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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
最終章【誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話】

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151/154

151.灰の上の名-2

 

 灰が舞わないまま、世界だけが揺れる。


 揺れているのは地面ではない。視界でもない。風でもない。

 もっと根元――「ここにあるはずの規則」そのものが、ひとつ、抜け落ちている。


 拳が交わる。相殺が重なる。整えられた空間が、また殴りつけられる。

 その繰り返しの中で、エルディオの身体は最初に気づく。


 重力が、遅れてくる。


 踏み込んだ足が地面を掴む感触より先に、身体が沈む。

 沈むはずなのに、次の瞬間には沈む方向が変わる。

 落ちるのではない。跳ねるでもない。

 ただ、“引かれる先”が一拍だけすり替わる。


 足裏が灰を噛んだ感触は確かにある。乾いた粒が靴底にまとわりつき、沈みすぎない深さで、地面の硬さだけを伝えてくる。

 なのに、足首がそれを信じない。

 骨が、ここが地面だという前提を疑う。信じられないものに体重を預けた瞬間、関節のどこかが「遅れる」。


 疑った瞬間、身体が遅れる。


 遅れは死だ。

 戦場で染みついたその結論が、骨の内側で鳴る。鐘ではない。合図でもない。もっと鈍い、否定しようのない感覚だ。遅れたものから崩れ、崩れたものから持っていかれる――そういう順番の記憶。


 エルディオは遅れないために、さらに前へ出る。

 前へ出る動きが、魔法になる。


 ――光はない。


 炎も雷もない。派手な発光も、術式の紋も、空に描かれる線もない。

 あるのは、殴った瞬間に「世界の密度」が変わる感触だけだ。


 拳が空を切った、その線に沿って、空気が“押し返す”。


 押し返すのは風圧じゃない。壁でもない。

 空間そのものが、拒絶の動きをする。


「そこは通さない」


 そう言われた気がして、エルディオは歯を食いしばる。

 食いしばった瞬間、音が遅れて来る。


 自分の歯が軋む音が、一拍後に耳に届く。

 拳が布を擦った音が、次の動作の後に遅れて追いかけてくる。

 時間が、背中から追いすがってくるみたいだ。追いつけないはずのものが追いつこうとしている。それが気味が悪い。気味が悪いのに、身体は慣れている。慣れていることが腹立たしい。


 そして――灰が、止まる。


 舞い上がらない灰が、一瞬だけ宙で固まる。

 固まるというより、落ちることを忘れる。

 忘れた灰が空気の中に点々と浮かび、光でもないのに目に引っかかる。視界の端に残って、瞬きをしても消えない。消えない「点」が、世界の異常を証明する。


 その点々の中で、魔王の影だけが揺れない。


 揺れないのに、魔王は確かに動いている。

 動いているのに、動いた“結果”だけが残らない。


 足跡がない。

 灰が反応しない。

 空間が乱れない。


 乱れないまま、こちらの攻撃だけを消していく。

 消す、という言葉がいちばん近い。受け止めているのではない。弾いているのでもない。存在したはずの衝撃だけが、最初から無かったことにされる。拳が通ったはずの距離が、なかった距離に変わる。踏み込んだはずの一歩が、踏み込まなかった一歩に薄まる。


 ――綺麗だ。


 その綺麗さが、腹の底を煮えさせる。

 綺麗な戦いは、戦場には存在しない。

 綺麗な防御は、誰かの血を見ないふりをするためにしか成立しない。血を見ないふりをした者の足元だけが、いつも綺麗だ。綺麗なまま立っている者ほど、あとで汚れることを知らない。


 エルディオは拳を振るう。

 振るうたび、魔力が肉体の限界を押し広げる。

 痛みを遅らせる。筋の裂ける予感を鈍らせる。血の重さを軽くする。

 軽くなった身体は速くなる。速くなったぶんだけ、危険側に踏み込める。踏み込めるほど、壊れる。


 軽くなるほど、壊れる。


 壊れるほど――終われるはずなのに。


 終われない。


 胸元にある袋が、ほんの僅かに揺れる。揺れた布の擦れが、遅れて耳に届く前に、胃の奥がひくりと鳴る。

 落とせない。


 落とせないものがある。

 その事実が、彼の「死にたさ」を押し潰していく。


 押し潰されるのが、腹立たしい。

 腹立たしいのに、守ってしまう。


 守る、という行為は、生きる方向だ。

 生きる方向へ身体が傾く。傾いていると気づいた瞬間、さらに傾く。止めようとするほど、逆に守りが強くなる。戦場で学んだ癖だ。守るべきものがあるとき、人は迷わない。迷わないことがいちばん残酷だ。


