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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
メイリス編

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41/89

41.夜は代わりに進む-3

 まだ三年という時間が、ただの「これから」だった頃。

 屋敷はまだ、“いつか”という言葉を信じていた。

 補給が整えば。戦況が落ち着けば。魔族の波が収まれば。

 そうすれば、きっと――。


 でも私は、朝と夜の間に“いつか”が挟まらないことを知っていた。

 主は朝、当たり前のように消える。

 そして夜、何事もなかったように戻る。


 戻る。

 ――戻る、という言葉は本当は“家に帰る”のための言葉だ。

 けれど主の帰還は、ただの「移動」になりつつあった。

 空気が裏返り、白み、次の瞬間にはそこにいる。

 そこにいるだけで、帰ってきたとは限らない。


 私は侍女として、整え続けた。

 髪。襟。袖口。体温。声の高さ。目線。

 主が戦場に持っていったものを、屋敷の形に戻す。


 けれど夜になると、整えたはずのものが全部ほどける。

 ほどけるのは、主の身なりではない。

 私の中の“耐えるための順序”だ。


 観測者は、止められない。

 止められないから、記録する。

 記録しているうちに、感情だけが居場所を失っていく。


 ♢


 後日の夕刻。

 廊下の窓から、薄い光が斜めに差していた。

 夕方の光は、優しい顔をして残酷だ。今日という一日が終わる、と告げてくる。


 その光の下で、クリストフ様に呼び止められた。


 白髪を整え、モノクルの奥の眼差しはいつも穏やかで、そして外さない。

 屋敷の隅々まで見通し、戦闘から政務まで寸分の狂いなく支える人。

 この人だけは、何も言わなくても、こちらの変化を拾ってしまう。

 モノクル越しの目は穏やかで、穏やかなまま逸らさない。

 屋敷の秩序そのものみたいな人。戦闘から政務まで、余白を作らない人。

 だから、私の“余白”が増えていることも見逃さない。


「メイリス。少し、お耳を」


 私は背筋を伸ばした。

 返事より先に、肩が固くなる。

 この人の声は、慰めの形を取らない。事実を置く声だ。


「前線からの報告書が揃いました」


 報告書。

 紙束。数字。戦果。被害。

 それらが揃うほど、戦は“予定”になる。

 予定になった戦は、止まらない。


 クリストフ様は続けた。


「戦況は、安定しております」


 安定。

 その言葉が、私の喉の奥に沈む。

 安定は、本来なら喜ぶべき言葉なのに。

 主にとっての安定は、“出る理由が揃った”と同義になってしまう。


 被害は減った。領民の避難は早くなった。砦の補給線も、以前より切れにくくなった。

 魔族の動きは確かに活発化しているはずなのに、辺境伯領は踏みとどまっている。


 理由は分かっている。

 分かっているから、目を逸らせない。


 報告書には、同じ言葉が何度も出てくる。


 《エルディオ様の先行》

 《エルディオ様の魔法支援》

 《エルディオ様の突入》

 《エルディオ様の掃討》


 勝っている。

 勝っているのに、報告書の余白が震えている。

 兵の手が震えた跡。

 急いで書き足したような、乱れた筆圧。

 “勝った”という結論の横に、言葉にできない恐怖が滲んでいる。


 ――恐れている。


 敵を恐れる目ではない。

 戦場の理を超えたものを見た者の目だ。

 理解できない力を前にした、祈りに近い恐怖。


 クリストフ様は、その恐怖を「整理して」私に渡した。

 整理しても、消えないのに。


 私は口を開こうとして、やめた。

 侍女が「怖い」と言うのは、弱音ではなく禁句だ。

 主を怖がることは、主を否定することに近い。

 私は主を否定できない。


 クリストフ様は、少し間を置いて言った。


「近く、旦那様達がお呼びになるでしょう」


 “近く”。

 明日と言わない。明朝と言わない。

 決定がまだないのではない。

 決定が、もう“止められない場所”で動いているからだ。


