36.葬儀の翌日
葬儀の翌朝、屋敷は驚くほど静かだった。
静かすぎる、とも思った。
あれほど多くの人が行き交い、声が重なり、泣き、祈り、立ち止まっていた場所が、たった一夜でここまで整うものなのか。
廊下には、もう黒い布は掛かっていない。
壁に残るはずだった釘の跡も、視界に入らない。
花の香りも、香の残り香も、窓を開けることで追い出されていた。
昨日まで、この屋敷は「死」を抱えていた。
けれど今は、何事もなかったかのように「生活」を再開している。
人は、終わったことを終わらせるのが、あまりにも早い。
悲しみが薄れたわけではない。
忘れたわけでもない。
ただ、「それ以上立ち止まれない」という判断を、無意識に下しているだけだ。
それが正しいのだと、私は知っている。
屋敷を維持するためには、誰かが動き続けなければならない。
時間を止めることは、誰にも許されていない。
それでも、その速さに――私は、ついていけていない感覚を覚えた。
昨日まで確かにあったはずの「悲しみの居場所」が、どこにも残っていない。
泣いていい場所も、立ち止まっていい時間も、もう用意されていない。
この屋敷は、もう次へ進んでいる。
進めてしまうことができるのだと、はっきり示している。
その事実が、胸の奥で、鈍く響いた。
泣き声も、祈りも、黒い布もない。
あるのは、いつも通りの廊下と、いつも通りの朝の光だけ。
窓から差し込む陽射しはやわらかく、埃の粒を照らしている。
昨夜まで、あれほど多くの人が出入りしていたとは思えないほど、屋敷は整っていた。
人は、終わったものを片付けるのが早い。
悲しみでさえ、役目を終えれば撤去される。
黒布は畳まれ、花は片付けられ、香の匂いは窓を開けることで追い出される。
誰かが指示したわけではない。
「そうするものだから」、皆がそうした。
それが「日常」なのだと、私は知っている。
だからこそ、その速さが怖かった。
♢
私はいつも通りの時間に起き、いつも通りに身支度を整えた。
指先の動きは、迷わなかった。
衣を選ぶ順番。
髪をまとめる角度。
鏡の前に立つ時間。
すべて、長年身体に染み込んだ手順だ。
考えなくても、身体が勝手に動く。
こういう時、人は無意識に「正しさ」に逃げる。
決まった動作をなぞることで、感情を脇に置く。
私はそれを、何度もやってきた。
侍女として、泣いてはいけない場面。
声を荒げてはいけない場面。
自分の気持ちより、主の都合を優先しなければならない場面。
そのすべてで、私は間違えなかった。
今日も、間違えない。
喪に服す色を避けるのは、屋敷が「通常運転」に戻った証だ。
だから私は、あえて黒を選ばない。
慎ましく、控えめで、しかし普段通り。
誰の目にも、「問題のない侍女」に見えるように。
鏡の中の自分は、よくできていた。
悲しみを抱えている顔ではない。
まして、誰かを失った人間の顔でもない。
その完成度に、ほんの一瞬だけ、嫌悪が湧く。
――私は、こんな時ですら、役割を外せない。
外さないことを、選んでいる。
それが正しいと、理解しているからこそ、なおさら。
侍女として、完璧に。
黒ではない服を選ぶ。
派手ではなく、目立たず、しかしだらしなくもない。
髪を結い、姿勢を正し、顔に感情を置かない。
屋敷の空気に、私情を混ぜない。
主の悲しみを、勝手に代弁しない。
求められていない感情を、先回りして差し出さない。
そうやって私は、ここまで生きてきた。
廊下を歩くと、使用人たちがすでに動き始めていた。
朝食の準備、掃除、庭の手入れ。
昨日と同じ動線、同じ音、同じ速さ。
「おはようございます」
声をかければ、返事が返る。
その声に、ためらいはない。
誰も、昨日の話をしない。
しないことが、暗黙の了解になっている。
人は、悲しみを共有するが、長くは共有しない。
それぞれの生活に戻るために。
――エル様だけが、戻らなかった。
その事実は、声に出さなくても、屋敷の空気に滲んでいた。
扉の前で、一度だけ呼吸を整える。
主の部屋の前では、いつもそうする。
ノックをする。
「……エル様。朝でございます」
返事は、少し遅れて返ってきた。
「……入って」
声は低く、乾いていた。
怒っているわけでも、泣いているわけでもない。
ただ、温度がない。
部屋に入る。
カーテンは開けられていない。
光は薄く、空気は静止している。
昨夜の名残は、どこにもなかった。
泣き崩れた痕跡も、乱れた寝具も、割れたものもない。
まるで、最初から何も起きていなかったみたいに。
エル様は、椅子に座っていた。
姿勢は、驚くほど整っていた。
背中は真っ直ぐで、肩も落ちていない。
昨夜、床に膝をつき、声を殺して泣いていた人間の姿とは、あまりにもかけ離れている。
乱れているはずの場所が、どこにも見当たらない。
私は、その違和感を言葉にしなかった。
言葉にしてしまえば、「確認」になってしまうからだ。
エル様は、こちらを見ない。
視線は机でも、床でも、窓でもない。
何もない空間の一点に、固定されている。
見ているのではない。
向けているだけだ。
その目は、何かを探していない。
期待も、問いも、怒りも含まれていない。
ただ、「そこにあるべきものがない」ことを、静かに受け入れている目だった。
私は、息をするのを一瞬忘れた。
壊れている人間の方が、まだ救いがある。
叫び、拒み、取り乱す人間の方が、まだ手を伸ばせる。
けれど、この静けさは違う。
これは――すでに何かを終わらせてしまった人間の顔だ。
戻るつもりがない人の顔。
その理解が、私の中で、はっきりと形を取った。
この人は、助けを求めていない。
だから、誰も助けられない。
私は、その事実を飲み込んだまま、何も言わなかった。