 エルディオは、己の身体が生きる方向へ傾くのを憎む。

 憎むのに、傾きを止められない。

 止めれば、袋が落ちる。袋が落ちれば、灰が散る。散れば、何も残らない。


 何も残らない。


 その“何も”を、もう一度見たくない。


 エルディオの拳が、魔王の肩へ向かう。

 肩は関節だ。壊せば腕が落ちる。腕が落ちれば相殺が遅れる。

 遅れれば、終わらせられる。


 終わらせる、という意志が混ざった瞬間――世界がひとつ、悲鳴を上げる。


 悲鳴は音ではない。

 灰が、同時に宙で止まる。

 重力が、一瞬だけ反転する。


 エルディオの身体が、上へ引かれる。

 上へ落ちる。

 上へ落ちるという矛盾が成立する。


 内臓が浮く感覚が遅れて来る。胃が置いていかれ、喉が追いつかず、肺だけが空気を掴み損ねる。呼吸は止まらないのに、息が通らない。通らない息のまま、拳だけが前へ出る。


 魔王の外套の裾が、初めて揺れる。

 揺れたのに、風ではない。

 世界が裏返った反動で、布が現実を思い出しただけだ。布が「布であること」を思い出したその一瞬だけ、魔王が人間に見える。見えるから、次の瞬間に見えなくなる。消えるのではない。整う。整って、また綺麗になる。


 エルディオは空中で踏み込む。

 踏み込む場所がないのに、踏み込む。

 踏み込む動作そのものが、魔法になる。


 空間が、また押し返す。

 押し返された力が、肘に返る。

 肘が軋む。軋みの感触は先に来るのに、音は遅れて届く。


 遅れて届く音を聞きながら、エルディオは笑いそうになる。


 笑える状況じゃない。笑いなんて出ない。

 なのに、笑いそうになるのは――この異常が、懐かしいからだ。


 “消えたとき”の異常に似ている。


 光が抜ける。

 音が遅れる。

 温度が欠ける。

 重力が信用できない。


 そして――戻された、という感覚だけが背中に貼りつく。


 魔王は、その異常の中心に立っている。


 中心に立っているのに、中心を演じている。


 演じている、と分かるのは、魔王の呼吸が乱れてきたからだ。


 乱れは、最初は小さい。

 胸の上下ではない。

 喉の奥が、一瞬だけ詰まる。

 息が、ほんの僅かに遅れる。


 それだけ。


 表情は冷たいままだ。瞳も鋭いままだ。口元も動かない。

 動かないまま――息だけが、裏切る。


 魔王が強い魔法を出すたび、身体が拒否反応を示す。

 拒否反応は派手じゃない。

 咳き込みもしない。よろめきもしない。

 ただ、指先が一瞬だけ硬直し、次の動きが半拍遅れる。


 その半拍が、頂点には致命だ。

 致命なのに、魔王はそれを「無かったこと」にしようとする。

 だから整える。遅れを消すように、世界のほうを整える。自分を整えるより簡単だからだ。世界を整えれば、自分の乱れが目立たなくなる。目立たなくなれば、魔王でいられる。


 整えるたび、世界の挙動が狂う。


 音が遅れる。

 灰が止まる。

 重力が反転する。

 空間が押し返す。


 狂うほど、魔王の呼吸は荒くなる。


 荒くなるのに、魔王は顔を変えない。


 変えないのは、平気だからじゃない。

 変えないのは、変えた瞬間に「弱さが見える」からだ。


 弱さが見えれば、魔王でいられない。


 魔王でいられない自分を、彼女自身が許していない。

 許していないことが、戦いの中で露骨になる。

 露骨になるほど、こちらの腹が煮える。煮えるのは怒りだけではない。似ているものを見たときの嫌悪だ。嫌悪はいつも自分へ跳ね返る。跳ね返った嫌悪が、また拳の速度を上げる。


