38.強すぎる人
朝は、いつも通りに始まった。
屋敷に差し込む光は柔らかく、廊下に落ちる影の角度も、昨日と変わらない。使用人たちは決まった時間に動き、食堂には湯気が立ち、庭は冷えた空気をきちんと保っている。
――何も変わっていない。
変わっていない、はずだった。
主であるエル様は、いつも通りに起きてきた。寝不足の目でもなければ、泣き腫らした痕跡もない。髪は整い、襟元に乱れはない。歩幅も一定で、足音の間隔まで安定している。
あまりにも、正しい。
正しすぎて、息が詰まる。
朝食の席で、エル様は必要な量だけを口に運んだ。噛む回数も、飲み込む速さも、普段と同じ。誰かの視線を避けるでもない。かといって、誰かを求めて見るでもない。
問いかければ答える。
必要なことは口にする。
だが、自分から何かを求めることはない。
――欲しがらない。
それが、この人の異常だった。
使用人たちは、ほっとしたように囁く。
「思ったより落ち着いていらっしゃる」
「さすがはエル様だ」
「強いお方だ」
誰も疑問を挟まない。
疑問を挟めば、屋敷が止まるからだ。
「問題がない」という評価は、安心を生む。
安心は、疑問を遠ざける。
誰もが心のどこかで思っている。
――これ以上、壊れられては困る。
――悲しみが長引けば、屋敷が止まる。
だからこそ、壊れていない主は「正しい」。
それは祈りに似た身勝手だった。
主の心がどうなっているかより、主が機能しているかどうかの方が優先される。
そしてその空気は、静かに確実に「異常」を見えなくしていく。
――私だけが、その輪の外にいた。
特別に鋭いからではない。
ただ、“近すぎる場所”にいるからだ。
主の声をいちばん近くで聞き、主の背中をいちばん長く見て、主が何も言わない時間を誰よりも共有してしまう。距離が近いということは、変化に気づきやすいということでもある。
そして、気づいてしまった者は、気づかなかった者たちと同じ安心の輪には戻れない。
私は戻らなかったのではない。
戻れなくなったのだ。
♢
午前は勉学の時間だった。
書斎の机に並ぶ書物は、魔法理論、歴史、戦術、地理。紙の匂いが静かに満ちる空間で、エル様の筆だけが止まらずに動いていく。
一度説明すれば、二度目はいらない。
暗記ではない。仕組みとして掴んでしまう。
理解が早い、という言葉では足りない。
早いのではなく、“引っかからない”。
普通なら迷うところを迷わない。
普通なら躊躇うところで躊躇わない。
それは才能だ。
誰もがそう言う。
だが私は、違うところを見ていた。
向上心が見えない。
野心が見えない。
できるから、やっている。
それだけ。
「上達したい」という熱ではなく、
「やるべきだから」という冷えた整列。
そこには、勝ちたいも、認められたいも、守りたいもない。
ただ――拒まない。
課されることを。
求められることを。
与えられる役割を。
「できない」と言わない。
「やりたくない」とも言わない。
全部を受け入れている。
それが結果として「完璧」に見えるだけだ。
強いのではない。
壊れないのではない。
壊れる前提を、自分の中に置いていないだけだ。
♢
昼前、訓練場へ向かう廊下で、私たちは足を止めた。
鎧の擦れる音。
走る足音。
伝令が駆け抜ける気配。
屋敷の空気が、ほんのわずかに硬くなる。
そして、エル様のもとへ一通の知らせが届く。
ミレイユ様とアイン様が、前線へ。
――すでに、今日のうちに。
エル様は、その知らせを受け取っても表情を変えなかった。
驚きもしない。焦りもしない。引き留める言葉もない。
ただ、短く言う。
「……分かった」
それだけで、話は終わった。
