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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
メイリス編

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38/89

38.強すぎる人

 

 朝は、いつも通りに始まった。


 屋敷に差し込む光は柔らかく、廊下に落ちる影の角度も、昨日と変わらない。使用人たちは決まった時間に動き、食堂には湯気が立ち、庭は冷えた空気をきちんと保っている。


 ――何も変わっていない。


 変わっていない、はずだった。


 主であるエル様は、いつも通りに起きてきた。寝不足の目でもなければ、泣き腫らした痕跡もない。髪は整い、襟元に乱れはない。歩幅も一定で、足音の間隔まで安定している。


 あまりにも、正しい。


 正しすぎて、息が詰まる。


 朝食の席で、エル様は必要な量だけを口に運んだ。噛む回数も、飲み込む速さも、普段と同じ。誰かの視線を避けるでもない。かといって、誰かを求めて見るでもない。


 問いかければ答える。

 必要なことは口にする。

 だが、自分から何かを求めることはない。


 ――欲しがらない。


 それが、この人の異常だった。


 使用人たちは、ほっとしたように囁く。


「思ったより落ち着いていらっしゃる」

「さすがはエル様だ」

「強いお方だ」


 誰も疑問を挟まない。

 疑問を挟めば、屋敷が止まるからだ。


「問題がない」という評価は、安心を生む。

 安心は、疑問を遠ざける。


 誰もが心のどこかで思っている。

 ――これ以上、壊れられては困る。

 ――悲しみが長引けば、屋敷が止まる。


 だからこそ、壊れていない主は「正しい」。


 それは祈りに似た身勝手だった。

 主の心がどうなっているかより、主が機能しているかどうかの方が優先される。


 そしてその空気は、静かに確実に「異常」を見えなくしていく。


 ――私だけが、その輪の外にいた。


 特別に鋭いからではない。

 ただ、“近すぎる場所”にいるからだ。


 主の声をいちばん近くで聞き、主の背中をいちばん長く見て、主が何も言わない時間を誰よりも共有してしまう。距離が近いということは、変化に気づきやすいということでもある。


