40.夜は代わりに進む-2
翌日から、主は戦場へ向かうようになった。
それは「決まった」というより、「決まってしまった」という方が近い。
あの執務室で交わされた言葉が、誰の中でも結論になりきらないまま、時間だけが先に歩き出した。
屋敷は、朝を迎える。
朝は、いつも通りに始まる。
鐘の音が鳴る前に、廊下の空気が動き、厨房が湯気を立て、灯りが点り、使用人たちがそれぞれの持ち場へ散っていく。
世界が「機能」する音が、当たり前のように重なる。
その当たり前の中に、主もいる。
エル様は早い。
起床も、身支度も、言葉も、すべてが無駄なく整っている。
――初めて戦場に立った人間の、翌朝とは思えない。
顔色は変わらない。
目の下に影もない。
手の震えもない。
食事も必要な量だけを口に運び、手順よく終える。
それが「強い」と呼ばれる理由だと分かる。
そして、それが「強さ」ではないことも、私は知っている。
強いのではない。
拒んでいないだけだ。
生きることも。
死ぬことも。
戻る場所も。
全部を同じ重さで扱っている人間は、どこにでも立ててしまう。
戦場にも、食卓にも、同じ顔で。
私は、侍女として主の背後に立ち、必要な言葉だけを口にする。
「本日の外套はこちらを」
「手袋は、こちらでよろしいでしょうか」
「朝の報告書です」
声は平常通りに出る。
口角も、ほんの少し上げられる。
目線の高さも、姿勢も、いつも通りだ。
いつも通りに、できてしまう。
――それが怖い。
昨夜、あんなに泣いたことも。
息の仕方が分からないほど苦しくなったことも。
胸の奥を爪で引っ掻かれたような痛みも。
すべてを、制服の下へ押し込めて、私は立っていられる。
屋敷は、私が壊れても回る。
でも、私は壊れてはいけない。
壊れるのは主だけで十分だと、どこかで思ってしまっている自分がいる。
その思考が、もっと怖い。
♢
主は朝早く、屋敷を出ていく。
門前の兵は、最初の数日こそ狼狽した。
「なぜ当主が」「危険です」「お止めください」
そんな言葉が喉元まで上がり、結局は飲み込まれる。
止められない。
止めていい言葉を、誰も持っていない。
主は、外套の襟を正して、門を越える。
急がない。
迷わない。
振り返らない。
それは決意の歩き方ではない。
「行く」ことが当たり前だと、すでに体が理解している歩き方だ。
私は門の内側に立ち、頭を下げる。
「……いってらっしゃいませ」
声が、揺れない。
揺れないことが、胸を刺す。
主が戦場へ向かうたびに、私は「いってらっしゃいませ」と言える。
言えてしまう。
それは侍女として正しい。
でも――その言葉は、祈りになっていない。
祈りにした瞬間、私は侍女ではなくなる。
ただの女になる。
だから、私は祈れない。
祈りたいのに。
♢
日が暮れるまで、屋敷は機能する。
戦況の報告が届き、執事が整理し、必要な分だけが屋敷の中へ流れ込む。
廊下の角で小声が交わされ、厨房では噂がささやかれ、誰もが同じ結論で落ち着こうとする。
「エル様が出てくださるなら安心だ」
「被害が減る」
「さすがは……」
“さすが”という言葉が、私は嫌いになった。
その言葉は便利だ。
「理解できないこと」を「称賛」に置き換えられる。
「怖い」を「頼もしい」に変換できる。
理解の放棄だ。
主の異常を、屋敷が見ないふりをするための、最もやさしい呪文。
それでも屋敷は、そうやって呼吸を続ける。
誰も壊れたままでは生きられない。
だから、壊れたものに名前をつけずに済ませる。
私は、その空気の中で仕事を続ける。
“侍女”として。
“観測者”として。
♢
夜。
屋敷が静まるころ、私は玄関の灯りの下に立つ。
今日も、主は戻ってくる。
戻ってくると、どこかで決めている。
戻ってこなかったら、私は――
その先のことを考えないようにしている。
考えた瞬間、崩れるからだ。
玄関の灯りは、温かい。
