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誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話  作者: 霜月ルイ
最終章【誰も救えない僕が、それでも魔王と生きる話】

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148.『灰の中心』

 

 灰を払う。


 掌の側面で、指の付け根で、付いたものを落とす。

 払えば白い粉が浮き、浮いた粉はすぐに落ちる。

 落ちた先は地面だ。

 地面も灰だ。

 どこへ落としても同じなのに、払う動作だけが繰り返される。


 払う理由は清潔じゃない。

 清潔さは、ここでは意味を持たない。

 意味があるとしたら――区切りだ。


 一度掬って、一度確認して、一度終わらせる。

 そのための“区切り”として、払う。


 指の節に入り込んだ灰が、皺の奥に残る。

 爪の隙間に白が詰まる。

 擦っても、落ちない。


 落ちないものがある、という感触が嫌だった。


 だから、もう一度払う。


 払った瞬間、視界の端が揺れる。


 揺れるのは光じゃない。

 耳鳴りでもない。

 温度でもない。


 もっと小さい、どうでもいいはずのもの。


 寝具の端。


 布が、きっちり整えられていく角度。

 指先が引っ張る強さは最低限で、余りが出ない。

 皺を消すのではなく、皺が出ないように最初から置く。


 誰がやっていたのかは、言葉にしない。

 名を出す必要がないほど、身体が知っている。


 寝室の空気は薄暗く、窓の外が明るい。

 光と影の境目で、布が一度だけ、ふっと持ち上がって――落ちる。


 その落ち方が、静かすぎる。


 静かすぎる音は、耳に残る。

 残るのに、今は、それが灰の上で歪む。


 布は白いはずなのに、灰の白と重なってしまう。

 重なった瞬間、白が“温度”を失う。


 冷える。


 記憶の中の寝具が冷えるのではない。

 今、指先に残っている灰が、記憶の中の温度を奪っていく。


 エルディオは、呼吸を浅くする。


 浅くするのは、驚いたからじゃない。

 記憶が来ると、息を吸い込み過ぎる。

 吸い込み過ぎれば、喉が乾く。

 喉が乾けば、思い出の輪郭が濃くなる。


 濃くなるのは危険だ。


 危険だと知っているのに、次の瞬間、音が来る。


 扉が閉まる音。


 押し付けられるような音ではない。

 引っ張って閉める音でもない。


 指先で、最後の一寸だけを“置く”音。


 カタン、と鳴らない。

 木と木が擦れて、空気が変わるだけ。

 閉まった、と気づくのは一拍遅れる。


 扉の外へ気配が引いていく。

 引く気配が、控えめで、整っていて――それが生活だった。


 生活は、灰の中にはない。


 ないものが来る。


 来るほどに、現実が冷える。


 エルディオは、指を擦る。


 擦る速度を上げる。

 灰を落としたいのではない。

 記憶を落としたい。


 だが、落ちない。


 指の節に詰まった白が残るように、

 扉の音も残る。


 残り方が、灰と同じだ。


 どこへ逃げても付いてくる。

 払っても払っても、皺の奥に残る。


 エルディオは視線を下げる。


 見上げれば、空が明るい。

 明るいものを見ると、思い出の“明るさ”が連れてくる。

 連れてきた明るさは、すぐに冷える。

 冷えた明るさは、痛みに変わる。


 痛みは、言葉になる前に潰さなければならない。


 だから、下を見る。


 灰。


 灰の上には、何もない。


 それなのに、次は――足音が来る。


 小さい足音。


 地面を蹴る音が軽い。

 重さがない。

 砂を踏む音よりも柔らかい。

 それが、家の中の廊下を走る音だと分かる。


 分かるのに、映像はついてこない。


 顔が見えない。

 声も聞こえない。


 ただ、足音だけがある。


 足音は、すぐに止まる。

 止まって、呼吸が一つ増える。


 息を吸う前の間。


 名を呼ぶ前に、息を整えるあの一瞬。

 呼びたいのに、呼ぶのが先で、息が遅れるあの癖。


 それが、どちらの癖なのかも、言葉にしない。

 言葉にしないまま、胸の奥が一段だけ硬くなる。


 次に来るのは、指。


 服の裾を掴む指。


 小さくて、力が弱くて、でも離さない。

 裾を掴む場所が低い。

 大人の掌が届かない位置を、必死に掴んでいる。


 その指の感触が、なぜか“自分の指”に重なる。


 エルディオは、反射で裾を払おうとする。