 魔王の魔法は――技ではない。


 術式ではない。

 制御された手順ではない。

 ただ、“抑え込むための力”として噴き出している。


 噴き出すたび、呼吸が乱れる。

 乱れを隠すために、世界が歪む。

 世界が歪むほど、エルディオは前へ出る。


 前へ出るほど、エルディオの身体も壊れていく。


 拳が痺れる。

 肘が笑う。

 肩の筋が引き裂かれそうになる。

 それでも痛みが来ないのは、神代魔法が痛みを遅らせているからだ。遅らせることで動ける。動けることで殴れる。殴れることで止まらない。止まらないことで、言葉を吐かずに済む。


 遅らせるほど、あとで全部が来る。


 来ると分かっているのに、止まれない。


 止まったら、ここで終わる。

 終われば、楽だ。

 楽になれば、袋を落とす。

 袋を落とせば、灰が散る。


 散る。


 散るのが怖い。


 怖い、と認めたくない。

 認めたくないから、殴る。


 殴ることが、感情の逃げ道になっている。逃げ道という言葉さえ、今は甘い。逃げるのではない。塞ぐ。塞いで、通さない。通さないために殴る。通さない相手は目の前の魔王ではない。自分の内側だ。


 魔王の掌が、また僅かに動く。


 その瞬間、空気が張る。

 張った空気が、次の瞬間に“裂ける感触”になる。


 裂けるのは空気ではない。

 裂けるのは、エルディオの「我慢」だ。


 世界が、押し返す。

 押し返す力が、胸の奥を潰す。


 潰された瞬間、エルディオの口が勝手に開く。


 声は、最初から出ないはずだった。

 声を出せば、理由に触れる。

 理由に触れれば、崩れる。

 崩れれば、終われる。

 終われるのは救いのはずなのに、今は終われない。


 終われないのに、声が出る。


 声が出るのは、止まれないからだ。

 止まる代わりに、叫ぶ。


「なんで戦争なんて始めたんだ!」


 問いではない。

 理由を聞きたいわけじゃない。

 答えが欲しいわけでもない。


 ただ、怒鳴った瞬間だけ、息が通る。

 息が通れば、まだ殴れる。

 殴れれば、止まらないで済む。


 叫びは、エルディオの身体を前へ押し出す。

 押し出したぶんだけ、胸元の袋が揺れる。揺れるたびに胃の奥が縮む。縮むのに、前へ出る。前へ出ることしか、今の彼にはできない。


 叫んだ瞬間――魔王の動きが、一瞬だけ遅れる。


 遅れるのは技術じゃない。

 遅れるのは演技だ。


 魔王であるために削っていたはずの「人間の反射」が、言葉をぶつけられたことで戻ってしまう。

 戻ったものは一瞬だ。だが一瞬で十分だ。頂点同士の半拍は、世界を壊す。


 言葉は、攻撃だ。


 拳よりも厄介な攻撃。

 相殺できない攻撃。

 整えて消せない攻撃。


 魔王の防御が半拍遅れる。


 その半拍に、エルディオの拳が入る。


 入る――はずだった。


 だが、拳が当たる直前、空間がまた押し返す。

 押し返しが弱い。

 弱いのに、確かにある。


 魔王が、反射で殺さないようにしている。


 遅れているのに、殺さない癖だけは出る。

 出てしまう。


 出てしまった瞬間、魔王の呼吸が崩れる。


 崩れた呼吸が、喉に引っかかる。

 引っかかったまま、魔王の声が漏れる。


 漏れる声は、冷たい声じゃない。


 割れている。


「好きで……っ、」


 最初の一音が、喉で引っ掻かれる。

 唇がそれを整えきれない。

 整えきれないまま、息が震える。


「こんなことやってるわけじゃない!」


 叫びは、言い訳だ。

 魔王が言い訳をするという事実が、世界の規則をもう一段壊す。


 壊れた規則が、魔法になる。


 光らない。

 派手にしない。

 ただ――挙動が狂う。


 灰が宙で止まる時間が、長くなる。

 音が遅れて届く幅が、広がる。

 重力が反転する“間”が、伸びる。


 伸びた“間”の中で、エルディオの身体が半拍遅れて落ちる。

 落ちる方向が分からないまま、拳だけが前へ出る。前へ出る拳の速度だけが確かで、世界のほうが追いつかない。追いつかない世界の中で、魔王の影だけが揺れない。揺れないことが、ますます腹立たしい。


