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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
メイリス編

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36/87

36.葬儀の翌日

 

 葬儀の翌朝、屋敷は驚くほど静かだった。


 静かすぎる、とも思った。


 あれほど多くの人が行き交い、声が重なり、泣き、祈り、立ち止まっていた場所が、たった一夜でここまで整うものなのか。


 廊下には、もう黒い布は掛かっていない。

 壁に残るはずだった釘の跡も、視界に入らない。

 花の香りも、香の残り香も、窓を開けることで追い出されていた。


 昨日まで、この屋敷は「死」を抱えていた。

 けれど今は、何事もなかったかのように「生活」を再開している。


 人は、終わったことを終わらせるのが、あまりにも早い。


 悲しみが薄れたわけではない。

 忘れたわけでもない。

 ただ、「それ以上立ち止まれない」という判断を、無意識に下しているだけだ。


 それが正しいのだと、私は知っている。

 屋敷を維持するためには、誰かが動き続けなければならない。

 時間を止めることは、誰にも許されていない。


 それでも、その速さに――私は、ついていけていない感覚を覚えた。


 昨日まで確かにあったはずの「悲しみの居場所」が、どこにも残っていない。

 泣いていい場所も、立ち止まっていい時間も、もう用意されていない。


 この屋敷は、もう次へ進んでいる。

 進めてしまうことができるのだと、はっきり示している。


 その事実が、胸の奥で、鈍く響いた。


 泣き声も、祈りも、黒い布もない。

 あるのは、いつも通りの廊下と、いつも通りの朝の光だけ。


 窓から差し込む陽射しはやわらかく、埃の粒を照らしている。

 昨夜まで、あれほど多くの人が出入りしていたとは思えないほど、屋敷は整っていた。


 人は、終わったものを片付けるのが早い。

 悲しみでさえ、役目を終えれば撤去される。


 黒布は畳まれ、花は片付けられ、香の匂いは窓を開けることで追い出される。

 誰かが指示したわけではない。

「そうするものだから」、皆がそうした。


 それが「日常」なのだと、私は知っている。

 だからこそ、その速さが怖かった。


 ♢


 私はいつも通りの時間に起き、いつも通りに身支度を整えた。


 指先の動きは、迷わなかった。


 衣を選ぶ順番。

 髪をまとめる角度。

 鏡の前に立つ時間。


 すべて、長年身体に染み込んだ手順だ。

 考えなくても、身体が勝手に動く。


 こういう時、人は無意識に「正しさ」に逃げる。

 決まった動作をなぞることで、感情を脇に置く。


 私はそれを、何度もやってきた。


 侍女として、泣いてはいけない場面。

 声を荒げてはいけない場面。

 自分の気持ちより、主の都合を優先しなければならない場面。


 そのすべてで、私は間違えなかった。


 今日も、間違えない。


 喪に服す色を避けるのは、屋敷が「通常運転」に戻った証だ。

 だから私は、あえて黒を選ばない。


 慎ましく、控えめで、しかし普段通り。

 誰の目にも、「問題のない侍女」に見えるように。


 鏡の中の自分は、よくできていた。


 悲しみを抱えている顔ではない。

 まして、誰かを失った人間の顔でもない。


 その完成度に、ほんの一瞬だけ、嫌悪が湧く。


 ――私は、こんな時ですら、役割を外せない。


 外さないことを、選んでいる。

 それが正しいと、理解しているからこそ、なおさら。


 侍女として、完璧に。


 黒ではない服を選ぶ。

 派手ではなく、目立たず、しかしだらしなくもない。

 髪を結い、姿勢を正し、顔に感情を置かない。


 屋敷の空気に、私情を混ぜない。

 主の悲しみを、勝手に代弁しない。

 求められていない感情を、先回りして差し出さない。


 そうやって私は、ここまで生きてきた。


 廊下を歩くと、使用人たちがすでに動き始めていた。

 朝食の準備、掃除、庭の手入れ。

 昨日と同じ動線、同じ音、同じ速さ。


