44.夜の役割-1
この人を、このままにしてはいけない。
その思いだけが、胸の奥に沈んだまま、消えずに残っている。
強い言葉ではない。
叫びでも、誓いでもない。
ただ、逃げ場のない理解だった。
エルディオ様は壊れている。
それはもう、感情ではなく、事実だった。
壊れているのに、崩れていない。
崩れていないから、誰も「異常」と呼べない。
呼べないまま、日常が続いている。
戦場から戻り、報告を受け、また出ていく。
血の匂いを落とし、外套を掛け、同じ声で「行ってくる」と言う。
感情を挟まない完璧な動作。
壊れていないふりをするための、精密な手順。
私は、そのすべてを見てきた。
見てきて、見ないふりをしてきた。
侍女だから。
それが、私の立場だから。
でも――
その立場が、この人を守っていないことにも、もう気づいていた。
リィナ様が亡くなってから。
いえ、それ以前から。
エルディオ様は、何かを選び続けている。
戦場を。
最前線を。
戻らなくてもいい場所を。
そして私は、選ばれなかった側に残った。
リィナ様は「選ばれた人」だった。
私は「残った人」だ。
その違いを、何度も直視した。
直視するたび、胸の奥が少しずつ削れていった。
それでも、離れられなかった。
選ばれなかった、という事実は、ある日突然突きつけられるものではなかった。
少しずつ、少しずつ。
言葉の端で。
視線の向きで。
呼ばれない名前で。
私は、何度も思い知らされてきた。
戦場から戻ったエルディオ様が、報告書より先に思い浮かべる顔。
眠れない夜に、無意識に探す気配。
そこに、私はいない。
それでも私は、傍にいた。
傍にいることだけは、許されていた。
それがどれほど残酷な優しさかを、理解するまでに、長い時間がかかった。
選ばれない、ということは、拒絶されることよりも、ずっと静かだ。
拒絶なら、傷つける側の意思がある。
でも「選ばれない」には、誰の意思も必要ない。
ただ、そうなっただけ。
私は、その「ただ」を、毎日のように飲み込んできた。
この人を、このままにしてはいけない。
その衝動が、救済なのか、欲望なのか。
もう、自分でも区別がつかない。
――二番目でもいい。
その言葉が、いつからか心の底に沈んでいた。
――二番目でもいい。
それは、謙遜でも妥協でもなかった。
願いにすらなりきれない、位置の確認だった。
一番になれないことは、最初から分かっていた。
私がどれほど長く傍にいても、どれほど多くの夜を整えても、
その場所には辿り着けない。
リィナ様は、選ばれた人だった。
選ばれた、という言葉は残酷だ。
そこには理由が要らない。
優劣も、努力も、時間も関係ない。
ただ――そこにいた。
エルディオ様の世界が壊れる前に。
彼がまだ「戻る場所」を信じていた頃に。
私は、その世界の外側に立っていた。
中を覗くことはできても、入ることは許されない位置で。
それでも、私は傍にいた。
傍にいられる立場を、手放さなかった。
それが、侍女だからなのか。
女だからなのか。
あるいは、その両方なのか。
分からないまま、ここまで来てしまった。
――二番目でもいい。
それは、選ばれない自分を肯定するための言葉だ。
同時に、選ばれないまま居続けることを自分に許可する呪文でもあった。
この人が壊れていくのを、見届ける役割。
支えるふりをして、見逃す役割。
その役割に、私は自分を押し込めた。
一番になれないことは分かっている。
選ばれないことも、受け入れている。
それでも。
それでも、傍にいられるなら。
この人の夜を、ほんの少しでも軽くできるなら。
――軽くできる、なんて。
そんな言い方をする自分が、卑怯だと思う。
本当は、軽くしたいのではない。
抱え込みたいのだ。
この人の痛みを。
この人の空白を。
誰にも見せない、夜の底を。
分け合うのではなく、奪うように。
私が抱えてしまえば、エルディオ様は少しだけ楽になるかもしれない。
それが間違いだと分かっている。
人の痛みは、他人が引き受けていいものではない。
それでも。
それでも私は、
「何もしない正しさ」よりも、
「壊れてでも触れる選択」を欲しがってしまった。
二番目でもいい。
その言葉は、私を守る盾であり、同時に、私を切り裂く刃でもあった。
一番になれないから、傷つかないわけじゃない。
選ばれないから、期待しないわけでもない。
期待してしまう自分を、何度も、何度も、殺してきた。
それでも、死にきらなかった感情が、今も、ここにある。
♢
その日も、エルディオ様は戦場から戻られた。
転移の気配。
廊下に残る、世界が裏返ったあとの匂い。
「おかえりなさいませ」