言わないことも、また侍女の役割だ。
そしてその瞬間、私は気づいてしまったのだ。
――私は、もう「隣に立つ人間」ではない。
寄り添うことも、手を引くことも許されていない。
できるのは、ただ見ることだけ。
壊れないように支えるのではなく、壊れていく様子を見逃さないこと。
私は、この日から“観測者”になった。
♢
観測者になる、というのは、何も特別な役割を与えられることではない。
ただ、「見てしまったものから、目を逸らせなくなる」――それだけのことだ。
気づかなければ、ここまで苦しくならなかった。
気づかなければ、いつも通りの侍女でいられた。
主が悲しんでいる、と解釈できれば、慰める余地があった。
主が怒っている、と受け取れれば、距離を保てた。
けれど私は、どちらでもない状態を見てしまった。
悲しみの途中でもなく、怒りの発露でもなく、回復の兆しですらない。
終わった人間の静けさ。
それは、時間が解決する類のものではない。
寄り添えば薄れるものでもない。
放っておけば、ゆっくり、確実に、内側から削れていく種類の空白だ。
私は、侍女として多くの「壊れた人」を見てきた。
喪失に泣き、怒り、立ち直る人々を。
けれど、「最初から戻る気がない人間」を見たのは初めてだった。
だから私は、声をかけなかったのではない。
かけられなかったのだ。
何を言っても、“戻る前提”の言葉になってしまうから。
「お加減はいかがでしょうか」
定型文だ。問いではなく、確認でもない。侍女としての言葉。
「……問題ない」
短い返答。感情は乗っていない。
その言い方が、昨日と同じだったことに気づいて、胸の奥がひやりとした。
泣く前も、泣いたあとも、同じ声。
私は朝食の準備を始める。
音を立てすぎないように、しかし無音にもならないように。
器を置く。
湯気が立つ。
いつもと同じ献立。
エル様は、何も言わずに食べ始めた。
味についても、量についても、何も。
必要な分だけ、機械のように口に運ぶ。
私は、横に立ちながらそれを見ていた。
――見ているだけ。
声をかけない。
励まさない。
慰めない。
それは冷淡さではない。昨日、すでに分かってしまったからだ。
この方は、今、何も求めていない。
悲しみすら、求めていない。
食事を終えると、エル様は静かに立ち上がった。
「……ありがとう、メイリス」
「いえ」
それだけの会話。
その言葉が、いつもより少しだけ丁寧だったことに、私は気づいた。
気づいてしまったから、何も言えなくなった。
引き留める理由も、引き留められる理由も、そこにはない。
エル様は窓の方へ歩き、外を見た。
庭は昨日と変わらない。鳥が鳴き、風が木を揺らす。
世界は、何事もなかったように続いている。
私は、その背中を見て、はっきりと理解した。
この人は――もう「戻ろう」としていない。
壊れているわけではない。取り乱してもいない。
ただ、自分の世界から一部が完全に欠け落ちたことを、受け入れてしまったのだ。
それは、希望よりも恐ろしい状態だった。
私は、その場で何かをすることができなかった。
できることが、何もないと知っていた。
だから私は、侍女として完璧に振る舞った。
それ以外の役割を、選べなかった。
部屋を出る前、エル様は振り返らなかった。
呼び止めることも、頼ることもない。
その瞬間、胸の奥が静かに冷えた。
――ああ。
私は、この日から。
支える人間でも、癒す人間でもなく。
まして、選ばれる人間でもなく。
ただ、“見る人間”になったのだ。
壊れていくのを。
削れていくのを。
生きているのに、終わっていく様を。
止めることなく。
代わることもなく。
その日一日、私は何度も、エル様の背中を見た。
食事のあと。
廊下ですれ違ったとき。
窓辺に立つ影。
どの瞬間も、同じだった。
呼び止められない背中。
追いかけても、距離が縮まらない背中。
私は、知らず知らずのうちに、「何をすれば戻ってくるのか」を考えていた。
言葉なのか。
時間なのか。
それとも――誰か、なのか。
そして、その思考が浮かんだ瞬間、胸の奥がひどく冷えた。
私は侍女だ。選ばれる立場ではない。
それは、ずっと分かっていた。
分かったうえで、この屋敷にいる。
だから私は、「私が何かになる」という選択肢を、最初から持っていなかった。
持ってはいけないものだと、思っていた。
けれど。
もしこのまま、誰も踏み込まなければ。
もしこのまま、誰も“役割を外さなければ”。
この人は、静かなまま、完全に向こう側へ行ってしまう。
その予感が、はっきりと形を持ってしまった。
私は、その考えを、すぐに打ち消した。
考えてはいけない。
思ってはいけない。
侍女が主を救おうなどと考えること自体が、傲慢だ。
それでも――「何もしない」という選択が、この人を確実に失う選択であることだけは、もう分かってしまっていた。
観測者になるというのは、責任を負わないことではない。
むしろ逆だ。
止められなかった未来を、すべて覚えていなければならない立場になることだ。
私は、その覚悟を、この日、知らずに選んでいた。
侍女として、完璧に。
それが、この日、私が選んだ立場だった。
そしてこの選択が、後にどれほど残酷な意味を持つことになるのかを――
この時の私は、まだ知らなかった。
葬儀の翌日。
屋敷が“日常”へ戻っていく速さの中で、戻れないまま立ち尽くすエルと、ただ見ることしか許されなくなったメイリス――。
ここからメイリス編が始まります。
彼女の視点で、「壊れていくのに壊れないふりをする日々」を、ひとつずつ描いていきます。
読んでくださってありがとうございます。
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