「その場に、あなたが必要になるかもしれません」


 必要。

 私が必要なのではない。

 主の背後に“屋敷”がいるという形が必要なのだ。

 私の役割は、形になる。形でしか支えられない。


「承知いたしました」


 声が整ってしまう。

 整うほど、心が遠くなる。

 私は“観測者”として完成していく。


 ♢


 夜。

 屋敷は静かだった。


 静けさが、私の耳を研ぐ。

 研がれた耳は、何もない音を拾ってしまう。

 主の部屋から物音がしない。

 寝返りの音も、咳も、足音もない。


 ――生きている証拠が欲しい。


 そんな願いが浮かんだ瞬間、私は自分を嫌悪した。

 主の命を、私の安心の材料にしてはいけない。

 でも、私はもう材料が欲しくなっている。

 “ここにいる”という事実だけでは足りない。

 呼吸が欲しい。音が欲しい。体温の揺れが欲しい。


 観測者の孤独は、こういう形で増殖する。

 自分の感情が、主の現実より先に暴れる。


 ♢


 翌朝。

 私は執務室の外、廊下に立たされた。

 呼ばれたらすぐ入れる距離。けれど勝手に入ってはいけない距離。

 私は存在していて、存在してはいけない。


 扉の向こうから声が聞こえる。

 中の様子は見えない。

 だから私は、声の温度と沈黙の長さだけで受け取る。

 受け取ってしまう。受け取るためにここにいる。


「……また、出たの?」


 問いかけの形をしているが、答えは分かっている声だった。

 その声に、母の疲れが混じっているのが分かった。

 分かってしまうから、苦しい。


「出たよ…。そして戻った。血を落とした。外套を掛けた。……そして、もう出ている」


 繰り返し。

 帰還が儀式になり、儀式が作業になり、作業が日常になる。

 日常になった瞬間、怖さは“背景”になる。

 背景になった怖さは、誰も止めない。


「私たちが呼べば……来るわ」


「来る…だろうな」


「止めれば……止まる?」


 止めれば。

 止める。

 止めるという言葉は、誰かがまだ主を「戻せる」と信じている証拠だ。

 その信じ方が、私は羨ましい。

 私はもう、止められないと知ってしまっているから。


「……止まるだろう。表面上は」


 表面上。

 その言葉が、私の胸骨を押す。

 表面を整えるのは、侍女の仕事だ。

 表面上しか止まらないと言われるのは、侍女の敗北だ。


「表面上じゃなくて。あの子を——」


 言葉が飲み込まれる。

 飲み込んだ呼吸の音だけが、扉越しに伝わった気がした。

 救いたい。

 でも“救う”は、親が言うと傲慢に聞こえる。

 だから飲み込む。

 飲み込んだ分だけ、喉が痛む。


「……俺たちは、あいつを『手のかからない子』だと思っていた」


 その一言で、私の視界が少し白くなる。

 手のかからない子。

 それは親にとっての安堵の言葉だ。

 そして子にとっては、“手をかけてもらえない”の言い換えでもある。


「魔法の才能も、剣の才能も、あった。覚えは早い。飲み込みが速い。判断も正確だ。……だから、任せた」


 任せた。

 任せた、は美しい言葉だ。

 でも戦場での任せたは、背負わせたに変わる。

 私は主の背中を思い出す。

 いつも真っ直ぐで、いつも静かで、いつも誰にも寄りかからない背中。


「……あの子は、私たちの前ではいつも、いい子だった」


 いい子。

 いい子ほど、壊れるときは音がしない。

 音がしないまま、どこかが欠けていく。

 欠けたものを拾うのは、誰だ。

 拾えるのは、誰だ。


「いい子、だったんじゃない」


 掠れた気配。

 父の声が、剣聖の声よりも弱く聞こえた。

 弱さが出てしまう場は、戦場ではなく家の中なのだ。


「……あいつは、最初から——」


 言葉が途切れる。

 途切れた先にある真実は、多分、言った瞬間に戻れなくなる。


「……私ね。気づいてしまったの」


「何に」


「エルの魔法が、冷たくなっていくの。術式が精密になって、無駄がなくなって……綺麗になる。綺麗になるほど、感情が減っていく」


 私は目を閉じた。

 綺麗になるほど、感情が減っていく。

 その言葉は、主の生活にも当てはまってしまう。

 所作は綺麗だ。声は整っている。立ち姿は崩れない。

 綺麗になるほど、何かが減っていく。