 払う動作が、現実に戻る。


 だが、現実の裾はない。

 自分の膝にあるのは灰だけだ。


 灰の上に、子どもの手を重ねてはいけない。


 重ねた瞬間、

 温度が戻る。

 戻った温度は、ここでは必ず冷える。

 冷えた温度は、痛みになる。


 痛みは、止める。


 止めるために必要なのは、考えないことだ。

 考えないために必要なのは、作業だ。


 エルディオは、手を動かす。


 掬う。

 払う。

 探る。


 指の腹で、硬さを探す。

 粒と違う抵抗だけを待つ。


 ない。


 ないことを、確認する。


 確認の速度を上げる。

 丁寧さは崩さない。

 崩したら、別の感情が入り込む。


 だから、丁寧なまま早くする。


 灰は、冷たい。


 冷たいというより、

 体温が吸われる感触だ。


 その吸われる感触が、記憶の残り火を奪う。


 奪われた記憶は、暖かさを失って、“欠落の輪郭”だけになる。


 寝具の端は、もう整っていない。

 扉の音は、もう閉まらない。

 小さな足音は、もう走らない。

 裾を掴む指は、今ここには存在しない。


 存在しないことが、存在する。


 矛盾が、また成立してしまう。


 エルディオは、喉の奥で何かが詰まる感覚を押し潰す。


 泣きたいのではない。

 叫びたいのでもない。


 ただ――そのままにしておけば、呼んでしまう。


 名を。


 名を呼べば、灰の上に温度を重ねる。

 重ねた温度は、すぐ冷える。

 冷えた温度は、壊れる。


 壊れたら、終わる。


 終わるのは救いのはずだ。

 だが終わった後に、何が残るのかが分からない。


 分からないものは選べない。


 だから、呼ばない。


 呼ばない代わりに、掬う。


 指先が、また灰に沈む。


 沈んだ灰が、節に入り込む。

 爪の隙間に残る。

 口の中に粉っぽさが来る。


 現実は、いつも灰だ。


 それが、救いでも罰でもなく、

 ただの“作業”として続いていることが、何より残酷だった。


 エルディオは、袋を開ける。


 灰を入れる。


 すくって、入れる。

 石を除ける。

 風が吹けば身体で影を作る。


 丁寧に、丁寧に。


 丁寧さの中にだけ、拒否がある。


 思い出さない、という拒否。

 重ねない、という拒否。

 温度を取り戻さない、という拒否。


 拒否しているのに、

 灰の中から、足音だけが何度も来る。


 扉の音だけが何度も閉まる。


 裾を掴む指だけが何度も残る。


 来るたびに現実が冷える。

 冷えるたびに、心臓が一拍遅れる。

 遅れた分だけ、指が早く動く。


 早く動くほど、

 何も見つからないことだけが、確実になっていく。


 見つからないと分かっている。

 分かっているから、確かめる。


 その一文が、彼の中で繰り返される。


 祈りの代わりに。

 赦しの代わりに。

 そして――呼ぶ代わりに。


 彼は、作業に戻る。


 戻るというより、

 それしか選べないまま、灰の中へ沈んでいった。


 ♢


 袋を取り出す。


 動作は唐突だった。

 考えた末の選択ではない。

 必要だと判断したからでもない。


 ただ、そうする手順が、身体のどこかに最初から組み込まれていた。


 外套の内側でもない。

 腰でもない。

 取り出したのは、荷の底に押し込まれていた小さな袋だ。


 布袋。

 色は分からない。

 灰に触れた瞬間、元の色は意味を失う。


 いつから持っていたのかは考えない。

 考えれば理由が生まれる。

 理由が生まれれば、ここに来た目的が言葉になってしまう。


 言葉にする必要はない。

 もう、行動が答えになっている。


 エルディオは、袋の口を開く。


 紐を解く音は小さい。

 それでも、耳に残る。


 袋の中は空だ。

 最初から、空であることを前提に作られている。


 彼は、灰を掬う。


 さっきと同じ動作だ。

 違うのは、行き先だけ。


 掬って、掌に載せる。

 掌の中央に灰が溜まる。

 軽い。

 信じられないほど軽い。


 重さがないのに、視線がそこから離れない。


 エルディオは、篩う。


 指の隙間を少し広げ、掌を傾ける。

 粒の大きい石が残る。

 残った石を、横へ除ける。


 除ける動作に、迷いはない。

 石は“違う”。


 それが何の石かは関係ない。

 ここに残すべきものではない、という判断だけがある。


 灰だけが、袋に入る。


 袋の口に近づけ、そっと落とす。

 さらさら、と音がするはずなのに、音は立たない。