 そして、気づいてしまった者は、気づかなかった者たちと同じ安心の輪には戻れない。


 私は戻らなかったのではない。

 戻れなくなったのだ。


 ♢


 午前は勉学の時間だった。


 書斎の机に並ぶ書物は、魔法理論、歴史、戦術、地理。紙の匂いが静かに満ちる空間で、エル様の筆だけが止まらずに動いていく。


 一度説明すれば、二度目はいらない。

 暗記ではない。仕組みとして掴んでしまう。


 理解が早い、という言葉では足りない。

 早いのではなく、“引っかからない”。


 普通なら迷うところを迷わない。

 普通なら躊躇うところで躊躇わない。


 それは才能だ。

 誰もがそう言う。


 だが私は、違うところを見ていた。


 向上心が見えない。

 野心が見えない。


 できるから、やっている。

 それだけ。


「上達したい」という熱ではなく、

「やるべきだから」という冷えた整列。


 そこには、勝ちたいも、認められたいも、守りたいもない。


 ただ――拒まない。


 課されることを。

 求められることを。

 与えられる役割を。


「できない」と言わない。

「やりたくない」とも言わない。


 全部を受け入れている。

 それが結果として「完璧」に見えるだけだ。


 強いのではない。

 壊れないのではない。


 壊れる前提を、自分の中に置いていないだけだ。


 ♢


 昼前、訓練場へ向かう廊下で、私たちは足を止めた。


 鎧の擦れる音。

 走る足音。

 伝令が駆け抜ける気配。


 屋敷の空気が、ほんのわずかに硬くなる。


 そして、エル様のもとへ一通の知らせが届く。


 ミレイユ様とアイン様が、前線へ。


 ――すでに、今日のうちに。


 エル様は、その知らせを受け取っても表情を変えなかった。

 驚きもしない。焦りもしない。引き留める言葉もない。


 ただ、短く言う。


「……分かった」


 それだけで、話は終わった。


 私はその一言に、背筋が冷たくなるのを感じた。


 家族の会話が、命令の確認のように淡い。


 あの日から、何かがほどけ続けている。

 結び直す手が、どこにもない。


 ♢


 それでも、稽古は行われた。


 ミレイユ様は、出立の前に訓練場へ立った。

 母ではなく、大魔道士として。

 師として。


「今日は制御の精度を見るわ」


 それは、いつもより短い言葉だった。

 時間がないからではない。

 長く話せば、揺れるものがあるからだ。


 エル様は静かに頷き、指先を上げた。


 魔法陣が展開される。

 空気が張りつめ、魔力が流れ始める。


 術式は高度だ。

 普通なら詠唱に集中し、感情すら押し殺して成立させる。


 だが、エル様は迷わない。


 指が正確に動き、

 魔力の流れが寸分狂わず、

 陣は美しく、静かに完成する。


 火球が出るわけではない。

 雷が走るわけでもない。


 ただ、空間そのものが“従う”。


 水のように、空気が形を変える。

 目に見えないはずの流れが、刃の角度で整列する。


 ミレイユ様が息を吸う。


 褒める呼吸ではない。

 喜ぶ呼吸でもない。


 壊れそうなものを押し戻す呼吸だ。


「……申し分ないわ」


 その声には、安堵と不安が混じっていた。


 才能を誇る声ではない。

 母としての、複雑な響き。


「力を抑えることも、覚えている」


 エル様が短く答える。


「必要なら」


 必要なら、使う。

 必要でなければ、使わない。


 その判断基準が、“自分の命”に結びついていないことを、私ははっきりと感じ取ってしまった。


 命を大切にするから制御するのではない。

 後処理を増やさないために制御する。


 優しさではない。

 効率だ。


 ミレイユ様は視線を落とし、ほんの一瞬だけ唇を噛んだ。


 言葉にすれば、崩れる。

 言葉にしなければ、届かない。


 母はその狭間で黙るしかない。


 そして結局、彼女は師として言う。


「……良い。もう十分よ」


 終わらせるための言葉だった。


 ♢


 午後は剣の稽古だった。


 訓練場に立つアイン様は、父ではなく剣聖としてそこにいた。

 出立前の鎧を着け、剣帯を締め、顔が戦場の輪郭を帯びている。


 木剣が交わる。

 音が弾ける。


 エル様の動きは無駄がない。

 力任せでもなく、技巧に溺れるでもない。


 ただ最短で。

 ただ最適で。


 踏み込みが正確で、重心移動が静かで、刃の軌道に迷いがない。

 打ち込むたびに「次」が見えているような動き。


 それは、勝つための剣ではない。


 “負けないため”ですらない。


 ただ、成立させる剣だ。


 アイン様は何度か距離を詰め、わざと隙を作り、わざと圧をかけた。

 普通なら感情が揺れる。

 恐怖か、怒りか、焦りか、何かが出る。


 だが、出ない。


 エル様は淡々と受け流し、淡々と返し、淡々と“正しい解”を出し続ける。


 そして、稽古が「稽古」ではなくなりかけた瞬間。


 アイン様が止めた。


「……十分だ」


 それ以上を続ければ、稽古ではなく戦いになる。

 剣聖はその境界を理解している。


 強い、という言葉は便利だ。

 便利だから、誰も“強さの中身”を確かめようとしない。


 エル様は木剣を下ろした。


 息は乱れていない。

 汗も最小限。

 達成感もない。


 ただ、終わっただけ。


 アイン様は、エル様の目を見た。

 剣聖としてではなく、父として見ようとした。


 だが――そこにいるのは、いつもの息子ではなかった。


 いつもの息子、という言い方すら間違いかもしれない。

 今まで見ていたものが、表面だったのかもしれない。


 アイン様は、結局、父の言葉を飲み込んだ。


 剣聖として言う。


「屋敷に残れ。無茶はするな」


 命令ではない。

 願いに近い。


 エル様は頷かない。

 否定もしない。


 ただ一言。


「……分かってる」


 分かっている。

 何を?


 危険を?

 戦を?

 それとも――“残ること”の意味を?


