42.夜は代わりに進む-4
止められなかった。
それが、私たちの共通言語になっていくのが怖かった。
アイン様は止められなかった。
ミレイユ様も止められなかった。
そして私は――止めるすべを、最初から持っていない。
持っていないものを責めることはできない。
責められないから、余計に苦しい。
時間は、容赦なく流れていった。
屋敷はいつも通りに回り、使用人はいつも通りに笑い、庭の草木は季節に従って伸び、刈られ、また伸びた。
ただ一つだけ、いつも通りではないものがあった。
主が毎朝、当たり前のように消え、夜、当たり前のように戻ってくること。
朝は、無音だった。
扉が開く気配、靴底が床を叩く音、外套の布が擦れる音。
そんなものはある。あるのに、私はそれを「生活の音」として聞けなくなっていた。
それは、出発の音だ。
戦地へ向かう音だ。
戻るかどうか分からない背中が、屋敷を出る音だ。
私は侍女として、整え続けた。
髪を梳き、襟を正し、袖口の皺を伸ばし、剣帯の位置を測り、外套の留め金を確かめる。
それは、私の役割であり、同時に、私の逃げ道でもあった。
整えている間は、考えなくていい。
考えなくていい時間だけが、私を助けてくれる。
――皮肉だ。
「考えなくていい時間」を求めて戦場へ行くのは主なのに、私は主を送り出しながら、同じものを求めている。
夜。
空気が裏返る。白くなる。次の瞬間には、主が戻っている。
それが「帰還」と呼べたのは、最初のうちだけだった。
戻る。
そこにいる。
それだけで、帰ってきたとは限らない。
主は、屋敷の中を歩く。
必要な報告だけを聞き、必要な署名だけをし、必要な食事だけを摂り、必要な休息だけを取る。
その一つ一つが、完璧に「必要」だけで構成されていた。
余計なものは、ない。
余白も、ない。
そして私の中には、余白だけが増えていく。
♢
アルヴェイン辺境伯領での進行が一時落ち着いたのは、誰の目にも明らかだった。
報告書に記される数字は安定し、砦の補給線は切れにくくなり、避難誘導の速度も上がっていった。
領民が口にする安堵の言葉が増え、街の灯が以前より少し長く点るようになった。
そういう「良い変化」があるほど、私は胸の奥が冷えていった。
理由が分かってしまうからだ。
落ち着いたのではない。
鎮められたのだ。
そして鎮めたのは、主だ。
主が前に出れば、被害は減る。
主が出れば、戦況は早く整う。
主が出れば、誰かが助かる。
それは正しい。
正しいから、止められない。
そして正しさは、いつも私を置き去りにする。
落ち着いた結果、主は別の戦地へと身を投じていくようになった。
この領のために戦っていたはずの背中が、次の領へ、次の砦へ、次の戦線へ移っていく。
出発の準備は淡々としていた。
荷を増やすでもなく、記念を残すでもなく、挨拶を残すでもなく。
ただ、「行く」だけ。
私は、その淡々に耐えられなかった。
耐えられないのに、耐えてしまう。
耐えてしまえる自分が、いちばん怖い。
主が戦果を上げるたび、別の領主から感謝と謝礼が届くようになった。
月に一度、あるいは二度。
封蝋の印は重く、紙は上質で、箱は豪奢だった。
金貨。宝石。魔道具。希少な薬草。
ときには、剣や鎧すら届いた。
それらは「感謝」の形をしている。
でも私には、どうしても「代償」に見えた。
人が救われた代償。
戦が片付いた代償。
主が削れた代償。
受け取るたび、主は興味がない顔をした。
興味がないのではなく、興味を持つ余地がないように見えた。
「必要」ではないから。
主の中でそれは、ただの付随物に過ぎない。
私はその箱を抱え、保管庫に運び、帳簿を付け、管理を整える。
整えてしまうことで、私はまた「屋敷の朝」を作る。
