41.夜は代わりに進む-3
まだ三年という時間が、ただの「これから」だった頃。
屋敷はまだ、“いつか”という言葉を信じていた。
補給が整えば。戦況が落ち着けば。魔族の波が収まれば。
そうすれば、きっと――。
でも私は、朝と夜の間に“いつか”が挟まらないことを知っていた。
主は朝、当たり前のように消える。
そして夜、何事もなかったように戻る。
戻る。
――戻る、という言葉は本当は“家に帰る”のための言葉だ。
けれど主の帰還は、ただの「移動」になりつつあった。
空気が裏返り、白み、次の瞬間にはそこにいる。
そこにいるだけで、帰ってきたとは限らない。
私は侍女として、整え続けた。
髪。襟。袖口。体温。声の高さ。目線。
主が戦場に持っていったものを、屋敷の形に戻す。
けれど夜になると、整えたはずのものが全部ほどける。
ほどけるのは、主の身なりではない。
私の中の“耐えるための順序”だ。
観測者は、止められない。
止められないから、記録する。
記録しているうちに、感情だけが居場所を失っていく。
♢
後日の夕刻。
廊下の窓から、薄い光が斜めに差していた。
夕方の光は、優しい顔をして残酷だ。今日という一日が終わる、と告げてくる。
その光の下で、クリストフ様に呼び止められた。
白髪を整え、モノクルの奥の眼差しはいつも穏やかで、そして外さない。
屋敷の隅々まで見通し、戦闘から政務まで寸分の狂いなく支える人。
この人だけは、何も言わなくても、こちらの変化を拾ってしまう。
モノクル越しの目は穏やかで、穏やかなまま逸らさない。
屋敷の秩序そのものみたいな人。戦闘から政務まで、余白を作らない人。
だから、私の“余白”が増えていることも見逃さない。
「メイリス。少し、お耳を」
私は背筋を伸ばした。
返事より先に、肩が固くなる。
この人の声は、慰めの形を取らない。事実を置く声だ。
「前線からの報告書が揃いました」
報告書。
紙束。数字。戦果。被害。
それらが揃うほど、戦は“予定”になる。
予定になった戦は、止まらない。
クリストフ様は続けた。
「戦況は、安定しております」
安定。
その言葉が、私の喉の奥に沈む。
安定は、本来なら喜ぶべき言葉なのに。
主にとっての安定は、“出る理由が揃った”と同義になってしまう。
被害は減った。領民の避難は早くなった。砦の補給線も、以前より切れにくくなった。
魔族の動きは確かに活発化しているはずなのに、辺境伯領は踏みとどまっている。
理由は分かっている。
分かっているから、目を逸らせない。
報告書には、同じ言葉が何度も出てくる。
《エルディオ様の先行》
《エルディオ様の魔法支援》
《エルディオ様の突入》
《エルディオ様の掃討》
勝っている。
勝っているのに、報告書の余白が震えている。
兵の手が震えた跡。
急いで書き足したような、乱れた筆圧。
“勝った”という結論の横に、言葉にできない恐怖が滲んでいる。
――恐れている。
敵を恐れる目ではない。
戦場の理を超えたものを見た者の目だ。
理解できない力を前にした、祈りに近い恐怖。
クリストフ様は、その恐怖を「整理して」私に渡した。
整理しても、消えないのに。
私は口を開こうとして、やめた。
侍女が「怖い」と言うのは、弱音ではなく禁句だ。
主を怖がることは、主を否定することに近い。
私は主を否定できない。
クリストフ様は、少し間を置いて言った。
「近く、旦那様達がお呼びになるでしょう」
“近く”。
明日と言わない。明朝と言わない。
決定がまだないのではない。
決定が、もう“止められない場所”で動いているからだ。
「その場に、あなたが必要になるかもしれません」
必要。
私が必要なのではない。
主の背後に“屋敷”がいるという形が必要なのだ。
私の役割は、形になる。形でしか支えられない。
「承知いたしました」
声が整ってしまう。
整うほど、心が遠くなる。
