32.続いてしまう世界
世界は、終わらなかった。
葬儀が終わっても、
黒い布が片付けられても、
香の匂いが消えても。
屋敷は屋敷のまま、
辺境伯領は辺境伯領のまま、
朝は朝としてやってきた。
冬は、まだ続いている。
雪は降らない。
白く覆い隠すものがない。
音を吸い取る静けさもない。
ただ乾いた冷気だけが、地面に張り付いたまま、
何事もなかったみたいに朝を運んでくる。
何事もなかったみたいに。
その言葉が、脳の奥で何度も反響する。
何事もなかった。
何事も、なかったかのように。
廊下はいつもの幅で伸び、
扉はいつもの重さで開き、
暖炉の火はいつもの手順で起こされる。
食器が鳴る音。
湯が沸く音。
布を払う音。
ひとつひとつが丁寧で、
ひとつひとつが正しい。
正しいから、残酷だった。
――昨日まで、村にいた。
治療のために。
冷えないように。
息が乱れないように。
あの家の窓から見える景色の中で、
エルは何度も彼女の呼吸を数えないようにして、
彼女の手を握り、
「いる」と言っていた。
村の空気は、薬草と薪の匂いがした。
人の声が近くて、生活が近くて、
だからこそ、終わりが遠いふりをできた。
けれど彼女は、そこで息を手放した。
そして今、
彼女は屋敷に戻ってきている。
生きて戻ってきたのではない。
棺として、戻ってきた。
それが“儀式として正しい”という形で、
世界は彼女を屋敷に置いた。
置いて、
置いたまま、
次へ進もうとしている。
悲しみだけが、居場所を失う。
そして、居場所を失った悲しみは、
いちばん静かに人を壊す。
♢
辺境伯領は、平穏ではなかった。
朝、執務室へ届く報告書の束が、昨日より厚い。
紙の重さは、そのまま不安の重さだ。
魔族の動きが、活発化している。
境界線近くの小村で、家畜が引き裂かれて見つかった。
巡回兵が戻らない。
夜間の接触が増えた。
斥候の数が増え、足跡が消えずに残るようになった。
「まだ小競り合いの段階です」
「侵攻と呼ぶには早い」
「ですが――兆候は確実に増えています」
紙の上の文は、どれも乾いている。
血も恐怖も、紙の上では乾いてしまう。
だが、乾いた文の裏側に匂いがある。
血の匂い。
獣の匂い。
人が怯えたときの、吐息の匂い。
領民たちは声高に騒がない。
騒ぐ余裕がない。
夜の灯りが消えるのが早い。
戸締まりが固くなる。
子供を外に出さない家が増える。
世界は、確実に次の段階へ進み始めている。
止めるべきものが増えるほど、
止められないものも増えていく。
それでも世界は続く。
続いてしまう。
――個人の悲しみなど、戦況の端にも載らない。
その事実が、冷えた針みたいに胸へ刺さる。
悲しみは個人の問題にされ、
現実は全員の義務になる。
生き残った者は、生きるしかない。
その規則だけが、世界の側にある。
エルは、そこにいた。
けれど、そこに“いる”だけだった。
部屋の中は整っている。
乱れていない。
壊れていない。
外から見れば、何も変わらない。
椅子の位置も、
カーテンの裾も、
本棚の並びも。
すべて正しい場所にある。
なのに、理由だけがない。
何かをしたいと思う衝動が起きない。
選びたいと思う気持ちが立ち上がらない。
動けないわけではない。
命令されれば従える。
求められれば応じることもできる。
ただ、自分から「次」を選べない。
次、という概念が、
胸の内から抜け落ちている。
世界は続いているのに。
続いてしまうのに。
それが、いちばんの矛盾だった。
♢
アインは報告書を閉じた。
紙束を揃える動きは正確で、
机の上に置く位置も乱れがない。
領主としての手つきだった。
だが、指先がほんのわずか震えている。
それを隠すように、手を引く。
引いて、机の縁に指を置き直す。
落ち着け、と言い聞かせる所作だ。
執務室は静かだった。
外の冷気を遮るために窓は閉じられている。
それでもどこか、空気が薄い。
魔族の報告は増えている。
状況は確実に悪い。
指示を出せば、兵は動く。
準備を進めれば、領は持ちこたえる。
――それができるのに。
目の前の現実よりも、
屋敷の中の現実のほうが、
今は呼吸を苦しくする。
あの子は、息をしている。
生きている。
だが、ただ“機能している”だけに見える。
あれが長く続けばどうなるか、
アインは領主としてではなく、父として知っていた。
「……ミレイユ」
呼ぶ声は低い。
その低さが、もう耐えていないことを示している。
ミレイユは扉を閉め、ゆっくり入ってきた。
いつもなら背筋を伸ばして座る女が、
今日は椅子の背に寄りかからない。
寄りかかれば、崩れてしまうからだ。
「……ええ」
短い返事。
それ以上の言葉が、今は余計になると知っている。
ふたりの会話が向かう先は決まっていた。
エルディオだ。
アインはしばらく何も言わなかった。