けれど、それは誰かを迎える温かさではなく、機能としての灯りだ。
“帰ってくる前提”で置かれている灯り。
その前提が、私を支える。
同時に、私を傷つける。
私は耳を澄ませる。
足音。
扉の軋み。
外套が擦れる音。
――何か、何でもいい。
「生きている証拠」が欲しい。
その欲望に気づいてしまったとき、胸の奥が凍った。
私は、いつからこんなふうになったのだろう。
いつから、音ひとつに縋るようになったのだろう。
返事が欲しいのではない。
抱きしめたいのでもない。
ただ、生きていると確かめたい。
それは、愛だろうか。
それとも、恐怖だろうか。
どちらでもあるのが、いちばん残酷だった。
♢
転移の気配は、音がしない。
空気が一瞬だけ薄くなり、夜気の流れが逆になる。
肌が先に気づく。
そして次の瞬間、主が中庭に立っている。
何事もなかったように。
泥もない。
血もない。
息の乱れもない。
戦場の熱と煙は、この屋敷には存在しないものとして処理される。
けれど、匂いだけが残る。
鉄。
焦げた木。
血と魔力が混ざった、甘く濁った臭気。
それは私の鼻の奥にこびりついて、取れなくなる。
「……お帰りなさいませ」
私は言う。
言える。
言えてしまう。
「ただいま」
主は短く答える。
それだけで、会話は終わる。
褒めない。
責めない。
聞かない。
私は侍女として、外套を預かり、部屋へ案内し、必要なものだけを整える。
主は淡々と受け取り、淡々と礼を言い、淡々と部屋へ入る。
扉が閉まる。
――そこで、音が途切れる。
怖いのは、そこからだ。
部屋の中で主が何をしているのか、分からない。
物音がしない。
本を開く音も、椅子を引く音も、寝台の軋みもない。
呼吸の気配だけが、遠すぎて曖昧になる。
私の耳は、馬鹿みたいに廊下に張りついてしまう。
聞いてはいけない。
聞くべきではない。
侍女として、不健全だ。
分かっている。
分かっているのに――
私は、音を探す。
生きている証拠が欲しい。
その欲望が、私を削る。
今日も無事に戻った。
なのに私は安堵できない。
安堵した瞬間、「明日も当たり前に行く」ことが確定してしまうからだ。
安堵は、次の夜を呼ぶ。
夜は代わりに進む。
主の代わりに。
私の代わりに。
誰の許可も取らずに。
♢
戦果の報告は、さらに増えていく。
村を救った。
砦の被害を抑えた。
魔族の群れを処理した。
そのどれもが「正しい」。
そのどれもが「必要」。
主がそこに立つことは、確かに被害を減らす。
屋敷は、その事実に縋る。
「エル様のおかげで」
「さすが」
「強い」
その言葉が積み重なるほど、私は薄くなっていく気がした。
主が称賛されるほど、私は怖くなる。
“これでいい”と、世界が言い始めるからだ。
主が壊れていく速度よりも、世界が慣れていく速度のほうが速い。
そのことが、息苦しい。
そして、私は気づく。
自分の体が、少しずつ軽くなっていることに。
食事の味が薄い。
湯の温度を感じにくい。
鏡の中の頬が、ほんの少し削れている。
でも誰も気づかない。
気づく余裕がない。
気づいてしまうと、屋敷が止まるから。
私は笑う。
私は動く。
私は整える。
――そうしているうちに、私はいつの間にか、「疲れていないふり」が上手くなった。
その上手さが、私を追い詰める。
♢
最初に気づいたのは、執事のクリストフだった。
六十を越えた男。
白髪は丁寧に撫でつけられ、背筋は伸び、仕立ての良い服が彼の品位を崩さない。
片目にはモノクル眼鏡。
声は静かで、言葉は過不足なく、どんな報告も感情を混ぜずに整理できる人。
戦闘も、政務も、交渉も、屋敷の采配も。
すべてを「正しい順序」に並べられる。
だから――見抜かれてしまう。
ある夜、私は廊下で彼とすれ違った。
手には書類の束。
彼は歩調を緩め、立ち止まり、私にだけ聞こえる声で言った。
「メイリス。少し疲れているようですね」
息が止まる。