私は“観測者”として完成していく。
♢
夜。
屋敷は静かだった。
静けさが、私の耳を研ぐ。
研がれた耳は、何もない音を拾ってしまう。
主の部屋から物音がしない。
寝返りの音も、咳も、足音もない。
――生きている証拠が欲しい。
そんな願いが浮かんだ瞬間、私は自分を嫌悪した。
主の命を、私の安心の材料にしてはいけない。
でも、私はもう材料が欲しくなっている。
“ここにいる”という事実だけでは足りない。
呼吸が欲しい。音が欲しい。体温の揺れが欲しい。
観測者の孤独は、こういう形で増殖する。
自分の感情が、主の現実より先に暴れる。
♢
翌朝。
私は執務室の外、廊下に立たされた。
呼ばれたらすぐ入れる距離。けれど勝手に入ってはいけない距離。
私は存在していて、存在してはいけない。
扉の向こうから声が聞こえる。
中の様子は見えない。
だから私は、声の温度と沈黙の長さだけで受け取る。
受け取ってしまう。受け取るためにここにいる。
「……また、出たの?」
問いかけの形をしているが、答えは分かっている声だった。
その声に、母の疲れが混じっているのが分かった。
分かってしまうから、苦しい。
「出たよ…。そして戻った。血を落とした。外套を掛けた。……そして、もう出ている」
繰り返し。
帰還が儀式になり、儀式が作業になり、作業が日常になる。
日常になった瞬間、怖さは“背景”になる。
背景になった怖さは、誰も止めない。
「私たちが呼べば……来るわ」
「来る…だろうな」
「止めれば……止まる?」
止めれば。
止める。
止めるという言葉は、誰かがまだ主を「戻せる」と信じている証拠だ。
その信じ方が、私は羨ましい。
私はもう、止められないと知ってしまっているから。
「……止まるだろう。表面上は」
表面上。
その言葉が、私の胸骨を押す。
表面を整えるのは、侍女の仕事だ。
表面上しか止まらないと言われるのは、侍女の敗北だ。
「表面上じゃなくて。あの子を——」
言葉が飲み込まれる。
飲み込んだ呼吸の音だけが、扉越しに伝わった気がした。
救いたい。
でも“救う”は、親が言うと傲慢に聞こえる。
だから飲み込む。
飲み込んだ分だけ、喉が痛む。
「……俺たちは、あいつを『手のかからない子』だと思っていた」
その一言で、私の視界が少し白くなる。
手のかからない子。
それは親にとっての安堵の言葉だ。
そして子にとっては、“手をかけてもらえない”の言い換えでもある。
「魔法の才能も、剣の才能も、あった。覚えは早い。飲み込みが速い。判断も正確だ。……だから、任せた」
任せた。
任せた、は美しい言葉だ。
でも戦場での任せたは、背負わせたに変わる。
私は主の背中を思い出す。
いつも真っ直ぐで、いつも静かで、いつも誰にも寄りかからない背中。
「……あの子は、私たちの前ではいつも、いい子だった」
いい子。
いい子ほど、壊れるときは音がしない。
音がしないまま、どこかが欠けていく。
欠けたものを拾うのは、誰だ。
拾えるのは、誰だ。
「いい子、だったんじゃない」
掠れた気配。
父の声が、剣聖の声よりも弱く聞こえた。
弱さが出てしまう場は、戦場ではなく家の中なのだ。
「……あいつは、最初から——」
言葉が途切れる。
途切れた先にある真実は、多分、言った瞬間に戻れなくなる。
「……私ね。気づいてしまったの」
「何に」
「エルの魔法が、冷たくなっていくの。術式が精密になって、無駄がなくなって……綺麗になる。綺麗になるほど、感情が減っていく」
私は目を閉じた。
綺麗になるほど、感情が減っていく。
その言葉は、主の生活にも当てはまってしまう。
所作は綺麗だ。声は整っている。立ち姿は崩れない。
綺麗になるほど、何かが減っていく。
「悲しみを、魔法に混ぜないようにしてるのよ。混ぜたら壊れるって、分かってるから。だから全部を削って、削って……残ったのが、ただの『処理』」