私は、いつも通りの声で言った。
いつも通りの距離で、いつも通りの表情で。
夕食は部屋へ運んだ。
それも、変わらない日常の一部として。
「今日は、いかがでしたか?」
天候の話。
補給の遅れ。
砦の様子。
意味のない雑談を、意味があるふりで繋ぐ。
沈黙が深くならないように。
エルディオ様は、淡々と応じる。
必要な分だけ、言葉を返す。
食事が終わるまで、私は話し続けた。
夜が深くなりすぎないように。
考え事が戻ってこないように。
「……エル様、最近、戻るのが遅いですね」
口にしてから、しまったと思った。
責めているように聞こえたかもしれない。
「そう?」
彼は、匙を動かしたまま言った。
「砦が増えたからね。呼ばれる場所が多いだけだよ」
それだけ。
説明でも、言い訳でもない。
事実を並べただけの声。
「……無理は、なさらないでください」
「無理?」
彼は一瞬、考えるような顔をした。
「無理、なのかな」
その言葉が、胸に刺さる。
無理をしている自覚がない。
限界を、もう通り過ぎている証拠だった。
「ミレイユ様も……心配していらっしゃいました」
少しだけ、賭けに出る。
「最近、あまり眠れていないんじゃないか、って」
「そう?」
また、それだけ。
関心がないのではない。
関心を向ける余白が、もうない。
「……僕は大丈夫だよ」
その言葉が、誰のためのものでもない音をしていた。
私は、笑顔を作る。
「そうでしたか」
そう言うしかない自分が、どれほど無力かを噛みしめながら。
そのあと、部屋には沈黙が落ちた。
音がないわけではない。
食器が触れ合う微かな音。
布が擦れる音。
でも、それらはすべて、「誰かが生きている音」ではなかった。
ただ、時間が流れている音だった。
エルディオ様は、窓の外を見ていた。
何を見ているのかは、分からない。
私は、その横顔を見ないようにした。
見てしまえば、また言葉を探してしまう。
言葉を探すこと自体が、もう、役割を越え始めていると分かっていたから。
――この沈黙が、続いてしまえば。
そう思った瞬間、胸の奥で、はっきりとした恐怖が生まれた。
この人は、沈黙の中で、どこへでも行ってしまう。
私は、その背中を追いかける資格を持たないまま。
食器を下げ、扉を閉める。
――ここまでは、役割。
役割。
その言葉は、便利だった。
便利だから、私は何度もそれに逃げ込んだ。
役割だから、言わない。
役割だから、触れない。
役割だから、踏み込まない。
そうやって、踏みとどまってきた。
でも、いつからだろう。
その「踏みとどまり」が、この人を守っていないと気づいてしまったのは。
夜になると、エルディオ様の部屋には灯りが点く。
それは、眠れない証拠だ。
考えないために、起きている証拠だ。
私は、その灯りを見ないようにしてきた。
見てしまえば、役割が揺らぐから。
揺らいだ役割の隙間から、感情が零れ落ちてしまうから。
――でも。
今夜は、見てしまった。
見てしまった瞬間、胸の奥で何かが静かに折れた。
役割は、ここまでだった。
これ以上、役割に隠れたままでは、私はこの人を「見殺しにする側」になる。
そう理解してしまった。
それが正しいかどうかは、分からない。
正しさなんて、もう測れない。
ただ一つ確かなのは、
このまま何もしなければ、私は自分を許せなくなる、ということだけだった。
♢
深夜。
廊下は静まり返っていた。
主の部屋から、灯りが漏れている。
まだ、起きている。
その扉の前で、私は一度だけ立ち止まった。
ここを開けてしまえば、もう戻れない。
侍女として守ってきた距離。
触れないことで成立していた関係。
それらが、すべて崩れる。
頭では分かっていた。
ここで引き返すことが、正しい選択なのだと。
でも、その正しさは、あまりにも冷たかった。
正しさは、この人を抱きしめてはくれない。
正しさは、この人の夜に灯りをともしてはくれない。
私は深く息を吸った。
――もし、嫌われたら。
――もし、軽蔑されたら。
――もし、この人の世界から完全に排除されたら。
そのすべてを想像したうえで、それでも、私は思ってしまった。
それでもいい、と。
それでも、何もしなかった自分よりは。
扉に、手をかける。
逃げ道は、もう考えない。
私は寝巻き姿のまま、その前に立った。
初めてのことだった。
それなのに、迷いはなかった。
ノックはしない。
許可も取らない。
今さら、正しさを確認する気はなかった。
扉を開けると、エルディオ様はベッドに腰掛けていた。
布団に足を突っ込み、上半身だけを起こした姿。
いつも通りの、無防備な背中。
「……メイリス?」
淡々とした声。
驚きはない。
「今日はどうしたの?