朝を作るほど、夜が重くなる。
♢
ある日。
その日は、空がやけに澄んでいた。
庭の木々は風に揺れ、日差しが葉の隙間から落ちて、石畳に斑を作っていた。
平和という言葉が似合う光景だった。
だからこそ、その呼び出しは異物だった。
「お前の腕を見せてみろ」
アイン様の声を聞いた瞬間、私の背が硬直した。
剣聖の声だ。
父の声ではなく、剣の声。
ミレイユ様もそこにいた。
表情は固い。眼差しは鋭い。
元筆頭宮廷魔道士としての顔が出ている。
そして主は、いつものように静かだった。
私は主の後ろに控えた。
控える以外にできることがないからだ。
ここに立ち会う資格が私にあるとは思えなかった。
けれど、退く許可も与えられていない。
執事のクリストフ様が準備を整えていた。
訓練場の結界、周囲の警戒、使用人の動線。
すべてが「事故が起きないように」整えられている。
事故。
その言葉が、私の胸の内で苦く響いた。
これは事故ではない。
これは――祈りの形をした勝負だ。
勝てば止められる。
勝てば、まだ親として言える。
勝てば、息子を「戦場から」引き剥がせる。
そういう願いが、空気の中に漂っている。
誰も口にしない。
口にした瞬間、それは願いではなく「弱さ」になるからだ。
アイン様は装備を身につけていた。
剣帯の位置、手袋の締め具合、足運び。
すべてが「本気」を示している。
ミレイユ様も同じだった。
杖は握り、指先には魔力が薄く集まっている。
術式の予備動作。
攻撃魔法を組む前の、息の整え方。
二人とも全力だ。
家族の喧嘩ではない。
戦場の強者が、戦場の強者として立つ姿だ。
対して主は、静かに剣を抜き、静かに魔力を整えた。
動きの無駄がない。
整いすぎている。
その整いに、私は吐き気を覚えた。
これは訓練ではない。
これは、「結果」だけが必要な行為だ。
主が得意とするものだ。
開始の合図が落ちた。
ミレイユ様の魔法が先に走った。
空気が歪み、熱を帯びた光が弾け、同時にアイン様が踏み込む。
二対一。
圧倒的な包囲。
本来なら逃げ道はない。
――本来なら。
主は、逃げなかった。
避けた。
逃げるのではなく、必要な角度だけ身体をずらす。
剣を振るうのではなく、必要な距離だけ刃を置く。
剣と魔法が交差し、火花が散る。
結界が震え、地面がわずかに鳴る。
そして。
終わった。
息を吸うより早く、終わった。
私は自分が瞬きをしていないことに気づいた。
目を閉じれば、この現実を見なかったことにできそうで。
でも閉じられなかった。
主の剣が、アイン様の首元に添えられていた。
皮膚に触れる寸前の距離。
避けようがない角度。
同時に、ミレイユ様の首元には、氷の槍が浮かんでいた。
高速回転する刃のような槍。
凍てついた魔力が空気を削り、触れれば即座に裂ける速度。
主は淡々とした声で言った。
「もうよろしいでしょうか。」
それだけ。
勝利の誇示もない。
相手を貶める言葉もない。
達成感もない。
ただ、手順を終えた人間の声だった。
主は剣を戻し、氷の槍を霧散させ、その場を後にした。
歩き方すら変わらない。
少しの乱れもない。
私は後ろに従った。
従いながら、心の中で何かが崩れる音を聞いた。
――勝ってほしかった。
誰が、とは言えない。
でも私は確かに思ってしまった。
勝ってほしかった。
止めてほしかった。
止められる未来を、見せてほしかった。
その願いが、口に出せないほど醜くて、私は自分が嫌になった。
♢
主が去ったあと。
訓練場には、沈黙だけが残った。
私は本来、そこに留まるべきではない。
侍女は主に付き従う。
主が去ったなら去るべきだ。
でも、足が動かなかった。
動けば、この沈黙を置いていくことになる。