 魔王の手が震える。

 震えているのに、表情は冷たいままだ。

 冷たいまま、目の奥だけが濡れていく。


 濡れていくのに、涙は落ちない。

 落としたら終わるからだ。

 終われば、魔王でいられない。


 魔王でいられない自分を、彼女自身が許せない。


 許せないから、また整える。


 整えるために、強い魔法を出す。

 強い魔法ほど身体が拒否する。

 拒否が呼吸を乱す。

 乱れが演技を剥がす。


 剥がれる。


 剥がれていく。


 魔王の声が、もう一度漏れる。


「……っ」


 言葉にならない。

 言葉にしない。

 言葉にしたら、弱さになる。


 弱さにならないように、魔王は拳で返す。


 拳で返す。

 剣がない。

 だから殴る。


 殴る瞬間、魔王の魔法がまた暴発する。

 暴発は、炎じゃない。雷じゃない。

 空間の「向き」だけが一瞬変わる。


 エルディオの頬を、見えない何かが撫でる。

 撫でるのに痛い。

 痛いのに血が出ない。

 血が出ないのに、骨の内側が軋む。軋む感覚だけが残り、痛みの本体は遅れて来る。遅れて来るものほど、後で人を殺す。


 魔王は殺さない。


 殺さないのに、痛みだけは正確だ。


 それが、彼女の壊れ方だ。

 殺さないことでしか自分を保てない。保てないくせに保とうとする。その矛盾が、痛みの精度になる。優しさではない。救いでもない。単なる癖だ。単なる癖が、ここでは残酷だ。


 エルディオは、唇を噛む。


 噛むことで声を止めようとする。

 止めなければ、次の言葉が出る。

 次の言葉は、もっと深いところを掘り起こす。

 掘り起こせば、シャルロットの名が出る。

 名が出れば、終わる。


 終わるのは救いのはずなのに、今は終われない。


 だから止める。


 止められない。


 叫びが、また漏れる。


 叫びは問いじゃない。

 攻撃だ。

 自分を壊してでも、相手の演技を剥がすための攻撃だ。


 エルディオの拳が、魔王の外套の胸元を掴む。

 掴んだ瞬間、布の感触が“布ではない”と分かる。

 寒さを誤魔化すための実用の布。

 そのはずなのに、そこに「必死」が染みついている。


 必死で、魔王をやっている。


 必死で、強いふりをしている。


 必死で、泣かないふりをしている。


 必死で――弱くないふりをしている。


 その必死さが、エルディオの中の何かをさらに裂く。裂けるのは怒りではない。怒りなら簡単だ。裂けているのは、見ないようにしていた部分だ。見なければ生きられた部分だ。生きるために削った部分が、相手の必死さに引っかかって剥がれていく。


 裂けたものが、声になる。


 声になる前に、魔王が振りほどく。

 振りほどく動きが、また世界を裏返す。


 重力が反転する。

 灰が止まる。

 音が遅れて届く。


 遅れて届く音の中で、魔王の声が、もう一度割れる。


 割れているのに、意地だけが残る。


「好きで……っ、やってるわけじゃない……!」


 繰り返す。


 繰り返すのは、言い訳が必要だからじゃない。

 繰り返すのは、自分に言い聞かせないと、魔王でいられないからだ。


 魔王でいられない自分を、彼女自身が一番怖がっている。


 怖がっているのに、表情は冷たいまま。


 冷たいまま、呼吸だけが乱れ、目の奥だけが濡れ、声だけが割れる。


 その“ズレ”が、戦闘の中で露骨になるほど、エルディオの胸が痛む。


 痛むのに、痛いと言えない。

 痛いと言えば、同情になる。

 同情になれば、拳が鈍る。

 鈍れば、終わらせられない。


 終わらせたいのか、終わらせたくないのか。

 自分でも分からない。


 分からないから、殴る。


 殴ることでしか、自分の矛盾を保てない。


 魔王も同じだ。


 魔王も、魔法でしか矛盾を保てない。

 保つために整える。

 整えるほど壊れる。

 壊れるほど演技が剥がれる。


 剥がれた演技の隙間から、感情が漏れる。


 漏れた感情は、光にならない。

 派手にならない。

 ただ世界の挙動を狂わせる。


 二人が殴り合うたび、世界が一段ずつ、静かに狂っていく。

 狂っていくのに、灰は舞わない。

 舞わない灰の上で、二人の声だけが割れ始める。


 それが、暴走だった。


 ♢


 世界は、もう静かではなかった。


 音は相変わらず薄い。

 灰も舞わない。

 光も暴れない。


 それでも――

 確かに、何かが壊れ切った段階に入っている。


 エルディオは息を吸おうとして、うまくいかない。

 肺が膨らまないわけじゃない。

 酸素が足りないわけでもない。


 ただ、吸った瞬間に胸の奥が痛む。


 筋が裂けている。

 骨の内側が軋んでいる。

 魔力が身体を無理やり保たせているのが、はっきり分かる。保っているのは「生存」ではない。「動作」だ。動作だけを保つ。心が追いつく前に、身体を動かし続ける。そのための魔力。だから余計に苦しい。