私はその一言に、背筋が冷たくなるのを感じた。
家族の会話が、命令の確認のように淡い。
あの日から、何かがほどけ続けている。
結び直す手が、どこにもない。
♢
それでも、稽古は行われた。
ミレイユ様は、出立の前に訓練場へ立った。
母ではなく、大魔道士として。
師として。
「今日は制御の精度を見るわ」
それは、いつもより短い言葉だった。
時間がないからではない。
長く話せば、揺れるものがあるからだ。
エル様は静かに頷き、指先を上げた。
魔法陣が展開される。
空気が張りつめ、魔力が流れ始める。
術式は高度だ。
普通なら詠唱に集中し、感情すら押し殺して成立させる。
だが、エル様は迷わない。
指が正確に動き、
魔力の流れが寸分狂わず、
陣は美しく、静かに完成する。
火球が出るわけではない。
雷が走るわけでもない。
ただ、空間そのものが“従う”。
水のように、空気が形を変える。
目に見えないはずの流れが、刃の角度で整列する。
ミレイユ様が息を吸う。
褒める呼吸ではない。
喜ぶ呼吸でもない。
壊れそうなものを押し戻す呼吸だ。
「……申し分ないわ」
その声には、安堵と不安が混じっていた。
才能を誇る声ではない。
母としての、複雑な響き。
「力を抑えることも、覚えている」
エル様が短く答える。
「必要なら」
必要なら、使う。
必要でなければ、使わない。
その判断基準が、“自分の命”に結びついていないことを、私ははっきりと感じ取ってしまった。
命を大切にするから制御するのではない。
後処理を増やさないために制御する。
優しさではない。
効率だ。
ミレイユ様は視線を落とし、ほんの一瞬だけ唇を噛んだ。
言葉にすれば、崩れる。
言葉にしなければ、届かない。
母はその狭間で黙るしかない。
そして結局、彼女は師として言う。
「……良い。もう十分よ」
終わらせるための言葉だった。
♢
午後は剣の稽古だった。
訓練場に立つアイン様は、父ではなく剣聖としてそこにいた。
出立前の鎧を着け、剣帯を締め、顔が戦場の輪郭を帯びている。
木剣が交わる。
音が弾ける。
エル様の動きは無駄がない。
力任せでもなく、技巧に溺れるでもない。
ただ最短で。
ただ最適で。
踏み込みが正確で、重心移動が静かで、刃の軌道に迷いがない。
打ち込むたびに「次」が見えているような動き。
それは、勝つための剣ではない。
“負けないため”ですらない。
ただ、成立させる剣だ。
アイン様は何度か距離を詰め、わざと隙を作り、わざと圧をかけた。
普通なら感情が揺れる。
恐怖か、怒りか、焦りか、何かが出る。
だが、出ない。
エル様は淡々と受け流し、淡々と返し、淡々と“正しい解”を出し続ける。
そして、稽古が「稽古」ではなくなりかけた瞬間。
アイン様が止めた。
「……十分だ」
それ以上を続ければ、稽古ではなく戦いになる。
剣聖はその境界を理解している。
強い、という言葉は便利だ。
便利だから、誰も“強さの中身”を確かめようとしない。
エル様は木剣を下ろした。
息は乱れていない。
汗も最小限。
達成感もない。
ただ、終わっただけ。
アイン様は、エル様の目を見た。
剣聖としてではなく、父として見ようとした。
だが――そこにいるのは、いつもの息子ではなかった。
いつもの息子、という言い方すら間違いかもしれない。
今まで見ていたものが、表面だったのかもしれない。
アイン様は、結局、父の言葉を飲み込んだ。
剣聖として言う。
「屋敷に残れ。無茶はするな」
命令ではない。
願いに近い。
エル様は頷かない。
否定もしない。
ただ一言。
「……分かってる」
分かっている。
何を?
危険を?
戦を?
それとも――“残ること”の意味を?