処理。
その二文字が、戦場の匂いを呼び起こす。
鉄。焦げ。血。魔力の甘い濁り。
屋敷にあってはいけない匂いが、主の外套の裾に残っていた夜を思い出す。
「でもね。感情を削ってるんじゃないの。——最初から、執着が薄いの」
「……執着」
「生きることへの, 執着」
生きることへの執着。
私はその言葉を、喉の奥で転がしてしまう。
主が生きることに執着していないのなら、私は何を願えばいい。
生きて、と言っても届かない。
戻って、と言っても届かない。
届かないと分かっていて願うのが、観測者の孤独だ。
「リィナを失ったから、そうなったんじゃない。リィナを失ったことで、それが……表に出ただけ」
リィナ様。
その名が出た瞬間、私は身体の奥で何かを噛み砕いた気がした。
嫉妬は醜い。
でもこれは醜さではなく、現実だ。
――私はそこに入れない。
主が“世界”と呼べる場所。
主が“失った”と明確に言える存在。
その中心に、私はいない。
いないのに私は傍にいる。
傍にいることが、ますます苦しい。
「私たちの前では、笑う。頷く。謝る。ちゃんとする。……でも、それは『生きたい』からじゃないの。『壊したくない』から」
「…壊したくない?」
「家を。立場を。周囲を。私たちを。——自分じゃないものを」
“自分じゃないもの”。
その言い方が、鋭い。
主は、自分自身を勘定に入れていない。
自分以外を壊したくないから、自分を切り捨てている。
私は廊下で、その結論を聞かされるだけの人間だ。
「……あの夜だ」
私は、扉の前で指先を握り込んだ。
爪が皮膚に食い込む痛みで、自分を現実に繋ぎ止める。
泣けば入れない。
入れなければ、私は役割を果たせる。
役割だけが、私をここに立たせる。
「……呼ぼう」
「今日、呼ぶ。叱る。……怒る」
「怒るの?」
「怒らないと……俺たちは『親』じゃなくなる」
「止めるためじゃない。……あいつに、『生きろ』と言うためだ」
「……言えるの?」
「言わなきゃ、終わる」
終わる。
その音だけが、扉の隙間から廊下に落ちた気がした。
私は、その“終わる”を拾ってしまう。
拾うことしかできない。
拾って、胸に溜めて、夜にひとりで壊れる。
♢
扉が開く。
呼ばれたのは、主だけではなかった。
私は執務室に入った。
主の後ろ、半歩。
視線を落とす。
でも耳は落とせない。
この屋敷で、私の耳だけが“逃げられない”。
アイン様が、先に口を開いた。
「……昨日の件だ」
主は頷いた。
頷きの角度が整っている。
整っていることが、怖い。
整っているのは平気だからではなく、平気なふりを“習慣”にしたからだ。
「お前の指揮は正しかった。村の被害は抑えられた。……だが」
だが、の間に空気が沈む。
私はその沈みを、身体で受ける。
落ちた空気は、私の肺に溜まって息を重くする。
ミレイユ様が口を挟む。
「あなた、昨夜……帰ってきたとき、どんな顔をしていたか覚えてる?」
主は少しだけ目を細めた。
「……覚えてない」
覚えてない。
その言葉が、私の腹の底を冷やす。
帰還の顔を記録しない人間は、帰還を「生きて帰った証」にしない。
ただの作業として終わらせる。
「あなたはね, 笑ってもいなかった。泣いてもいなかった。……そこにいたのは『終わらせた人』じゃない。『戻ってきた人』でもない。——ただの空っぽよ」
空っぽ。
その語に、私の視界が一瞬だけ滲む。
滲ませてはいけない。
侍女は泣かない。揺れない。
けれど心は、既に揺れている。
揺れを外へ出さないことだけが、私の“唯一の強さ”になってしまった。
アイン様が机を叩く。
「ふざけるな!!!!!」
私は反射で、主の背中に意識を集中させた。
主が揺れないことを確認してしまう。
確認できてしまうから、逆に怖い。
「お前は、戦場を『居場所』にしている!!!」
主が口を開く。
「居場所じゃない」
「じゃあ何だ!!」