私は微笑んだ。
癖のように。
「ご心配には及びません。いつも通りでございます」
言えた。
完璧に。
なのに、彼の目は逸れない。
モノクル越しの視線が、私の顔の“表面”ではなく、“裏”を見ている。
「……いつも通り、ですか」
その言葉が、優しくて、残酷だった。
私は背筋を正す。
侍女としての姿勢に戻る。
戻れる。
戻れ――るはずだった。
クリストフは、ほんの少しだけ距離を詰めた。
声を低くするでもなく、脅すでもなく、ただ事実として言葉を置く。
「食堂で、あなたはパンを半分残していました
午後の茶も、口をつけていない
階段で、ほんの一瞬、手すりに触れましたね。……普段のあなたは触れない」
心臓が、痛いほど跳ねる。
見られていた。
数えられていた。
私が「いつも通り」を演じている間に、彼は“いつも通りではない部分”を拾い集めていた。
侍女の私よりも、侍女の私を観測していた。
「……それは」
言い訳が浮かぶ。
いくらでも浮かぶ。
寝不足です。
書類が多かっただけです。
季節の変わり目です。
気のせいでございます。
けれど、どれも口にできない。
彼は、言い訳を求めていない。
彼は確認している。
「メイリス、あなたは……」
そこで彼は一度、言葉を切った。
丁寧に切った。
まるで、刃物で布を切るみたいに。
私は、その間が怖くてたまらなかった。
「……あなたは、」
喉が鳴る。
息が、うまく吸えない。
お願いだから言わないで、と心の中で叫ぶ。
でも同時に、言ってほしいとも思ってしまう。
誰かに名前をつけてほしい。
この痛みに。
この孤独に。
この夜に。
クリストフは、静かに言った。
「エルディオ様を、愛しているのですね。ひとりの……女性として」
世界が止まった。
足元の石畳が遠のく。
廊下の灯りが滲む。
私は、笑おうとした。
笑って誤魔化そうとした。
でも、笑えない。
唇が震えて、口角が上がらない。
「……違、います」
出た声は、自分でも驚くほど掠れていた。
否定の形をしているのに、否定になっていない。
クリストフは何も言わない。
追い詰めもしない。
ただ、待つ。
待つことができる男だ。
時間の重さを知っている男だ。
その沈黙に、私は負けた。
何かが、ぷつりと切れた。
堰が切れた、という表現は軽い。
私の中で「保っていたもの」が、音もなく崩れ落ちた。
「……っ」
息が詰まる。
涙が先に落ちる。
私は慌てて口元を押さえた。
声を殺そうとした。
――でも、殺せない。
嗚咽が漏れる。
胸が震える。
肩が跳ねる。
廊下に、みっともない音が落ちる。
クリストフの前で。
執事の前で。
上司の前で。
そんなことを考える余裕すら、もうなかった。
「あなたに……っ」
声が割れる。
「あなたに何がわかるんですか、クリストフ様……!」
敬語が崩れた。
自分でも分かった。
崩れたのに、止まらない。
「わかったような顔で……っ
そんなふうに……言わないで……!」
私は壁に手をついた。
崩れ落ちないために。
でも、崩れ落ちたかった。
「私が、どれだけ……っ
どれだけ毎晩……!」
言葉が続かない。
涙が多すぎる。
喉が痛い。
クリストフは、少しだけ視線を逸らした。
廊下の端、誰もいないことを確認するように。
それから、静かに言う。
「こちらへ」
案内ではない。
命令でもない。
“逃げ道”を差し出す声だった。
私は首を振った。
動けない。
この場で吐き出さないと、私は壊れる。
「……見てきたんです……」
声が、震えたまま落ちる。
「私は……ずっと……っ
ずっと、傍にいた……!」
吐く息が熱い。
泣きながら、言葉を探す。
「最初の戦場だって……
本当は……怖かったはずなのに……っ」
私は両手で顔を覆った。
涙が、指の隙間から落ちる。
「でも、エルディオ様は……
何も言わない……っ」
喉がひくひくする。
嗚咽が止まらない。
「『怖かった』って言わない……!
