34.摩耗
転移の感覚は、もう特別なものじゃなくなっていた。
空間が裏返る。
視界が一瞬だけ白み、次の瞬間には、屋敷の中庭に立っている。
足元の石畳は冷たい。
夜気が肌を撫でる。
戦場の熱と煙は、ここでは否定される。
けれど、匂いだけが残っていた。
鉄。
焦げた木。
血と魔力が混ざった、甘く濁った臭気。
それが、鼻の奥から消えない。
玄関の灯りの下に、メイリスがいた。
いつもと同じ場所。
いつもと同じ姿勢。
けれど、今夜はほんの少しだけ、距離が近い。
「……おつかれさまでした」
声は小さい。
感情を乗せないために、削られた声だった。
「ありがとう、メイリス」
そう返した瞬間だった。
彼女は何も言わず、僕の胸に額を預けるようにして、抱きしめてきた。
力は強くない。
でも、離れない。
制服越しに、彼女の体温が伝わる。
それは戦場にはなかった、現実の温度だ。
「……メイリス?」
名前を呼んでも、返事はない。
彼女の肩が、わずかに上下している。
声を殺している。
泣いているのだと、遅れて分かった。
僕は、どうすればいいのか分からなかった。
抱き返すべきか。
声をかけるべきか。
それとも、何も言わずに立っているべきか。
戦場では迷わない。
でも、ここでは判断基準がない。
やがて、メイリスはゆっくりと身体を離した。
顔を上げず、深く頭を下げる。
「……先程の、巨大な魔法陣
エル様が、展開なさったのですね」
「そうだね」
「左様でございますか……」
それだけ言って、彼女は話題を切った。
褒めもしない。
責めもしない。
理由も、意味も、聞かない。
その沈黙は、優しさだった。
でも同時に、線でもあった。
踏み込まないための線。
これ以上、近づかないための線。
僕は、その距離を測れないまま、ただ頷いた。
♢
翌朝、アインとミレイユに呼ばれた。
部屋に入ると、二人はすでに席についていた。
窓は開けられているのに、空気が重い。
昨夜の戦いの疲労が、隠そうとしても滲んでいる。
剣聖と大魔道士。
そして、父と母。
どの距離で立てばいいのか、分からないまま、僕は立った。
「……昨日の魔法についてだ」
アインが口を開く。
声は低い。
怒りを抑えている、というより――
どこに怒りを向ければいいのか、決めかねている声だった。
「敵の数は多かった。
判断も、結果も……正しかった」
一拍。
「それは分かっている」
その言葉に、ミレイユの指が僅かに動いた。
机の縁を掴み、離す。
それだけで、彼女がどれだけ堪えているか分かる。
「……分かっているからこそ、聞くのよ」
ミレイユが言った。
声は鋭い。
魔法を放つ前の、集中した声だ。
「あなたは、どうして“あそこ”に行ったの?」
責める問いではない。
だが、逃げ道もない問いだった。
僕は、少し考えてから答えた。
「……敵がいたから」
「それだけ?」
「それだけだよ」
事実だった。
正確で、余計な意味のない答え。
ミレイユの眉が、はっきりと歪む。
「……嘘をつかないで」
声が震えた。
怒りと恐怖が、同時に混ざった震えだ。
「あなたは、誰よりも状況を見る子よ。
数も、配置も、逃げ道も。
分かっていて、淡々と“処理した”」
処理した、という言葉が、部屋に落ちる。
「それが問題なの」
ミレイユは、机に手をついた。
立ち上がりそうになるのを、意志で止めている。
「無茶だった、なんて言わない。
あれは最適解よ。
だからこそ――」
言葉が、そこで詰まる。
「だからこそ、怖いのよ」
アインが、拳を握った。
「……エル」
父として呼ぶ声だった。
剣聖の声ではない。
「お前は、間違っていない。
判断も、実力も、誰にも文句は言わせん」
そこで、声が低く沈む。
「だがな……」
一歩、踏み出す。
父が、息子の前に立つ距離。
「お前は、自分を勘定に入れていない」
僕は、黙った。
「兵の被害」
「村の被害」
「戦況」
アインは、一つずつ指を折る。
「それは全部、考えている。
だが――」
最後の指を、折らない。
「お前が死ぬ可能性だけを、最初から“計算外”にしている」
その言葉は、刃だった。
ミレイユが、声を荒げる。
「そうよ!