「正義か?使命か?守るためか?!!!」
主は淡々と答える。
「被害が減るから。僕が出た方が早い」
正しさが、ここに落ちる。
正しさは重い。
重いのに、誰も持ち上げられない。
だからそのまま床に置かれて、踏まれて、欠けていく。
ミレイユ様が立ち上がる。
「その正しさのせいで, あなたはどんどん——」
言葉が詰まる。
詰まったところに、母の本音が見える。
私はそれを見てしまう。
見る側の人間だから。
「……あなたは, 戻れなくなる」
主の瞳が揺れた気がした。
揺れたのに戻る。
「いい子」に戻る。
戻してしまう癖が、私の胸を抉る。
「戻らなくていい」
その言葉で、私は胸の奥が暗くなる。
戻らなくていい。
それは「ここに価値はない」と同義ではない。
でも私は、そう聞こえてしまう。
私はここにいるのに、主が“ここ”を戻る場所にしないから。
アイン様が、さらに踏み込む。
「何を言ってる!!」
主の声が落ちる。
「リィナはいない」
――刺さった。
音ではなく、体温が落ちた。
胸の中にあったものが、一つだけ黙って沈んだ。
嫉妬は、してはいけない。
侍女の感情として最も醜い。
でも私は、醜いものを持ってしまった。
リィナ様を「いない」と言えるのは、
主の中にまだ、その名が“世界”として残っているからだ。
残っているから、言える。
言えるほど、確かだったから、失った。
私は――そこにいない。
主の世界の中心にいない。
主が失うほど、抱いたことのある場所にいない。
いないのに、私は隣にいる。
隣にいるのに、最も遠い。
その距離が、息を苦しくした。
「僕の世界から消えた。……だから, 戻る場所がない」
“戻る場所がない”。
屋敷がある。
両親がいる。
私がいる。
整える手がある。
それでも、戻る場所がない。
私は、役割の意味を失いかけた。
整えても、帰る場所にならないなら、整えるとは何だ。
侍女の努力は、ただ“形”を保つだけで、主を救えない。
アイン様の声が落ちる。
「だから………戦場か」
「そうだね」
主は言い切った。
言い切ってしまえるほど、その結論は固い。
「考えなくていい時間が, そこにある」
その言葉が落ちた瞬間、私の指先が冷たくなった。
考えなくていい時間。
それはつまり、この屋敷では考えてしまうということ。
考えてしまうから苦しい。
苦しいから、戦場へ行く。
――なら、私は。
主にとって私は、苦しみを思い出させる存在なのだろうか。
整えるたび、主を現実に戻してしまう存在なのだろうか。
アイン様が叫ぶ。
「考えろ! 逃げるな!」
主は崩れない。
崩れないまま、返す。
「逃げてない」
「逃げてるなら, ここにいない」
その理屈が、余計に残酷だった。
逃げていない。
逃げないまま、壊れていく。
それがいちばん止められない。
主が静かに宣言する。
「これからも, 僕が最前線で戦います」
ミレイユ様が声を上げる。
「やめなさい!」
反射だった。
母の本能だった。
主は初めて、少しだけ眉を寄せた。
困った顔。怒った顔ではない。
母が取り乱したことに困っている顔。
「……被害が減る」
「あなたが減るのよ!」
その一言で、私は胸の奥が裂けそうになった。
“あなたが減る”。
母親が言う言葉だ。
侍女は言えない言葉だ。
言えないから、私はただ見てしまう。
見てしまうことが、私の罪になる。
アイン様が、低く言った。
「エルディオ。お前は——」
続けられない。
続けたら、多分「生きろ」になる。
でも「生きろ」は命令ではなく、祈りだ。
祈りは叶わないことがあると、皆知っている。
ミレイユ様が、震える声で言う。
「私たちに見せない顔があるでしょう。あなたは, いつも……平気なふりをする。ちゃんとしたふりをする。でも」
「……最初から, 終わってるみたいな目をする時がある」
私は息を吸うのを忘れた。