『もう嫌だ』って言わない……!
『帰りたい』って……言わない……!」
それを言ってしまった瞬間、胸が潰れそうになる。
言ってほしかった。
言ってくれれば、私は――
私は、侍女であることを忘れて、抱きしめてしまえたのに。
「夜に戻ってくるんです……」
涙で視界が歪む。
でも、はっきり言える。
「夜に、転移で……っ
何事もなかったみたいに……!」
あまりにも当たり前のように。
あまりにも簡単な日常のように。
「外套を預けて……
礼を言って……
部屋に入って……」
そこで、声が掠れる。
「扉が閉まったら……音がしないんです……!」
言ってしまった。
言うつもりのなかったこと。
私の夜の核心。
「何も……っ
何も聞こえない……!」
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
「本をめくる音も……
椅子を引く音も……
ため息も……!」
私は、指先を握りしめる。
「……怖いんです……!」
恥も外聞もなく、吐き出す。
「生きてるって……証拠が……欲しくなる……!」
言葉にした瞬間、私は自分が嫌になった。
最低だと思った。
主の苦しみを、私の安心の材料にしている。
それでも――
それでも、欲しいのだ。
「私は……っ
玄関の灯りの下で……待って……
戻ってきたら……『お帰りなさいませ』って言って……」
言いながら、喉が焼ける。
「それで……っ
それで、また朝になったら……『いってらっしゃいませ』って……!」
その繰り返し。
その繰り返しが、
世界にとっての“正しさ”になっていく。
「……戦果が増えるたびに……」
声が、怒りなのか悲しみなのか、もう分からない。
「皆が安心するんです……!
『さすがだ』って……!
『強い』って……!」
その言葉が、主を守るのではなく、主を戦場に固定していく。
「……居場所にしてしまったんです……!」
私は叫ぶ。
「エルディオ様が……
戦場を……居場所にしてしまった……!」
息が苦しい。
胸が裂けそうだ。
「帰ってくる場所が……
屋敷じゃなくなっていくのが……
分かるんです……!」
分かってしまう。
近すぎるから。
主の背中の角度で。
声の温度で。
廊下に残る匂いで。
「私……っ
私、何をしてるんですか……」
急に、声が小さくなる。
「……侍女なのに……
整えるだけで……
『いつも通り』を作るだけで……」
涙が止まらない。
「……好きなんです」
気づいたら、言っていた。
言ってはいけない言葉。
でも、もう遅い。
「好き……なんです……!」
嗚咽が混ざって、言葉が崩れる。
「侍女としてじゃなくて……っ
ひとりの女として……!」
喉が詰まる。
声が割れる。
「私が……私が抱きしめたって……
あの方は拒まないんです……!」
その事実が、何より苦しい。
「拒まないんです……!
拒まないから……っ
私が、勝手に救われた気になる……!」
救われた気になって、また明日を迎えてしまう。
「でも……っ
あの方は……私を見てない……!」
言葉が刃になる。
「見てない……!