「悲しみを、魔法に混ぜないようにしてるのよ。混ぜたら壊れるって、分かってるから。だから全部を削って、削って……残ったのが、ただの『処理』」


 処理。

 その二文字が、戦場の匂いを呼び起こす。

 鉄。焦げ。血。魔力の甘い濁り。

 屋敷にあってはいけない匂いが、主の外套の裾に残っていた夜を思い出す。


「でもね。感情を削ってるんじゃないの。——最初から、執着が薄いの」


「……執着」


「生きることへの, 執着」


 生きることへの執着。

 私はその言葉を、喉の奥で転がしてしまう。

 主が生きることに執着していないのなら、私は何を願えばいい。

 生きて、と言っても届かない。

 戻って、と言っても届かない。

 届かないと分かっていて願うのが、観測者の孤独だ。


「リィナを失ったから、そうなったんじゃない。リィナを失ったことで、それが……表に出ただけ」


 リィナ様。

 その名が出た瞬間、私は身体の奥で何かを噛み砕いた気がした。

 嫉妬は醜い。

 でもこれは醜さではなく、現実だ。


 ――私はそこに入れない。


 主が“世界”と呼べる場所。

 主が“失った”と明確に言える存在。

 その中心に、私はいない。

 いないのに私は傍にいる。

 傍にいることが、ますます苦しい。


「私たちの前では、笑う。頷く。謝る。ちゃんとする。……でも、それは『生きたい』からじゃないの。『壊したくない』から」


「…壊したくない?」


「家を。立場を。周囲を。私たちを。——自分じゃないものを」


 “自分じゃないもの”。

 その言い方が、鋭い。

 主は、自分自身を勘定に入れていない。

 自分以外を壊したくないから、自分を切り捨てている。

 私は廊下で、その結論を聞かされるだけの人間だ。


「……あの夜だ」


 私は、扉の前で指先を握り込んだ。

 爪が皮膚に食い込む痛みで、自分を現実に繋ぎ止める。

 泣けば入れない。

 入れなければ、私は役割を果たせる。

 役割だけが、私をここに立たせる。


「……呼ぼう」


「今日、呼ぶ。叱る。……怒る」


「怒るの?」


「怒らないと……俺たちは『親』じゃなくなる」


「止めるためじゃない。……あいつに、『生きろ』と言うためだ」


「……言えるの?」


「言わなきゃ、終わる」


 終わる。

 その音だけが、扉の隙間から廊下に落ちた気がした。

 私は、その“終わる”を拾ってしまう。

 拾うことしかできない。

 拾って、胸に溜めて、夜にひとりで壊れる。


 ♢


 扉が開く。

 呼ばれたのは、主だけではなかった。


 私は執務室に入った。

 主の後ろ、半歩。

 視線を落とす。

 でも耳は落とせない。

 この屋敷で、私の耳だけが“逃げられない”。


 アイン様が、先に口を開いた。


「……昨日の件だ」


 主は頷いた。

 頷きの角度が整っている。

 整っていることが、怖い。

 整っているのは平気だからではなく、平気なふりを“習慣”にしたからだ。


「お前の指揮は正しかった。村の被害は抑えられた。……だが」


 だが、の間に空気が沈む。

 私はその沈みを、身体で受ける。

 落ちた空気は、私の肺に溜まって息を重くする。


 ミレイユ様が口を挟む。


「あなた、昨夜……帰ってきたとき、どんな顔をしていたか覚えてる?」


 主は少しだけ目を細めた。


「……覚えてない」


 覚えてない。

 その言葉が、私の腹の底を冷やす。

 帰還の顔を記録しない人間は、帰還を「生きて帰った証」にしない。

 ただの作業として終わらせる。


「あなたはね, 笑ってもいなかった。泣いてもいなかった。……そこにいたのは『終わらせた人』じゃない。『戻ってきた人』でもない。——ただの空っぽよ」


 空っぽ。

 その語に、私の視界が一瞬だけ滲む。

 滲ませてはいけない。

 侍女は泣かない。揺れない。

 けれど心は、既に揺れている。

 揺れを外へ出さないことだけが、私の“唯一の強さ”になってしまった。


 アイン様が机を叩く。


「ふざけるな!!!!!」


 私は反射で、主の背中に意識を集中させた。

 主が揺れないことを確認してしまう。

 確認できてしまうから、逆に怖い。


「お前は、戦場を『居場所』にしている!!!」