 私は、問いを心の中にしまい込むしかなかった。


 しまい込めるほどの場所が、もう私の中には残っていなかったのに。


 ♢


 夕方。


 ミレイユ様とアイン様は、前線へ戻る準備を終えた。

 屋敷の玄関は、いつもより広く見えた。


 家族の時間が、ここから先、ほどけていく気配がある。


 ミレイユ様はエル様の前に立ち、母の顔をしようとして失敗した。


 母の顔は、言葉が必要だ。

 抱きしめる強さが必要だ。


 けれど彼女は、大魔道士としての時間を生きてしまっている。


 守るために戦う人は、守るために離れる。


 それが正しいほど、残酷だ。


「……すぐ戻るわ」


 ミレイユ様はそう言った。

 戻る、と言うしかなかった。


 エル様は答えない。

「行ってらっしゃい」も言わない。


 ただ、目の前の事実を受け入れる。


 受け入れているのではない。

 拒まないだけだ。


 アイン様も短く言う。


「ここを頼む」


 頼む相手は、家人全員なのに。

 その言葉は息子に向けられていた。


 けれど、その「頼む」が、息子に届く手触りを持たない。


 エル様は小さく言う。


「……行って」


 それは見送りではない。

 承認だ。


 家族の会話が、手続きを終えるように閉じる。


 扉が閉まり、二人は戦場へ向かった。


 屋敷には、日常だけが残った。


 そして――日常だけでは足りない人間も残った。


 ♢


 夜。


 辺境伯領の夜は音が少ない。

 だからこそ、外の異変はすぐに屋敷の壁を叩く。


 遠くでひとつ悲鳴が上がっただけで、分かってしまった。


 戦が始まった。


 窓の外が白む。

 雪ではない。月でもない。


 森が燃えている光だった。


 炎は夜を昼に変える。

 なのに温かくない。

 それは火ではなく、災いの明るさだ。


 私は廊下に立ち尽くした。


 エル様の部屋の前には、すでに気配があった。


 中で椅子に座っている。

 呼吸がある。

 物音は少ない。


 それだけで、胸が苦しくなる。


 扉を叩くべきか。

 声をかけるべきか。


 けれど、私は知っている。


 この方は、助けを求めない。


 求めないから、誰も助けられない。


 それでも――

 扉の向こうで、何かが決まっていく気配がした。


 決意ではない。

 覚悟でもない。


 もっと乾いたもの。

 “行くことが当たり前になる”感覚。


 ♢


 しばらくして、玄関が静かに開いた。


 私は階段の上から、その背中を見た。


 エル様が出てきた。


 戦装束ではない。

 だが、寝間着でもない。


 外套を羽織っただけの簡素な姿。

 剣も杖も手にはない。


 まるで、夜の空気を確かめに行くだけのように。


 ――その「軽さ」が、恐ろしかった。


 声をかけるべきだった。

 引き留める言葉も、立場も、私にはある。


 けれど足が動かなかった。


 この人はもう、「許可」を待っていない。


 誰かに止められることも、

 止められないことも、

 最初から計算に入れていない。


 だから私は、声を出す前に理解してしまった。


 止めても意味がない。


 エル様は、門の外へ歩き出す。


 急がない。

 迷わない。

 振り返らない。


 朝の執務へ向かうような足取りで。


 その背中を見て、胸の奥が冷えた。


 強いからではない。


 生き残ろうとしていないからだ。


 門前では兵が行き交い、避難誘導の声が飛び、怒号が響いている。

 けれど、エル様はその混乱の中を、静かに歩いていく。


 “()()()()()()()()()()()()”だと、周囲が思うほどに。

 本人だけが、それを問題だと思っていない。


 私は、門の内側で立ち尽くした。


 追いかけることもできた。

 呼び止めることもできた。


 それでも私は、何もしなかった。


 できなかった。


 侍女としての立場ではなく、

 観測者になってしまった人間として。


 見送ってしまった。


 ――壊れないまま進行する異常を。


 ♢


 その瞬間、夜空が変わった。


 空気が、ひと呼吸ぶん薄くなる。

 魔力が動いた気配が、皮膚を刺す。


 私は反射的に空を見上げた。


 そこに浮かんだのは、巨大な魔法陣だった。


 街ひとつを覆うほどの円。

 幾重にも重なる同心円。

 星図のように絡み合う線。


 美しい、と感じてしまった自分が怖かった。


 あれは祈りの形ではない。

 弔いの形だ。


 屋敷の門前でも、兵たちが次々に空を仰いだ。

