39.夜は代わりに進む-1
転移の感覚は、まだ特別なものだった。
空気が一瞬、裏返る。
視界が白み、次の瞬間には、主は屋敷の中庭に立っている。
それは、本来なら安堵の合図だ。
無事に戻ったという証。
命が、まだここにあるという確認。
けれど今夜、その感覚は私の中でうまく結びつかなかった。
石畳に降りたエル様の足取りは、静かだった。
乱れも、焦りもない。
ただ、夜気に溶けるように立っている。
――初めての戦場だったはずなのに。
その事実だけが、遅れて胸を締めつける。
鼻の奥に残る匂い。
鉄。
焦げた木。
血と魔力が混ざった、甘く濁った臭気。
屋敷にあってはいけない匂い。
それを、エル様は連れて帰ってきてしまった。
私は玄関の灯りの下に立っていた。
いつもと同じ場所。
いつもと同じ姿勢。
けれど、今夜は距離を詰めてしまった。
「……おつかれさまでした」
声は小さい。
感情を削らなければ、崩れてしまう声。
「ありがとう、メイリス」
その一言で、堪えていたものが外れた。
私は前に出て、抱きしめていた。
額を胸に預けるようにして、縋る。
強くはない。
でも、離れない。
制服越しに伝わる体温。
戦場にはなかった、現実の温度。
生きている、と感じてしまう温度。
「……メイリス?」
名前を呼ばれても、返事ができなかった。
肩が震える。
声を殺す。
泣くつもりはなかった。
泣く資格もない。
私は侍女だ。
家族ではない。
それでも――
この人が戻ってきた瞬間だけは、
「戻ってきてしまった」ことが、怖かった。
やがて私は、ゆっくりと身体を離した。
役割に戻るために、深く頭を下げる。
「……先程の魔法陣
エル様が、展開なさったのですね」
「そうだね」
「左様でございますか……」
それ以上は聞かなかった。
褒めない。
責めない。
理由も、意味も問わない。
それは優しさであり、
同時に、線だった。
踏み込まないための線。
越えないと決めた線。
私は、自分でそれを引いた。
♢
翌朝。
主が、アイン様とミレイユ様に呼ばれた。
それを告げる言葉は短く、事務的だった。
まるで、書類の確認でもするかのような口調で。
だからこそ、胸の奥に、鈍い音が残った。
私は、執務室の前で足を止めた。
本来、ここは立ち止まる場所ではない。
用がなければ通り過ぎるべき廊下で、
私は理由もなく、立ち尽くしている。
入る資格はない。
侍女は、呼ばれたときだけ中に入る。
けれど――
立ち去ることも、できなかった。
扉一枚隔てた向こうで、椅子が引かれる音がした。
空気が落ち着く前に、声が響く。
「……昨日の魔法についてだ」
アイン様の声だった。
低く、抑えられている。
怒りではない。
叱責でもない。
もっと、扱いに困るもの。
どこへ向ければいいのか分からない感情を、
無理やり言葉にしている声だった。
「敵の数は多かった。
判断も、結果も……正しかった」
一拍。
「それは分かっている」
その沈黙が、胸を締めつける。
――認めた上で、話す。
それが、どれほど重い前置きかを、私は知っていた。
続いて、衣擦れの音。
机の縁を掴み、離す気配。
ミレイユ様だ。
その指先のわずかな動きだけで、
彼女がどれほど感情を抑えているかが分かってしまう。
「……分かっているからこそ、聞くのよ」
声は鋭い。
魔法を放つ前の、集中した声。
「あなたは、どうして“あそこ”に行ったの?」
責める問いではない。
けれど、逃げ道のない問い。
少しの間があって、主の声が返る。
「……敵がいたから」
あまりにも、簡潔だった。
「それだけ?」
「それだけだよ」
事実だった。
正確で、余計な意味のない答え。
その瞬間、空気が変わる。
「……嘘をつかないで」
ミレイユ様の声が、震えた。
怒りと恐怖が、同時に混ざった震え。
「あなたは、誰よりも状況を見る子よ。
数も、配置も、逃げ道も。
分かっていて、淡々と“処理した”」
――処理した。
その言葉が、重く落ちる。
「それが問題なの」
机に手をつく音。
立ち上がりそうになるのを、意志で止めている。
「無茶だった、なんて言わない。
あれは最適解よ。
だからこそ――」
言葉が、詰まる。
「だからこそ、怖いのよ」
私は、無意識に息を殺していた。
次に響いたのは、低く唸るような音。
アイン様が、拳を握ったのだと分かる。
「……エル」
父として呼ぶ声だった。
剣聖の声ではない。
「お前は、間違っていない。
判断も、実力も、誰にも文句は言わせん」
一歩、踏み出す気配。
父が、息子の前に立つ距離。
「だがな……」
沈む声。
「お前は、自分を勘定に入れていない」
その一言で、
私の胸の奥が、きしんだ。
「兵の被害」
「村の被害」
「戦況」
一つずつ、指を折る気配。
「それは全部、考えている。
だが――」
最後の指は、折られない。
「お前が死ぬ可能性だけを、最初から“計算外”にしている」
刃のような言葉だった。
「そうよ!」
ミレイユ様の声が、荒れる。
「どうして、そんな顔で戦場に立てるの!