「おはようございます」


 声をかければ、返事が返る。

 その声に、ためらいはない。


 誰も、昨日の話をしない。

 しないことが、暗黙の了解になっている。


 人は、悲しみを共有するが、長くは共有しない。

 それぞれの生活に戻るために。


 ――エル様だけが、戻らなかった。


 その事実は、声に出さなくても、屋敷の空気に滲んでいた。


 扉の前で、一度だけ呼吸を整える。

 主の部屋の前では、いつもそうする。


 ノックをする。


「……エル様。朝でございます」


 返事は、少し遅れて返ってきた。


「……入って」


 声は低く、乾いていた。

 怒っているわけでも、泣いているわけでもない。

 ただ、温度がない。


 部屋に入る。


 カーテンは開けられていない。

 光は薄く、空気は静止している。


 昨夜の名残は、どこにもなかった。

 泣き崩れた痕跡も、乱れた寝具も、割れたものもない。


 まるで、最初から何も起きていなかったみたいに。


 エル様は、椅子に座っていた。


 姿勢は、驚くほど整っていた。


 背中は真っ直ぐで、肩も落ちていない。

 昨夜、床に膝をつき、声を殺して泣いていた人間の姿とは、あまりにもかけ離れている。


 乱れているはずの場所が、どこにも見当たらない。


 私は、その違和感を言葉にしなかった。

 言葉にしてしまえば、「確認」になってしまうからだ。


 エル様は、こちらを見ない。


 視線は机でも、床でも、窓でもない。

 何もない空間の一点に、固定されている。


 見ているのではない。

 向けているだけだ。


 その目は、何かを探していない。

 期待も、問いも、怒りも含まれていない。


 ただ、「そこにあるべきものがない」ことを、静かに受け入れている目だった。


 私は、息をするのを一瞬忘れた。


 壊れている人間の方が、まだ救いがある。

 叫び、拒み、取り乱す人間の方が、まだ手を伸ばせる。


 けれど、この静けさは違う。


 これは――すでに何かを終わらせてしまった人間の顔だ。

 戻るつもりがない人の顔。


 その理解が、私の中で、はっきりと形を取った。


 この人は、助けを求めていない。

 だから、誰も助けられない。


 私は、その事実を飲み込んだまま、何も言わなかった。


 言わないことも、また侍女の役割だ。


 そしてその瞬間、私は気づいてしまったのだ。


 ――私は、もう「隣に立つ人間」ではない。


 寄り添うことも、手を引くことも許されていない。

 できるのは、ただ見ることだけ。


 壊れないように支えるのではなく、壊れていく様子を見逃さないこと。


 私は、この日から“観測者”になった。


 ♢


 観測者になる、というのは、何も特別な役割を与えられることではない。

 ただ、「見てしまったものから、目を逸らせなくなる」――それだけのことだ。


 気づかなければ、ここまで苦しくならなかった。

 気づかなければ、いつも通りの侍女でいられた。


 主が悲しんでいる、と解釈できれば、慰める余地があった。

 主が怒っている、と受け取れれば、距離を保てた。


 けれど私は、どちらでもない状態を見てしまった。


 悲しみの途中でもなく、怒りの発露でもなく、回復の兆しですらない。

 終わった人間の静けさ。


 それは、時間が解決する類のものではない。

 寄り添えば薄れるものでもない。


 放っておけば、ゆっくり、確実に、内側から削れていく種類の空白だ。


 私は、侍女として多くの「壊れた人」を見てきた。

 喪失に泣き、怒り、立ち直る人々を。


 けれど、「最初から戻る気がない人間」を見たのは初めてだった。


 だから私は、声をかけなかったのではない。

 かけられなかったのだ。


 何を言っても、“戻る前提”の言葉になってしまうから。


「お加減はいかがでしょうか」


 定型文だ。問いではなく、確認でもない。侍女としての言葉。


「……問題ない」


 短い返答。感情は乗っていない。


 その言い方が、昨日と同じだったことに気づいて、胸の奥がひやりとした。

 泣く前も、泣いたあとも、同じ声。


 私は朝食の準備を始める。

 音を立てすぎないように、しかし無音にもならないように。