 誰も声を出せない。


 美しすぎるものは、

 恐怖より先に理解を奪う。


 私は息を詰めた。


 あの中心に、エル様がいる。


 確信した瞬間、膝の力が抜けそうになった。


 ――ああ。


 この人は、もう「()()()()()」ではない。


 屋敷に属さない。

 時間に属さない。

 生に属さない。


 それでも、生きて動いてしまう。


 だから誰も止められない。


 ♢


 極光が大地に降り注ぐ。


 炎でもない。

 雷でもない。


 “終わり”の色。


 それは破壊ではなく、処理だった。


 敵を倒すのではない。

 存在を終わらせる。


 その正確さは、冷たかった。


 感情がない。

 怒りもない。

 憎しみもない。


 ただ、必要だから消す。


 必要だから、終わらせる。


 ――強すぎる。


 誰もがそう思うだろう。


 だが私は、違う言葉を知っている。


 これは強さじゃない。


 拒まないだけだ。


 生きることを。

 死ぬことを。

 戻る場所を。


 すべてを等しく拒まず、

 すべてを等しく選ばない。


 だから、戦場に適応してしまう。

 だから、誰にも止められない。


 ♢


 屋敷に残されたのは、待つ人間だけだった。


 私は玄関の影に立ったまま、空を見上げ続けた。


 ミレイユ様もアイン様も、今夜はここにいない。

 戦場にいる。


 守るために前へ出た二人は、いま息子の「前へ出る理由」を知らない。


 知らないまま、守ろうとしている。


 皮肉だと思った。


 強すぎる人間は、守られない。


 なぜなら、

 誰の助けも必要としていないように見えるからだ。


 そして、本当に必要なときには――

 もう遅い。


 ♢


 夜は、まだ終わらない。


 だがこの日、私ははっきり理解した。


 この人は、才能によって誤解され、

 強さによって孤立し、

 誰にも止められない場所へ歩き始めている。


 それが、この戦争の始まりだった。


 いいえ。


 もっと正確に言うなら――


「生きる理由を持たない人間」が、戦場に適応してしまった瞬間だった。


 そして――

 適応してしまったものは、元の形には戻らない。


 玄関の上で、小さな鈴が鳴った。

 風が触れただけの、頼りない音。

 それなのに私は、その音に肩を震わせた。


 帰ってきたわけではない。

 ただ、屋敷が“待つ形”になってしまったことを、音が告げただけだった。


 空の極光は薄れ、代わりに冷えが降りてくる。

 夜明け前の冷えは、やさしくない。

 人を眠らせるためではなく、現実を確かめさせるためにある。


 私は扉に手を伸ばしかけて、やめた。

 開けても、何も変わらない。

 閉じても、何も守れない。


 それでも私は、ここに立ち続ける。


 ――戻る場所が、もう「戻れる場所」ではないことを、

 この屋敷だけが知っているみたいで。


 夜明けは、いつも通りに来る。

 いつも通りに。

 取り返しがつかなくなっていく速度だけを、隠したまま。



この回は、

「戦場の出来事」ではなく、

戦場へ向かうまでに、誰も止められなかった時間を書く回でした。


エルは、この時点ではまだ“壊れて”いません。

感情も、理性も、能力も、すべて正常です。

だからこそ、誰も止められない。


彼は強い。

才能があり、判断が早く、失敗しない。

でもそれは「生きたいから強くなった」のではなく、

拒まなかった結果として強くなってしまっただけです。


メイリスは、そのことに最初に気づいた人間です。

だから彼女は、叫ばない。

引き止めない。

追いかけもしない。


止められないと分かっているからではなく、

止める言葉が、この人にはもう届かないと理解してしまったから。


この38話は、

・才能が“救い”として誤解される瞬間

・強さが“安全”だと錯覚される瞬間

・そして、戻る場所が「待つ場所」に変わってしまった瞬間


その全部を、屋敷側から見送る話です。


次の話で描かれるのは、

戦場から戻ってきたエルがどうなったか、ではありません。


「待っていた側の時間」と、「戻ってきた側の時間」が、もう噛み合わなくなっていることです。


夜は、いつも通り明けます。

でも、その“いつも通り”に、もう戻れない人間がいる。


その最初の一歩が、この回でした。


読んでくれて、ありがとうございました。

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