恐怖も、怒りも、迷いもない顔で!」
少しの間。
「……必要なかったから」
淡々とした声。
その瞬間、
部屋の中の空気が、はっきりと壊れた。
「必要なかった、ですって?」
震えを越えた声。
「あなたは……あなたは、生きているのよ!?」
かすれる。
「生きている人間が、命を使う判断をするとき、
そこに“必要かどうか”だけを置いていいと思っているの!?」
私は、動けなかった。
聞いてはいけない。
けれど、聞いてしまった。
――聞くために、ここに立たされている。
「……これからは」
主の声が、静かに割り込む。
「僕が、前線に出ます」
宣言だった。
「剣も使える」
「魔法もある」
「判断もできる」
冷静な整理。
「僕が出た方が、被害は減る」
正しい。
あまりにも正しい。
だから、誰も反論できない。
「……止めたいわ」
絞り出すような声。
「母親として
今すぐ、あなたを抱きしめて
ここから出さないって言いたい」
私は、思わず目を閉じた。
「でも――
それができないことも、分かっている」
深い、ため息。
「……止められんな」
それは許可ではない。
諦めでもない。
親としての、敗北の告白だった。
「行け、とも言えん。
だが、戻って来いとは……」
言葉が、途切れる。
「……お願いだから」
俯いた声。
「せめて……あなた自身を、完全に切り捨てないで」
沈黙。
主は、何も答えなかった。
答えられる言葉が、なかったのだと、私は知っている。
扉の向こうで、
誰も泣かなかった。
怒鳴り声も、叩きつける音もない。
あるのは、
言葉にしてしまったあとの、取り返しのつかない沈黙だけ。
私は、扉に触れなかった。
叩かなかった。
声も上げなかった。
もしも中に入れば、
この話は「家族の問題」ではなくなる。
エル様は、息子ではなく、
“主”として扱われてしまう。
それだけは、してはいけない。
だから私は、
聞いたまま、立ち尽くした。
正しさは、人を守る。
同時に、誰も救わない。
その現実を、
侍女として、私は知ってしまった。
♢
その夜。
夜は、容赦がない。
昼のうちは、役割が私を守ってくれる。
動く理由があり、整える順序があり、
考える暇がない。
けれど夜は違う。
誰にも見られていない時間が、
私の中の「余白」を暴き出す。
灯りを落とした部屋で、
私は壁に背を預けて座り込んだ。
――泣いてはいけない。
泣いてはいけない理由は、たくさんある。
泣くほどの立場ではない。
泣く資格がない。
泣けば、何かを求めてしまう。
分かっている。
分かっているのに。
「……エル、さま」
口に出した瞬間、喉が震えた。
名前は祈りに似ている。
呼んでも届かないのに、呼んでしまう。
「……おかえりなさい、って言ったら……」
言い切れなかった。
おかえりなさい、の続きが、私の中では必ずこうなる。
――どこにも行かないでください。
それを言ったら、侍女ではなくなる。
それを言ったら、私の夜は、ただの欲になる。
だから私は、唇を噛んだ。
噛んでも、涙は止まらない。
掌で口元を押さえ、息を殺す。
嗚咽が漏れそうになるたびに、肩が跳ねる。
「……違う……」
自分に言い聞かせるように、呟く。
「私は……私は、侍女なの」
侍女は、主の心を占有してはいけない。
主の帰りを、自分の幸福にしてはいけない。
主の命を、私のものみたいに扱ってはいけない。
分かっている。
分かっているはずなのに――
今夜、あの方の匂いが、屋敷に残った。
鉄。
焦げた木。
血と魔力が混ざった、甘く濁った臭気。
あれが、初めての戦場の匂いだとしたら。
あの方は、たった一度で――
“戦場のほうへ”体を馴染ませてしまったのではないか。
その想像だけで、胸が痛んだ。
「……怖かったでしょう」
声が、震えた。
震えたのは、恐怖じゃない。
それを言ってしまう自分が、怖い。
「怖かった、って言ってください……」
言った瞬間、息が詰まった。
言えない。
あの方は言わない。
言わないから、私は救われない。
救われないことが分かっているのに、
救われたい、と願ってしまう。
「……私が……私が、抱きしめたら……」