 灰は、袋の中に吸い込まれていく。


 一度で終わらせない。

 一握りで終わらせない。


 少量ずつ。

 何度も。


 風が吹く。


 灰が舞い上がりそうになる。

 エルディオは、身体を少しだけ傾ける。


 影を作る。


 太陽を遮るほど大きな影ではない。

 ただ、掌と袋を覆う程度の影。


 それで十分だ。


 灰は、風に持っていかれない。

 持っていかせない。


 持っていかれたら、ここにあったものが、完全に失われる。

 失われたものが、二度と触れられなくなる。


 それは、避けなければならない。


 エルディオは、作業を続ける。


 掬う。

 篩う。

 落とす。


 繰り返す。


 この動作は、祈りではない。

 弔いでもない。


 誰かの冥福を願っているわけでもない。

 安らかに眠れと、言っているわけでもない。


 遺品が、ない。


 服も、骨も、名前の刻まれたものもない。

 指輪も、髪留めも、痕跡と呼べるものが何一つない。


 だから――


 灰を、遺品にする。


 それは、弔いではない。


 縋りだ。


 形が欲しかった。

 形がないと、失ったことが確定しない。


 確定してしまえば、次が来る。

 次が来れば、進まなければならない。

 進んだ先に何があるのかを、彼は知りたくなかった。


 だから、確定させない。


 袋の中に灰が溜まっていく。

 見た目はほとんど変わらない。

 膨らんだとも言えない。


 それでも、袋の底が、僅かに重くなる。


 重いのは、灰じゃない。

 意味だ。


 意味が、形を持ち始める。


 エルディオは、袋を持ち上げる。


 持ち上げた瞬間、重さを確かめる。

 確かめるほどの重さではない。

 それでも、指が無意識に力を入れる。


 落としたら、取り返しがつかない。


 その感覚が、怖かった。


 死にに来たはずだった。

 死ねば、すべて終わるはずだった。


 なのに今、

 彼は“持ち帰るもの”を選んでいる。


 選んでしまった。


 袋の口を、ゆっくりと閉じる。

 紐を結ぶ。


 結び目は、固すぎない。

 解けない程度。

 だが、解こうと思えば解ける。


 完全には、封じない。


 袋を胸元へ寄せる。

 抱きしめるほどではない。

 ただ、落とさない位置に収める。


 その瞬間、身体のどこかが理解する。


 ――ここは、死に場所ではなくなった。


 死ぬために来た場所が、

 持ち帰るための場所に変わってしまった。


 変わってしまったことに、抗えない。


 エルディオは、もう一度、灰を見る。


 中心点は、相変わらず何も言わない。

 何も返さない。

 何も拒まない。


 ただ、そこにある。


 何もないまま。


 それでも、袋の中には、確かに“ここ”がある。


 それが、彼を立たせる。


 立たせてしまう。


 死ぬより先に、

 持ち帰るという選択を、

 身体が終わらせてしまったから。


 エルディオは、袋を握る。


 強くはない。

 だが、放さない。


 そして、ゆっくりと息を吐く。


 吐いた息は、やはり白くならない。

 寒くない。

 暖かくもない。


 ただ、現実だけが残る。


 彼は、まだ死ねない。


 理由は、もう言葉にする必要がなかった。


 ♢


 袋の口を結び終えたところで、ふっと空白が来る。


 音が、一段落ちる。

 風も、止まったわけじゃないのに、存在感を失う。


 エルディオは、その場に立ったまま動けなくなる。


 作業が終わった。

 それだけのことだ。


 探す。

 掬う。

 篩う。

 入れる。

 結ぶ。


 やるべき手順は、すべて終わった。


 終わった瞬間、次の指示が来ない。

 身体が、次に何をすればいいのか分からなくなる。


 それが、怖かった。


 エルディオは、ゆっくりと立ち上がる。


 膝を伸ばした瞬間、視界が揺れる。

 世界が、ほんの一瞬だけ遅れる。


 地面が遠のき、空が近づく。

 重力が、どちらへ引いているのか分からなくなる。


 眩暈だと判断する前に、身体が踏ん張る。

 足裏が灰を噛む。

 その感触で、どうにか倒れずに済む。


 ――ここで死ねば、楽だ。


 思考は、唐突に浮かぶ。

 感情を伴わない、事務的な結論。


 苦しまない方法も、もう選別してある。

 今なら、疲労もある。

 判断力も落ちている。

 失敗する確率は、低い。


 成立する。


 成立するのに――


 同時に、別の考えが浮かぶ。


 ――死んだら、この灰を誰が持つ?