 主が口を開く。


「居場所じゃない」


「じゃあ何だ!!」


「正義か?使命か?守るためか?!!!」


 主は淡々と答える。


「被害が減るから。僕が出た方が早い」


 正しさが、ここに落ちる。

 正しさは重い。

 重いのに、誰も持ち上げられない。

 だからそのまま床に置かれて、踏まれて、欠けていく。


 ミレイユ様が立ち上がる。


「その正しさのせいで, あなたはどんどん——」


 言葉が詰まる。

 詰まったところに、母の本音が見える。

 私はそれを見てしまう。

 見る側の人間だから。


「……あなたは, 戻れなくなる」


 主の瞳が揺れた気がした。

 揺れたのに戻る。

「いい子」に戻る。

 戻してしまう癖が、私の胸を抉る。


「戻らなくていい」


 その言葉で、私は胸の奥が暗くなる。

 戻らなくていい。

 それは「ここに価値はない」と同義ではない。

 でも私は、そう聞こえてしまう。

 私はここにいるのに、主が“ここ”を戻る場所にしないから。


 アイン様が、さらに踏み込む。


「何を言ってる!!」


 主の声が落ちる。


「リィナはいない」


 ――刺さった。

 音ではなく、体温が落ちた。

 胸の中にあったものが、一つだけ黙って沈んだ。


 嫉妬は、してはいけない。

 侍女の感情として最も醜い。

 でも私は、醜いものを持ってしまった。


 リィナ様を「いない」と言えるのは、

 主の中にまだ、その名が“世界”として残っているからだ。

 残っているから、言える。

 言えるほど、確かだったから、失った。


 私は――そこにいない。

 主の世界の中心にいない。

 主が失うほど、抱いたことのある場所にいない。


 いないのに、私は隣にいる。

 隣にいるのに、最も遠い。


 その距離が、息を苦しくした。


「僕の世界から消えた。……だから, 戻る場所がない」


 “戻る場所がない”。

 屋敷がある。

 両親がいる。

 私がいる。

 整える手がある。

 それでも、戻る場所がない。


 私は、役割の意味を失いかけた。

 整えても、帰る場所にならないなら、整えるとは何だ。

 侍女の努力は、ただ“形”を保つだけで、主を救えない。


 アイン様の声が落ちる。


「だから………戦場か」


「そうだね」


 主は言い切った。

 言い切ってしまえるほど、その結論は固い。


「考えなくていい時間が, そこにある」


 その言葉が落ちた瞬間、私の指先が冷たくなった。

 考えなくていい時間。

 それはつまり、この屋敷では考えてしまうということ。

 考えてしまうから苦しい。

 苦しいから、戦場へ行く。


 ――なら、私は。

 主にとって私は、苦しみを思い出させる存在なのだろうか。

 整えるたび、主を現実に戻してしまう存在なのだろうか。


 アイン様が叫ぶ。


「考えろ! 逃げるな!」


 主は崩れない。

 崩れないまま、返す。


「逃げてない」


「逃げてるなら, ここにいない」


 その理屈が、余計に残酷だった。

 逃げていない。

 逃げないまま、壊れていく。

 それがいちばん止められない。


 主が静かに宣言する。


「これからも, 僕が最前線で戦います」


 ミレイユ様が声を上げる。


「やめなさい!」


 反射だった。

 母の本能だった。


 主は初めて、少しだけ眉を寄せた。

 困った顔。怒った顔ではない。

 母が取り乱したことに困っている顔。


「……被害が減る」


「あなたが減るのよ!」


 その一言で、私は胸の奥が裂けそうになった。

 “あなたが減る”。

 母親が言う言葉だ。

 侍女は言えない言葉だ。

 言えないから、私はただ見てしまう。

 見てしまうことが、私の罪になる。


 アイン様が、低く言った。


「エルディオ。お前は——」


 続けられない。

 続けたら、多分「生きろ」になる。

 でも「生きろ」は命令ではなく、祈りだ。

 祈りは叶わないことがあると、皆知っている。


 ミレイユ様が、震える声で言う。


「私たちに見せない顔があるでしょう。あなたは, いつも……平気なふりをする。ちゃんとしたふりをする。でも」


「……最初から, 終わってるみたいな目をする時がある」


