37.壊れない主人
葬儀から数日が過ぎた。
屋敷は、もう完全に日常へ戻っていた。
廊下を行き交う足音は一定で、朝と夜の区別も正確だ。
執務室からは書類を捲る音が聞こえ、厨房からは湯気の匂いが漂ってくる。
庭では、剪定された枝が規則正しく積まれていた。
――何も、滞っていない。
それが、何より異様だった。
主であるエル様は、壊れていなかった。
食事は摂る。
量は多くないが、残しはしない。
入浴もする。
眠りも取っている。短いが、拒んではいない。
朝になれば起き、身支度を整え、必要な場には顔を出す。
声を荒げることもない。
怒りを露わにすることもない。
誰かを責めることも、感情をぶつけることもない。
あまりにも――問題がなかった。
使用人たちは、安堵したような顔をしていた。
「思ったより、落ち着いていらっしゃる」
「さすがはエル様だ」
「強いお方だ」
その言葉に、誰も疑問を差し挟まなかった。
疑う理由が、どこにも見当たらなかったからだ。
主は、日常をこなしている。
屋敷は、回っている。
それで十分だ、と皆が思いたがっていた。
「問題がない」という評価は、安心を生む。
安心は、疑問を遠ざける。
誰もが心のどこかで、こう思っていた。
――これ以上、壊れられては困る。
――悲しみが長引けば、屋敷が止まる。
だからこそ、壊れていない主は「正しい」。
誰も口には出さないが、皆が同じ方向を向いていた。
“このままでいてほしい”。
それは、祈りに似た身勝手だった。
主の心がどうなっているかより、主が機能しているかどうかの方が、優先される。
そしてその空気は、静かに、確実に、「異常」を見えなくしていった。
――私だけが、その輪の外にいた。
私が輪の外にいたのは、特別に鋭いからではない。
ただ、“近すぎる場所”にいたからだ。
主の声を一番近くで聞き、主の背中を一番長く見て、主が何も言わない時間を、誰よりも共有している。
距離が近いということは、変化に気づきやすいということでもある。
そして、気づいてしまった者は、気づかなかった者たちと同じ安心の輪に戻れない。
私は、戻らなかったのではない。
戻れなくなったのだ。
私は、毎日エル様の背中を見ていた。
廊下を歩く背中。
執務室へ向かう背中。
窓辺に立ち、外を眺める背中。
どの瞬間も、同じだった。
急がない。
立ち止まらない。
迷わない。
そこにあるのは、感情ではなく「動作」だった。
人は、感情がなくても動ける。
決まった時間に起き、決まった服を着て、決まった役割を果たすことはできる。
だからこそ、“動けている”という事実は、心が生きている証明にならない。
むしろ逆だ。
感情を伴わない動作は、人を静かに摩耗させる。
喜びも、怒りも、悲しみもないまま、ただ「次」をこなしていく。
それは、生きている人間の姿ではなく、“止まらない仕組み”に近かった。
まるで、悲しむという工程そのものを、最初から人生の設計図に含めていなかったかのように。
ある日の午後。
私は、執務室に呼ばれた。
部屋には、すでにミレイユ様とアイン様がいた。
剣聖と大魔道士。
そして、父と母。
二人の顔には、戦いの疲労ではなく、別種の影が落ちていた。
寝不足と、言葉にできない沈黙と――家族であることの疲れだ。
「……メイリス」
ミレイユ様が、静かに私を呼ぶ。
「最近の、エルの様子をどう思う?」
それは報告を求める問いではなかった。
答えを分かち合うための問いだった。
私は、慎重に言葉を選んだ。
「……日常生活に支障はございません」
事実だった。
だからこそ、続ける言葉が必要だった。
「ですが――」
アイン様の視線が、私に向く。
「感情の揺らぎが、確認できません」
沈黙が落ちる。
アイン様は、机の上で組んだ手を見つめたまま、低く息を吐いた。
「……それは、問題なのか」
剣聖としての声だった。
合理を重んじる声。
「立ち直りが早いだけかもしれん」
「泣かずに受け入れる者もいる」
ミレイユ様は、すぐには否定しなかった。
「ええ……そういう人もいるわ」