どうして、そんな顔で戦場に立てるの!
恐怖も、怒りも、迷いもない顔で!」
僕は、少しだけ首を傾げた。
「……必要なかったから」
その瞬間、空気が張り裂けた。
「必要なかった、ですって?」
ミレイユの声が、震えを越えて揺れる。
「あなたは……あなたは、生きているのよ!?」
声が、かすれる。
「生きている人間が、命を使う判断をするとき、
そこに“必要かどうか”だけを置いていいと思っているの?!」
僕は、答えられなかった。
答えがないわけじゃない。
答えはある。
でも、それを口にした瞬間、
この二人が壊れてしまう気がした。
「……これからは」
沈黙を破ったのは、僕だった。
「僕が、前線に出ます」
言葉は静かだった。
宣言だった。
「剣も使える」
「魔法もある」
「判断もできる」
条件を並べる。
いつも通りの、冷静な整理。
「僕が出た方が、被害は減る」
論理は、完璧だった。
だから、アインは何も言えなくなる。
だから、ミレイユは唇を噛む。
「……止めたいわ」
ミレイユが、絞り出すように言った。
「母親として
今すぐ、あなたを抱きしめて
ここから出さないって言いたい」
でも、と前置きして、言葉を続ける。
「それができないことも、分かっている」
アインが、深く息を吐いた。
「……止められんな」
それは許可ではない。
諦めでもない。
“親として負けた”という告白だった。
「行け、とも言えん。
だが、戻って来いとは……」
言葉が、続かない。
戻って来い。
その言葉が、どれほど重いかを、二人とも知っている。
ミレイユは、俯いたまま、言った。
「……お願いだから」
声は、もう怒っていなかった。
「せめて……あなた自身を、完全に切り捨てないで」
その言葉だけが、
この部屋に残された、感情だった。
僕は、何も答えなかった。
答えられる言葉が、見つからなかった。
その日から、僕は前線に出続けた。
正しい判断を、正しい速度で下しながら。
自分の命だけを、計算に入れないまま。
♢
戦場は、すぐに日常になる。
最初の一歩がいちばん遠い。
土の匂いと、鉄の匂いと、焦げた木の匂いが混ざって、呼吸のたびに胸の奥へ沈む。
それでも二歩目からは、ただの地面だ。
剣を抜く。
抜いた瞬間、腕の重さだけが戻ってくる。
軽いわけじゃない。重いわけじゃない。
重さの“基準”が、ここにしかなくなる。
魔法を編む。
詠唱はいらない。
言葉にしてしまうと、意味が混ざる。
意味が混ざると、考えてしまう。
考えると――リィナに触れる。
だから、考えない。
魔族の影が来る。
黒い。輪郭が曖昧で、動きだけが過剰に正確だ。
剣先を向けた瞬間、影は反射で速度を上げる。
僕は半歩だけ、横にずれる。
かわした、ではない。
そこにいない位置へ移しただけだ。
剣が通る。
手応えは薄い。
肉を斬る感触じゃない。布を裂く感触に近い。
それでも刃は吸い込まれるように通って、影がほどける。
次が来る。
また次が来る。
影の上に影が重なる。
倒れた場所を踏みつけるように、新しい足音が増える。
吐き気は、最初だけだった。
血は赤い。
赤いものが地面に落ちる。
自分の手に付く。
剣に付く。
赤い、という認識はする。
でも胸は動かない。
動くのは、指先だけだ。
剣についた血を拭うのが早くなった。
布を探さない。袖口で一度、刃の根元だけを撫でる。
拭わないと滑る。
滑れば、次に折れるのは刃じゃなくて、誰かの命だ。
右から来る。
視線より早く、皮膚が知る。
僕は腰を落とし、刃を寝かせたまま横薙ぎに払う。
切るというより、通す。
通ったところの“存在”が、遅れて崩れる。
左。
背後。
上。
全部、同じに見える。
怖さがないと、全部がただの図形になる。
斜めの線。円。突進。跳躍。
僕は剣を持ったまま、もう片手で魔法をほどく。
火ではない。
火は熱を持つ。
熱は感情を呼ぶ。
冷える魔法を選ぶ。
冬の底のような、澄んだ冷たさ。
空気を一枚、薄くする魔法。
魔族の足元の土が、きし、と鳴った。