その言葉は、私が夜に見てしまった目と同じだからだ。
終わっている目。
“戻らなくていい”と言える目。
“考えなくていい”を選べる目。
主の瞳が暗くなる。
でも、崩れない。
崩れないまま言う。
「それが, 僕だから」
その一言で、私は内部だけが折れた。
音は出ない。
顔も崩れない。
侍女だから。
アイン様は、椅子に深く座り直した。
敗北の姿勢だった。剣聖の負けではない。父の負けだ。
「……俺には, もうお前を止められるような言葉は…ない」
主は頷いた。
礼も言わない。感謝もしない。
ただ、決まった手順を終わらせるように、部屋を出ていった。
私は後ろについた。
距離は半歩。
半歩が、永遠の距離になる。
扉が閉まる。
閉まった瞬間、背後の空気が崩れる。
「……私たちが」
「……追い詰めた」
部屋の中には、報告書の束だけが残った。
戦況は安定。被害は減少。
その紙の上に、親の後悔が落ちていく。
私は振り返らなかった。
振り返れば、私の顔が崩れる。
崩れた顔を主に見せれば、主は困った顔をする。
その“困った顔”が、私を救うより先に壊すと分かっている。
♢
その夜。
屋敷は静かだった。
私は自室の扉を閉め、鍵をかけた。
鍵をかけるのは、守るためではない。
壊れるための許可だ。
ここなら壊れていい、と自分に言い聞かせるための儀式。
灯りを落とす。
闇が濃くなる。
濃くなった闇の中で、私は息の仕方を忘れる。
床に座り込んだ。
膝を抱えた。
口元を押さえた。
押さえたのに、嗚咽が漏れた。
――みっともない。
みっともないのに止まらない。
耳の奥で、あの言葉が繰り返される。
「リィナはいない」
私はその一言を、何度も反芻する。
反芻するたび、嫉妬が増える。
増えるたび、自己嫌悪が増える。
私は侍女だ。
主の過去に嫉妬する資格はない。
けれど感情は、資格を見ない。
私が欲しかったのは、主の世界の中心じゃない。
そんな場所は望んではいけない。
でもせめて、主が“戻る場所”だと思う場所に、私も端っこでいいから存在したかった。
存在したかったのに、主は言った。
「戻る場所がない」
整えても、整えても、帰る場所にならない。
私は“朝のふり”を作るだけの人形になる。
「考えなくていい時間が, そこにある」
屋敷は、考える場所。
考えるから苦しい。
苦しいから、主は戦場へ行く。
――もし屋敷が苦しみの引き金なら、私は何のために整えている。
「それが, 僕だから」
変わらない。
戻らない。
救われない。
そう言われた気がして、私は息ができなくなる。
涙が溢れた。
声が出た。
抑えようとして、逆に呼吸が壊れた。
肩が跳ね、喉が痛み、息が乱れる。
♢
涙が落ち着いたあとも、眠気は来なかった。
来るはずがない。
眠るには、考えすぎていた。
私は立ち上がった。
立ち上がってから、しばらく動けなかった。
足が、どこへ行きたがっているのか分かっていたからだ。
行ってはいけない。
侍女として、行ってはいけない場所がある。
今夜、その境界がやけに薄く感じられた。
廊下に出る。
足音を殺す必要はない。
この屋敷で、夜に私の足音を気にする者はいない。
灯りは落とされている。
月明かりだけが、床の模様を淡く浮かび上がらせていた。
歩くたびに、冷えた石が足裏に伝わる。
主の部屋の前で、私は止まった。
――止まってしまった。
扉は閉まっている。
当たり前だ。
閉まっていなければ、もっと怖かった。
私は、扉に手を伸ばしかけて、止めた。
触れてしまえば、確認してしまう。
生きているかどうかを。
息をしているかどうかを。
――それを、私は欲している。
その事実が、胸を締めつけた。
耳を澄ます。
何も聞こえない。
寝息も、衣擦れも、魔力の揺らぎもない。
静かだ。
あまりにも静かだ。
(……お願い)
声にはしない。
声にすれば、ここで終わってしまう。
侍女としての私が。