 思考が、そこで止まる。


 止まったまま、先へ進まない。

 答えが出ないからではない。

 答えが、あまりにも単純だからだ。


 誰もいない。


 持つ者が、いない。


 ここで死ねば、

 袋は地面に落ちる。

 風に晒される。

 紐が解ける。

 灰が散る。


 それで終わる。


 それは、終わりすぎている。


 エルディオは、袋を見る。


 胸元にある小さな膨らみ。

 ほとんど重さのない、それ。


 それが、今は世界の中心みたいに感じられる。


 死にたい。

 それは、嘘じゃない。


 生きる理由があるわけでもない。

 希望が戻ったわけでもない。

 前を向けるようになったわけでもない。


 ただ――


 死ぬと、持てなくなる。


 それだけだ。


 その事実が、彼を立たせている。


 矛盾だ。

 分かっている。


 死にたいのに、

 死ぬことで失うものを、

 もう一度失うことができない。


 エルディオは、喉の奥で息を止める。


 何かが、言葉になりかける。


「ごめん」


 誰に向けた言葉かは分からない。

 メイリスか。

 エミリアか。

 それとも、自分自身か。


 言い切れば、楽になる。

 言葉にすれば、感情が動く。

 感情が動けば、泣ける。

 泣ければ、崩れる。


 崩れれば――

 ここで、終われる。


 それでも、言わない。


 喉の奥で、言葉を噛み殺す。

 声帯を震わせない。

 息に乗せない。


 代わりに、袋の口に手を伸ばす。


 もう一度、結び目を確かめる。

 解けていないことを確認する。


 指が、ほんの少しだけ強く動く。

 紐を、少しだけ締め直す。


 結び直す理由は、ない。

 ほどけていなかった。

 問題はなかった。


 それでも、結び直す。


 言葉の代わりに、

 謝罪の代わりに、

 生きるという選択の代わりに。


 袋を、確かめる。


 それが、今の彼にできる限界だった。


 エルディオは、ゆっくりと息を吐く。


 吐いた息は、やはり白くならない。

 身体は冷えていない。

 暖かくもない。


 ただ、機能している。


 生きる理由は、ない。

 死ぬ理由も、説明できない。


 それでも――


 今は、死ねない。


 彼は、袋を抱え直す。


 落とさないため。

 失くさないため。


 それ以上の意味を、

 今は持たせないために。


 そして、中心点から一歩、離れる。


 足跡が、また崩れる。

 風が、灰を撫でる。


 ここは、もう死に場所じゃない。


 そう断言するほどの確信はない。

 ただ、違ってしまった。


 それだけで、十分だった。


 エルディオは、歩き出す。


 振り返らない。


 まだ、終わらせてはいけない。


 理由は、言葉にしないまま。


 ♢


 灰は、どこまで掘っても同じだった。


 表層を払っても、少し深く指を入れても、出てくるのは灰と石だけだ。粒の大きさが変わるだけで、質は変わらない。焦げた木片が混じることはあるが、それも触れた瞬間に脆く崩れ、形を保たない。