凍るのではない。
凍る手前の“固さ”だけを押し付ける。
動きが一瞬止まる。
止まった瞬間だけで十分だった。
剣を差し入れる。
影がほどける。
仲間の叫び声が聞こえる。
誰かが倒れたのかもしれない。
誰かが腕を失ったのかもしれない。
誰かが喉を裂かれたのかもしれない。
胸が反応するより先に、口が動く。
「後退」
「右から回れ」
「盾を前に」
「魔法支援、今」
声が自分のものに聞こえない。
遠くの誰かが指揮しているみたいだ。
でも兵たちは、その声に従う。
従える声を、僕は持ってしまっている。
持ってしまったものは、捨てられない。
救う。
同時に、殺す。
どちらも同じ動作の延長線上にある。
腕を伸ばす。
刃を通す。
空間をほどく。
距離を詰める。
救う時も、殺す時も、心拍は上がらない。
上がるのは、必要な時だけだ。
魔族が密度を増す。
前線が押される。
盾の列がたわむ。
踏ん張る音が増える。
僕は、その“たわみ”の中心に入る。
視界の端で、兵の膝が折れかけた。
次の瞬間、魔族の爪がその喉に届く。
僕はそこへ行く。
走らない。
疾走もしない。
ただ、間に入る。
剣が爪を弾く音がした。
金属と金属じゃないものが擦れる、嫌な音。
弾いた反動で、手首が少し痺れる。
痺れた感覚だけが、僕が生きている証拠みたいだった。
次は僕に向けて来る。
来るなら、処理するだけだ。
剣を引く。
斬る。
返す。
斬る。
連続する動きの中で、ひとつだけ“無駄”を削る。
迷いだ。
迷う時間は、考える時間になる。
考えると、リィナが来る。
来たら、崩れる。
だから迷いを削る。
無駄を削ると、動きが滑らかになる。
滑らかになると、周囲からは“強い”に見える。
強いわけじゃない。
ただ、止まらないだけだ。
魔族の群れが一度、引く。
引いたのではなく、密度が変わる。
波が形を変えるだけだ。
すぐにまた来る。
数は数えない。
数えたところで、意味がない。
僕の中にあるのは、“多い”という沈殿だけだ。
骨の内側に、重みとして溜まっていく。
戻るたびに、血を落とす。
落とし方が速くなる。
水の冷たさにも反応しなくなる。
夜、眠れない。
眠れない夜に、戦場の音が残る。
残るのに、嫌じゃない。
嫌だと思う余裕がない方が、楽だからだ。
次の戦場。
次の夜。
次の悲鳴。
次の火。
同じだ。
違うことがあるとすれば――
僕が、そこにいることが、周囲にとっての“安心”になっていくこと。
人は、安心を欲しがる。
安心のために、誰かを前に押し出す。
僕は前に押し出されても、何も感じない。
感じないから、前に立てる。
その循環が、静かに出来上がる。
戦場の端で、兵が僕を見て息を呑む。
口が動く。
言葉になりかけて、飲み込む。
英雄だの、賢者だの、そういう名前。
名前をつければ、理解した気になれるから。
僕は、その視線が面倒で、視線だけを切り捨てる。
見るべきものだけを見る。
敵の動き。
味方の崩れ。
距離。
角度。
風向き。
地形。
人間の顔は、最後に回す。
最後に回して、結局、見ない。
そうしていると――戦いは、ただの作業になる。
剣を抜く。
魔法を編む。
倒れた影の上に、次の影が重なる。
僕はそこを通り抜ける。
無双しているように見えるのは、
僕が勝ちたいからじゃない。
負けたくないからでもない。
ただ、ここにいる間だけは、
考えなくていいからだ。
考えなくていい時間が増えるほど、
僕は、生きていることを忘れられる。
――それが、僕の戦い方だった。
♢
屋敷に戻ると、メイリスがいる。
いつもと同じ場所。
同じ時間。
同じ距離。
扉を開ける音に、彼女は振り返る。
驚きはない。
安堵も、ない。
「……お帰りなさいませ」
声は低く、静かだ。
感情を削ぎ落としたような、丁寧な声音。
僕は外套を脱ぐ。
彼女はそれを受け取る。
動作は慣れている。
迷いも、ためらいもない。
外套の内側。
袖口。
裾。
血のついた箇所を、彼女は一目で見分ける。
色の違い。
