04.泣かない子
ミレイユの、あの一言からだった。
僕の人生の歯車が、確かに音を立てずに回り始めたのは。
僕は、エルディオ・アルヴェインとして生きなければならない。
そういう人生が、そこで始まったのだ。
名前を与えられ、
家名を背負わされ、
役割を押しつけられる。
その瞬間、僕はこの世界で「死ねない」存在になったのだと、ようやく理解した。
それは宣告でも命令でもなかった。
ただ、当たり前のことのように、日常が始まっただけだ。
けれど、僕はその日常の中で、息が詰まっていった。
誰も悪くない。
ミレイユも、アインも、メイリスも。
本当に、誰も悪くないのだ。
それでも――
あの過去のような生活に、また戻ってしまうのではないかと思うと、胸が苦しくて仕方なかった。
僕は、我儘なのだろうか。
こんな環境を与えられ、
愛してくれる両親のもとに生まれ、
僕を慕う従者たちに囲まれて。
きっと、贅沢な人生なのだと思う。
けれど、そこに「僕」はいなかった。
過ぎていく日々の中で、取り残されているのは、いつも僕だけだった。
心が、まだ過去に置き去りのままだから。
♢
身体は成長していった。
背が伸び、手足が長くなり、服も変わった。
赤ん坊の頃に着せられていた柔らかな衣服は、
いつの間にか、物語や歴史の中で語られるような、貴族の服装へと変わっていた。
華美な装飾。
重たく、ごてごてとしている。
僕からすれば、ただ動きにくいだけの服だった。
機能性など、何も感じられない。
食事の席も変わった。
以前は、ミレイユとアインに挟まれて食べていた食事も、
今では時間が分けられている。
アインの席で、
背後にメイリスが控える中で摂る食事は、味がしなかった。
今日の献立を説明されても、
言葉は僕の頭を素通りするだけだった。
両親と食事を共にできるのは、一日に一度。
夕食の時間だけだ。
彼らが忙しい立場にあることは、理解している。
食事中も書類から目を離さないミレイユ。
メイリスと予定を確認し続けるアイン。
いつからか、僕のほうから話しかけることはなくなった。
代わりに、彼らから声をかけられることも減っていった。
それでも、メイリスだけは違った。
侍女として、僕に尽くしてくれる。
教育、食事作法、礼儀、
この世界で生きるための「常識」を、淡々と教えてくれた。
「坊ちゃまは、将来立派になられるお方ですから」
メイリスは、いつもそう言う。
アルヴェイン家は、辺境伯の地位を持つ家だ。
僕は階級のことに詳しくなかったが、
「伯爵より上で、侯爵のひとつ下――と考えていただければ分かりやすいでしょう」
と、彼女は丁寧に説明してくれた。
要するに、
僕は大貴族の家に生まれた長男、ということになる。
成長するにつれて、教えられることは増えていった。
そして「立場」というものを理解し始めた頃から、
メイリス以外の侍女たちの態度が変わった。
廊下ですれ違えば、立ち止まり、礼をする。
呼び名も、「坊ちゃま」から「エルディオ様」へと変わった。
「今まで通りでいいよ」
そう言っても、
「アルヴェイン家の方として、それはなりません」
と、一歩距離を取られる。
――ああ。
本当に、ここは貴族の家なのだ。
嫌でも、そう自覚させられた。
♢
父上と母上から、僕は大きな期待を向けられていた。
生まれてから一度も泣かなかった僕を、
最初は心配していたようだ。
だが、成長の速度があまりにも早かった。
動けるようになり、
言葉を覚え、
知識を吸収していく。
普通の子どもとは、明らかに違っていた。
両親は、それを「神童」と呼んだ。
勉強すればするだけ身につき、
やがてアインから政治の話までされるようになった。
そして、この世界には魔法がある。
ミレイユは、今でこそ辺境伯夫人だが、
かつては筆頭宮廷魔術師として名を馳せた人物だった。
その彼女が言うには、
僕の魔力量は、現在の技術では測れないらしい。
ミレイユは、心から嬉しそうだった。
「私の知っている魔法、すべてを教えます」
そう言って、毎日のように訓練を始めた。
魔法の時間だけは、楽だった。
それまでの苦しさを、すべて忘れさせてくれた。
だからこそ、僕は没頭してしまった。
初級魔法。
中級魔法。
上級魔法。
古代魔法。
神代魔法だけは、おとぎ話の産物だと言われていた。
理論的に再現不可能な、幻想。
――けれど、僕は使えてしまった。
期待されるままに。
望まれるままに。
両親は、天才だと喜んだ。
そして、僕は気づいてしまう。
また、同じことを繰り返している。
期待に応えてしまうから、逃げられなくなる。
応えた瞬間に、逃げ道が消えていく。
また、僕が僕でなくなっていく。
その感覚に押し潰されそうになりながら、
僕はミレイユに、笑顔を向けていた。
♢
「アイン、あなたは……エルのこと、どう思う?」
「あいつは天才さ。君の古代魔法だけじゃない。神代魔法まで使えるんだろう?」
「……ええ。そうね。あなたの言う通りよ」
ミレイユは微笑んだ。
その笑顔に、わずかな迷いが混じっていることに、
アインは気づかなかった。
「泣かない子だ。昔から」
「……ええ。強い子なのよ」
その言葉を使いながら、
ミレイユの胸は、静かにざわついていた。
エルディオは、生まれたときから泣かなかった。
夜中に目を覚ますことはある。
けれど、声を上げることはない。
部屋に入ると、
ただ静かに、こちらを見るだけだ。
泣かない。
欲しがらない。
訴えない。
それが良いことだと、頭では分かっている。
「手がかからなくていいじゃないか」
アインは笑った。
誇らしげに、少し胸を張って。
「我慢強いんだ。アルヴェインの血だよ」
ミレイユは、それ以上、何も言わなかった。
泣かない子。
強い子。
手のかからない子。
そう呼ばれるたびに、
胸の奥で何かが、静かに沈んでいくのを感じながら。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
この話では、
「優しさ」や「期待」が、
必ずしも救いにならないことを描いています。
泣かない子。
手のかからない子。
強い子。
それらはすべて、
誰かが“そうあってほしい”と願った姿です。
エルディオはまだ、
何も選んでいません。
それでも歯車は回り続け、
彼の人生は少しずつ形を与えられていきます。
次話から、
彼が初めて「役割ではない誰か」と出会います。
よければ、もう少しだけ
彼の歩みに付き合ってもらえたら嬉しいです。