見てないのに……っ
私は……待ってしまう……!」
私は顔を上げた。
涙でぐちゃぐちゃだ。
きっと、ひどい顔だ。
クリストフの前で、こんな顔を晒している。
でも、もう関係ない。
「わかってる……!」
声が震える。
「わかってる、わかってるわよ……そんなこと……!」
私は、恥も外聞も忘れて吐き出す。
「エルディオ様が私を見てないことも……
リィナ様のことをまだ愛していらっしゃることも……!」
声が裏返る。
「全部、全部……わかってる……わかってるわよ……っ」
わかっている。
わかっているのに、止められない。
それが一番みっともない。
「……それでも……っ」
声が小さくなる。
「それでも……好きなの……!」
言ってしまった。
とうとう、言ってしまった。
「好きで……好きで……っ
怖くて……っ
毎日、怖くて……っ」
私は手で口元を押さえる。
嗚咽が漏れる。
抑えきれない。
「今日も帰ってくるかなって……
帰ってきたら安心して……
安心したらまた明日が来て……」
無限の輪。
「私……っ
私、どうしたらいいの……!」
叫びが、廊下の静けさに吸われていく。
♢
クリストフは、私が泣き叫ぶ間も、一度も声を荒げなかった。
ただ、沈黙で受け止める。
受け止めるだけの器がある男だ。
そして、泣き声が少しだけ落ち着いた頃――
彼は、優しく、残酷に言った。
「メイリス。その感情は、主に向けては行けないものです」
私は、笑ってしまいそうになった。
あまりにも正しい。
あまりにも、今さらだ。
「……わかって……っ」
声が掠れる。
「わかってる……!」
私は、ほとんど叫ぶ。
「わかってる、わかってるわよ!そんなこと!」
敬語が完全に消える。
自分でも止められない。
「エルディオ様が私を見てないことも……
リィナ様のことをまだ愛していらっしゃることも……!」
息が乱れる。
「全部、全部……わかってる……っ
わかってるわよ……!」
言葉の最後が、嗚咽に溶ける。
クリストフは、一歩だけ近づき、しかし触れなかった。
触れれば、私が「救われた」と勘違いしてしまうことを知っている距離だ。
「わかっているのに、手放せない。……それは罪ではありません」
その言い方が、また残酷だった。
罪ではないなら、私はどうやって罰を受ければいい。
どうやって終わらせればいい。
「罪じゃ……ない……?」
私は涙のまま、笑いそうになる。
「じゃあ、これは何なの……」
私の毎晩は。
私の待つ時間は。
私の祈れない祈りは。
クリストフは、言葉を選ぶ。
選びながらも、逃げない。
「……観測者の孤独です」
その言葉が、胸に落ちた。
観測者。
私を縛っている役割の名前。
家族の外にいて、家族より近い場所に立つ。
誰よりも見てしまう。
誰よりも触れられない。
私は、震える息で言った。
「……見なきゃよかった……」
本音が漏れる。
「見なきゃ……よかった……っ
知らなきゃ……こんな……!」
クリストフは、首を振らない。
肯定もしない。
「あなたは見てしまった。……だから、あなたはここにいる」
事実だけを言う。
「そして、あなたは“役割”で自分を保っています。……今は、それでいい」
今は、という言葉が刺さった。
いつか、それでは足りなくなる。
いつか、崩れる。
彼はそれを知っている。
私は、声を絞り出す。
「……どうしたら、いいの……」
子どもみたいな声になる。
嫌だ。
でも、もう飾れない。
クリストフは、少しだけ目を伏せた。
それは慈悲の表情に見えた。
「……あなたは、主を救えません」
言い切る。
躊躇なく。
その残酷さが、逆に優しい。
「主を救えるのは、主だけです」
私は息を呑む。
涙が止まらない。
「……じゃあ、私は……」
私は何のためにここにいる。
何のために待っている。
クリストフは、ゆっくりと言った。
「あなたは、主が“戻れる場所”を壊さないために、ここにいる」
その言葉が、胸を締めつけた。
壊さない。
救わない。
ただ、壊さない。
それは侍女として正しい。
でも、女としては残酷すぎる。
「……私、そんなの……」
声が震える。
「そんなの、いや……っ」
クリストフは、最後まで穏やかだった。
「嫌でも、あなたはそれを選べてしまう。……あなたは強い人です、メイリス」
私は首を振った。
違う。
強くなんかない。
強いのではない。
壊れないふりが上手いだけだ。
「……強くない……」
涙が落ちる。
「私、全然……強くない……っ」