私は、問いを心の中にしまい込むしかなかった。
しまい込めるほどの場所が、もう私の中には残っていなかったのに。
♢
夕方。
ミレイユ様とアイン様は、前線へ戻る準備を終えた。
屋敷の玄関は、いつもより広く見えた。
家族の時間が、ここから先、ほどけていく気配がある。
ミレイユ様はエル様の前に立ち、母の顔をしようとして失敗した。
母の顔は、言葉が必要だ。
抱きしめる強さが必要だ。
けれど彼女は、大魔道士としての時間を生きてしまっている。
守るために戦う人は、守るために離れる。
それが正しいほど、残酷だ。
「……すぐ戻るわ」
ミレイユ様はそう言った。
戻る、と言うしかなかった。
エル様は答えない。
「行ってらっしゃい」も言わない。
ただ、目の前の事実を受け入れる。
受け入れているのではない。
拒まないだけだ。
アイン様も短く言う。
「ここを頼む」
頼む相手は、家人全員なのに。
その言葉は息子に向けられていた。
けれど、その「頼む」が、息子に届く手触りを持たない。
エル様は小さく言う。
「……行って」
それは見送りではない。
承認だ。
家族の会話が、手続きを終えるように閉じる。
扉が閉まり、二人は戦場へ向かった。
屋敷には、日常だけが残った。
そして――日常だけでは足りない人間も残った。
♢
夜。
辺境伯領の夜は音が少ない。
だからこそ、外の異変はすぐに屋敷の壁を叩く。
遠くでひとつ悲鳴が上がっただけで、分かってしまった。
戦が始まった。
窓の外が白む。
雪ではない。月でもない。
森が燃えている光だった。
炎は夜を昼に変える。
なのに温かくない。
それは火ではなく、災いの明るさだ。
私は廊下に立ち尽くした。
エル様の部屋の前には、すでに気配があった。
中で椅子に座っている。
呼吸がある。
物音は少ない。
それだけで、胸が苦しくなる。
扉を叩くべきか。
声をかけるべきか。
けれど、私は知っている。
この方は、助けを求めない。
求めないから、誰も助けられない。
それでも――
扉の向こうで、何かが決まっていく気配がした。
決意ではない。
覚悟でもない。
もっと乾いたもの。
“行くことが当たり前になる”感覚。
♢
しばらくして、玄関が静かに開いた。
私は階段の上から、その背中を見た。
エル様が出てきた。
戦装束ではない。
だが、寝間着でもない。
外套を羽織っただけの簡素な姿。
剣も杖も手にはない。
まるで、夜の空気を確かめに行くだけのように。
――その「軽さ」が、恐ろしかった。
声をかけるべきだった。
引き留める言葉も、立場も、私にはある。
けれど足が動かなかった。
この人はもう、「許可」を待っていない。
誰かに止められることも、
止められないことも、
最初から計算に入れていない。
だから私は、声を出す前に理解してしまった。
止めても意味がない。
エル様は、門の外へ歩き出す。
急がない。
迷わない。
振り返らない。
朝の執務へ向かうような足取りで。
その背中を見て、胸の奥が冷えた。
強いからではない。
生き残ろうとしていないからだ。
門前では兵が行き交い、避難誘導の声が飛び、怒号が響いている。
けれど、エル様はその混乱の中を、静かに歩いていく。
“ここにいてはいけない人間”だと、周囲が思うほどに。
本人だけが、それを問題だと思っていない。
私は、門の内側で立ち尽くした。
追いかけることもできた。
呼び止めることもできた。
それでも私は、何もしなかった。
できなかった。
侍女としての立場ではなく、
観測者になってしまった人間として。
見送ってしまった。
――壊れないまま進行する異常を。
♢
その瞬間、夜空が変わった。
空気が、ひと呼吸ぶん薄くなる。
魔力が動いた気配が、皮膚を刺す。
私は反射的に空を見上げた。
そこに浮かんだのは、巨大な魔法陣だった。
街ひとつを覆うほどの円。
幾重にも重なる同心円。
星図のように絡み合う線。
美しい、と感じてしまった自分が怖かった。
あれは祈りの形ではない。
弔いの形だ。
屋敷の門前でも、兵たちが次々に空を仰いだ。