乾き具合。
匂い。
それを見ても、何も言わない。
眉をひそめることも、
息を呑むことも、
まして問いかけることもない。
黙って、処理する。
布を広げ、
汚れた部分を確認し、
必要なところだけを静かに分ける。
洗うべきもの。
縫い直すもの。
替えを用意するもの。
彼女は、完璧にそれをこなす。
どこで戦ったのか。
どんな戦況だったのか。
誰を救ったのか。
誰を、殺したのか。
何も、聞かない。
聞かないという選択。
それは、優しさだった。
そして同時に――
踏み込まないという、決断でもあった。
彼女は知っている。
聞いてしまえば、戻れなくなることを。
答えを受け取ってしまえば、
今の距離を保てなくなることを。
だから、聞かない。
僕も、語らない。
語らなくてもいい関係は、
最初は楽だった。
説明しなくていい。
理解されなくてもいい。
分かってもらおうとしなくていい。
沈黙は、衝突を生まない。
けれど沈黙は、
何も繋がない。
外套を受け取った彼女の指先が、
一瞬だけ、僕の手に触れる。
冷たい。
温度を測るみたいな触れ方。
それ以上、近づかない。
抱きしめない。
労わらない。
慰めない。
それは拒絶ではない。
線を引く行為だ。
その線は、見えない。
でも、確実にそこにある。
僕はその線を越えない。
越える理由を、もう持っていない。
夜になる。
身体は重い。
筋肉は軋み、骨の奥に疲労が溜まっている。
それでも、眠れない。
寝台に横になっても、
目を閉じても、
意識が落ちない。
暗闇の中で、戦場が浮かぶ。
剣の重さ。
刃が通る感触。
魔法を放ったあとの反動。
地面に倒れる影の形。
それらは鮮明だ。
細部まで、正確だ。
なのに、そこに感情はない。
怖くもない。
辛くもない。
悲しくもない。
ただ、流れる。
それが、楽だった。
リィナのいない世界を考えるより、
ずっと、ずっと楽だった。
彼女の声を思い出すより、
最期の表情をなぞるより、
看取った瞬間の温度を思い返すより――
剣を振ることの方が、簡単だった。
魔法を放つことの方が、単純だった。
考えなくていい。
感じなくていい。
戦場では、
感情は邪魔になる。
悲しみも、
後悔も、
喪失も、
全部、鈍らせる要因だ。
だから削る。
削って、削って、
必要最低限だけ残す。
生きるために必要な分だけ。
剣を握っている間だけ、
僕は空っぽでいられる。
空っぽでいる間は、
痛みが追いつかない。
空っぽでいる間は、
呼吸ができる。
いつからだろう。
空っぽでいることが、
「生きている理由」になってしまったのは。
戦場がない日は、落ち着かない。
次の出撃を待つ時間が、長く感じる。
血を洗い落としたあと、
手のひらに何も残らない感覚が、
ひどく不安になる。
また剣を握りたくなる。
また前に出たくなる。
また、何かを終わらせたくなる。
それが、日常になった。
静かに。
誰にも止められず。
誰にも咎められず。
壊れていることすら、
問題にならない形で。
そして、その“日常”が、
いつか必ず、
取り返しのつかない場所へ辿り着くことを――
この時の僕は、
まだ、考えないでいられた。
考えなくていい場所を、
自分で選び続けていることに、
気づかないふりが、
できていた。
悲しみは、感じなければ消えるわけではありません。
ただ、感じないふりを続けていると、
いつの間にか“感じる力”そのものが削れていきます。
エルはまだ生きています。
戦い、守り、歩き続けています。
けれどこの時点で、彼はすでに
「壊れるはずだった自分」を置き去りにし始めています。
これは強くなる物語ではありません。
強くなってしまった代償を、
ゆっくり受け取っていく物語です。
続いてしまう世界の中で、
彼が何を失い、何を選ぶのか。
それを、もう少しだけ見届けていただけたら幸いです。
もし感じたことがあれば、感想や評価、レビューとして残していただけたら嬉しいです。
それらは作者にとって、何よりの支えになります。