 私は息を吸うのを忘れた。

 その言葉は、私が夜に見てしまった目と同じだからだ。

 終わっている目。

 “戻らなくていい”と言える目。

 “考えなくていい”を選べる目。


 主の瞳が暗くなる。

 でも、崩れない。

 崩れないまま言う。


「それが, 僕だから」


 その一言で、私は内部だけが折れた。

 音は出ない。

 顔も崩れない。

 侍女だから。


 アイン様は、椅子に深く座り直した。

 敗北の姿勢だった。剣聖の負けではない。父の負けだ。


「……俺には, もうお前を止められるような言葉は…ない」


 主は頷いた。

 礼も言わない。感謝もしない。

 ただ、決まった手順を終わらせるように、部屋を出ていった。


 私は後ろについた。

 距離は半歩。

 半歩が、永遠の距離になる。


 扉が閉まる。

 閉まった瞬間、背後の空気が崩れる。


「……私たちが」


「……追い詰めた」


 部屋の中には、報告書の束だけが残った。

 戦況は安定。被害は減少。

 その紙の上に、親の後悔が落ちていく。


 私は振り返らなかった。

 振り返れば、私の顔が崩れる。

 崩れた顔を主に見せれば、主は困った顔をする。

 その“困った顔”が、私を救うより先に壊すと分かっている。


 ♢


 その夜。

 屋敷は静かだった。


 私は自室の扉を閉め、鍵をかけた。

 鍵をかけるのは、守るためではない。

 壊れるための許可だ。

 ここなら壊れていい、と自分に言い聞かせるための儀式。


 灯りを落とす。

 闇が濃くなる。

 濃くなった闇の中で、私は息の仕方を忘れる。


 床に座り込んだ。

 膝を抱えた。

 口元を押さえた。

 押さえたのに、嗚咽が漏れた。


 ――みっともない。

 みっともないのに止まらない。


 耳の奥で、あの言葉が繰り返される。


「リィナはいない」


 私はその一言を、何度も反芻する。

 反芻するたび、嫉妬が増える。

 増えるたび、自己嫌悪が増える。

 私は侍女だ。

 主の過去に嫉妬する資格はない。

 けれど感情は、資格を見ない。


 私が欲しかったのは、主の世界の中心じゃない。

 そんな場所は望んではいけない。

 でもせめて、主が“戻る場所”だと思う場所に、私も端っこでいいから存在したかった。

 存在したかったのに、主は言った。


「戻る場所がない」


 整えても、整えても、帰る場所にならない。

 私は“朝のふり”を作るだけの人形になる。


「考えなくていい時間が, そこにある」


 屋敷は、考える場所。

 考えるから苦しい。

 苦しいから、主は戦場へ行く。

 ――もし屋敷が苦しみの引き金なら、私は何のために整えている。


「それが, 僕だから」


 変わらない。

 戻らない。

 救われない。

 そう言われた気がして、私は息ができなくなる。


 涙が溢れた。

 声が出た。

 抑えようとして、逆に呼吸が壊れた。

 肩が跳ね、喉が痛み、息が乱れる。


 ♢


 涙が落ち着いたあとも、眠気は来なかった。

 来るはずがない。

 眠るには、考えすぎていた。


 私は立ち上がった。

 立ち上がってから、しばらく動けなかった。

 足が、どこへ行きたがっているのか分かっていたからだ。


 行ってはいけない。

 侍女として、行ってはいけない場所がある。

 今夜、その境界がやけに薄く感じられた。


 廊下に出る。

 足音を殺す必要はない。

 この屋敷で、夜に私の足音を気にする者はいない。


 灯りは落とされている。

 月明かりだけが、床の模様を淡く浮かび上がらせていた。

 歩くたびに、冷えた石が足裏に伝わる。


 主の部屋の前で、私は止まった。


 ――止まってしまった。


 扉は閉まっている。

 当たり前だ。

 閉まっていなければ、もっと怖かった。


 私は、扉に手を伸ばしかけて、止めた。

 触れてしまえば、確認してしまう。

 生きているかどうかを。

 息をしているかどうかを。


 ――それを、私は欲している。


 その事実が、胸を締めつけた。


 耳を澄ます。



 何も聞こえない。

 寝息も、衣擦れも、魔力の揺らぎもない。


 静かだ。

 あまりにも静かだ。


 (……お願い)