言葉を選んでいるのではない。
言葉にした瞬間、確定してしまうことを恐れている。
領主の沈黙ではない。
父の沈黙だった。
「……私たちが」
ようやく声が出る。
「私たちが、エルディオを追い詰めてしまったのかもしれない」
ミレイユは否定しない。
否定できないのではない。
否定してはいけないと分かっている。
否定すれば、
あの子が壊れた理由を、
あの子ひとりに押し戻すことになる。
アインは机上の紙束を見たまま続ける。
「私は……ずっと、あいつを“手のかからない子”だと思っていた」
褒め言葉の形をした免罪符。
「魔法の才もある」
「剣も振れる」
「覚えが早い」
「危険の嗅ぎ分けができる」
「状況を読める」
「相手の機嫌を取れる」
「必要な言葉を必要な順に並べられる」
ひとつずつ数えるほどに、
それが“子供に求めるものではない”と分かってしまう。
「才能がある、というだけで安心した
才能がある子は折れないと、勝手に思い込んだ」
声が、ほんの少しだけ掠れる。
「神童だと」
「天才だと」
「放っておいても大丈夫だと」
ミレイユの指が膝の上で絡まる。
強く組むことで、壊れないようにしている。
そして、静かに言う。
「放っておけたのは、あの子が“放っておかれても壊れないふり”をしてくれたからよ」
言葉は柔らかいのに、
内容は刃だった。
アインが目を閉じる。
一瞬だけ。
その一瞬が、取り返しのつかなさを語る。
「大人みたいに振る舞うから」
「大人みたいに耐えるから」
「大人みたいに背負うから」
アインは息を止めて、吐く。
「……私も、大人みたいに扱ってしまった」
父親が言ってはいけない告白だ。
子供に必要なのは、
大人として扱われることではない。
子供として守られることだ。
ミレイユは頷かない。
慰めない。
ただ、続ける。
「私たちは“良い子”を褒めすぎた」
良い子。
言いつけを守る子。
顔色を読む子。
我慢できる子。
「良い子でいると褒められるって、あの子は早すぎるほど理解してしまったのよ」
理解して、
実行して、
“成功”してしまった。
成功した子は、助けを求める理由を失う。
助けを求めない子を、
周りは助けなくなる。
それが、悪意のない連鎖だ。
アインは机の角を指で押さえる。
拳は作らない。
領主の我慢ではない。
父の恐怖だ。
「……だが、昨日までだ」
声が低くなる。
「昨日、あいつは壊れた」
ミレイユは小さく目を伏せる。
そして、伏せたまま言う。
「壊れたんじゃないわ」
一拍。
「“壊れていることを隠す必要がなくなった”だけ」
アインの喉が鳴る。
反論が出ない。
そうだ。
葬儀の間、あの子は壊れなかった。
壊れないことで式を成立させた。
成立させることが正しいと知っていたから。
そして、誰もいなくなった瞬間に――
壊れた。
あの壊れ方は、怒りではない。
取り乱しでもない。
救いの求めでもない。
呼吸が戻らない壊れ方だった。
声が言葉にならない壊れ方だった。
「……ミレイユ」
アインがようやく顔を上げる。
「私は、気づけなかった」
ミレイユは、そこで初めてまっすぐ見返した。
逸らさない。
逃げない。
その目は、裁く目ではなく、記録する目だった。
「気づいていたのよ」
静かに言う。
「気づいていて、見ないふりをした」
その一言が、アインの肩をわずかに落とした。
ミレイユは続ける。
「だって、都合が良かったもの
できる子でいてくれると、安心できた
強い子でいてくれると、こちらが壊れずに済んだ」
そして、いちばん重い一文を落とす。
「私たちは、あの子に頼っていたのよ」
親が子供に頼る。
子供が親を支える。
逆だ。
逆であってはいけない。
でも現実はそうなってしまった。
アインの口が動く。
「……では、どうすればいい」
初めて頼るような言葉が出た。
ミレイユは即答しない。
答えがあれば、救いになってしまう。
救いは今はまだ早い。
現実は待たない。
魔族は待たない。
領は止まらない。
そして――
あの子の喪失も、待ってくれない。
「……私が気づいたのは」
ミレイユが言う。
「昨日じゃない」
アインの目が揺れる。
「もっと前」
ミレイユは、言葉を選ぶ。
選びながらも、逃げない。
「あの子は――最初から、生に執着していなかった」
部屋が一瞬、沈む。
その“薄さ”は、表面には出ない薄さだ。
笑う。
礼儀正しい。
優しい。
何でもする。
反抗しない。
迷惑をかけない。
――だから分からない。
分からないまま、大人は安心する。
ミレイユは続ける。
「死にたい、じゃないのよ……そういう劇的なことじゃない」
声は震えていない。
震えると、言い訳に聞こえるからだ。
「“生きたい”のほうが弱いの
生きる理由を、自分の中に持っていない
誰かに必要とされているなら、そこに居る
役割があるなら、やる