 限界は、もう越えている。


 それでも立っているのは、意地だ。

 英雄の意地でも、責務でもない。

 もっとみっともない――感情の残骸だ。


 魔王も同じだった。


 外套の裾は乱れている。

 髪が顔に張りつき、息のたびに微かに揺れる。

 呼吸は荒い。隠せていない。

 それでも背筋だけは伸ばしている。


 立ち続けることだけが、彼女の存在理由みたいに。立ち続けることしか許されないみたいに。許しているのは誰でもない。彼女自身だ。自分で自分を縛って、縛ったまま立つ。縛りがほどけたら終わる。終わることが怖い。怖いことを認めたくない。だから背筋を伸ばす。伸ばした背筋が、逆に壊れた呼吸を露骨にする。


 二人の間に、距離はない。

 殴れば当たる。

 触れれば、世界が歪む。


 魔力は、まだ残っている。

 どちらも、あと数回は神代魔法を叩き込める。


 だが――

 気力が、もう限界だった。


 限界なのに、止まれない。


 止まれば、全部が崩れる。

 崩れたら、立っていられなくなる。

 立てなくなったら――自分が何者か分からなくなる。


 エルディオは、拳を握る。


 震えている。


 震えているのは疲労だけじゃない。

 怒りでもない。

 恐怖でもない。


 溢れそうな何かを、必死で握り潰している震えだ。握り潰しているのに、指の間から滲む。滲んだものは熱ではない。冷えだ。冷えたまま湧き上がる感情。熱くなれないから、余計に痛い。


 彼は、魔王を見る。


 初めて、ちゃんと「個人」として見る。


 魔王。

 敵。

 世界の象徴。


 そういう分類を、全部剥がして。


 ただ――

 壊れかけの人間として。


 その瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、耐えきれなくなる。


 声が、勝手に漏れる。


 泣き声だと自覚する前に、言葉になってしまう。


「じゃあなんで……」


 声が掠れる。

 喉が焼ける。

 それでも止まらない。


「なんで……っ」


 一歩、踏み出す。

 踏み出した足が、灰を噛む。

 音はしないのに、感触だけがやけに生々しい。生々しさが、今ここで生きていることを突きつける。突きつけられるほど、腹の奥が怒りを吐く。怒りは誰にも向かない。向け先がないから、自分を傷つける。


「なんでお前が――」


 言葉が詰まる。

 詰まったまま、胸が上下する。

 息が乱れる。


「なんでお前が、魔王なんだよ……!」


 叫びだった。


 正義の問いじゃない。

 世界の均衡の話でもない。

 戦争の是非でもない。


 ただの、個人への問い。


 ――なんで、そんな役を背負ってるんだ。

 ――なんで、そんな顔で立ってるんだ。


 答えを期待していない問い。

 理由が欲しいわけじゃない問い。


 壊れたもの同士が、壊れたままぶつける、どうしようもない感情。


 その言葉を浴びた瞬間――

 魔王の中で、何かが完全に切れる。


 防御が消える。


 整えていた世界が、崩れる。


 灰が宙で止まるのをやめ、ゆっくりと落ち始める。

 音の遅れが、元に戻り始める。

 重力が、ようやく正しい方向を思い出す。


 正しい方向に戻るほど、異常が薄れる。

 薄れるほど、隠していたものが露になる。

 世界を歪ませて隠していたのは、魔王の乱れだったのだと、ようやく分かる。


 代わりに――

 魔王の顔が、歪む。


 歪む、という表現では足りない。

 崩れる、というより――剥がれる。


 冷たく整えられていた表情が、内側から引き裂かれる。

 唇が震え、歯を噛みしめきれず、息が漏れる。


 目の奥に溜め込んでいたものが、一気に溢れる。


 涙だ。


 堰を切ったように、落ちる。落ちる速度が速すぎて、頬を伝う線が追いつかない。涙が涙の形になる前に落ちる。落ちて、灰に触れないまま消える。消えることが、なおさら残酷だ。残酷なのに、止まらない。