あの方は、拒まない。
拒まない、ということが、
どれほど残酷かを私は知っている。
拒まない人は、優しいのではない。
境界を失っているだけだ。
与えられるものを全部受け取って、
どれも“自分のもの”として抱きしめない。
だから、愛情すら――
受け取っているように見えて、どこにも残らない。
私は膝を抱えたまま、額を膝に押し当てる。
「……お願いです」
小さく、声が漏れた。
祈りみたいな声。
「お願いですから……生きて……」
言い切った瞬間、嗚咽が零れた。
喉の奥が熱くなり、息が乱れた。
泣いてはいけない、と頭では言っているのに、
体が先に壊れていく。
「……好きです」
口をついて出た言葉に、私自身が息を呑んだ。
こんな言葉、言ってはいけない。
誰にも聞かれていないのに、言ってはいけない。
でも、言わないと胸が裂ける。
「……好き、なんです」
声が震え、涙で息が割れた。
「……侍女としてじゃなくて……っ」
言い切れない。
それ以上言えば、私はこの屋敷で生きていけない。
だから、言葉の代わりに、嗚咽が落ちる。
呼吸が上手くできない。
まるで、あの方がリィナ様を失ったときみたいに。
息の仕方が分からない。
「……エル様は、何も言わない」
泣きながら、呟く。
「助けて、とも言わない……」
「怖い、とも……辛い、とも……」
だから、誰も手を伸ばせない。
もしも、あの方が「怖かった」と言ってしまったら。
もしも、「帰りたくなかった」と言ってしまったら。
私は、侍女であることを忘れて、抱きしめてしまうだろう。
「……抱きしめたい」
言ってしまった。
その瞬間、喉が痛い。
「抱きしめて……“行かないで”って……言いたい……」
唇が震え、言葉が途切れる。
涙が床に落ちる音だけが、やけに大きい。
「でも……言えない……っ」
侍女だから。
立場があるから。
正しさがあるから。
理由はいくらでも並べられる。
けれど本当は、もっと卑怯で、もっと現実的だ。
私は知ってしまったのだ。
止めたとしても、この人は止まらない。
命を惜しんでいない人間を、言葉で引き留めることはできない。
それでも、私は――
「止めたい……」
声が漏れた。
「止めたいのに……止められない……」
その矛盾が、私を一番削る。
私は自分の手を見つめた。
この手は、主の衣を整えるためにある。
主の体温を確かめるためにある。
けれど、主の心に触れるためのものではない。
そう理解しているはずなのに、もしも今、呼ばれたら。
夜の廊下で、静かに名前を呼ばれたら。
私は、迷わず行ってしまう。
それが、一番怖かった。
――私は、侍女より先に、女になってしまう。
その夜を、私は何度も想像してしまう。
そしてそのたびに、心のどこかで思う。
呼ばれたい、と。
呼ばれてしまえば、私は壊れる。
でも、壊れることでしか、あの方に触れられない気がする。
そんな考えが浮かぶ自分が、嫌だった。
「……リィナ様」
小さく、吐き出す。
嫉妬ではない。
責めでもない。
ただ、事実として、そこにある名前だ。
あの方が唯一、選んだ人。
あの方の世界だった人。
その人がいないから、
この屋敷は回っているのに、
主だけが“戻らないまま”歩いていく。
私は、その背中を見続けるしかない。
見てしまう側の人間だから。
♢
夜明け前の時間は、嘘をつかない。
空はまだ暗いのに、闇だけが少しずつ薄くなる。
世界が朝に向かっていることを、
否応なく突きつけてくる時間。
私は窓辺に立ち、屋敷の庭を見下ろした。
誰もいない。
何も起きていない。
それでも、確実に一歩、進んでしまった夜だった。
エル様が前線に出る。
それを止められなかった。
いいえ。
止めようとすら、しなかった。
侍女だから。
立場があるから。
正しさがあるから。
理由はいくらでも並べられる。
けれど、本当は違う。
私は、知ってしまったのだ。
止めたとしても、この人は止まらない。
命を惜しんでいない人間を、言葉で引き留めることはできない。
それなら私は、見る側でいよう。
選ばれない側でいよう。