私は、扉に額を寄せそうになって、寸前で踏みとどまった。
額が、ほんの数センチ浮いたまま、動かない。
扉の向こうで、主は眠っているのだろうか。
それとも、起きているのだろうか。
それとも――考えることすらしていないのだろうか。
「考えなくていい時間が, そこにある」
その言葉が、耳の奥で再生される。
戦場だけが、考えなくていい場所。
この屋敷は、考えてしまう場所。
なら私は、
主にとって“考えてしまう存在”なのではないか。
私がいるから、思い出す。
私が整えるから、戻ってしまう。
戻ってしまうから、苦しくなる。
だったら――
私は、いない方がいいのではないか。
そんな考えが浮かんだ瞬間、
胸の奥が、はっきりと痛んだ。
それでも私は、扉を叩かなかった。
名を呼ばなかった。
呼びたい気持ちを、喉の奥に押し込んだ。
もし呼んでしまったら、
主が振り返ったら、
あの困った顔をされたら。
私は、全部を言ってしまう。
行かないで、
生きて、
戻ってきて、
それでもいいから――
私を、置いていかないで。
それは、言ってはいけない。
言えば、私は主の世界を壊す。
主が壊したくないものを、
私が壊してしまう。
だから私は、ただ立っていた。
扉の前で、何もせずに。
観測者として。
選ばれない側として。
♢
――その瞬間。
扉の向こうの空気が、ほんのわずかに“揺れた”気がした。
音ではない。
足音でも、衣擦れでもない。
ただ、いる、という気配の角度が変わる。
私は息を止めた。
心臓だけが早くなる。
(気づいた?)
気づかれたら終わる。
気づかれたい気持ちもある。
その矛盾が、喉を焼いた。
けれど扉は開かない。
名も呼ばれない。
何も起きない。
静けさだけが、元の形に戻る。
その“戻り方”が、
まるで最初から何もなかったみたいで、
私は膝が震えた。
しばらくして、私は踵を返した。
背を向けた瞬間、
なぜか、主の部屋が遠くなった気がした。
距離は変わっていない。
変わったのは、私の方だ。
自室に戻る。
扉を閉め、鍵をかける。
鍵の音が、やけに大きく響いた。
守るための音ではない。
閉じ込めるための音だ。
私は床に座り込み、
背中を扉に預けた。
涙は、もう出なかった。
代わりに、胸の奥が冷えていく。
――夜は、代わりに進む。
主の代わりに。
私の代わりに。
誰も止めないまま。
♢
扉の外に、薄い揺らぎがあった。
風ではない。
屋敷の夜は、風の揺らぎと人の揺らぎが違う。
誰かが立っている。
呼吸の速度と、迷いの間。
その輪郭だけが分かる。
僕は目を閉じたまま、数を数えるみたいにそれを捉えた。
誰か、ではなく、情報として。
扉を開けるべき理由はない。
名前を呼ぶべき理由もない。
呼べば、相手の世界が崩れる。
崩れた世界を、僕は受け止められない。
受け止められないのに、拒まない。
拒まないことが、いちばん残酷だと知っている。
だから僕は、何もしない。
揺らぎが消えるまで待つ。
やがて気配は遠ざかった。
遠ざかった事実だけが残る。
それを、僕は“処理”した。
記録しない。
意味を与えない。
与えれば、そこが居場所になってしまうから。
そしてまた、静けさに戻る。
音のない夜へ。
考えなくていい時間へ。
♢
夜は代わりに進む。
主の代わりに。
私の代わりに。
誰も止めないまま。
「正しい」が積み重なるほど、救いが減っていく——そんな話になりました。
エルディオの言葉は一つも間違っていないのに、正しさのせいで家が“帰る場所”じゃなくなっていく。そこでメイリスだけが、止められない側として全部を見てしまう。今回の主題は、強さでも悲劇でもなく、観測者の孤独です。
もしよければ、感想・レビュー・評価をひとことでも貰えると嬉しいです。
「刺さった台詞」「一番しんどかった場面」「メイリスの嫉妬の温度感」あたり、どれか一つだけでも大歓迎です。