 声にはしない。

 声にすれば、ここで終わってしまう。

 侍女としての私が。


 私は、扉に額を寄せそうになって、寸前で踏みとどまった。

 額が、ほんの数センチ浮いたまま、動かない。


 扉の向こうで、主は眠っているのだろうか。

 それとも、起きているのだろうか。

 それとも――考えることすらしていないのだろうか。


「考えなくていい時間が, そこにある」


 その言葉が、耳の奥で再生される。

 戦場だけが、考えなくていい場所。

 この屋敷は、考えてしまう場所。


 なら私は、

 主にとって“考えてしまう存在”なのではないか。


 私がいるから、思い出す。

 私が整えるから、戻ってしまう。

 戻ってしまうから、苦しくなる。


 だったら――

 私は、いない方がいいのではないか。


 そんな考えが浮かんだ瞬間、

 胸の奥が、はっきりと痛んだ。


 それでも私は、扉を叩かなかった。

 名を呼ばなかった。

 呼びたい気持ちを、喉の奥に押し込んだ。


 もし呼んでしまったら、

 主が振り返ったら、

 あの困った顔をされたら。


 私は、全部を言ってしまう。


 行かないで、

 生きて、

 戻ってきて、

 それでもいいから――

 私を、置いていかないで。


 それは、言ってはいけない。

 言えば、私は主の世界を壊す。


 主が壊したくないものを、

 私が壊してしまう。


 だから私は、ただ立っていた。

 扉の前で、何もせずに。


 観測者として。

 選ばれない側として。


 ♢


 ――その瞬間。

 扉の向こうの空気が、ほんのわずかに“揺れた”気がした。

 音ではない。

 足音でも、衣擦れでもない。

 ただ、いる、という気配の角度が変わる。


 私は息を止めた。

 心臓だけが早くなる。


 (気づいた?)


 気づかれたら終わる。

 気づかれたい気持ちもある。

 その矛盾が、喉を焼いた。


 けれど扉は開かない。

 名も呼ばれない。

 何も起きない。


 静けさだけが、元の形に戻る。


 その“戻り方”が、

 まるで最初から何もなかったみたいで、

 私は膝が震えた。


 しばらくして、私は踵を返した。

 背を向けた瞬間、

 なぜか、主の部屋が遠くなった気がした。


 距離は変わっていない。

 変わったのは、私の方だ。


 自室に戻る。

 扉を閉め、鍵をかける。


 鍵の音が、やけに大きく響いた。

 守るための音ではない。

 閉じ込めるための音だ。


 私は床に座り込み、

 背中を扉に預けた。


 涙は、もう出なかった。

 代わりに、胸の奥が冷えていく。


 ――夜は、代わりに進む。


 主の代わりに。

 私の代わりに。


 誰も止めないまま。


 ♢


 扉の外に、薄い揺らぎがあった。

 風ではない。

 屋敷の夜は、風の揺らぎと人の揺らぎが違う。


 誰かが立っている。

 呼吸の速度と、迷いの間。

 その輪郭だけが分かる。


 僕は目を閉じたまま、数を数えるみたいにそれを捉えた。

 誰か、ではなく、情報として。


 扉を開けるべき理由はない。

 名前を呼ぶべき理由もない。

 呼べば、相手の世界が崩れる。


 崩れた世界を、僕は受け止められない。

 受け止められないのに、拒まない。

 拒まないことが、いちばん残酷だと知っている。


 だから僕は、何もしない。

 揺らぎが消えるまで待つ。


 やがて気配は遠ざかった。

 遠ざかった事実だけが残る。


 それを、僕は“処理”した。

 記録しない。

 意味を与えない。

 与えれば、そこが居場所になってしまうから。


 そしてまた、静けさに戻る。

 音のない夜へ。

 考えなくていい時間へ。


 ♢


 夜は代わりに進む。

 主の代わりに。

 私の代わりに。

 誰も止めないまま。


「正しい」が積み重なるほど、救いが減っていく——そんな話になりました。

エルディオの言葉は一つも間違っていないのに、正しさのせいで家が“帰る場所”じゃなくなっていく。そこでメイリスだけが、止められない側として全部を見てしまう。今回の主題は、強さでも悲劇でもなく、観測者の孤独です。


もしよければ、感想・レビュー・評価をひとことでも貰えると嬉しいです。

「刺さった台詞」「一番しんどかった場面」「メイリスの嫉妬の温度感」あたり、どれか一つだけでも大歓迎です。

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