誰も声を出せない。
美しすぎるものは、
恐怖より先に理解を奪う。
私は息を詰めた。
あの中心に、エル様がいる。
確信した瞬間、膝の力が抜けそうになった。
――ああ。
この人は、もう「屋敷の人間」ではない。
屋敷に属さない。
時間に属さない。
生に属さない。
それでも、生きて動いてしまう。
だから誰も止められない。
♢
極光が大地に降り注ぐ。
炎でもない。
雷でもない。
“終わり”の色。
それは破壊ではなく、処理だった。
敵を倒すのではない。
存在を終わらせる。
その正確さは、冷たかった。
感情がない。
怒りもない。
憎しみもない。
ただ、必要だから消す。
必要だから、終わらせる。
――強すぎる。
誰もがそう思うだろう。
だが私は、違う言葉を知っている。
これは強さじゃない。
拒まないだけだ。
生きることを。
死ぬことを。
戻る場所を。
すべてを等しく拒まず、
すべてを等しく選ばない。
だから、戦場に適応してしまう。
だから、誰にも止められない。
♢
屋敷に残されたのは、待つ人間だけだった。
私は玄関の影に立ったまま、空を見上げ続けた。
ミレイユ様もアイン様も、今夜はここにいない。
戦場にいる。
守るために前へ出た二人は、いま息子の「前へ出る理由」を知らない。
知らないまま、守ろうとしている。
皮肉だと思った。
強すぎる人間は、守られない。
なぜなら、
誰の助けも必要としていないように見えるからだ。
そして、本当に必要なときには――
もう遅い。
♢
夜は、まだ終わらない。
だがこの日、私ははっきり理解した。
この人は、才能によって誤解され、
強さによって孤立し、
誰にも止められない場所へ歩き始めている。
それが、この戦争の始まりだった。
いいえ。
もっと正確に言うなら――
「生きる理由を持たない人間」が、戦場に適応してしまった瞬間だった。
そして――
適応してしまったものは、元の形には戻らない。
玄関の上で、小さな鈴が鳴った。
風が触れただけの、頼りない音。
それなのに私は、その音に肩を震わせた。
帰ってきたわけではない。
ただ、屋敷が“待つ形”になってしまったことを、音が告げただけだった。
空の極光は薄れ、代わりに冷えが降りてくる。
夜明け前の冷えは、やさしくない。
人を眠らせるためではなく、現実を確かめさせるためにある。
私は扉に手を伸ばしかけて、やめた。
開けても、何も変わらない。
閉じても、何も守れない。
それでも私は、ここに立ち続ける。
――戻る場所が、もう「戻れる場所」ではないことを、
この屋敷だけが知っているみたいで。
夜明けは、いつも通りに来る。
いつも通りに。
取り返しがつかなくなっていく速度だけを、隠したまま。
この回は、
「戦場の出来事」ではなく、
戦場へ向かうまでに、誰も止められなかった時間を書く回でした。
エルは、この時点ではまだ“壊れて”いません。
感情も、理性も、能力も、すべて正常です。
だからこそ、誰も止められない。
彼は強い。
才能があり、判断が早く、失敗しない。
でもそれは「生きたいから強くなった」のではなく、
拒まなかった結果として強くなってしまっただけです。
メイリスは、そのことに最初に気づいた人間です。
だから彼女は、叫ばない。
引き止めない。
追いかけもしない。
止められないと分かっているからではなく、
止める言葉が、この人にはもう届かないと理解してしまったから。
この38話は、
・才能が“救い”として誤解される瞬間
・強さが“安全”だと錯覚される瞬間
・そして、戻る場所が「待つ場所」に変わってしまった瞬間
その全部を、屋敷側から見送る話です。
次の話で描かれるのは、
戦場から戻ってきたエルがどうなったか、ではありません。
「待っていた側の時間」と、「戻ってきた側の時間」が、もう噛み合わなくなっていることです。
夜は、いつも通り明けます。
でも、その“いつも通り”に、もう戻れない人間がいる。
その最初の一歩が、この回でした。
読んでくれて、ありがとうございました。