 器を置く。

 湯気が立つ。

 いつもと同じ献立。


 エル様は、何も言わずに食べ始めた。

 味についても、量についても、何も。


 必要な分だけ、機械のように口に運ぶ。


 私は、横に立ちながらそれを見ていた。


 ――見ているだけ。


 声をかけない。

 励まさない。

 慰めない。


 それは冷淡さではない。昨日、すでに分かってしまったからだ。

 この方は、今、何も求めていない。

 悲しみすら、求めていない。


 食事を終えると、エル様は静かに立ち上がった。


「……ありがとう、メイリス」


「いえ」


 それだけの会話。


 その言葉が、いつもより少しだけ丁寧だったことに、私は気づいた。

 気づいてしまったから、何も言えなくなった。


 引き留める理由も、引き留められる理由も、そこにはない。


 エル様は窓の方へ歩き、外を見た。

 庭は昨日と変わらない。鳥が鳴き、風が木を揺らす。


 世界は、何事もなかったように続いている。


 私は、その背中を見て、はっきりと理解した。


 この人は――もう「戻ろう」としていない。


 壊れているわけではない。取り乱してもいない。

 ただ、自分の世界から一部が完全に欠け落ちたことを、受け入れてしまったのだ。


 それは、希望よりも恐ろしい状態だった。


 私は、その場で何かをすることができなかった。

 できることが、何もないと知っていた。


 だから私は、侍女として完璧に振る舞った。

 それ以外の役割を、選べなかった。


 部屋を出る前、エル様は振り返らなかった。

 呼び止めることも、頼ることもない。


 その瞬間、胸の奥が静かに冷えた。


 ――ああ。


 私は、この日から。


 支える人間でも、癒す人間でもなく。

 まして、選ばれる人間でもなく。


 ただ、“見る人間”になったのだ。


 壊れていくのを。

 削れていくのを。

 生きているのに、終わっていく様を。


 止めることなく。

 代わることもなく。


 その日一日、私は何度も、エル様の背中を見た。


 食事のあと。

 廊下ですれ違ったとき。

 窓辺に立つ影。


 どの瞬間も、同じだった。


 呼び止められない背中。

 追いかけても、距離が縮まらない背中。


 私は、知らず知らずのうちに、「何をすれば戻ってくるのか」を考えていた。


 言葉なのか。

 時間なのか。

 それとも――誰か、なのか。


 そして、その思考が浮かんだ瞬間、胸の奥がひどく冷えた。


 私は侍女だ。選ばれる立場ではない。


 それは、ずっと分かっていた。

 分かったうえで、この屋敷にいる。


 だから私は、「私が何かになる」という選択肢を、最初から持っていなかった。

 持ってはいけないものだと、思っていた。


 けれど。


 もしこのまま、誰も踏み込まなければ。

 もしこのまま、誰も“役割を外さなければ”。


 この人は、静かなまま、完全に向こう側へ行ってしまう。


 その予感が、はっきりと形を持ってしまった。


 私は、その考えを、すぐに打ち消した。


 考えてはいけない。

 思ってはいけない。


 侍女が主を救おうなどと考えること自体が、傲慢だ。


 それでも――「何もしない」という選択が、この人を確実に失う選択であることだけは、もう分かってしまっていた。


 観測者になるというのは、責任を負わないことではない。

 むしろ逆だ。


 止められなかった未来を、すべて覚えていなければならない立場になることだ。


 私は、その覚悟を、この日、知らずに選んでいた。


 侍女として、完璧に。

 それが、この日、私が選んだ立場だった。


 そしてこの選択が、後にどれほど残酷な意味を持つことになるのかを――


 この時の私は、まだ知らなかった。


葬儀の翌日。

屋敷が“日常”へ戻っていく速さの中で、戻れないまま立ち尽くすエルと、ただ見ることしか許されなくなったメイリス――。


ここからメイリス編が始まります。

彼女の視点で、「壊れていくのに壊れないふりをする日々」を、ひとつずつ描いていきます。


読んでくださってありがとうございます。

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