 ここでは、何かが「残る」という現象そのものが起きない。


 エルディオは、場所を変える。


 中心から半歩外へ。

 そこから、さらに半歩。

 風向きが違えば、燃え方も違ったはずだ。

 建物の影になっていれば、熱が弱まった部分もあったはずだ。


 理屈はいくらでも立つ。


 だから、掘る。


 同じ深さ。

 同じ角度。

 同じ力加減。


 指先で、抵抗を探す。

 粒とは違う、硬さの“違い”を待つ。


 ない。


 瓦礫の欠片はある。

 だが、それは「ここにあった家」の欠片ではない。

 どこにでもある、ただの瓦だ。

 拾い上げても、何も証明しない。


 焦げた木片もある。

 梁だったのか、柱だったのかは分からない。

 分からないものは、意味を持たない。


 骨は、出ない。


 布は、出ない。


 金属も、出ない。


 指が荒れてくる。


 皮膚が乾き、表面がささくれる。

 灰が入り込み、擦るたびに細かな痛みが走る。

 それでも、止めない。


 痛みは、判断を狂わせない。

 むしろ、現実を繋ぎ止める。


 喉が乾く。


 唾を飲み込もうとして、粘り気のない感触に気づく。

 口の中が、粉っぽい。

 だが、水を飲もうとは思わない。


 水を飲む理由が、ない。


 渇きは、生きるための信号だ。

 ここでそれに応える必要はない。


 応えなければ死ぬ、というほどの乾きではない。

 応えてしまえば、生きる理由を拾ってしまう。


 だから、飲まない。


 掘る。

 払う。

 確認する。


 同じ動作を、何度も繰り返す。


 やがて、光が変わる。


 空の色が、少しずつ低くなる。

 白かった灰が、橙を帯びる。

 長くなった影が、掘った跡をなぞる。


 時間が進んでいる。


 それだけが、はっきり分かる。


 エルディオは、動きを止める。


 止めたのは、諦めたからではない。

 疲れたからでもない。


 次にやる手順が、存在しないからだ。


 探せる場所は、すべて探した。

 考え得る可能性は、すべて潰した。

 それでも、結果は変わらなかった。


 何も、出ない。


 それを、確認し終えただけだ。


 彼は、その場に座り込む。


 膝を抱えるでもなく、崩れるでもない。

 ただ、腰を落とす。


 泣かない。


 泣くための動作が、身体に入ってこない。

 胸が詰まる前に、思考が止まる。

 声を出す前に、呼吸が浅くなる。


 泣く前に、身体が止まる。


 エルディオは、袋を抱える。


 それだけが、今ここにあるものだった。


 袋の中身は、灰だ。

 名前も、形も、意味もない。


 それでも、それを落とさずに持っている。

 抱え込むように、腕を回す。


 重くはない。

 抱える必要があるほどでもない。


 それでも、抱える。


 ここで手放したら、何も持てなくなる。

 何も持てなくなったら、ここに来た理由が消える。


 理由が消えれば、次は死ぬしかなくなる。


 エルディオは、袋に顔を埋めない。

 匂いを嗅がない。

 確かめない。


 ただ、そこにあることを確認する。


 夕方の風が、また吹く。

 灰が、静かに揺れる。


 この場所は、何も返さない。

 問いにも、祈りにも、沈黙にも。


 ただ、結果だけを置いていく。


 何も、見つからない。


 それが、確定する。


 そして、その確定が――

 今日も、彼を生かしてしまった。


 何も見つからない。

 それが、今日も生き延びた理由だった。


 ♢


 風が、止む。