夜が代わりに進むなら、私はその夜を、記録する。
誰も止めなかったことを。
誰も責めなかったことを。
それでも確かに、誰かが壊れていったことを。
朝は来る。
いつも通りに。
けれど、元に戻る朝は、もう来ない。
それを知っているのは、
夜を見送った者だけだ。
私は窓枠に指を置いて、囁いた。
「……どうか、帰ってきて」
祈りだった。
侍女の祈りではなく、
たぶん、ひとりの女の祈りだった。
「……帰ってきて……それで、何も言わなくていいから……」
言いながら、喉の奥がまた痛くなる。
結局私は、何かを求めている。
あの方に、生きてほしい。
あの方に、ここにいてほしい。
あの方に、私を見てほしい。
全部、言ってはいけない願いだ。
でも、願いを捨てたら、
私はこの屋敷で、ただの影になる。
だから私は、今日も役割を選ぶ。
泣き腫らした目を隠し、
声を整え、
制服を正し、
“何もなかった朝”を作る。
夜が代わりに進むなら、
私は、朝のふりをする。
誰も止めないまま。
誰にも気づかせないまま。
♢
朝の鐘が鳴るより、ほんの少し早く。
私は、身体を起こした。
眠った感覚はない。
けれど、立ち上がれるだけの時間は経っていた。
鏡の前に立つ。
顔が、ひどい。
泣いた痕跡が、隠しきれないほどに残っている。
目の縁は赤く、瞼は腫れて、視線が定まらない。
――でも。
私は知っている。
ここから先は、感情ではなく「作業」だ。
水で顔を冷やす。
冷たさが、皮膚の奥まで入り込む。
息を整える。
深く、静かに。
泣いた理由を、胸の奥へ押し戻す。
完全に消す必要はない。
ただ、外に出さなければいい。
髪を整える。
櫛の角度。
結い目の位置。
いつも通り。
制服に袖を通す。
布が肌に触れた瞬間、私は“戻る”。
侍女の姿勢に。
侍女の顔に。
侍女の声に。
鏡の中の女は、もう泣いていない。
――よし。
それだけで、十分だ。
廊下に出る。
足音を、一定に保つ。
急がない。
遅れない。
角を曲がると、使用人の一人とすれ違った。
「おはようございます、メイリス様」
私は、自然に微笑んだ。
「おはようございます」
声が、出る。
いつも通りの高さ。
いつも通りの柔らかさ。
それを確認した瞬間、
胸の奥で、何かが小さく音を立てて壊れた。
――ああ。
私はもう、
「朝のふり」ができてしまう。
昨日の夜、床に座り込んで泣いていた女と、
今、微笑んでいる私が、
同じ人間だということを、誰も疑わない。
それが、怖かった。
それが、救いでもあった。
食堂の準備を確認し、
当番の配置を整え、
いつも通りの動線を作る。
屋敷は、回る。
誰かが壊れていても。
主が前線に出ることになっても。
何も変わらない顔で。
それが、この屋敷の日常だ。
私は、主の部屋の前で足を止めた。
扉の向こうは、静かだ。
気配はある。
呼吸も、ある。
それだけで、胸が痛む。
――生きている。
その事実が、安堵より先に恐怖を連れてくる。
この人は、今日もまた、前線へ向かうだろう。
そして私は、
その背中を、整えた身なりで見送る。
止めない。
縋らない。
泣かない。
それが、私の役割だから。
それが、
私がこの人を愛してしまった、
唯一許された形だから。
扉をノックする。
「……おはようございます、エル様」
返事がある。
それを聞いた瞬間、私はまた、侍女になる。
完璧な顔で。
完璧な声で。
昨日の夜を、どこにも残さないまま。
夜は代わりに進む。
私は、朝を装う。
誰も止めないまま。
誰にも気づかせないまま。
強い人は、守られません。
泣かず、乱れず、迷わずに立っているだけで、
「大丈夫な人」だと見なされてしまうから。
第39話は、
エルが初めて戦場に立った夜と、
その夜を“止められなかった側”として生き始めるメイリスの物語です。
夜は、誰かの代わりに進みます。
止められなかった想いの代わりに。
言えなかった言葉の代わりに。
もしよろしければ、
この話を読んで感じたことを、率直に教えてください。
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