褒められるなら、続ける
でも、それは――あの子自身の“願い”じゃない」
アインが息を吸う。
ミレイユは、その息さえ奪わないように淡々と言う。
「たまに見せるのよ……ほんの一瞬だけ」
「眠る前の目、誰も見ていないときの顔
笑っているのに、奥が空っぽの視線」
感情を押し殺し、それでも続ける。
「そして、危ないときほど静かになる
痛いと言わない
怖いと言わない
……あれは強さじゃない」
一拍。
「諦めよ」
アインの指が机の縁を押さえる力が増す。
拳にはならない。
「そんなことを……」
言いかけて、止まる。
否定できない。
否定してしまえば、あの子の裏側をまた見ないふりすることになる。
ミレイユが、さらに奥まで踏み込む。
「リィナがいたから、あの子は“生きる理由”を外側に置けたの
だから必死になれた
だから前を向けた」
「……でも」
ミレイユは一度だけ目を閉じる。
「その理由が消えたら、あの子は戻る」
元の場所へ。
“生に執着の薄い”場所へ。
「私たちは、あの子が“強いから耐えている”と思っていた
でも…でもね、違うの
耐えているんじゃなくて
壊れても構わないと思っているから、耐えるふりができる」
アインは、ようやく理解する。
手のかからない子。
神童。
天才。
そう呼ぶことで、
“壊れても構わない薄さ”を見ないようにしていたのだと。
ミレイユの声が落ちる。
「昨日の崩れ方で、確信した
……命を投げる準備ができてる人の壊れ方だった」
アインの喉が鳴る。
領主としての判断が先に働く。
――危険だ。
魔族が活発化している。
前線は近い。
戦が始まれば、あの子は行く。
止めても行く。
止める理由があの子の中にないから。
ミレイユは、アインの思考を読んだように言う。
「だからこそ、私たちは“立たせる”んじゃない」
静かに。
「“倒れていい”を、奪っちゃいけない
そして、“死んでいい”に滑らせちゃいけない」
アインは、短く息を吐く。
「私は…いや、俺たちは……どうすればいいんだろうな…」
父としての問い。
ミレイユは答える。
「そばにいる
何も言わないでいい
正しい言葉を探さなくていい
――ただ、逃げ道を塞がない
生きる理由を押しつけない
それを……戦う理由にしてしまわない」
そして、最後に。
「――生きてていい、とだけ言う」
その一言が、
いちばん難しい。
生きてていい。
それは、今まで一度も「言わなくても伝わる」と思い込んでいた言葉だからだ。
アインは、長い沈黙のあとに言う。
「……私達は、遅すぎた」
ミレイユは否定しない。
否定したら、
その後悔を薄めてしまうから。
薄めた後悔は、次の失敗になる。
だから、ただ言う。
「遅いなら、遅いままやるしかないわ」
世界は続く。
続いてしまう。
だから、遅れてもやるしかない。
それが、親に残された最低限の責任だった。
♢
屋敷の外では、今日も風が鳴っている。
乾いた風だ。
雪を連れてこない。
慰めも連れてこない。
冬のままの朝。
廊下の向こうで、誰かが歩く音がする。
仕事の音だ。
日常の音だ。
続いてしまう音だ。
世界は、何事もなかったみたいに続いている。
それが正しいのだと、誰もが知っている。
領地は守らなければならない。
魔族の動きは待ってくれない。
領民の生活は止められない。
だから世界は進む。
悲しみは個人の問題として処理される。
喪失は時間が解決するものとして扱われる。
――その規則だけが、世界の側にある。
部屋の中は整っている。
乱れていない。
壊れていない。
外から見れば、何も変わらない。
でも、理由だけがない。
息を吸って吐く。
それだけが続く。
続いてしまう世界の中で、
自分だけが、置いていかれている。
冬が終わらないのではない。
自分の中だけ、冬が終わらない。
そしてそれを、
世界は待ってくれない。
待ってくれない、という事実だけが、
静かに、静かに、胸を冷やしていった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
この章で描いたのは、
誰かを看取ったあとも、何事もなかったように続いてしまう世界です。
悲しみがどれほど深くても、
世界は止まらない。
止まらないからこそ、取り残される人間がいる。
エルは強い子です。
才能があり、優しく、壊れにくく見える。
でもそれは「壊れない」のではなく、
壊れても構わないと思っている薄さを、
ずっと上手に隠していただけでした。
そのことに、大人たちは遅れて気づきます。
第31話は、壊れていい場所で壊れる話。
第32話は、それでも世界が続いてしまう話。
冬は、まだ終わっていません。
それでも続いてしまう世界の中で、
彼らが何を選び、何を間違え、
それでも生きてしまうのか。
その先を、見届けてもらえたら嬉しいです。