「あなたに……」


 声が、弱い。

 弱すぎる。


 魔王の声じゃない。

 命令でも、断罪でもない。


 ただの、壊れた人の声だ。


「あなたに……っ」


 拳が振り上げられる。


 殴る。


 魔法も一緒に叩きつけられる。

 整えられた術式じゃない。

 狙いもない。

 ただ、感情がそのまま形になった乱打。


 空間が歪む。

 灰が弾ける。

 空気が、悲鳴みたいに押し返す。押し返しはもう綺麗ではない。汚れている。乱れている。世界が人間の喧嘩みたいに乱れる。乱れた世界のほうが、エルディオには怖い。怖いのに、どこかで安心する。綺麗じゃないからだ。


 それでも、殺さない。


 殺す軌道じゃない。

 終わらせる角度じゃない。


 ただ、ぶつける。


「あなたに何がわかるって言うのよ!!」


 叫びは、泣き声だった。


 威厳は、完全に消えている。

 魔王の仮面は、もうどこにもない。


 そこにいるのは――

 泣きながら殴りかかる、ひとりの女だ。


「強くもないのに……!」


 拳が当たる。

 エルディオの肩が弾ける。

 骨が悲鳴を上げる。悲鳴は遅れない。今度は遅れない。遅れない痛みが、視界の端を白くする。白くなっても倒れない。倒れないことが、また腹立たしい。


「向いてもないのに……!」


 魔法が暴発する。

 重力が一瞬だけ揺れ、二人の身体が半歩ずれる。

 半歩ずれた距離が、近い。近すぎる。泣いている顔が見える距離。見えてしまう距離が、殴り合いをもっと残酷にする。残酷なのに、目を逸らせない。


「なりたくも……っ」


 声が割れる。

 息が詰まり、言葉が途切れる。


 途切れた瞬間に、嗚咽が出る。嗚咽が出た瞬間、拳が乱れる。乱れた拳がまた魔法を乱す。乱れた魔法が世界を揺らす。揺れた世界が、彼女の弱さを隠しきれなくする。隠しきれない弱さのまま、彼女は殴る。殴ることでしか立てないからだ。


 それでも殴る。

 泣きながら、殴る。


「なりたくもなかったのに!!」


 最後の叫びは、嗚咽に近い。

 言葉の尾が震え、最後の音が息に潰される。息に潰された「に」が、余計に刺さる。刺さったまま、拳が来る。


 魔王の拳が、エルディオの胸に当たる。

 当たるのに、殺意がない。

 終わらせる力がない。


 ただ――

 立っていられなくなる恐怖だけが、込められている。


 恐怖が、拳になる。

 恐怖が、魔法になる。

 恐怖が、魔王を名乗らせる。

 名乗らないままでも、彼女を魔王にしてしまう。


 エルディオは、その一撃を受け止めながら、ようやく分かる。


 この人は、強くない。


 魔王として最強かもしれない。

 神代魔法の適性も、世界への干渉力も、頂点だ。


 それでも――

 人としては、弱い。


 怖がりで。

 逃げたくて。

 投げ出したくて。


 それでも立っている。


 壊れたまま、立ち続けている。


 その事実が、胸に突き刺さる。突き刺さるのに、抜けない。抜けないまま、痛みだけが増える。増えた痛みが、拳を止める。


 エルディオの拳が、止まる。


 止まった理由は、疲労じゃない。

 情けでもない。

 慈悲でもない。


 ただ、理解してしまったからだ。


 ――ああ。

 ――この人は。


 壊れたまま、

 誰にも支えられず、

 それでも世界の前に立ち続けているだけなんだ。


 魔王は、まだ泣いている。

 拳は止まらない。

 魔法は乱れている。


 けれど、そのすべてが――

「助けを求めている」と言い切ってしまうには違う。

 ただ、そう見えてしまう。そういう形になってしまっている。本人の意志と無関係に。


 エルディオは、もう殴らない。


 殺さない。

 終わらせない。


 ただ、立つ。


 立って、見届ける。


 この壊れ方を。

 この生き方を。


 世界の頂点同士の戦いは、そこで――

 勝敗を失ったまま、静かに終わりへ向かっていく。


 それは和解でも、理解でもない。


 ただ、

 壊れた者が、壊れた者を見捨てなかった瞬間だった。


ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

灰の上で起きたことは、勝敗でも決着でもなく、ただ「壊れ方」がぶつかった結果でした。

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