いつも雑談なんかしないのにさ。
それに……寝巻きのまま僕の部屋に来るなんて、初めてじゃないか」
少しだけ、乾いた笑い。
私は、一歩、部屋に入った。
「エル様は……今、壊れていらっしゃいます」
「壊れてる?」
彼は首を傾げる。
「変なことを言うね、メイリス」
私は息を吸った。
逃げないための呼吸だった。
「アイン様も、ミレイユ様も……気づいています。
でも、どうすればいいか分からないんです」
「アイン様は……ご自分が止められなかったことを、ずっと悔やんでいます」
声が震える。
「剣を教えたのは自分だって。
戦わせる道を選ばせたのは、自分だって」
一歩、また近づく。
「ミレイユ様は……魔法を教えたことを後悔している。
あの人、本当は、エルが戦わなくてもいい世界を、ずっと夢見ていたんです」
涙が落ちる。
「でも……誰も言えない。
“もうやめて”って」
喉が詰まる。
「だって、エルがいなければ、もっと多くの人が死ぬから」
声が掠れる。
「だから、皆……困ってるんです。
止めたいのに、止められない。
守りたいのに、縛ってしまう」
私は胸を押さえた。
「私も……同じです」
絞り出すように。
「侍女だから。
恋人じゃないから。
家族でもないから」
涙が溢れる。
「何も、言えなかった……!」
叫びに近い声。
「でも……それでも!
このまま壊れていくのを、見ているだけなんて、できない!」
私は、また一歩近づく。
「戦争は終わりません。
エル様がいる限り、前線は持ちこたえる。
だから……誰も、止められない」
声が、少しずつ砕けていく。
「私も、同じです」
涙が滲む。
「ずっと……分かってました。
エルが壊れていること。
分かっていたのに……私は侍女だから、何もできなかった」
喉が震える。
「ごめんね、エル……」
私は、彼を抱きしめた。
体を起こしているその肩に、額を押しつける。
「ずっと、ずっと気づいてた!
それでも私は、役割の中に隠れて、何もしなかった!」
嗚咽が混じる。
「でもね……もういいの」
顔を上げる。
「この気持ちは、隠せない。
殺しきれない」
腕に力が入る。
「私一人が壊れることで、エルの心が少しでも埋まるなら……それでいい」
私は、エルディオ様の顔を見上げた。
近い。
近すぎる距離。
息が触れる。
この距離に来てしまったことを、後悔していない自分がいる。
「……エル」
名前を呼ぶ声が、震える。
「私、ずっと……怖かった」
額が、彼の胸に触れる。
「この人を失うのが怖い、って思うのは、侍女として間違ってるって」
唇が、触れそうになる。
「でも……もう、やめる」
囁く。
「正しい侍女でいるの」
視線が絡む。
「私は……エルが欲しい」
その瞬間、自分がどれほど深く踏み込んだかを理解する。
理解した上で、引かなかった。
だから、唇が触れた。
深く、長く。
それは、慰めではなかった。
確認でもなかった。
愛と欲を、言葉の代わりに流し込むためのキス。
「……愛してるよ、エル」
もう一度、強く抱きしめる。
「リィナさんが、まだエルの心にいることも……分かってる」
涙が落ちる。
「だから……二番目でもいい」
また、深くキスをする。
「これからも、傍にいさせて」
唇が離れても、私は彼を離さなかった。
離してしまえば、この夜が終わると分かっていたから。
抱きしめる腕に、力が入る。
それは欲だった。
救いたい、という綺麗な言葉では覆えない、生々しい執着だった。
――分かっている。
これで、何かが解決するわけじゃない。
エルディオ様の壊れた部分が、一夜で元に戻るはずがない。
それでも。
それでも私は、ここにいた。
彼の呼吸を感じ、体温を確かめ、
「生きている」ことを、この腕で囲い込んだ。