置いていけなかった。
見届けてしまう。
観測者の悪癖だ。
アイン様は剣を握ったまま、動かなかった。
剣聖としての姿勢は保たれているのに、背中が少しだけ小さく見えた。
ミレイユ様は、ゆっくりと息を吐いた。
魔力の流れがほどけていく。
ほどけていくのに、顔色は戻らない。
――勝てば止めるつもりだったのだ。
その事実が、言葉にならないまま空気の中に漂う。
誰も言わない。
言えば壊れるからだ。
まず、ミレイユ様が小さく呟いた。
「……あんなに近かったのに」
近かった。
槍の刃が、首元の皮膚を撫でる距離。
死が近かったのではない。
息子に「届く」距離が近かった、と言いたかったのだと、私は理解してしまった。
「触れられると思ったのに……」
続く言葉が、喉の奥で砕けた。
母の声は、ときどき術式よりも残酷だ。
術式は失敗すれば崩れる。
でも母の声は、失敗しても残る。
アイン様が、低く笑うような息を吐いた。
「……俺たちが二人がかりでも、止められんか」
剣聖の声ではなかった。
父の声だった。
疲れた声だった。
ミレイユ様が、拳を握る。
爪が掌に食い込む。
「止めるって……何よ」
笑いにも泣きにもならない声音だった。
「止めるって、どうすればいいのよ。剣で? 魔法で? 言葉で? 抱きしめて?」
抱きしめて、という単語が落ちた瞬間、私は胸の奥がひどく痛んだ。
抱きしめたい。
それは母も、私も、同じだ。
同じなのに、立場が違う。
だから同じ痛みは共有できない。
共有できないから、孤独が増える。
アイン様が、剣を鞘に収める。
いつもなら迷いのない音がするはずなのに、その日は妙に重たかった。
「勝てば……」
言いかけて、止まった。
口にするのが恥ずかしかったのだろう。
剣聖が、息子に勝って止める。
その構図が、あまりにも惨めで。
ミレイユ様が、息を詰めた。
「勝てば、って……」
自分で言い換えた。
「勝てば、止められると思ったのよね。私たち」
言った瞬間、彼女の肩が小さく震えた。
泣いてはいない。
でも泣く寸前の身体の揺れは、誤魔化せない。
アイン様が、目を閉じた。
「……無力だ」
短い言葉だった。
短すぎて、逆に本音だと分かってしまう言葉。
剣で守ってきた。
魔法で支えてきた。
領を守ってきた。
多くの人を救ってきた。
その二人が、息子一人を救う手段を持っていない。
それが、無力という言葉の中身だった。
私はその背後で、息を殺した。
息を殺してしまう。
息を立てれば、ここにいる私が「家族の痛み」に触れてしまうから。
触れてはいけない。
けれど私は、もう触れている。
触れてしまって、離れられない。
ミレイユ様の独白が、少し長く続いた。
「ねえ、アイン。私たち、息子を“強くした”のかしら」
彼女の声は、母としての問いだった。
「それとも……強さに追い込んだのかしら」
追い込んだ。
その言葉が、私の胸にも刺さる。
追い込んだのは親だけではない。
屋敷も、領も、戦も、そして――私も。
私が整えるたび、主は“問題なく”見える。
問題なく見えるから、止められない。
止められないから、主はまた出る。
その循環に、私は加担している。
ミレイユ様は続けた。
「戦場で立っている姿が、あまりにも綺麗で」
綺麗。
またその言葉だ。
「綺麗だから、誰も止められないのよ。誰も“痛そう”だと気づけない。痛がらないから」
痛がらない。
痛がらない人は、強いのではない。
痛みを抱える場所を持っていないだけだ。
アイン様が、低く言った。
「……勝てば止める、という発想自体が、もう親じゃないな」
その言葉は、自罰に近かった。
自分を裁く剣。
ミレイユ様が、かすかに笑った。
でも笑いではなかった。
「親だからこそ、なのよ」
苦しい息で言った。