 止んだと認識できたのは、吹いていた風が強かったからではない。むしろ逆だ。ここでは、風は最初から存在感が薄かった。ただ、灰がわずかに動き、足跡の輪郭が削られる程度の、弱い流れ。


 それが――なくなる。


 灰は舞わない。

 揺れもしない。

 表面が、ぴたりと静止する。


 その静止が、不自然だった。


 音が一段、落ちる。


 鳥の声が消えるわけではない。もともと、鳴いていない。

 瓦礫の軋む音が消えるわけでもない。そんな音は、最初からない。


 それでも、確実に“減る”。


 自分の呼吸音が、遠のく。

 心臓の鼓動が、内側に引っ込む。


 世界が、息を殺す。


 エルディオは、袋を抱えたまま、わずかに背筋を伸ばす。


 視線は動かさない。

 首も回さない。


 それでも、気配だけは、はっきりと感じる。


 灰の上には、足跡がない。


 自分のものしかない。

 崩れかけた輪郭が、無数に重なっているだけだ。


 誰かが歩いてきた形跡はない。

 風で消された痕跡もない。

 そもそも、最初から存在していない。


 それなのに――


 “いる”。


 音でもない。

 匂いでもない。

 視界の端に映る影でもない。


 もっと原始的なものだ。


 皮膚が、張る。

 空気が、わずかに重くなる。

 何かが、ここに“立つ前”の余白が生まれる。


 人間の気配ではない。


 人間は、存在するだけで周囲を汚す。

 呼吸をし、熱を持ち、音を立てる。

 気づかれないように立っても、どうしても生活の名残が漏れる。


 ここにあるのは、それとは違う。


 生活の匂いがない。

 ためらいの気配もない。

 ただ、“在る”という状態だけが、空間に差し込まれている。


 エルディオは、ゆっくりと立ち上がる。


 眩暈は来ない。

 足も、ふらつかない。


 袋を胸元へ寄せたまま、体重を両足に均等に乗せる。

 膝の角度が、自然と調整される。

 重心が、低くなる。


 戦う気はない。


 剣もない。

 魔力を展開する準備もしていない。

 敵だと判断したわけでもない。


 それなのに、身体が勝手に“構える”。


 英雄として、何度も繰り返した癖だ。

 生き延びるために叩き込まれた反射。


 死に場所を探しに来た人間の立ち方ではない。


 エルディオは、まだ振り返らない。


 振り返れば、確認してしまう。

 確認すれば、ここで“次”が始まる。


 始まってしまえば、

 この場所は完全に「終わった場所」ではなくなる。


 終わらせたいのか。

 それとも――

 終わらせたくないのか。


 自分でも、分からない。


 だから、見ない。


 ただ、心の奥で、短く呟く。


 ……まだ、終わらせてくれないのか。


 誰に向けた言葉かは分からない。

 世界か。

 この場所か。

 それとも、自分自身か。


 答えは、返ってこない。


 返ってこないが、

 気配は、消えない。


 灰の上に、二人目の影が落ちる気配だけが、

 確かに、そこにあった。


消失は、終わりではありませんでした。

終わらなかったものが、ただ残っただけです。


彼は死にに来ました。

けれど、死ぬより先に拾ってしまった。

形のないものを、形にしてしまった。


それが正しいのか、間違っているのか。

救いなのか、執着なのか。

ここでは、まだ答えは出ません。


ただ一つ確かなのは、

彼が「戻ってきてしまった」という事実だけです。


この場所から、物語は次の段階へ進みます。

世界と再び接続し、

壊れたまま立ち続ける存在と出会うために。

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