けれど、視線を伏せて、続ける。
「でもね、アイン」
「エルは“受け入れて”いないの」
その言葉に、空気が張り詰めた。
「処理していない。消化していない」
「ただ、最初から“そこに無かった”ように扱っている」
私は、静かに補足する。
「避けておられるのではありません」
「思い出さないようにしているわけでもありません」
「最初から、“触れてはいけないもの”として棚に置かれているように見えます」
アイン様の眉が、わずかに寄った。
「……それは」
言葉が続かない。
ミレイユ様が、声を落とす。
「生きるための態度じゃない」
その一言は、母のものだった。
「悲しみは、傷になる
でも、傷は塞がる可能性がある」
顔を上げる。
「エルの中にあるのは、傷じゃない
最初から、空白なの」
沈黙。
アイン様は、深く息を吐いた。
「……強い子だと思っていた」
それは、悔恨だった。
「剣も魔法も覚えが早くて
何でも一人でできて
頼らなくても立っていられる子だと」
拳を、わずかに握る。
「だが……それは」
ミレイユ様が、続きを引き取った。
「生きることに、しがみつく理由を持たなかっただけかもしれない」
否定はなかった。
できなかった。
否定できなかった理由は、二人とも分かっていた。
もし否定すれば、次に問われるのは「では、どうするのか」だ。
抱きしめるのか。
泣かせるのか。
無理にでも立ち止まらせるのか。
だが、それらはすべて、“戻ってくる”ことを前提にした行為だ。
ミレイユ様は、すでに気づいていた。
息子は、戻る場所を探していない。
アイン様も、薄々理解していた。
剣でも、命令でも、引き戻せないところまで来ている。
だから二人は、沈黙を選んだ。
何もしないという選択ではない。
“何もできないことを受け入れる”という、最も苦しい選択だった。
その日の夕方。
私は、エル様の部屋に入った。
机の上に、小さな木箱が置かれていた。
遺骨の箱。
屋敷に置くかどうか、誰も決めていなかった。
だからこそ、そこにあること自体が、無言の選択だった。
エル様は、その前に立っていた。
触れていない。
開けてもいない。
ただ、見ている。
そして、小さく呟いた。
「……リィナ」
呼びかけでも、祈りでもない。
確認するような声。
胸が、締めつけられた。
その箱は、過去でも未来でもなかった。
思い出でも、別れでもない。
ただ、“時間が止まった地点”だった。
エル様は、そこから先に進もうとしない。
同時に、戻ろうともしない。
過去を抱くでもなく、未来を選ぶでもない。
今という時間だけが、切り取られて、宙に浮いている。
その状態が、どれほど危ういものかを、私は知っていた。
忘れていない。
切り離してもいない。
それでも――そこから先へ、進もうともしない。
エル様は、箱から視線を外した。
「……行こう」
それだけだった。
泣かない。
怒らない。
荒れない。
だからこそ、誰も止められない。
ミレイユ様も、アイン様も、沈黙を選んだ。
屋敷も、日常を選んだ。
選ばれなかったのは、ただ一つ。
立ち止まること。
私は、侍女として完璧に振る舞いながら、見続ける。
壊れない主人を。
削れていく魂を。
生きているのに、終わっていく、その過程を。
この人は、まだどこへも向かっていない。
それなのに――もう、ここに留まってもいない。
行動は日常のまま。
言葉も、態度も、何一つ乱れていない。
だがそれは、「選んでいる」状態ではなかった。
選択肢を見比べているのでも、迷っているのでもない。
ただ、“ここにいる理由”だけが、綺麗に失われている。
戻ろうとしていない。
離れようとしているわけでもない。
どちらでもない。
この屋敷も、家族も、役割も、日常も。
すべてを否定していない代わりに、すべてを肯定する理由も、もう持っていない。
それは拒絶よりも静かで、絶望よりも穏やかな状態だった。
だからこそ、誰も踏み込めない。
「やめろ」と言う理由がない。
「立ち止まれ」と言う根拠もない。
主は、何も壊していない。
何も放棄していない。
それでも――“属していない”。