クリストフは、その否定を訂正しない。
ただ、静かに言った。
「……では、ひとつだけ」
私は顔を上げる。
涙で滲んだ視界の向こうで、モノクルが光る。
「夜、眠れないのなら。……眠ろうとしなくていい」
意味が分からず、私は瞬きをした。
「眠るべきだ、と自分を責めることが、あなたを削ります」
淡々とした助言。
生活の処方箋。
でも、それが今の私には命綱みたいに聞こえた。
「眠れない夜は、あります。……それを“異常”と決めないことです」
クリストフの言葉は、慰めではない。
救いでもない。
ただ、崩れないための現実だ。
「そして――」
彼は一度、言葉を切る。
「……主の部屋の前で、耳を澄ませるのはやめなさい」
私は、息が止まった。
見透かされている。
クリストフは、責めない。
叱らない。
ただ、はっきり言う。
「あなたが欲しているのは“音”ではない。……生きている証拠です
ですが、その証拠をあなたが毎晩欲しがるほど、あなたは壊れます」
私は唇を噛んだ。
わかってる。
わかってるのに、できない。
「……できない……」
声が、子どもみたいになる。
「やめられない……っ」
クリストフは、少しだけ表情を柔らかくした。
「できないなら、せめて――あなたの部屋に戻りなさい
廊下ではなく、あなたの場所で泣きなさい」
泣きなさい、という言葉が胸に落ちた。
許可されたみたいで。
でも、許可ではないのだと分かる。
“指示”だ。
私が壊れないための指示。
私は、くしゃくしゃの顔で、かろうじて頷いた。
「……はい……」
声が震える。
涙が落ちる。
クリストフは最後に、もう一度だけ、残酷な優しさで言う。
「そして、メイリス」
私は顔を上げる。
「その感情を主に向けてはいけない。……ですが、あなたが感情を持つこと自体は、間違いではありません」
矛盾している。
でも、今の私には、それが現実なのだと分かる。
私は、泣きながら笑ってしまいそうになった。
間違いではない。
でも、叶えてはいけない。
その形のまま、私はここに立ち続ける。
♢
その夜。
主はまた戦場へ向かい、夜には何事もなかったように戻ってきた。
「……お帰りなさいませ」
私は言った。
声は、整っていた。
「ただいま」
主は答えた。
淡々としていた。
扉が閉まる。
音が途切れる。
私は、昨日より少しだけ早く、自分の部屋へ戻った。
クリストフの言葉が、背中を押していた。
押しているのは優しさではない。
崩れるな、という命令だ。
灯りを落とす。
膝を抱える。
そして――泣いた。
声を殺さずに泣いた。
誰にも届かない場所で、誰にも聞かれないように泣いた。
「……エル様……」
名前を呼ぶ。
呼んでも届かない。
それでも呼ぶ。
観測者の孤独が、夜に溶けていく。
私は知っている。
明日も朝が来る。
明日も「いってらっしゃいませ」と言う。
明日も「お帰りなさいませ」と言う。
言えてしまう。
その上手さが、私を壊していく。
夜は代わりに進む。
私の代わりに。
主の代わりに。
そして、誰も止めないまま――
“慣れていく”。
そのことが、いちばん怖かった。
私は涙を拭って、息を整える。
明日は、侍女として立つ。
完璧な朝を作る。
――それが、私がこの人を愛してしまった、唯一許された形だから。
そして、夜だけが、私の本当を知っている。
誰も止めないまま。
誰にも気づかせないまま。
第40話まで読んでくださって、ありがとうございました。
今回書きたかったのは、戦場の派手さではなく、屋敷の静けさが人を摩耗させる感覚でした。
エルは朝、淡々と戦場へ向かい、夜には何事もなかった顔で帰ってくる。
その「無事」の積み重ねが、普通なら救いになるはずなのに、メイリスにとっては逆で、毎晩じわじわと怖くなる。安心ではなく、“慣れてしまうこと”がいちばん残酷で。
そして観測者である彼女は、止めることも、縋ることも、正しくはできないまま——ただ見てしまう。
クリストフは優しい人です。
でも優しさだけでは抱えきれないものを、優しさの言葉で切り分けてしまう。
その瞬間のメイリスの崩れ方が、彼女の「侍女としての整い」と対になって見えたら嬉しいです。
もしよければ、感想や評価をもらえると力になります。
・刺さった台詞/苦しくなった場面
・クリストフの言葉の“優しさ”と“残酷さ”、どっちが強く見えたか
・メイリスに共感したか、しなかったか
短くても大丈夫なので、レビューや一言コメントをいただけたら嬉しいです。