それが、救いであるふりをした欲だと分かっていながら。
だから私は目を閉じた。
考えるのをやめた。
考えてしまえば、この選択がどれほど危ういかを理解してしまうから。
理解した上で進むほど、私は強くない。
――今は、何も考えない。
その祈りにも似た逃避の中で、私は静かに意識を手放した。
この時間が、永遠に続けばいいと願いながら。
私は、そのまま眠りに落ちた。
♢
「……メイリス」
眠ってしまった彼女に、そっと布団を掛ける。
頬には、涙の跡。
胸の奥が、不思議なほど静かだった。
考えなくていい夜。
逃げるためではない、眠り。
いつ以来だろう。
こんなに、深く息ができたのは。
♢
朝。
夜明け前。
屋敷が動き出す少し前。
「メイリス、起きて……朝だよ」
彼女の頬に、指先が触れる。
「……エル?」
「おはよ、メイリス」
「……昨日は、ごめんね」
「ううん。いいんだ」
自然と、そう言えた。
「僕も……久しぶりに、ちゃんと眠れた」
彼女の顔が、泣きそうなほど明るくなる。
抱きしめられ、キスが落ちる。
「……ありがとう、エル。
今日は……ちゃんと、送り出せる」
「そろそろ行かないと、みんな起きてきちゃうよ?」
「そうだね。名残惜しいけど……」
「……ばれないように、戻ってね」
「分かってる」
♢
その日、私は一日中、上機嫌だった。
けれど、笑っているほど、胸の奥で何かが薄く痛んだ。
昨日の夜を“救い”と呼んでしまった瞬間から、私はもう戻れないのだと――上機嫌の底で、ずっと分かっていた。
クリストフ様は、何も言わない。
アイン様とミレイユ様は、不思議そうに首を傾げた。
夜。
再び、屋敷は静まり返る。
廊下を歩く自分の足音が、以前よりも、はっきりと聞こえた。
それは恐怖ではなかった。
決意とも違う。
ただ、覚悟だった。
私は知っている。
この夜が、救いではないことを。
この選択が、正しさではなく、耐えられなさから生まれたことを。
それでも。
それでも私は、もう“戻れない側”を選んだ。
侍女としての役割を捨てたわけではない。
ただ――役割の中身が、変わってしまったのだ。
夜を整える者から、夜を引き受ける者へ。
エルディオ様の夜が、私の役割になっていく。
それが、どんな結末を連れてくるのかを知らないまま。
――夜は、役割になる。
誰かを救うためでも、愛を証明するためでもない。
ただ、壊れきらないために。
誰も止めないまま。
本日の投稿はここまで。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
第44話「夜の役割 ―1」は、物語としては大きな事件が起きたわけではありません。
けれど、決して戻れない一線を、静かに、確実に越えた回です。
メイリスは「救いたい」と思いました。
同時に、「欲している」ことも、もう否定しません。
この二つが混ざり合ったとき、人は正しさでは動けなくなる。
耐えられなさだけが、選択を押し出す――
その瞬間を、できるだけ丁寧に描きました。
この夜は、救いではありません。
けれど、破滅でもありません。
ただ、役割が変わった夜です。
次章から始まる「夜は役割になる」では、
メイリスとエルの関係は、もう元には戻りません。
近づいたのに、埋まらない。
触れたのに、見られていない。
その矛盾が、静かに日常になっていきます。
もしよければ、
・この関係をどう感じたか
・メイリスに共感したか、拒否感を覚えたか
・エルの状態をどう受け取ったか
率直な感想やレビューをいただけると、とても励みになります。
ここから先は、さらに痛く、静かで、逃げ場のない物語になりますが、
それでも一緒に進んでもらえたら嬉しいです。
次話も、よろしくお願いします。