この屋敷に。
この時間に。
この生に。
どこへ行くかを考えていないのに、どこにもいない人間。
それが、いまのエル様だった。
私は、それを「異常」と呼ぶしかなかった。
声を上げない異常。
行動を伴わない異常。
誰の生活も乱さない異常。
だが、いずれ必ず“選択”を生む異常。
留まれない人間は、いつか必ず、どこかを選ばなければならなくなる。
その行き先がどこになるのかを、この時の私は、まだ知らない。
ただ一つ分かっていたのは――
この静けさは、嵐の前触れではない。
“空白が続いているだけ”だということ。
そして、空白は、永遠には続かない。
夜になると、屋敷はさらに静かになる。
昼間の規則正しい音が消え、代わりに、建物そのものが呼吸しているような沈黙が満ちる。
廊下を歩くと、自分の足音だけが残る。
それが、この屋敷がまだ「機能している」証拠のようで、同時に、取り返しのつかない違和感を強調していた。
エル様の部屋の前を通ると、灯りが漏れていることがある。
中に人の気配はある。
呼吸も、物音も、確かに存在している。
それなのに、“誰かがそこにいる”という感覚が薄い。
まるで、人の形をした静物が置かれているような錯覚。
ノックをする理由はない。
呼ばれてもいない。
用事もない。
それでも私は、無意識のうちに足を止めてしまう。
扉の向こうにいるのが、「生きている主」なのか、「まだ生きているだけの存在」なのか。
確かめる術はない。
確かめてしまえば、何かを選ばなければならなくなる。
だから私は、扉の前で立ち止まり、そして、何事もなかったように歩き出す。
その繰り返しが、一日一日、積み重なっていった。
ミレイユ様も、アイン様も、エル様の部屋を訪れなくなった。
避けているわけではない。
恐れているわけでもない。
ただ、“踏み込んだ先で何もできない”と理解してしまったからだ。
親であることは、時に、残酷な立場になる。
守れないと分かっていても、見守るしかない。
声をかければ、その言葉が刃になるかもしれない。
抱きしめれば、余計に遠ざかってしまうかもしれない。
何もしなければ、それはそれで、後悔になる。
選べる選択肢が、すべて「間違い」に見えてしまう状態。
だから二人は、沈黙を続けた。
それは逃避ではない。
祈りでもない。
“壊さないために、触れない”という選択だった。
だが、触れられない時間は、確実に距離を作る。
声をかけない日。
視線を合わせない夜。
同じ屋敷にいながら、別々の時間を生きている感覚。
家族であるはずの三人が、同じ空間で、同じ沈黙を共有している。
それは、つながりではなかった。
ただ、断絶がゆっくりと固まっていく過程だった。
私は、その全てを見ていた。
見ているだけで、何も変えられない立場で。
侍女として、踏み込まない距離を保ち続けながら。
だが、見てしまった以上、私はもう「知らない側」には戻れない。
この静けさは、癒しではない。
回復でもない。
ただ、“まだ壊れていない状態”が長引いているだけだ。
そして、壊れないまま進行する異常は、いずれ必ず、形を変えて現れる。
感情が噴き出すのか。
行動に変わるのか。
それとも――何も感じないまま、別の何かを選び取るのか。
私は、その行き先を知らない。
ただ、この静かな時間が永遠ではないことだけは、確信していた。
――それが、異常の始まりだった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
泣かない、荒れない、怒らない――いちばん「問題がない」ように見える状態が、いちばん危うい。
この章では、その静けさが少しずつ“異常”として形を持っていく瞬間を、メイリスの視点で描きました。
メイリス編は、ここから本格的に始まります。
彼女が「見る人間」になってしまったその先で、何を選び、何を失っていくのか。
よければ、続きを見届けてください。
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