「止めたいの。どんな方法でも。だってあの子、止まらない。止まらないまま……」
言いかけて、言えなかった。
“死ぬ”と言うのは、あまりにも直接すぎて。
言えばそれが現実になる気がして。
私は、その続きを心の中で補ってしまった。
補ってしまうから、私は壊れていく。
♢
主はその日も、翌日も、変わらず戦地へ向かった。
アルヴェイン辺境伯領での進行が落ち着いたぶん、別の地で戦果を上げ続ける。
月ごとに届く感謝と謝礼は増え、帳簿は厚くなり、保管庫は埋まっていく。
埋まっていくのは物だけではない。
私の中にも、見たものが埋まっていく。
朝、主の外套を整える。
夜、主の外套を受け取る。
外套の裾に残る匂いが、日によって変わる。
焦げた木。
湿った土。
鉄。
魔力の甘い濁り。
その匂いの違いだけが、私に「今日はどこで戦っていたのか」を教える。
主は語らない。
語らないから、匂いが語ってしまう。
私は匂いを洗い落としながら、心の中の何かを洗い落とせないことに気づく。
洗い落とせないものが、積もる。
そして夜、屋敷が静かになると、その積もりが私の喉を塞ぐ。
主の部屋から物音がしない。
寝息も、咳も、衣擦れもない。
静けさが、私の耳を研ぎ、研がれた耳が「何もない」を大きく拾う。
――生きている証拠が欲しい。
思ってはいけないと分かっている。
でも分かっているだけでは、止められない。
私は観測者だ。
観測者は、止められない。
止められないから、見届ける。
見届けることでしか、ここにいられない。
でも見届けるたび、私は自分が「待つ側」ではなく、「削れていく側」だと知ってしまう。
主は戦果を上げ続ける。
屋敷は誇りを増やしていく。
領は救われていく。
人々は安堵していく。
私だけが、すり減っていく。
すり減っていくのに、顔は整う。
声は整う。
所作は整う。
整うほど、私は透明になっていく。
そして私は、ときどき思う。
あの日、訓練場で。
剣聖と元筆頭宮廷魔道士が、全力で挑んで瞬殺されたあの日。
あれは、主が強いから起きたことではない。
主が「止まらない」から起きたことだ。
止まらない人間を、勝って止めることはできない。
止まらない人間を、言葉で止めることもできない。
では、何で止めるのか。
答えは出ない。
答えが出ないから、夜は代わりに進む。
主の代わりに。
私の代わりに。
誰も止めないまま。
私は今日も、整える。
主が興味のない謝礼を保管し、帳簿を付け、外套を整え、体温を確かめ、声を整える。
朝のふりを作る。
そのふりが上手くなるほど、私は自分を失っていく。
それでも私は、主の後ろに立つ。
見届けるしかないから。
見届けることだけが、私に許された愛し方だから。
夜は代わりに進む。
誰も止めないまま。
そして主は、明日もまた――当たり前のように消える。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
この話で描きたかったのは、
「止められなかった人たち」と「最初から止める権利を持たなかった人」の時間です。
正しさが積み重なっていくほど、誰も悪くないのに、誰も救えなくなっていく――
その残酷さを、メイリスという“観測者”の視点にすべて背負わせました。
彼女は何も選べません。
だからこそ、すべてを見てしまう。
見てしまうから、愛してしまう。
愛してしまうのに、触れてはいけない。
夜が進むたび、世界は救われていくのに、
彼女だけが静かに削れていく構図を、少しでも感じてもらえていたら嬉しいです。
もしよければ、
・印象に残った場面
・苦しかったところ
・「刺さった」台詞や描写
など、感想やレビューをもらえるととても励みになります。




