと悔やんでいます」


 声が震える。


「剣を教えたのは自分だって。

 戦わせる道を選ばせたのは、自分だって」


 一歩、また近づく。


「ミレイユ様は……魔法を教えたことを後悔している。

 あの人、本当は、エルが戦わなくてもいい世界を、ずっと夢見ていたんです」


 涙が落ちる。


「でも……誰も言えない。

 “もうやめて”って」


 喉が詰まる。


「だって、エルがいなければ、もっと多くの人が死ぬから」


 声が掠れる。


「だから、皆……困ってるんです。

 止めたいのに、止められない。

 守りたいのに、縛ってしまう」


 私は胸を押さえた。


「私も……同じです」


 絞り出すように。


「侍女だから。

 恋人じゃないから。

 家族でもないから」


 涙が溢れる。


「何も、言えなかった……!」


 叫びに近い声。


「でも……それでも!

 このまま壊れていくのを、見ているだけなんて、できない!」


 私は、また一歩近づく。


「戦争は終わりません。

 エル様がいる限り、前線は持ちこたえる。

 だから……誰も、止められない」


 声が、少しずつ砕けていく。


「私も、同じです」


 涙が滲む。


「ずっと……分かってました。

 エルが壊れていること。

 分かっていたのに……私は侍女だから、何もできなかった」


 喉が震える。


「ごめんね、エル……」


 私は、彼を抱きしめた。

 体を起こしているその肩に、額を押しつける。


「ずっと、ずっと気づいてた!

 それでも私は、役割の中に隠れて、何もしなかった!」


 嗚咽が混じる。


「でもね……もういいの」


 顔を上げる。


「この気持ちは、隠せない。

 殺しきれない」


 腕に力が入る。


「私一人が壊れることで、エルの心が少しでも埋まるなら……それでいい」


 私は、エルディオ様の顔を見上げた。


 近い。

 近すぎる距離。


 息が触れる。


 この距離に来てしまったことを、後悔していない自分がいる。


「……エル」


 名前を呼ぶ声が、震える。


「私、ずっと……怖かった」


 額が、彼の胸に触れる。


「この人を失うのが怖い、って思うのは、侍女として間違ってるって」


 唇が、触れそうになる。


「でも……もう、やめる」


 囁く。


「正しい侍女でいるの」


 視線が絡む。


「私は……エルが欲しい」


 その瞬間、自分がどれほど深く踏み込んだかを理解する。

 理解した上で、引かなかった。


 だから、唇が触れた。


 深く、長く。


 それは、慰めではなかった。

 確認でもなかった。


 愛と欲を、言葉の代わりに流し込むためのキス。


「……愛してるよ、エル」


 もう一度、強く抱きしめる。


「リィナさんが、まだエルの心にいることも……分かってる」


 涙が落ちる。


「だから……二番目でもいい」


 また、深くキスをする。


「これからも、傍にいさせて」


 唇が離れても、私は彼を離さなかった。

 離してしまえば、この夜が終わると分かっていたから。


 抱きしめる腕に、力が入る。

 それは欲だった。

 救いたい、という綺麗な言葉では覆えない、生々しい執着だった。


 ――分かっている。


 これで、何かが解決するわけじゃない。

 エルディオ様の壊れた部分が、一夜で元に戻るはずがない。


 それでも。


 それでも私は、ここにいた。


 彼の呼吸を感じ、体温を確かめ、

「生きている」ことを、この腕で囲い込んだ。


 それが、救いであるふりをした欲だと分かっていながら。


 だから私は目を閉じた。

 考えるのをやめた。


 考えてしまえば、この選択がどれほど危ういかを理解してしまうから。

 理解した上で進むほど、私は強くない。


 ――今は、何も考えない。


 その祈りにも似た逃避の中で、私は静かに意識を手放した。


 この時間が、永遠に続けばいいと願いながら。

 私は、そのまま眠りに落ちた。


 ♢


「……メイリス」


 眠ってしまった彼女に、そっと布団を掛ける。

 頬には、涙の跡。


 胸の奥が、不思議なほど静かだった。


 考えなくていい夜。

 逃げるためではない、眠り。


 いつ以来だろう。

 こんなに、深く息ができたのは。


 ♢


 朝。


 夜明け前。

 屋敷が動き出す少し前。


「メイリス、起きて……朝だよ」


 彼女の頬に、指先が触れる。


「……エル?」


「おはよ、メイリス」


「……昨日は、ごめんね」


「ううん。いいんだ」


 自然と、そう言えた。


「僕も……久しぶりに、ちゃんと眠れた」


 彼女の顔が、泣きそうなほど明るくなる。


 抱きしめられ、キスが落ちる。


「……ありがとう、エル。

 今日は……ちゃんと、送り出せる」


「そろそろ行かないと、みんな起きてきちゃうよ?」


「そうだね。名残惜しいけど……」


「……ばれないように、戻ってね」


「分かってる」


 ♢


 その日、私は一日中、上機嫌だった。


 けれど、笑っているほど、胸の奥で何かが薄く痛んだ。

 昨日の夜を“救い”と呼んでしまった瞬間から、私はもう戻れないのだと――上機嫌の底で、ずっと分かっていた。


 クリストフ様は、何も言わない。

 アイン様とミレイユ様は、不思議そうに首を傾げた。


 夜。


 再び、屋敷は静まり返る。


 廊下を歩く自分の足音が、以前よりも、はっきりと聞こえた。


 それは恐怖ではなかった。

 決意とも違う。


 ただ、覚悟だった。


 私は知っている。

 この夜が、救いではないことを。


 この選択が、正しさではなく、耐えられなさから生まれたことを。


 それでも。


 それでも私は、もう“戻れない側”を選んだ。


 侍女としての役割を捨てたわけではない。

 ただ――役割の中身が、変わってしまったのだ。


 夜を整える者から、夜を引き受ける者へ。


 エルディオ様の夜が、私の役割になっていく。


 それが、どんな結末を連れてくるのかを知らないまま。


 ――夜は、役割になる。


 誰かを救うためでも、愛を証明するためでもない。


 ただ、壊れきらないために。


 誰も止めないまま。


本日の投稿はここまで。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

第44話「夜の役割 ―1」は、物語としては大きな事件が起きたわけではありません。

けれど、決して戻れない一線を、静かに、確実に越えた回です。


メイリスは「救いたい」と思いました。

同時に、「欲している」ことも、もう否定しません。

この二つが混ざり合ったとき、人は正しさでは動けなくなる。

耐えられなさだけが、選択を押し出す――

その瞬間を、できるだけ丁寧に描きました。


この夜は、救いではありません。

けれど、破滅でもありません。

ただ、役割が変わった夜です。


次章から始まる「夜は役割になる」では、

メイリスとエルの関係は、もう元には戻りません。

近づいたのに、埋まらない。

触れたのに、見られていない。

その矛盾が、静かに日常になっていきます。


もしよければ、

・この関係をどう感じたか

・メイリスに共感したか、拒否感を覚えたか

・エルの状態をどう受け取ったか


率直な感想やレビューをいただけると、とても励みになります。

ここから先は、さらに痛く、静かで、逃げ場のない物語になりますが、

それでも一緒に進んでもらえたら嬉しいです。


次話も、よろしくお願いします。

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― 新着の感想 ―
しっとりした文章で読みやすく、感情を揺さぶられます。メイリスとエルの深みにはまるような感覚でしょうか。面白かったです。
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